世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

<   2016年 12月 ( 3 )   > この月の画像一覧

この国の空

映画の元ネタといえば、ほとんどがコミックや、ゲームをストーリー化したアクションものなどが多い昨今、この作品は、いまどきめずらしい(古いタイプと言ってしまえばそれまでですが)硬派な文芸作品の映画化で、自分としてはそれだけでもとても嬉しくて、この幸せな先入観のおかげで、随所に、かつての松竹大船調のオマージュなどを見つけ十分に堪能できた佳作だったと、内心とても好意的な気持ちを抱いていたのですが、友人からwebでは酷評が満ちていると聞いて、さっそく自分でも検索してみて、はじめてこの作品に対する嫌悪と失望感が尋常でない量であることを実感し、とても意外でした。

しかし、最近の映画というのは、極端に言えば、開始早々、バタバタ人が死ぬ凄惨なシーンが展開したり、くんずほぐれつの濃厚なsex場面が挟まったり、ひどいのになると、手ひどく強姦されたはずの被害者女性が、たくましく豹変して熟達した濃密な性技をみせたりするなどの一貫性を欠いた「なんだこりゃ」的な自家撞着のタフなストーリーを嫌というほど見せつけられてきて「その手の」物語に慣れきってしまった観客は、sexシーンに至るまで相当な心理的手続きを要するこういう「この国の空」みたいなタイプの文芸作品には、もはや辛抱も理解もできなくなってしまったのだろうなというのが、自分の率直な印象でした。

なにしろsexシーンに至るまで、主人公は、沸き上がるみずからの内なる欲望にああでもない・こうでもないと思い悩みながら、しかしそれは優柔不断なんかでは決してなく、静かな決意で一歩を踏み出すという、こういう物語こそ「松竹大船調」の真骨頂なのですが、「発情」を持て余しぎみの、すっかりセッカチになってしまった観客には、こんな悠長なストーリーなど、たぶん受け入れ難かったのかもしれないなと感じました。

しかし、その片方で「この非難だって、随分とおかしな話じゃないか」という憤りの気持ちが、自分にも次第に沸き上がってきました。

わが職場でも、団塊の世代が徐々に去り、入れ替わりに若い世代(20代~30代)が構成員の大勢を占めるようになったのですが、わが課のスタッフで既婚者といえば、自分と50代の「お局様」のふたりだけで、ほかの若い世代のスタッフは、(彼ら自身が「そう」言っていますし、既婚者から見ても)到底「結婚なんてできそうにもない」人たちなのです。

いわゆる、「結婚しない世代」というやつですが、自己防衛と被害者意識が異常に強く、他人に余計な口出しをしないかわりに、だからお前も俺のことを干渉するなよ的な自分勝手な面々で、当然、得にもならない他人の仕事の協力やバックアップなどするはずもなく、他人事には一切関心も興味も示さないという徹底ぶりです。

そして、この「ルール」を他人が逸脱し自分の領域を侵そうものなら、その逆上ぶりは異常に凄まじく、それに一度でも接したことがある者なら、もう二度と彼らには関わりたくないと思うくらいの狂気の逆切れ体験をしなければなりません。

彼らそれぞれが殻に閉じ籠りそういう感情を持ってトゲトゲしく身構えているので、これではとても職場の連帯意識なんてハナから育つとは思えません。

しかし、この手のことを、職場などで公言したりするとセクハラだとかパワハラだとかの面倒くさいことになるというので、一切口にするなよと総務部長からきつく釘をさされているので、それじゃあ自分は彼らの何を管理すればいいのか、と問い返しても、「そんなことくらい自分で考えろよ」というのがいつもの答えですから、結局なすすべもないお手上げ状態です、個人情報の過剰な保護といい、なにもかもが悪意と疑心暗鬼に満ちたとても嫌な時代になったものだと、ため息のひとつも出てしまいますよね。

ですので、以下に述べることは、まあ、無能な中間管理職の愚痴だと思って聞いてくださいましな。

少なくとも、自分たち旧世代の人間は、他人に自分のことを良くみせたい、みっともない真似だけはしたくない、それにせっかく同じ職場で働いているのだから、和気藹々とやろうじゃないかと雰囲気作りに精を出して、いろいろと気遣い、お互いの足らざるところを庇い合って協力しあってきたものです。

