世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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「ハンニバル」と「ワンダフルライフ」を見ました。

「ハンニバル」は、レクター博士をアイドルみたいに描いてしまって、ぶち壊しですね。

「異常」なりの納得させるだけの論理が描けなければ、単なる怖いもの見たさの悪趣味なグロテスクに陥ってしまうというこの作品は好例だと思いました。
「羊たちの沈黙」が泣いてます。

是枝裕和の「ワンダフルライフ」には、感心しました。

デ・シーカとかヴェンダースとかを引き合いに出して、何か一言いってみたくなるような佳作です。

死者たちが、一番大切な思い出を選び、それを持って天国へ旅立つ、という荒唐無稽ともいえる設定のその裏側には、そのために忘れられてしまう思い出とともに置き去りにされる人間もいるのだ、という視点もちゃんと取り込んだシビアな作品です。

すっかり忘れていましたが、そういえば、荒唐無稽でなければ伝わらないこともあるのだという大切なことを、僕たちは映画を通して幾度も経験してきたはずでしたよね。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 11:40 | 映画 | Comments(0)
「みじかくも美しく燃え」きれいなラストシーンで、よく覚えてます。

でも、1度見ただけで、以後チャンスがあっても見なかった理由は、ままごとのような生活感のない心中が、死ぬくらいなら、もっと生きようとする努力もあり得たんじゃないかという思いが強かったからかも知れませんね。

本当は、その「儚さ」が、この映画のテーマだったのにね、無粋な先入観てホント怖いです。

美しい映像で思い出したのですが、ピーター・ウィアーが、まだブレーク前にオーストラリアで撮った「ピクニック・アット・ハンギングロック」(75)という実際に起こった女生徒失踪事件を扱った作品ですが、美しく神秘的で、少し怖いです。これは、オススメです。

それに引き換え「心の旅路」は、何度も繰り返し見ている作品です。

たとえ夫が記憶喪失でも、形だけは以前と変わらない平穏な生活を取り戻したのだから、それはそれでいいじゃないかと思ってしまう僕のいい加減な「常識」を超えた愛のつきつめ方に感動しますが、今度は喪失中の自分の失われた記憶に苦しめられないかなと、つい考えてしまいます。

「ミニヴァー夫人」とこの「心の旅路」は、良妻賢母型の知性と気品でMGMの看板スターの名を欲しいままにしたグリア・ガースンの代表作です。

監督のマービン・ルロイは、「哀愁」や「若草物語」など女性映画の巨匠として知られていますが、「悪い種子」(56年)というスティーブン・キングを思わせるような異色作もあります。

キングのインタビュー本に同じ題のThe Bad Seed という本がありますから、どこかで繋がっているのかもしれませんが、分かりません。

とにかく、この作品、二人が、それぞれの絶頂期に撮られた稀有な傑作だと思います。僕も大好きです。

「心の旅路」のことを考えていたら、意外にも、大島渚「絞死刑」との関連に気がつきました。(かなり、強引ですが)

妻が夫の記憶を取り戻させようと、あれこれ苦心するところ、この作品と構造的になんか似てませんか。

心神喪失に陥った死刑囚に記憶を取り戻させる(刑訴法479条)ために、刑務所長や検事や医師が、事件の模様や、そのような犯罪を為すに至った背景として社会的差別の中で歪んだ人格が形成されていった過程を、権力執行を担う官吏たちが寸劇で演じてみせるという茶番を通して、日本国家に公然と存在する諸矛盾を告発した記念すべきATG最初の一千万円映画でした。

しかし、「心の旅路」に「絞死刑」を繋げるのは、やはりちょっと無理がありますよね。

ついでに、通勤電車の中で「哀愁」のことを考えていました。

娼婦にまで堕ちたヴィヴィアン・リーが客引きをしている駅で、帰還してきたかつての恋人ロバート・テイラーを見つける場面です。

その、驚愕・歓喜・そしてすぐに困惑と不安に表情がくもり、その一瞬に総ての感情が交錯する彼女の複雑な心理の移ろう模様が描かれる名場面です。

役者なら一度はやってみたいの魅力的な設定での演技ですよね。

つい、僕も、驚愕・歓喜・困惑の順に表情を動かしてしまいました。

隣に立っていたOLが少しずつ遠ざかっていきました。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 11:32 | 映画 | Comments(0)
ロシア革命によるロマノフ王朝崩壊のとき、ニコライ2世の一族が銃殺刑に処せられたのですが、しかし皇女アナスタシアだけが奇跡的に生き残って逃れ、どこかで生存しているらしいという風聞がこの物語の発端です。

