世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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半年に一度くらい、繰り返しなのですが、期間をおいて放送されているNHK制作の「映像の世紀」を楽しみに見ています。

このプログラムがまとめて放送されたのは相当以前のことで、その当時、放送を見ながらリアルタイムで録画もしていて、そのテープは大切に保存してあるのですが、ヒストリー・チャンネルなどで頻繁に放映されるので、録画したものを見るまでもなく、そのテープは、文字通り永久保存状態で御蔵入りになっています。

また、そういう放送を待つまでもなく、you tubeなどでいつでも手軽に見られるので、放送すら待つ必要がないというのが実態です。

そう簡単には見ることのできない相当貴重な歴史的映像であることを考えると、実に素晴らしい時代になったものだという狂喜や感心を通り越して、空恐ろしくなるばかりです。

放送された年月日だとか、その構成・内容などについて、どれも記憶が曖昧なので、さっそく「映像の世紀」と打ち込んでネット検索を試みました。

放送は、1995年3月から1996年2月にかけて、毎月第3土曜日にNHK総合テレビの「NHKスペシャル」で全11集にわたって放映されたと書かれていました。

へえ~、もうカレコレ20年以上も前の放送だったんですね、自分としては、CS放送やネットなどでたびたび接しているので、そんなに古い放送だなんて、なんだか実感がわきません。

検索の結果は以下の通りです。


第1集「20世紀の幕開け」カメラは歴史の断片をとらえ始めた 1995.3.25 放送
第2集「大量殺戮の完成」塹壕の兵士たちは凄まじい兵器の出現を見た 1995.4.15 放送
第3集「それはマンハッタンから始まった」噴き出した大衆社会の欲望が時代を動かした 1995.5.20 放送
第4集「ヒトラーの野望」人々は民族の復興を掲げたナチス・ドイツに未来を託した(第1集放送時の予告仮題「国家の狂気」)1995.6.17 放送
第5集「世界は地獄を見た」無差別爆撃、ホロコースト、そして原爆 1995.7.15 放送
第6集「独立の旗の下に」祖国統一に向けて、アジアは苦難の道を歩んだ(第1集放送時の予告仮題「革命いまだならず」)1995.9.16 放送
第7集「勝者の世界分割」東西の冷戦はヤルタ会談から始まった  1995.10.21 放送
第8集「恐怖の中の平和」東西の首脳は最終兵器・核を背負って対峙した 1995.11.18 放送
第9集「ベトナムの衝撃」アメリカ社会が揺らぎ始めた(第1集放送時の予告仮題「超大国が揺らぎ始めた」)1995.12.16 放送
第10集「民族の悲劇果てしなく」絶え間ない戦火、さまよう民の慟哭があった(第1集放送時の予告仮題「さまよえる民」)1996.1.20 放送
第11集「JAPAN」世界が見た明治・大正・昭和 1996.2.24 放送


なるほど、なるほど。

第二次世界大戦の戦後50周年とNHKの放送開始70周年、さらに加えて映像発明100周年記念番組ということで制作されたドキュメンタリー番組で、NHKとアメリカABC放送の国際共同取材で制作された壮大な企画だったわけですね。とにかく凄い。感心しました。

でも、なぜ自分がいま「映像の世紀」のことを思い出したかというと、つい先週、ファティ・アキン監督の「消えた声が、その名を呼ぶ」を見たときに、たしか「映像の世紀」の中で20世紀の難民の歴史を扱ったものがあったことを不意に思い出したからでした。

そして検索した結果、それは第10集の「民族の悲劇果てしなく」であることが分かりました。

その冒頭部分で、20世紀最初に映像が捉えた難民としてほんの瞬間的に紹介されていたのが、まさにこの映画「消えた声が、その名を呼ぶ」で描かれていた「アルメニア難民」だったのです。