しかし、いまの若い連中ときたら、職場の「殺伐さ」なんてそもそも自分には何の関係もない、「それもまた、いいんじゃね」くらいにしか思っておらず、これが常態で結構ですと受け入れて、職場環境の改善など自分には一切無関係の他人事としか考えていないのです。

他人からとやかく言われる干渉を極力嫌悪し、気持ちを閉ざして自分だけの世界に充足して他人に興味も関心も一切持たない彼らにとって、だから必ず相方が必要となる「性欲」も、抑制することになるというのも当然の帰結であり、相互過干渉が大前提の「結婚」なんて最初から論外で、当然受け入れられるわけもないのです。

なにも「結婚」するだけが人生のすべてだとは思っているわけではないですが、ただ揃いも揃って全員が同じようなことを言うっていうのがどう見ても異常です、互いに反発しながらも、個性を欠如させた連帯意識なき「右へならえ」を疑いもなく大合唱して憚らない、そういうことが自分にはどうにも異常で薄気味悪く感じられてならないのです。

この映画に対して若い多くの観客たちがあからさまに表明した「嫌悪感」は、まさに映画「この国の空」に描かれているものが、彼らのそうした「思考」を逆撫でするような、彼らにとっては嫌悪しか催さないような、いまではすっかり失われてしまったかつての若い日本人の男女が備えていた思考性(少なくとも成熟をとげるみずからの「性欲」に対しては誠実であったことを含めて)を色濃く描き込んでいたからに違いありません。

戦争末期、配給の食料を待っていたのでは、どうにもならない食糧不足の困窮のなかで、母娘が交換する着物を持って、闇の食料品を求め、農村へ買い出しに出かける場面、河原で弁当を食べながら語り合う重要なシーンがあります。

母は、娘のすっかり成熟した体を見ながら、娘が「成熟した性欲」を持て余していることにも気がついています。

しかし、いま内地では「若い男」がすっかり戦地へ出払ってしまっていて、若い女性の「成熟した性欲」を上手に開花させてくれるような適当な男性がいないことも知っています。

だから母は、「普通の状況なら、たとえ隣家であろうと、若い未婚の娘が、一人暮らしの男の元へ行くなど決して許さないのだけれど」と前置きして、「市毛さんに気をゆるしてはだめよ、女は溺れやすいから」と忠告しながら、「でも、いまはこういう時代だから、隣家に市毛さんがいることに感謝しているわ、『娘をよろしくお願いします』って言いたいくらいよ」とさえ話します。

ここには、「悶々と」であれ、若い女性の成熟していく性欲の存在と、その極限状態のなかで性欲が歪められることなく育成され完熟を遂げさせてあげたいと見守りながら願っている母親の姿が、きわめて冷静に描かれています。

しかし、この部分こそが「他人からとやかく言われる干渉を極力嫌悪し、気持ちを閉ざして自分だけの世界に充足して他人に興味も関心も一切持たない彼らにとって、だから必ず相方が必要となる「性欲」も、抑制することになるというのも当然の帰結であり、相互過干渉が大前提の「結婚」なんて最初から論外で、当然受け入れられるわけもない」現代の若い世代の感性を逆撫でし、当然のように忌避されたのだと思います。