皇女を発見すれば、莫大な賞金が手に入るとあって、金目当ての山師たちが幾人もの偽の皇女を仕立て上げ亡命中の皇太后に接見させます。

皇太后にすれば、たとえ、ほんのわずかな可能性でも皇女の生存を信じたいというその思いから、露骨な金目当ての多くの偽者に会うことを断ち切れず、その度に失望し、やがて今では不信感で頑なに心を閉ざしている傷心の様子が痛ましい程の見事な演技で伝わってきます。

皇女の死を信じたくない、という思いが、逆に金目当ての浅ましい悪意に自分を晒す結果となっているのです。

そんな中でのバーグマン演じるアナスタシアとの接見となるのですが、珠玉のような素晴らしいシーンでした。

皇太后は頭からバーグマンを信じていません。バーグマンが、いままで孤独だった分、やっと会うことができた血縁者に愛を求める言葉をいかに尽くしても、それが、切実な心情を吐露すればする程、皇太后は言います、「みごとな演技だ。金が欲しいのならあげよう」と。

他人の悪意に傷ついた人間が、二度と人を信じまいとする時、あらゆる言葉は無力です。そして、更に拒絶されたバーグマンは、崩おれ咳き込みます。

「おびえると、咳がでる癖があるのです」と言うと、それがアナスタシアであることの証しとなるのです。

傷ついた人間同士が、自分の心の鎧を必死に脱ぎ捨てて触れ合う感動的な素晴らしい場面でした。

イングリット・バーグマンが、総てを棄ててロッセリーニの元へ走ったとき、いとも簡単に彼女に棄てられたアメリカ映画界にとっては、あらゆる意味で当然侮辱されたと感じたに違いありません。

タテマエは、その不貞行為に対する非難でしたが、アメリカは、以後彼女をボイコットしました。

そのロッセリーニと組んだイタリア時代のバーグマンの作品は、一般には芳しくない評価しか得られませんでしたが、それは、二人の過去の実績に照らしてのことで、僕は、それぞれがとても素直で好感の持てる作品だと思っています。

まあ、そこは、バーグマンを中心に据えた女性映画ということになりますから、ソフィスケートされた分だけ、ロッセリーニ・リアリズムを期待した観客には物足りない感もあったのでしょうが、例えば「ヨーロッパ1951年」など、とてもいい作品だと思いました。

現実のぬるま湯的環境から、自己変革を求めてもがき苦しむ上流階級の主婦が、結局行き場を失い、禁治産者=精神異常者として収容所に拘禁されてしまうという映画でした。

心情はよく分かりました。バーグマンが、ハリウッドでは、決してできなかったこと・演じてみたいと思っていたことが、多分こういうふうな役柄だったろうとは想像はできます。

しかし、一方で、こうした役をいくら懸命に演じたとしても、積み上げてきた過去の実績というものも現に残酷なくらいに生々しくそこに「あった」のでした。

「追想」は、バーグマンのアメリカ映画界復帰第一作、この作品で2度目のアカデミー主演女優賞を受けることとなります。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 11:23 | 映画 | Comments(137)

十二人の怒れる男

この映画を単に「死刑になったかも知れない父親殺しの容疑のかかった少年を12人の陪審員が議論を尽くして、その無実を証し立てた。」と一言で片付けてしまったら、この作品の持つ本質的な意味を見失うと思いました。

少なくとも、少年は有罪となって電気椅子に送られていた可能性もあり得たことを念頭において見るべきなのではないか、と。

ヘンリー・フォンダが、少年の運命を議論もせずに性急に決めてしまっていいのか、と無罪を主張すると、他の陪審員は「早いとこ、有罪の評決を出して、さっさと切り上げようや」とにべもなく言い放ち、更に「どこにも、ヘソ曲がりはいるもんだ」とヘンリー・フォンダをあからさまに非難します。

ここには、ひとりの人間の生死を決する重大な局面においてさえ、議論をつくして事を決するという民主主義の前提そのものを放棄した危機的状況が一般的風潮でもあることを示唆すると共に、更に、リンチに向かって流れかねない暴走の危険を孕んだ集団に個人が呑み込まれてしまう危機感を象徴的に演出しているのだと思いました。