思えば、現在に至るまで、世界における地域紛争は絶え間なく起きていて、おびただしい数の難民が生み出されており、国境を越えて他国に逃れた彼らを、建前的には人道上(実際のところは、大国の過去の植民地経営の負の歴史的遺産です)あるいは、安価な労働資源としてそれら難民を受け入れるまでは良かったものの、やがて飽和状態となって国内の富の分割・社会保障などの矛盾と歪みを露呈し、やがて自国民の失職を招いて不満を増大させた結果、難民とのあいだに軋轢を生じさせて、やがて欧米各国に右傾化政権を次々と生み出した経緯を考えると、これは歴史的必然でもあり、ひとつの象徴としての顕著なのがアメリカのトランプ政権(貧困の不満の吸収)誕生なのではないか、しかし、それは、それ以前のオバマの優柔不断・現状の諸矛盾からことごとく直視を避けた無責任な政策運営・偽人道主義にも重大な過失はあったはずだと考えています。

当時日本でも、民主党の一部議員が、人道上「難民を受け入れよう」などと馬鹿げた論陣を張っていましたが、歴史的定見を欠いた唐突な痴言(その愚劣と愚鈍は「トラストミー」で既に世界では経験済みです)は世界的に冷笑を買っていることさえ認識さえできなかったというテイタラクでした。

まあ日本の政治家のレベルでは、せいぜい「いかがわしい不倫」をこそこそやらかすか、「政党助成金ころがし」で私腹を肥やすか、「政策活動費のちょろまかし」に精を出すくらいが似合っています。まあ、これじゃあまるでハエか、ゴキブリですが、やれやれ。

そんな淫乱女や立場の弱い者とみると居丈高に罵倒しまくる頭のおかしな勘違い女か、もしくはコソ泥野郎のために汗水たらした金をせっせと税金に持っていかれるのかと思うとハラワタが煮えくり返ります。

さて、自分がこの映画「消えた声が、その名を呼ぶ」の感想を書きたいと思ったのには、もうひとつの理由があります。

あるサイトでこの作品の感想を読んで、思わず愕然としたからでした。

ちょっと引用してみますね(引用も何も、これですべてなのですが)。

《戦時下に差別と虐殺から生き延びた男が家族と再開するために旅をする話。
面白いけど、少し冗長で飽きてきた頃感動の再開…と思いきや、あっさり声が出ちゃうし、「今までどこに…」って、なんだそれ?
しかも大した盛り上がりもなく終了。
何とも締まらず残念過ぎる。》

「なんだそれ?」って、あんたが「なんだそれ?」なんだよ、馬鹿野郎。

「あっさり声が出ちゃう」のは、たとえ声を失っても最愛の娘にだけは聞こえた「ささやかな奇跡」を描いているからだし、「今までどこに…」は、祖国を追われ故郷を失った者たち(あるいは、父娘)が、遠い異国の地でお互いを求め合っていた思いの深さを「そう」表現しているからだよ、馬鹿野郎。

大量虐殺から奇跡的に逃れられた父親が、これも奇跡的に生き残った愛娘を異国の地で執念で探し当てたんだぞ。

「お父さんが探し当ててくれた」って言っていたろう?

それに「しかも大した盛り上がりもなく終了」って、あんたね、今までなに見てたんだよ、えっ?

こういうヤカラは、たとえ馬にされた母親が自分の前で、血の出るくらい死ぬほど鞭打たれ、苦しみの叫び声を上げても、へらへら笑っていられる無神経な野郎なんだ、きっと。

う~ん、もう! おまえなんか、金輪際、映画見なくともいい。オレが許す。

今日は、映画のコラムなんて書ける状態じゃない、これじゃ。

だから。今日はこれでオシマイ。


(2014独仏伊露ほか)監督脚本製作・ファティ・アキン、共同脚本・マルディク・マーティン、製作・カール・バウムガルトナー、ラインハルト・ブルンディヒ、ヌアハン・シェケルチ=ポルスト、フラミニオ・ザドラ、音楽・アレクサンダー・ハッケ、撮影・ライナー・クラウスマン、編集・アンドリュー・バード、美術・アラン・スタルスキ