あるサイトで、この作品に対する象徴的な感想に接しました。

書かれていることが、結局無様な恐怖感でしかないことに本人もまた気が付いていないことが異常ではあります。

≪荒井晴彦の完全監督作という事で興味があり鑑賞。日常生活部分のパートがやたらに冗長だったな。確かインタビューで「戦争時中ではあるけれど庶民、ある男女の視点から戦争を視る映画を創りたかった」と語っていたような気がしたがセットや衣装役者陣のしゃべり方などで“とりあえず”戦争中なのかな〜とボンヤリと時代背景がわかるような・・・わからないような・・既視感はあるんだけどはっきりいって隣の別居中の男と隣に住む母娘の娘とのポルノチックなドラマでも良いんじゃあないか・・・なぜ戦時中にしたのか・転がり込んで来た母の姉をストレスに思いながら三人食卓に交えた現代劇をバックに隣の中年男に惚れる娘・・正直映画終盤の終盤までその必然がわからなかったさらに追い討ちをかけるように枕の匂いを嗅ぐ汗ばんだ肌と蛾が着付する電燈トマトとトマトのムシャブリ口元の水を払うしぐさ長谷川博己が二階堂ふみにそぞろと歩み寄る歩み寄り大樹に追い込まれた瞬間!!蝉の歓奇と二階堂の歓喜がシンクロする!!!すんげーベタwwwwwwwwwwあまりのエロ表現度の素人ブリがこの映画から俺をトンデモナク遠ざけてしまったなwwww古くさいというよりセンスなさすぎwwあからさまに童貞が撮ったかのような青くさいエロ表現ほんとう教科書どおりのセンスのない映像表現にゲンナリしてしまった・・・最期の最期で『戦争と不倫は同じで みな、憎しみ嫌っているけれど 実はみな戦争が好きなんだよ』その同義語である事を云いたいがための『戦争映画』だったのだろうか、それにしては中だるみすぎである。≫

やれやれ、これからも、この手の連中と付き合っていかなければならないのかと思うと、気が重くなります。

それはともかく、高井有一が、情緒不安定な母親を、死の予感におびえながら少年の視点から描いた繊細な作品、芥川賞受賞作「北の河」をふと思い出しました。


(2015日本)監督脚本・荒井晴彦、原作・高井有一『この国の空』(新潮社刊)、ゼネラルプロデューサー・奥山和由、プロデューサー・森重晃、撮影・川上皓市、美術・松宮敏之、音楽・下田逸郎、柴田奈穂、録音・照井康政、照明・川井稔、編集・洲崎千恵子、ラインプロデューサー・近藤貴彦、助監督 野本史生、詩・茨木のり子『わたしが一番きれいだったとき』、制作担当 森洋亮、VFX・田中貴志、効果・柴崎憲治、装飾・三木雅彦、配給/ファントム・フィルム、KATSU-do
出演・二階堂ふみ(田口里子19歳)、長谷川博己(市毛猛男)、工藤夕貴(里子の母・田口蔦枝)、富田靖子(里子の伯母・瑞枝)、滝沢涼子、斉藤とも子、北浦愛、富岡忠文、川瀬陽太、利重剛(物々交換先の農家を紹介する男性)、上田耕一(里子の上司)、石橋蓮司(疎開を待つ町の住人)、奥田瑛二(疎開する画家)、 所里沙子、土田環、福本清三、木本順子、前島貴志、上田こずえ、岡部優里、川鶴晃弘、下元佳好、高橋弘志、司裕介、星野美恵子、宮崎恵美子、矢部義章、宮田健吾、福岡歓太、山野井邦彦、あきやまりこ、太田敦子、奥村由香里、小泉敏生、鈴川法子、武田晶子、西山清孝、細川純一、宮永淳子、山口幸晴、篠野翼、井上蒼太郎、七浦進、泉知奈津、大矢敬典、桂登志子、小峰隆司、髙野由味子、武田香織、林健太郎、松永吉訓、安井孝、山中悦郎、覚野光樹、小野寛、七浦紀美代
公開・2015年8月8日 130分



[PR]
by sentence2307 | 2016-12-29 07:41 | 映画 | Comments(0)

前回、「岸辺の旅」の感想を書き進めながら、自分がこの作品に対して、かなり低い評価しか持っていないことが徐々に分かりはじめたとき、そのことが、かえって自分でも、とても意外でした。

この作品を鑑賞する前に、世間では既に定まっていた「高評価」が、自分にはどうにも気に入らず、ただ「そのこと」の反発だけで自分の真意を歪めてしまったのではないかと。

それはいまでも他人から評価を押し付けられたり、決めつけられたりすることをもっとも警戒し嫌悪している自分ですので、そう考えれば、あながち無理のない選択ではなかったのかもしれないのですが、ときには極端な「勇み足」というものも、ないではありません。