陪審員の一人一人が、どのような偏見を持ち、その「有罪」の心象を、どのような葛藤を経て「無罪」に変えていったのか、審理室の中だけのドラマの緊張感を息もつかせぬほどに最後まで持続し得たのは、あの最後まで「有罪」を主張し続け偏見に凝り固まった象徴的な二人の男エド・ベグリーと、リー・J・コップのあまりにも激しい差別的言語、他の陪審員を威圧し続ける脅迫と恫喝、口汚い罵り、それらすべての言葉や考え方を支える人種的偏見に真っ向から立ち向かっていったこの映画の精神の気高さがあったからだと思います。

知っている人にとっては、なんてことないのでしょうが、撮影のボリス・カウフマンについて2度驚きました。

①エリア・カザンの「波止場」54年でアカデミー撮影賞を受賞した人だということは知っていたのですが、彼が、あのジャン・ヴィゴの「新学期・操行ゼロ」33年と「アタラント号」34年の撮影監督と同一人物だったと知ってビックリです。

この伝説的な2作を監督したジャン・ヴィゴは、29歳の若さで夭折した天才といわれた人ですが、つい最近、たまたま上記の2作品とともに、ジュリアン・テンプルの「ヴィゴ」98年を見たばかりなのです。実際、驚きました。

②また、ボリス・カウフマンは、ロシア革命後の内乱の時代に前衛的記録映画作家として活躍したジガ・ヴェルトフの末弟にあたると知って、これも驚きました。

ジガ・ヴェルトフという名前だけは、ゴダールたちが商業主義の世界から手を切って映画制作運動を展開するにあたって名づけられたグループ名が「ジガ・ヴェルトフ集団」という名前だったので、その程度の知識があったにすぎませんが、それにも関係があったなんて。

解説書によれば「映画空間から文学性と演劇性を否定した記録映画運動《キノグラース(映画眼)、キノプラウダ(仏語訳が、シネマ・ヴェリテ)》は、映画の分析的側面を重視し、映画キャメラに触媒者の役割を担わせることにより現実の新たな様相を記録し、編集プロセスを自己反省的に捉えることにより、「記録」という行為を重層的にとらえようとした。」のだそうです。

ゴダールが継承したジガ・ヴェルトフ集団の活動は、上記の解説を読むと、現代の原一男の仕事にまで脈脈と続いているような感じがしますね。

③「アタラント号」34年から「波止場」54年までの間、ボリス・カウフマンは、僕の乏しい資料から第二次大戦中、連合軍の記録映画のカメラマンをしていたらしいことを除けば、何をしていたのか不明です。

これだけの才能があっての20年の空白とは、なんともミステリアスですよね。

とにかく、このボリス・カウフマンという人の生きた人生そのものが、映画の歴史みたいなものだったのですね。

全くもって驚きました。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 10:59 | 映画 | Comments(0)
いま考えてみると、ライザ・ミネリとデ・ニーロの共演なんて時代的に噛み合わないのではないかと錯覚するくらい、現在役者としてふたりのいる場所が随分隔たってしまったような印象を受けます。

例えば、このオスカーを受賞した大女優ライザ・ミネリの名前は「ぴあシネクラブ2004年版」の女優索引からは見つけることは出来ません。抹消されています。実にシビアです。

72年の「キャバレー」でオスカーをとった後、2本コケ、この次もコケたら俳優生命が危ないと言われながらの再起を賭けたMGMでの「ニューヨーク・ニューヨーク」の仕事でした。母ジュディ・ガーランドが使った同じ楽屋が使われたそうです。

デ・ニーロの方は、「ミーン・ストリート」「ゴッドファーザー part 2」「タクシードライバー」と各作に高い評価を得ている日の出の勢いの新進気鋭です。鬼才スコセッシとともに、満を持して、この作品に臨みました。