出演・タハール・ラヒム(ナザレット・マヌギアン)、セヴァン・ステファン(バロン・ボゴス)、ヒンディー・ザーラ(ラケル)、ジョージ・ジョルジョー(ヴァハン)、アキン・ガジ(ヴァハン)、アレヴィク・マルティロシアン(アニ)、バートゥ・クチュクチャリアン(メフメト)、マクラム・J・フーリ(オマル・ナスレッディン)、シモン・アブカリアン(クリコル)、トリーネ・ディアホルム(孤児院院長)、アルシネ・カンジアン(ナカシアン夫人)、モーリッツ・ブライブトロイ(ピーター・エデルマン)、ケボルク・マリキャン
第71回ベネチア国際映画祭コンペティション部門ヤング審査員特別賞受賞



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by sentence2307 | 2017-09-24 16:52 | 映画 | Comments(1)

揺れる大地

先日の朝、いつものように出社前の慌ただしい身支度をしながらテレビのニュースをチラ見していたら、いま稚内港ではスルメイカが豊漁で、全国のイカ釣り漁船がこの最北の港に集結し、港町全体が大いに賑わっているというニュースを流していました。

意外でした、確かつい先だっては、今年は全国的にスルメイカの不漁が続いており、函館では、そのアオリを受けて老舗の水産加工会社が廃業するなど、事態はずいぶん深刻化しているというニュースを聞いたばかりだったからです。

そこには中国船・韓国船が出張ってきて不法に乱獲していることもかなり影響していると報じていたことも、うっすら記憶しています。

久しぶりの豊漁に恵まれた稚内のニュースでは、いまの水揚量が1604トンで、市の試算によると経済効果は実に2億3800万円だとか、そして、稚内の町では関連の周辺産業(発泡スチロールの出荷量は既に1年分を超えた)だけでなく、スーパーマーケットやコインランドリー、飲食店、はては銭湯などまで広くその好影響が及んで繁盛していると報じていました。

ひと月前の暗いニュースから一変したずいぶん景気のいい話になっているので(函館の方はどうなっているのか分かりませんが)、思わず食事の手を止めて、テレビの画面に見入ってしまいました、テレビに映し出されていた市の職員(経済効果を試算した人です)は、「この豊漁がこの先、何か月も続いてくれるといいのですが」とホクホク顔でインタビューに応じています。

そのニュースのなかで、誰もがやや訝しそうに、なぜこんなふうにイカが大量に押し寄せてきたのか分からない、とちょっと首をかしげながら話しているのがとても印象的でした、しかし、その怪訝な表情も一瞬のことで、すぐに晴れ晴れとした顔に戻り、「まあ、いずれにしろ、この豊漁なので、どちらでもいいようなものですが」と笑って答えていました。

何年も不漁続きだったのに、ある日突然、不意に大量の魚群が浜に押し寄せてきて、寒村が狂喜に沸き返る、というこの感じが、以前どこかで体験した=読んだような気がするのですが、それがどの本だったのか、どうしても思い出せません、気になって通勤途上もずっと考え続けたのにもかかわらず、結局、思い出せないまま会社につき、伝票の整理に取り掛かったときに、不意に記憶がよみがえってきました。
そうだ、これって、以前読んだ吉村昭の「ハタハタ」という小説の一場面です。