なにせ、根が「へそ曲がりの天邪鬼」ときている自分です、そういった心にもないリアクションを思わず採ってしまい、内心「しまった」と反省しながらも、もはや訂正できないまま「誤った立場」を固辞しなければならなくなり、心ならずもその「誤った立場」を正当化するという詭弁を積み上げていって、自分をどんどん窮地に追い込んでいくという苦い経験を幾度も繰り返してきているので(仕事の場でもです)、その辺は十分に注意している積りですが、今回もまた「それ」をやらかしてしまったのではないかと、この一週間にあいだ、年末の事務処理に追われながら、忸怩たる思いで、ずっと考え続けてきました。

つまり「岸辺の旅」の感想が、「高評価」に対する反発からの詭弁の積み上げにすぎなかったのではないか、と。

しかし、いくら考えても、あの作品「岸辺の旅」の妻・薮内瑞希と夫・薮内優介の実像が、自分にはどうしても見えてこなかったのです。

彼らが、かつての生活のなかで積み上げてきたはずの具体的な「愛憎の機微」、生活していくなかで彼らがお互いに対して持ったはずの「ブレ」と違和感みたいなもの、つまり生活史の実態が全然見えてこないのです。

その果てにあったはずの失意や絶望が見えなければ、夫がどういう思いで失踪し、生きている間は決して妻の元には帰ろうとせずに、誰も知らない土地で絶望のなかで野垂れ死んでいったのか、この「不意の失踪」や「かたくなな放浪」や「身元を放棄した絶望のなかでの野垂れ死に」にこそ、夫・薮内優介の意思がこめられているとしたら、それらすべては、妻・瑞希を苦しめるための当てこすりのような「憎しみ」だったのではないかと。

そういう鬱屈を妻に打ち明けたり弁明したりすることもなく、無言のまま失踪したそのこと自体に妻は深く傷つき、彼にとって自分とはいったい何だったのかと苦しみ、その死さえ知らされずに無視されたことに対して憤ったに違いありません。

こういうことすべてが、世俗にまみれて暮らす人間のごく普通の(誰もが経験するはずの)愛憎の感情なら、あの映画で描かれていた夫婦は、なんと生活感のない無機質なただの人形にすぎなかったのか、と。

その意味では、たぶん、あの小文にこめた違和感は、自分の真意を正当に反映したものだったと思います。

そして、自分のなかにあの作品に対する「真の反発」があったとしたら、それは、妻・瑞希が、亡霊となった夫・優介に最初に出会うシーンの、出会いの感動や憎しみや恐怖を欠いた無機質さに対してだったかもしれません。

このことを考え続けてきたこの一週間、自分の気持ちの中には、つねに溝口健二の「雨月物語」の最後の場面、源十郎と妻・宮木の美しい再会の場面が占めていました。

[PR]
by sentence2307 | 2016-12-23 10:21 | Comments(0)

岸辺の旅

誰もが持っていると思いますが、自分にも、仕事上や趣味面で、信条(自分を行動に踏み切らせる切っ掛けというかジンクスみたいなものですね)としているものが幾つかあります。

そのどれもが、あまりに思い込みのつよい幼稚なものなので、公言するのはちょっと気が引けるのですが、例えば、「いま考えていることに関連する事柄に三タビ遭遇したら、迷わず行動する」みたいな感じのものです。

最近、その「公式」にぴったりハマったことがあったので、ちょっと書いておこうと思います。

以前、黒沢清監督の「岸辺の旅」を見たとき、世間が評価するほどには、自分は、もうひとつ賛同できなくて、そのことがずっと気になっていました。

確かにこの作品「岸辺の旅」は、素晴らしい作品です。

ただ、自分の心情として、その辺をさらに正確に表現するとすれば、「確かに、素晴らしい部分のある作品です」くらいには言い直したくなる感じです。

そうでもしなければ、どうにも気持ちの収まりようがなく、この作品には何か大切なものが欠けているという思いでいます(あなたねえ、カンヌ国際映画祭で、ある視点部門監督賞を受賞しようかというすごい作品なのに、なにをいまさら「大切なものの欠落」でもないじゃないですか、と抗議されてしまいそうですが)。