しかし、こう書いただけでも何か無理がみえみえのミスマッチであることがよく分かります。

ドラッグの濫用や、その他いやな噂もつきまとい、結局芳しくない結果となった作品でした。

ライザの自伝を翻訳した蒲田耕二氏は、その「あとがき」でこう記しています。

「ライザがどれほど心優しく、傷つき易い少女だったか、大人にとって常にいい子であるように期待され、自分の感情にブレーキをかける習慣が身についていた・・・
その平凡な少女が、ショー・ビジネスという生き馬の目を抜く世界で生きていく。
そこには当然、無理がつきまとう。
自分の本性を偽りつつ全力投球の奮闘を続けなければ芸能界の非情な競争から落伍してしまう。
ステージの上で体をくの字に折って声を搾り出すライザを眺めながら、そこに観客への奉仕精神よりも、本来の彼女と芸能人の彼女とのギャップを埋める必死の頑張り、もしくは強迫観念を見るように思った。
絶え間のない男遍歴、ドラッグの濫用など、彼女の行動は、常識的とは到底いえない。
しかし、それも、普通の女が普通でない世界で生きている矛盾の現われと見れば納得がいく。ライザがしばしば父親型の男性に惹かれ、当たりの柔らかなゲイ・ピープルと好んで交遊し、田舎の平凡な暮らしに憧れるのも根は同じだろう。」
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# by sentence2307 | 2004-11-06 10:54 | 映画 | Comments(0)
山中貞雄の世評の高い「丹下左膳・百萬両の壷」をみました。

素晴らしい映画でした。

話しの組み立て方の緻密さとテンポの良さには、驚かされました。

僕たちの知っている大河内伝次郎の丹下左膳といえば、いままで「憤怒と威厳を併せ持った形相で人気を博し、その仕草はグロテスクの域に達し、権力から放逐された存在で、挫折感とニヒリズムにさいなまれながら、とりわけ片目片腕というハンデキャップにも拘わらず、卓越した剣さばきで暗黒の世界を跳梁した。」という本による予備知識とは、この作品は全然勝手が違いました。

気のいい子供好きのただのおっさんで、子供を気遣っておろおろするところは、まさに時代を感じさせない堂々とした仕上がりでした。リメイクしようかという誘惑を感じるのも、これなら当然かな、と。

どこか「寅さん」的な魅力さえ感じました。

こうした軽目の作品をこれだけの仕上がりにもっていけるのは、並大抵の力ではできないことでしょうね。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 10:42 | 映画 | Comments(0)
この映画の解説にこんなのがありました。

「アメリカの中流家庭の崩壊状況は、もはや修復不可能。家族がばらばらになり、身動きできない倦怠感や閉塞感の中で家庭が崩壊していく悲劇を描く。見終わった後の空虚感は深い。」

でも、家庭の崩壊が、別に今始まった訳じゃなし、それに、見終わった後に空虚感しか残らないような映画が、いい映画といえます?

 「アメリカ映画が、アメリカの幸福な家族の終焉を描き切ろうとするところに、却ってかすかな救いがある。」

 いい作品らしいけど、どういいのか表現することができないまま、こんな無策な持って回った言い方しかできない。

「自国の恥部さえも描き得る民主主義の素晴らしさ」にかこつけて、批評の無力を回避しているとしか思えません。

この作品の批評は、この手の解説がとても多かったのが気になりました。

それだけの感想しか得られないのなら、いい映画と言ってはいけないんじゃないでしょうか。

でも、なんとなく、いい映画らしいことが分かるだけに始末が悪い。

再度見たこの映画、かなり性的なご乱行がすぎる内容の作品にしては、見終わった後の、やたら爽やかな印象が残るのは何故なのか、僕なりに考えてみたのです。

主要な話しの筋は、父親が娘の友達に性的に惹かれ、狂おしい妄想の果てに、いよいよSEXという時、少女から純潔と告白されて思いを遂げられず、その夜、隣の軍人に射殺されるというお話です。

少女は最初、性的にかなり経験豊富な娘として振舞っていました。

頼めば、すぐにでも「やらせて」くれそうな感じで、父親が妄想にふけってしまうのも、あながち無理な話とも思えません。

それが未経験の純潔と知って性交を諦めた訳ですが、僕は、射殺されるまでのストップモーションで描かれる彼の表情に、何か安らかさのようなものさえ感じてしまいました。

「アメリカの美徳は、まだまだ棄てたものじゃない、大丈夫だったんだ」というような。

学校や社会の中で、ともすると僕たちは、自分を大きく見せようとしたり、世慣れていると見せるために、強がったり虚勢を張ったり嘘をついたりして、仲間内の力関係の中でできるだけ自分の位置を有利なものにしようと努力します。