短編ながら、自分に与えたインパクトは実に強烈で、あのニュースの内容とどこか「共鳴」するものがあったに違いありません。

夜、帰宅してから、さっそく本棚から文庫本を探し出して読み返しました。

数頁読むうちに記憶が鮮明に戻ってきました。

東北の貧しい漁村、主人公は少年・俊一、漁師の祖父と父、母と赤ん坊とで暮らしていて、母親は妊娠しています。

貧しい漁村の生活の糧といえばハタハタ漁ですが、ここ何年も不漁続きです。

沖に回遊しているハタハタ(メス)は、海藻に卵を産み付けるために「どこかの浜」に群れを成してやってくる、そしてオスは、その卵に精液をかけるためにメスを追ってさらに大挙して押し寄せてくる、このときハタハタに選ばれた幸運な浜が「豊漁」となるのですが、俊一の暮らす浜は、この僥倖からここ何年も見放されていて、慢性的な貧しさに囚われています。

そしてまた、そのハタハタ漁の季節がやってきます。

今年こそハタハタが大挙して押し寄せてくるという「夢」を信じて、漁師たちは随所に定置網を仕掛け、番小屋で夜通し「その時」を待ち続けています。

しかし、次第に嵐が激しくなり、海がシケり始めます、網の流失を心配した網元が、ひとまず網を引き揚げることを漁民に訴えます。

その網の引き上げのさなかに、修一の祖父と父親ほか何人かの漁師が、粉雪舞う寒冷の海に投げ出され行方不明になってしまいます。

緊迫した空気のなかで行方不明者の捜索が必死に続くなか、遠くの方から微かなどよめきが聞こえてきます。

それは、ハタハタの群れが大挙して浜に押し寄せてくるという狂喜の叫び声でした。

一刻を争う人命救助を優先しなければならないことは十分に承知しているとしても、ここ何年もなかった「豊漁」の兆しを目の前にして、漁民たちは動揺します。

人命救助の建前の前で身動きできなくなってしまった漁師たちは、「死んだ者は、もどりはしねえじゃねえか。生きているおれたちのことを考えてくれや」という思いを秘めて、夫を失った俊一の母の動向をじっとうかがっています。

そういう空気のなかで母親は決断します。

「ハタハタをとってください」

漁村に暮らす者のひとりとして決断した母親のこの必死の選択も、「豊漁」の狂喜に飲み込まれた村民たちにとっては、むしろ鬱陶しく、ただ忌まわしいばかりの「献身」として顔を背け、無理やり忘れられようとさえしています。

身勝手な村の仕打ちに対して憤りを抑えられない俊一は、母親に

「母ちゃん、骨をもって村落を出よう。もういやだ、いやなんだ」と訴えます。

しかし、母親は、「どこへ行く」と抑揚のない声で答えて、赤子に父を含ませる場面でこの小説は終わっています。

最後の一行を読み終え、本を閉じたとき、次第に、この物語で語られる豊漁への「期待と失意」、嵐の中での「絶望」などから吉村昭の「ハタハタ」を連想したのと同時に、もしかしたら、ヴィスコンティの「揺れる大地」を自分は思い描いたのではないかと考えてた次第です。

なお、この吉村昭の「ハタハタ」は、「羆」というタイトルの新潮文庫に収められている一編ですが、「羆」ほか「蘭鋳」、「軍鶏」、「鳩」も憑かれた者たちを描いたとても素晴らしい作品です。


揺れる大地
(1948イタリア)監督脚本原案・ルキノ・ヴィスコンティ、脚本・アントニオ・ピエトランジェリ、製作・サルヴォ・ダンジェロ、音楽・ヴィリー・フェッレーロ、撮影・G・R・アルド、編集・マリオ・セランドレイ、助監督・フランチェスコ・ロージ、フランコ・ゼフィレッリ、
出演・アントニオ・アルチディアコノ(ウントーニ)、ジュゼッペ・アルチディアコノ(コーラ)、アントニオ・ミカーレ(ヴァンニ)、サルヴァトーレ・ヴィカーリ(アルフィオ)、ジョヴァンニ・グレコ(祖父)、ロザリオ・ガルヴァトーニョ(ドン・サルヴァトーレ)、ネッルッチャ・ジャムモーナ(マーラ)、アニェーゼ・ジャムモーナ(ルシア)、マリア・ミカーリ(マドーレ)、コンチェッティーナ・ミラベラ(リア)、ロレンツォ・ヴァラストロ(ロレンツォ)、ニコラ・カストリーナ(ニコラ)、ナレーション・マリオ・ピス、