そこで、最近経験した例の「三タビの遭遇」の方程式にハマッタことについてちょっと書いてみますね。

この作品について、自分が、このような「いまいち」懐疑の気持ちを持っていて、無意識にですが、折に触れネットでこの作品につていの「感想」を読む習慣が、いつの間にか身についてしまったかもしれません。超有名な人気作品ですから、その感想の量も膨大なのですが、あえて目についたものをランダムに紹介してみたいと思います。

「黒沢清監督のゴーストものだが、怖い映画ではない。」

「岸辺に住む人々のお陰で、妻は夫を理解し、本当の別れを迎えることができる、深津さんのラスト、素晴らしかった。」

「幽霊の存在・霊魂の可視化に挑んだゴーストものはひとつのジャンルと呼べる。」

「旅先でその地の人々と一緒に、楽しく生活する二人。だが、いつしか瑞希は、死者に対する想い出に介入して、人の心を乱してしまう。知らずにしてしまっことだが、結果的にそれらは、死者と生者の心の区切りを付けさせる為の一助となる。旅の目的はこういうことなのか。これが優介のお世話になった人々への恩返しであり、別れの儀式なのだ。」

「岸辺という生死の狭間をさまよう生き霊たち。そんな荒ぶる魂を鎮めるための、これは男と女、二人の道行きの物語。生者と死者(元生者)との激しい葛藤。とり返しのつかない言動が生んでしまった永遠の懐疑と悔恨を何とか成仏させたいという切なる願いを胸に、旅をする夫婦。」

「突然行方不明になり、そして死んでしまった人がどんなことを考えていたのか。そして何をしていたのか。どうしようもなく知りたいことのひとつだと思う。本作は死んだ夫の幽霊とともに旅をし、真実が明らかになっていくというストーリー。設定が設定だけに不気味で怖かったり突拍子もなかったりするが、主演二人の素晴らしい演技によってすんなり観られる大人の映画に仕上がっている。」

「映像や音楽、夫婦役の2人が美しい。自然の中のシーンも、室内での照明の感じも綺麗だった。途中、夫が妻に『泣きながらでもご飯食べていそう』と妻の芯の強さを表現。ラストシーンの深津絵里の表情でそのセリフに納得。大切な人をゆっくりと失う感じが切なかった。」

「死者に対して人は二度お別れを言わなければならない。肉体的なお別れと、精神的なお別れだ。」

なるほどなるほど、しかし、これら感想のどれも、自分の中に存在する苛立ちを解消してくれるものではありませんでした、むしろ、不信感を一層煽るようなものばかりというのが本音です。

つまり、自分を苛立たせるこれら感想の「大勢」が、この小文の出発点ということになるわけですが。

そこで、まずひとつ目の「遭遇」からいきますね。

ここのところ「日本映画専門チャンネル」で、今村昌平の「人間蒸発」を幾度か放映していて、機会があれば、繰り返し見ています。

自分的には、「繰り返し」、そして「幾度」も、絶対に見つづけるべき価値のある作品のひとつだと思っていますし、見るたびに得るものがあり、いままでその期待を裏切られたことはありません。

この「人間蒸発」を見ていて、とても印象深いのは、理由も告げず自分を置き去りにして蒸発(失踪)した「婚約者」を捜索する主人公「早川佳江」の執拗さです。

「婚約者」がどこへ行ってしまったのか、そして、なぜ失踪したのか、彼に失踪しなければならないほどの何があったのか、失踪について誰がどのように関与したのか、主人公の早川佳江は、失踪者=婚約者の最後の立ち寄り先や接触した関係者の誰彼構わず尋ねまわり徹底的に調べます。

当初、この作品がリアルに現実を捉えたドキュメンタリー映画だと信じて見ていた僕たちは、そのラストで、この作品がすべて「虚構」だと明かされたあとでも、「早川佳江」という人物像が、今村昌平やスタッフが企んだ架空のものであることを知ったあとでも、やはり、その執拗さには真に迫ったものがあり、それを「異常」とは思わせない観客を十分に納得させる「もの」が、そこにはありました。