でも、本当の自分は、もっと卑小で無知で素朴なのはずなのです。

あの少女は、性的に未経験であることをダサイと見る現代の風潮の中にあって、世間の目から「純潔」をカモフラージュするために、「淫蕩」の振りをするしかなかったのかもしれません。

現代の真っ只中で生きるあの少女は、そういう方法でしか彼女の純潔を守るしかなかったのかも。

気高いレディが持つ「貞節」という美徳が、形を変えてもまだまだしっかりとあるんだという僕なりの「アメリカン・ビューティー」の言葉の訳を考えてみました。

たとえ見当違いの曲解でも、こういうのって「市民ケーン」の薔薇の蕾の謎解きみたいでとても楽しいですね。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 10:35 | 映画 | Comments(0)

暴力脱獄

最近は、原題の横文字をそのまま使うことが多くなりましたが、とんでもない邦題をつけて顰蹙をかうよりは、まだ罪は軽いかもしれません。

でも、こう横文字をそのまま使うことで、作品に対するイメージが幾分薄れてしまったのではないかという気持ちも片方にあるのは、きっと素晴らしい邦題も多いからでしょう。この話は、「安直な原題の流用に偏りすぎるのはいかがなものか」みたいな意見とツイで論じられることが多いのはそのためだと思います。

例えば、スチュアート・ローゼンバーグの「Cool Hand Luke」を「暴力脱獄」と暴走ぎみに意訳した感覚には、手放しで敬服しているひとりです。

「平時」にあっては、とても普通の感覚では考え付かない命名だと思いませんか。

内容からは、遥かにかけ離れたこのタイトル「暴力脱獄」は、なにしろゴロがいいです。

何となく「暴力革命」という超危険な語感を連想させ、思わずゾクゾクッときてしまう、あの感覚ですよね。

世界的な潮流を受けて日本の学生たちも叛乱に向けて徐々に動き始めた1967年というまさにそういう時代につけられたタイトルに僕たちは不思議な胸騒ぎみたいなものを感じたのだと思います。

そして、この叛逆のテーマを演じ続けてきたポール・ニューマンという俳優が、不服従という反抗を貫き通すことによって、ひるむことなく魂の自由を求め続け、そのためには破滅さえ厭わないのだという演技をデビュー以来一貫して演じ続けてきたことに対する共感でもありました。

アクターズ・スタジオ出身の演技者としてモロに意欲をみせようとしたテネシー・ウイリアムスものや円熟の域に達したといわれる最近のキュートな作品もそれなりの意味があるのかもしれませんが、やはりなんといっても「傷だらけの栄光」から始まって「暴力脱獄」で完結する一連の系列の作品こそポール・ニューマンらしい役どころがあるのだろうと思っています。

しかし、「左ききの拳銃」、「ハスラー」、「ハッド」など、アンチヒーローと呼ばれたそれら主人公像は、当時、NYアクターズ・スタジオ出身の先輩マーロン・ブランドのコピーにすぎないと書き立てられ、ポール・ニューマンもそのことを随分嫌がっていたという記事を読んだことがあります。

同じスタジオで演技指導を受けたので似た部分があるのは仕方のないことだったのか、あるいは、芸能ジャーナリズムが勝手に作り出した単なる偏見にすぎなかったのかもしれませんが。

例えばこの「暴力脱獄」の惚れ惚れするような一場面、どうにもならない絶望的な状況に追い込まれ窮地に立った時に、ルーク=ポール・ニューマンが浮かべる敵を更に挑発するようなあの「不敵な薄笑い」を指すのでしょうか。

ごく初期のマーロン・ブランドも確かに人を小馬鹿にしたような薄笑いを常に浮かべていましたが、ポール・ニューマンが演じようとしていた反逆者とはまるで違う場所を目指していたと思います。その表れのひとつが「暴力脱獄」だったと思います。

内容的には、邦題のタイトルから受けるイメージ「暴力による脱獄」という印象は、ちょっと違うかなというのは、この映画、むしろ「脱獄」に失敗して捕まる度に「暴力」をふるわれるというのがこの作品のストーリーだからです。

看守たちのリンチに耐え、怯むことなく、なおも自由を求めて脱走し続けるというガッツが描かれていて、まあ、殴られて耐えるのを「ガッツ」といえるかどうかは分かりません。