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by sentence2307 | 2017-09-18 11:05 | 映画 | Comments(0)

エレファント・マン

名作として世評も高いし、いままで知人の誰と話しても悪く言う人なんて一人としていなかったこのデヴィッド・リンチ監督作品「エレファント・マン」ですが、しかし、そうした情勢の中で、それでもなおこの作品を悪く言う人が、果たして、この世界に存在するだろうかというのが、自分の長年の疑問でした、というのは、この自分もその「果たして」のうちの一人だったからです。

例えば、友人が、オレ感動して見たあと泣いてしまったよ、などと興奮ぎみに告白するのを前にしながら、まるで相手の神経を逆撫でするみたいに「俺なんか退屈で、最後の方は眠気が差した」などと、そんなこと、どうして言えます? たかが自分のつまらない映画の感想ごときに拘り、意地を張ってまで言い張り、長年つちかってきた親友とかの人間関係をむざむざ壊し、失っても構わないなどと思ったことは一度もありません、処世のためなら「踏絵」くらいどんどん踏んでみせてしまうタイプです。

キリストの顔がデザインされた足ふきマットを玄関に敷いて朝夕踏んで見せてもいい(なんなら2度くらい往復して踏み直してもいいデスヨ)と思っているくらいだし、さらにキリストの顔がデザインされた便座カバー(そんな物があるのかどうかは知りませんが)に腰を落ち着け、毎朝のルーティン(頻尿ですが、便秘ではありません)に勤しむことも一向に差し支えないと思ってはいるのですが、しかし、やはり躊躇するものがないではありません。

批判する作品が、人畜無害な「恋愛もの」とか「アクションもの」、あるいは「伝記もの」などならともかく、映画「エレファント・マン」は、19世紀の話とはいえ、いわば身障者を扱った「ヒューマニズム」映画です、軽い気持ちで「エレファント・マン」という作品をこき下ろし軽々に罵倒するあまり、チカラ余って「良識を踏み外して失言する→炎上」なんてことになったら、それこそ本末転倒です。

そのためには、この現代という時代、実に微妙で複雑なので、そこのところは注意が必要ですし、相当な覚悟が求められるということは十分に承知しています。

そして最近、wowowで改めてこの作品を見直す機会があって、ある感銘を受けながらも、またその違和感というのも改めて思い知らされました。

この映画が、自分には、どうしても共感できない部分がある、その「部分」というのが自分にとってどういうものなのか、この機会に、じっくり考えてみたいと思いました。

まずは、このデヴィッド・リンチ監督作品「エレファント・マン」についての記事をweb検索していたら、wikiでこんな記述に遭遇しました。

それは、表題「エレファント・マン」の「批評」という小見出しに記されていました。

「アカデミー賞8部門ノミネートなどから、日本ではヒューマンな映画として宣伝されたが、一部の評論家は悪趣味な内容を文芸映画風に糊塗しているだけだと嫌悪感を表明した。なかでも森卓也は、その後リンチ監督の前作『イレイザーヘッド』が公開された際に、結局ヒューマニズムより猟奇趣味の方がこの監督の本質だったのだと述べている。」

という記述です。

そういえば、この手の記事なら、自分も今まで少なからず読んだ記憶があります。

手元にあるコピーの綴りのなかに、北島明弘という人が、デヴィッド・リンチについて書いたものがあり、その中にもそんな感じの記述はありました、確かこれは「世界の映画監督」について幾人もの批評家が分担して書いた解説書かなにかに載っていたと記憶しています。