たぶんそれは、理由も分からずに不意に婚約者を失ってしまった女性の「屈辱」と「納得するわけにいかない自責の念」だったからかもしれません。

自分は彼をあれだけ愛していたのだから、婚約者が失踪したなんてどうしても納得できない。少なくとも「失踪」なんて、絶対自分のせいなんかではない、何らかの理由で第三者が関与して彼を失踪に追い込んだに違いないという(自分を除外した)懐疑が、彼女を激しく突き動かし、「真相」を求める情熱となったのだと思います。

訳も分からず、突然、恋人や夫が、不意に自分の前から姿を消したとしたら、残された者はどのように感じるかの「リアル」が、映画「人間蒸発」には描かれていると思いました。

失うまでの相手を深く愛し、理解していたと確信していればこそ、「自責の念」や「屈辱感」より以前に、突然の「失踪」に対して、「何故だ」「どこへ行った」「誰かが企んで陥れたに違いない」という「早川佳江」の思いに到達できたのだと思います。それが、人間のごく普通の感情なのではないかと。

たとえ一度でもお互いに愛するという感情を共有したことがあり、だから生活も共にしてきた同棲相手が不意に姿を隠したことに対して、「なんで自分の前から消えたのだ」という共棲者として憤りを込めた痛切な思いに苦しめられたようには見えない「岸辺の旅」の妻・薮内瑞希が、自分には、どうしても「リアル」に欠けるように思えてならなかったのだと思います。

そして、ふたつ目の「遭遇」です。

会社では、自分は、偏屈とか、頑固とか、その他いろいろな言われ方をしていて、そのどれもが決して「いいふう」に言われておらず、また、もちろんそんなふうな理不尽な言われ方に同意できるはずもないのですが、ひとつだけ「無理もないか」というものがあります、「悪趣味」です。

わが課では、始業時にその日の「官報」を回覧していますが、「官庁の契約関係」とか「役所の人事異動」とかは、それぞれ別の課がチェックしているので、さしてわが課が関係するような記事はありません。

はっきり言って、わが課では、「官報」の回覧などは無用のことで、ただ惰性で行われている「慣行」にすぎないのです。

課員は、官報の頁を繰ることもなく、余白に閲覧印をさっさと押して、瞬く間に課を一周し、再び官報は自分の手元に戻ってきます。

さて、ここからが、自分が「悪趣味」といわれている所以です。

官報には、ほぼ毎日、市町村長名で公示される「行旅死亡人」という記事が掲載されています、いわゆる「行き倒れ」(病気や飢え・寒さなどのために、路上で倒れること。また、倒れて死ぬこと。また、その人。行路病者。いきだおれ。大辞林第三版)ですよね。

自分がその記事をコトサラ熱心に読みふけっていることを知っている課員は、こちらをチラ見しては、クスクス笑います。

しかし、官報を愛読しているということを「悪趣味」というのならまだしも、「行き倒れ」の記事を毎朝「楽しみにしている」などと誤解し、そしてそれ掴まえて「悪趣味」というのなら、それは少し違うぞと強く抗弁したい気持ちがあり、心外に思っています。いつか弁明する機会があれば、彼らにも理解できるように説明したいと思います。

さて、その「行旅死亡人」ですが、ある日の官報に「岸辺の旅」を連想させるこんな記事(平成28.11.15号外25150頁)があったので、思わず複写をしてしまいました。

≪行旅死亡人

本籍・住所・氏名不詳、年齢55歳から75歳位の男性、身長175cm位、体格中肉、白髪交じりの短髪、茶色チェック柄シャツ、黒色長袖Tシャツ、青色ジーパン、黒色スパッツ、黒色靴下、黒色スニーカー、青色ボクサーパンツ、現金3491円、黒色二つ折り財布、黒色と灰色のジャンパー、フード付きフリースパーカー、黒色ニット帽、手袋、眼鏡、腕時計

上記の者は、平成271214日宮城県仙台市青葉区一番町4丁目210号東映プラザ地下1階ダイナム宮城一番丁館休憩コーナーで椅子に座ったまま意識不明となり、仙台市立病院に搬送され、同日縦隔腫瘍による呼吸不全のため死亡しました。