むしろ、後年主演男優賞争いで敗れる「ガンジー」の無抵抗主義を思わせてしまうあたりは皮肉ですが。そして、ルークの前には、絶対的で強力な権力を持っている所長や看守たちが立ち塞がり、どうすることもできないという絶望的な状況がそこにはあります。

刑務所という国家権力の武力装置システムに「拘束する」という強制を、「脱獄」する手段で対抗する権力者を辱める反抗の姿勢はマーロン・ブランドでさえ持ち得なかった演技の深みがあったのだと思います。

再三の脱獄に失敗し、懲罰房に入れられて徹底的に痛みつけられたルークは、その後、看守たちの走り使いなどをして、権力の暴力に屈したかに見え仲間から軽蔑の眼差しでみられる場面などもあるのですが、しかし、それは、再度の脱獄の可能性を残すためも無抵抗のカモフラージュだったことが後で分かり、囚人仲間がルークのガッツにあらためて感嘆するという場面なども用意されています。

あの軽蔑と感嘆の振幅のなかには、不服従の弱さのイメージと信念を貫き通す強さのイメージとを、あえて同列に置いてみせた設定が、とても新鮮に思えました。

俳優としてのポール・ニューマンの生き方も髣髴とさせるものがあります。

しかし、ただそれだけで、この「暴力脱獄」が、伝説の映画たり得るための要件を満たしているとは思えません。

この映画の魅力は、なによりも、ルークを、「今は亡き」既に伝説の中の男、囚われの男たちの「希望」そのものとして描いているところにあったからだと思います。

ジョージ・ケネディが遠い目をして「いまは亡き彼の伝説」を話し始めるあの郷愁のニュアンスです(この演技でジョージ・ケネディはアカデミー助演男優賞を獲得しています。)。

クールなルーク(coolとlukeじゃスペルが違うので洒落じゃないと思いますが)の物語が語られ始めるとき、それは既に遠い思い出の郷愁のなかで語られるジョン・フォードの「わが谷は緑なりき」とかロバート・マリガンの「アラバマ物語」の、あのなんとも知れん感覚を思わせますね(ここはどうしても淀長さん風でやらないと感じがでません)。

失われたものを振り返るある胸が締め付けられるような郷愁に満ちた思い出の中に生きるルークの薄ら笑いが、負け惜しみの薄ら笑いではなく、彼の後を着いて行きたくなるような生きること自体にすこぶる挑発的な薄ら笑いなのだなとそのとき思いました。

しかし、あの役を、もしマーロン・ブランドとかデニス・ホッパーがやっていたら、観客をこんな深い思いに導くカリスマ性が演じられたかどうか、疑問だと思います。

ポール・ニューマンは、つねづね、まずスターであるよりも、アクター(演技者)であるとともに、家庭を大事にすることを心がけていると公言し、自他共に「最も偉大な普通人」と呼ばれていることは有名でした。

ハリウッド的な考え方を嫌い、愛想も振り撒かないし、サインもしない。

東部に住居を構え、ハリウッドに反旗を翻しながら、しかし、追放される(デニス・ホッパーのように)こともなく、作品を選び続けられる位置を確保している(彼が拒否した作品として知られているのが「オール・ザット・ジャズ」「普通の人々」「ロマンシング・ストーン」です)。

これは、大変なことだったと思います。

こういうギャップが、彼を「本当の大人」に見せてしまうのでしょうか。

しかし、僕の場合も、かつては、優等生のポール・ニューマンよりも、永遠の問題児デニス・ホッパーが好みだと言って仲間内でのウケ狙いに走っていた時期もありました。

しかし、タイプがまるで違うこのふたり、実は共通していることがあります。

それは、共にブロード・ウェイのアクターズ・スタジオで学んでいること、そして共にジェームズ・ディーンに逢っていること、そして両極端という意味でハリウッドのスターらしからぬことでしょうか。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 10:21 | 映画 | Comments(5)