余計なことですが、実は、自分は、本を読んでいる際、「ここはぜひ記憶しておきたい」と思う箇所は、すぐに複写して50音順に並べて綴るということを励行しています。

この「50音順に編綴」という方法、コラムを書くうえでなかなかの優れもので、意外な機動性を発揮して、とても便利に活用していますが、しかしその際、うっかり原典を書き添えておかないと、今回のように出展元不明のまま、書名を特定できず「解説書かなにか」みたいな情けない書き方になってしまうことも多々あるので、そのときは小ネタ程度の使用という浪費しかできないこともあるのですが。

さて、その北島明弘のコメントです、こうありました。

「次いで、(デヴィッド・リンチは)メル・ブルックスに認められて、彼の会社ブルックスフィルムで『エレファント・マン』を撮った。19世紀のイギリスに実在した象のような顔の持ち主ジョン・メリックと彼をみとる医者との交流を中心にしたドラマだ。彼を見舞う女優には、ブルックス夫人であるアン・バンクロフトが扮していた。彼女の部分にエセ(似非)ヒューマニズムの印象を受けたので、来日した際に問いただしたところ、むっとした顔をしながら『私はそうは思わない』と答えたものだった。のちにブルックスは、彼のことを『火星から来たジミー・スチュアート』と評している。モノクロ画面がヴィクトリア朝のイギリスを見事に再現していた。」

なるほど、なるほど。

女優アン・バンクロフトはボスの奥さんでもあるところから、その役を設定するにあたり、ひたすら「善人」として描かざるを得ず、だから「彼女だけ物凄くいい人に描いたのではないか」などと、わざわざ極東の島国くんだりまでやってきて、芸能記者だか批評家だか訳のわからないアジア人に突然こんな腹の底を見透かされたような因縁をつけられたのですから、そりゃあ、誰だってむっとするのも無理ありません。

しかし、このふたつのコメントをよく読めば、前記・森卓也の「悪趣味な内容を文芸映画風に糊塗しているだけでヒューマニズムより猟奇趣味の方がこの監督の本質だ」というコメントと、後記・北島明弘の「エセ・ヒューマニズム論」は、一見隔たっているようにみえて、その実、そこにはとても似通ったものがあることが分かります。

まあ、ざっくり言ってしまえば、「ヒューマニズムの仮面をかぶった猟奇趣味のイカサマ野郎」と腐しているのと、一方は、「あんな意に反した気取ったヒューマニズムを描き込むなんて君らしくないじゃないか、君の本質は、あんなものじゃないだろう」と持ち上げている隠れヨイショのミテクレだけ違うだけで、言ってることはまるで一緒というのは一目瞭然です。

そして、自分的にこのミテクレだけは分裂したように見えるふたつの見解を象徴する場面を上げるとすれば、フレデリック博士(アンソニー・ホプキンス)が、異形の人ジョン・メリック(ジョン・ハート)を始めて見たときの反応(あまりの悲惨と同情から思わず落涙します)に対する、後半に描かれている下層の民衆の奇形を食い物にする執拗な悪意の描写に自ら圧し潰され、バランス的に上流社会の善意を過剰に描いてしまった、いわば、この「不毛な二元論」(実は同じもの)に困惑してしまったデヴィッド・リンチは、ついに「本質」を見失ってしまった、手放しの善意を描いてしまったために、分かりにくくしてしまったものがあったのではないかと思うようになりました。

つまり、「上流階級の庇護」も「下層民・民衆の虐待」も、結局は、根の一つのものという「真実」から目を逸らさねばならなかったリンチの困惑(もしかしたら自分の違和感もリンチの困惑をそのまま感じ取ったのかもしれません)を示唆しているような気がします、そして、それがそのまま、アカデミー賞の完敗(候補8部門・作品賞、主演男優賞、監督賞、脚本賞、美術監督・装置賞、作曲賞、衣装デザイン賞、編集賞)に序実に反映されたのではないかと。