上記の遺体は、身元不明のために火葬に付し、遺骨は仙台市無縁故者納骨堂に安置してあります。心当たりの方は、当市青葉区保護第一課まで申し出てください。≫

作品「岸辺の旅」には、作り手や受け手が興味を示した「幽霊の存在」だとか「霊魂の可視化」以外にも、このストーリーの中に込められたはずの無残な思いとか、もっと興味を示してもよかったかもしれないリアルで熾烈で悲惨な「現実」がもう一方にあったことを、この「官報」が教えてくれているように感じたのでした。

さて、三つ目の「遭遇」です。

京大の酒巻匡教授が、ある雑誌に「性悪説」というコラムを書いていました。

書き出しは、こうです。

「人間には、悪の能力がある。これは、法学・政治学の大前提であり、この学問分野に少しでも触れたことのある者にとっては常識であろう。しかし、筆者は、法制度の設計を専門的に検討する審議会の委員を務めた際に、健全な社会常識を代表するという一般有識者委員の言動から、これが世間一般の常識ではないらしいことを知った。」

IR推進法案反対の幼稚な言説でも分かるように、綺麗ごとをひたすら並び立てて現実を見ようとしない「良識人間」とか「人道主義」が、いかに現実を歪めたか、アメリカをはじめ世界はいま、その揺り戻しに時期に差し掛かっているように感じます。

結局は、善人しか登場していないような幽霊の話なんて、てんで興味がなかったと、「岸辺の旅」についての感想を最初からズバリ言ってしまえば良かったのかもしれませんね。

2015)監督脚本・黒沢清、原作・湯本香樹実『岸辺の旅』(文春文庫刊)、脚本・宇治田隆史、撮影・芦澤明子、美術・安宅紀史、編集・今井剛、音響効果・伊藤瑞樹、音楽・大友良英、江藤直子、照明・永田英則、飯村浩史、録音・松本昇和、助監督・菊地健雄、製作・畠中達郎、和崎信哉、百武弘二、水口昌彦、山本浩、佐々木史朗、エグゼクティブプロデューサー・遠藤日登思、青木竹彦、プロデューサー・松田広子、押田興将、ゼネラルプロデューサー・原田知明、小西真人、音楽プロデューサー・佐々木次彦、VE・鏡原圭吾、スクリプター・柳沼由加里、ヘアメイク・細川昌子、衣裳デザイン・小川久美子、COプロデューサー・松本整、マサ・サワダ、VFXスーパーアドバイザー・浅野秀二、助成・文化庁芸術振興費補助金、配給・ショウゲート、企画制作・オフィス・シロウズ、製作・「岸辺の旅」製作委員会(アミューズ、WOWOW、ショウゲート、ポニーキャニオン、博報堂、オフィス・シロウズ)

出演: 深津絵里(薮内瑞希)、浅野忠信(薮内優介)、小松政夫(島影)、村岡希美(フジエ)、奥貫薫(星谷薫)、赤堀雅秋(タカシ)、千葉哲也、藤野大輝、松本華奈、石井そら、星流、いせゆみこ、高橋洋、深谷美歩、岡本英之、蒼井優(松崎朋子)、首藤康之(瑞希の父)、柄本明(星谷)、

89回キネマ旬報日本映画ベスト・テン第5位、主演女優賞(深津絵里、『寄生獣 完結編』と合わせて受賞)、第70回毎日映画コンクール日本映画優秀賞、第37回ヨコハマ映画祭(2016年)日本映画ベストテン第7位、第10回アジア・フィルム・アワード(2016年)最優秀助演男優賞(浅野忠信)、第25回日本映画プロフェッショナル大賞(2016年)ベストテン・6位、特別功労賞(芦澤明子、本作ほか長年の映画撮影の功績に対して)、第25回日本映画批評家大賞(2016年)主演男優賞(浅野忠信)、第30回高崎映画祭(2016年) 最優秀主演女優賞(深津絵里)、最優秀助演女優賞(蒼井優)、第8TAMA映画賞(2016年)最優秀女優賞(蒼井優、『オーバー・フェンス』『家族はつらいよ』と合わせて受賞。)、第68回カンヌ国際映画祭ある視点部門監督賞受賞(黒沢清)、


[PR]
by sentence2307 | 2016-12-18 22:57 | 映画 | Comments(2)