戦争と平和・亀井文夫版

「戦争と平和」とはいってもヘップパーン主演のあの超大作の方ではなく、亀井文夫が山本薩夫と組んだ初の劇映画です。

夫が戦場で行方不明となるという同じシチュエーションから物語はスタートします。

妻は夫が死んだものと諦めて夫の親友(負傷し復員して療養しています)と再婚します。

しかし、再婚相手(池部良)は空襲にあった際、戦場で晒された死の恐怖を蘇らせて精神の異常を来たしてしまいます。

池部良の迫真の演技でした。

夫は中国から帰還すると、妻が自分の親友と再婚しているばかりか、その友は精神に異常をきたしているのを見てショックを受けます。

悩みぬいた末に「総ては戦争が悪いんだ」と、自分が身を引くことを決意し、なんとか友を快癒させようと友の入院を勧めているとき、池部は狂気のためにミシンを踏み続けながら誤って針を指に突き通し、激痛で正気に戻りますが、この狂気に囚われていた自分の伺い知れない空白の間に、妻と前夫の関係を疑い悩みを募らせていきます。

ここまでくると、話しはもうどろどろの泥沼状態です。

あのイタリア映画「ひまわり」に描かれているような悲しく切ないけれど、しかし同時にどこか爽やかな感じさえ受けるその違いが一体どこにあるのか、きっと、相手を愛する自分の気持ちの強さの確信の違いなのだろうと思いました。

日本の「どろどろ組」にとっては、愛するという行為は、あくまでも二の次、三の次で、いつも何かが優先していたのだと思います。

それが「戦争」だったかもしれないし、「革命」とか「生活」だったかもしれないけれど、少なくとも「愛」ではなかったのだと思いました。

池部良が、妻を疑い、苛立ちから彼女を殴りつける場面に続いて、母をかばう子供をマジでどつき倒す描写にこの映画の精神のあり方の総てが描き出されていました。

この作品の作り手たちが最優先で信じていた「革命」や彼らの「平和」が、少なくとも、愛する夫からいわれのない屈辱的な疑いをかけられたり、目の前で母親が暴力を振るわれているの見せ付けられる惨状など、「革命」の前ではたいした問題ではない最優先の大儀を有していることが良く分かりました。

少なくても「愛」などではないらしいということが。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 08:30 | 映画 | Comments(0)

あまりにも愚かで、ザンパーノの大道芸の手伝いも満足に出来ずに落ち込んでいる失意のジェルソミーナを、道化のキ印は、「この地上の物で役に立たない物など何もないさ。この石だって何かの役に立ってるんだよ」と、励ます場面があります。

ジェルソミーナが、初めて人間として扱われ、自信をもつ重要な場面です。

ザンパーノにとっては、性欲の対象(それも「女」としてというよりも、まるで「便器」のような)でしかなかった自分を、ひとりの女性としてザンパーノに認めさせようとまで決意させたこの希望に満ちたシーンが、やがてくるキ印殺害の衝撃を更に大きなものにしています。

その純真さゆえに、殺人というあまりにも残酷な出来事に耐え切れず、心を閉ざした廃人のように泣き続けるジェルソミーナに手を焼いたザンパーノは、彼女をその場に置き去りにしたまま立ち去ります。

そして、ラスト。映画史に残る名シーンです。

寒々しい海辺の町に流れてきた今ではすっかり老いさらばえたザンパーノは、そこで自分がかつて捨てたジェルソミーナがいつも口すさんでいた歌を耳にし、歌っている洗濯女に訳を尋ねます。

その女は、気のふれた乞食女が泣きながら惨めに死んでいったこと、それでも気分のいい時には、呟くようにこの歌を歌っていたのだと言います。

やがて夜更け、荒れすさみ、絶望の中で泥酔したザンパーノは、喧嘩の果てにさまよい出た夜の海岸で泣き崩れます。

ただ欲望と快楽にのみ空費し、あと僅かしか残されていない無意味な人生が残酷な罰のようにザンパーノにのし掛かってきます。

一瞬のうちに過ぎ去った人生という儚い時間に対しての驚愕と後悔。

そしてあまりにも大きすぎる失ったものへの恐れ。

途切れるように不意に終わるこのラストには、安易な救いなどどこにも見つけ出すことの出来ない、フェリーニの突き放した人間へのやりきれない絶望感しか感じられません。

ザンパーノの死後も、あの洗濯女は、いつまでもあのメロディを口ずさむのでしょうか。

キ印もジェルソミーナもザンパーノも、そして彼らを知る総てのものが死に絶え、哀しいこの物語の記憶が人々から失われても、ジェルソミーナが愛した美しく物悲しいあのメロディだけが、いつまでも人づてに空しく生き続けていくことの残酷を思うと、何だか胸苦しくなりました。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 08:09 | 映画 | Comments(0)