そしてまた、その一方で、アヴォリアッツ国際ファンタスティック映画祭グリンプリ受賞という現実も、その答えを示したものといえるかもしれませんよね。

さらに、「日本で大ヒットした」という現実も見過ごしにはできません。

僕たちは、実在のエレファント・マン(ジョン・メリック)が、たまたま奇形に生まれついたために醜悪な動物のような見世物小屋で晒し物とされ、悪意の虐待を受けて人間性を蹂躙されたことに対して、デヴィッド・リンチが、いかなる同情を示し、いかなる憤慨を現しているのかを、その作品として、どこまで描き得ているのか、それとも、リンチの描いたものは、結局のところ、この映画自体が、身障者を晒し物として奇形を売りにした単なる悪意に満ちた「見世物小屋」でしかないと見るかというところまで追い込まれたとき、そこで「ヒューマニズム」を示されたとしても、あるいは、かたや「醜悪な見世物小屋」を示されても、自分はいずれにも「違和感」を覚えたことを唯一の手掛かりにして、この一週間ずっと考え続けてきました。

実はその間、ふたつの映画に出会いました。

ひとつは、伝説の映画、トッド・ブラウニング監督作品「フリークス (怪物團)」、1932

トッド・ブラウニング監督作品「フリークス (怪物團)」は、実に驚くべき映画ですが、しかし、見ていくうちに、その「実に驚くべき」は、実は自分が「常識」から一歩も抜け出せなかった硬直した感性の持ち主であることに気づかされたからにすぎません。

いわば、そこには「奇形」を普通に撮り続けたために、狡猾な健常者たちからの侮蔑と虐待に対する怒りの報復が描かれていく過程で、人間の正常な在り方が示されているラストの爽快感が余韻として残るのに比べたら、いじめ抜かれて死んでいく「エレファント・マン」の救いのない無力で陰惨なリンチの描き方は、逆に実在のジョン・メリックを、その最後まで人間性を放棄した惨めな小動物に貶めたというしかありません。

そしてもう一本は、本多猪四郎「マタンゴ」1963です。

嵐に遭遇し、漂流のすえに絶海の孤島に流れ着いた男女7人が、飢えに耐えきれず、ついに禁断のキノコを食べたことから、巨大で醜悪なキノコに変身していくというストーリーですが、醜悪なのはカタチだけで、巨大キノコに変身した彼らは実に満足げに快楽のなかに陶酔していることを描いています。

あの「エレファント・マン」にあっては、他人の視線にさらされ、他人に映る「エレファント・マン」は終始描いていたとしても、はたして、巨大キノコ「マタンゴ」自身が(未来には破滅しかないと分かっていながら)陶酔のなかで持ったような快楽を描けていただろうか、たぶん自分の違和感は、そこにあったのだと思います、つまり、「だからリンチさあ、エレファント・マン自身は、どうだったんだよ」みたいな・・・。

★エレファント・マン
(1980パラマウント)監督脚本・デヴィッド・リンチ、脚本・クリストファー・デヴォア、エリック・バーグレン、原作・フレデリック・トリーブス、アシュリー・モンタギュー、製作・ジョナサン・サンガー、製作総指揮・スチュアート・コーンフェルド、メル・ブルックス 、音楽・ジョン・モリス、撮影・フレディ・フランシス、編集・アン・V・コーツ、プロダクションデザイン(美術)・スチュアート・クレイグ、衣装デザイン・パトリシア・ノリス、編集・アン・V・コーツ、音楽・ジョン・モリス、製作会社・ブルックス・フィルムズ・プロ
出演・ジョン・ハート(John Merrick)、アンソニー・ホプキンス(Frederick Treves)、アン・バンクロフト(Mrs. Kendal)、ジョン・ギールグッド(Carr Gomm)、ウェンディ・ヒラー(Mothershead)、フレディ・ジョーンズ(Bytes)、ハンナ・ゴードン(Mrs. Treves)、マイケル・エルフィック(NightPorter)、デクスター・フレッチャー(バイツの連れている少年)、キャスリーン・バイロン、フレデリック・トレヴェス、
124分 アスペクト比・シネマ・スコープ(1:2.35)、モノクロ、35mm

★フリークス (怪物團) Freaks
(1932MGM)監督製作・トッド・ブラウニング、脚本・ウィリス・ゴールドベック、レオン・ゴードン、エドガー・アラン・ウルフ、アル・ボースバーグ、撮影・メリット・B・ガースタッド、編集・バシル・ランゲル、
出演・ウォーレス・フォード(フロソ)、レイラ・ハイアムス(ヴィーナス)、ハリー・アールス(ハンス(小人症))、デイジー・アールス(フリーダ(小人症))、オルガ・バクラノヴァ(クレオパトラ)、ロスコー・エイテス(ロスコー(吃音症))、ヘンリー・ヴィクター(ヘラクレス)、ローズ・ディオン(マダム・テトラリニ(団長))、デイジー&ヴァイオレット・ヒルトン(シャム双生児)、エドワード・ブロフィー(ロロ兄弟)、マット・マクヒュー(ロロ兄弟)、ピーター・ロビンソン(骨人間(るいそう))、オルガ・ロデリック(ひげの濃い女性)、ジョセフィーヌ・ジョセフ(半陰陽者)、クー・クー(クー・クー(ゼッケル症候群))、エルヴァイラ・スノー(ジップ(小頭症))、ジェニー・リー・スノー(ピップ(小頭症))、シュリッツ(シュリッツ(小頭症))、ジョニー・エック(ハーフボーイ(下半身欠損))、フランシス・オコナー(腕の無い女性)、プリンス・ランディアン(生けるトルソー(手足欠損))、アンジェロ・ロシェット(アンジェロ(小人症))、エリザベス・グリーン(鳥女)、
64分(1932年製作、1996年国内リバイバル上映、2005年国内再リバイバル上映)

★マタンゴ
(1963東宝)監督・本多猪四郎、特技監督:円谷英二、製作・田中友幸、原案・星新一、福島正実(ウィリアム・H・ホジスンの海洋綺譚『闇の声』より)、脚本・木村武、撮影・小泉一、美術・育野重一、録音・矢野口文雄、照明・小島正七、音楽・別宮貞雄、整音・下永尚、監督助手(チーフ)・梶田興治、編集・兼子玲子、音響効果・金山実、現像・東京現像所、製作担当者・中村茂、特殊技術撮影・有川貞昌、富岡素敬、光学撮影・真野田幸雄、徳政義行、美術・渡辺明、照明・岸田九一郎、合成・向山宏、監督助手(チーフ)・中野昭慶、製作担当者・小池忠司
久保明(村井研二・城東大学心理学研究室の助教授)、水野久美(関口麻美・歌手、笠井の愛人)、小泉博(作田直之・笠井産業の社員)、佐原健二(小山仙造・臨時雇いの漁師)、太刀川寛(吉田悦郎・新進の推理作家)、土屋嘉男(笠井雅文・青年実業家。笠井産業の社長)、八代美紀(相馬明子・村井の教え子で婚約者)、天本英世(マタンゴ・変身途上)、熊谷二良(東京医学センターの医師)、草間璋夫(警察関係者)、岡豊(東京医学センター医師)、山田圭介(東京医学センター医師)、手塚勝巳(警察関係者)、日方一夫(警察関係者)、中島春雄(マタンゴ)、大川時生(マタンゴ)、宇留木耕嗣(マタンゴ)、篠原正記(マタンゴ)、鹿島邦義(マタンゴ・変身途上)、伊原徳(マタンゴ・変身途上)、林光子(東京医学センター看護婦)、一万慈鶴恵(東京医学センター看護婦)、



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by sentence2307 | 2017-09-02 22:04 | 映画 | Comments(0)