世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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アシッドハウス

様々なコピー作品を生み出した「トレインスポッティング」の衝撃の影響下から完全に解き放たれるだけの力ある作品を、残念ながら僕たちはまだ手に入れていません。

時代の袋小路に迷い込み、息苦しいような閉塞感の優れた描写の到達度は、かつて見た映画のどれかと比較し「情緒」で片付けてしまうには、何かもうひとつ言葉で認識できないものがあります。

この「アシッドハウス」は、「トレイン・・・」の原作者アーヴィン・ウェルシュの短編集から3話を映像化したオムニバスです。

この3話、どの話も半端じゃありませんが、特に第1話「ザ・グラントン・スターの悲劇」が超過激です。

なんの不自由もなく気ままに暮らしていた青年ボブが、ある日たて続けに、まず所属していたサッカーチームを辞めさせられ、恋人には去られ、職も失い、両親の家からも追い出されてしまいます。

そして自暴自棄になって、パブで飲んでいると、神と出会い、その怠惰を非難された挙句に「蠅」にされてしまいます。

蠅になった彼は自分を馬鹿にした奴らに復讐を始めます、しかし、その復讐とは、汚物や糞の中を這いずり回り(怨みに思う奴らを食中毒にさせるためです)、挙句の果てに叩き殺されるという、なんとも救いのない散々なもので、カフカもその品のなさにはビックリでしょう。

さて、この話の中で最も強烈なのは、ボブが両親から家を出て行くように申し渡される部分でしょうか。

両親は、ボブが同居しているために夫婦のいとなみが十分にできず欲求不満を募らせています。

早く夫婦水入らずの生活をし、夫婦の危機を乗り切りたいと彼らは考えています。

そのためにはボブの同居は、具合が悪いのです。

しかし見たところ、もうそんな年でもあるまいにと思うくらいの老齢なのですが・・・と、高を括っている観客の意表を突くような物凄い地獄絵が展開したのでした。

苦悶に歪む表情の父親が、お尻丸出しで暖炉の縁に手をついています。

その後ろから覆い被さるように母親が、父親の苦悶の表情を舐めるように観察しながら、かすかに体を動かしています。

とてもヤバイ雰囲気です。

母の詰問に答え、父親が学生の頃好きだった級友たちの名前を挙げています。

お仕置きプレイなのか、それともそれが彼らの青春を懐古する儀式なのか、やがて電話が鳴り行為を中断した母親が受話器を取ながら、腰から外したものは、なんと、あの大奥のお局様たちが独り寝の寂しさを慰めたという「例のもの」でした。

おいおい、という感じです。

恋人と連れ立ってこの映画を見に行った人は、さぞかし災難だったろうと同情します。

そんなにまでして乗り越えねばならない夫婦の危機とは一体どんなものなのか、倒錯した性生活の深みに嵌っていく夫婦がとてもじゃないが正視に耐えるものではないのは、それが風景として無残だからではなく、そうまでして持続しなければならない関係として残酷だからです。

2話も3話もこのテンションは些かも衰えません。

なんともやりきれない気持ちになる片方で、優れた悪夢を見せられたような充足感に満たされたのも事実でした。

これだけ感情移入を許さない人物を次々に見せ付けられると、ドラッグとセックスとパブとサッカー漬けになっている彼らの世界から、無意識に距離をとっている自分に気づきます。

そして、その距離こそ、作者がこの物語を書くにあたり必要とした同じ「距離」なのではないかなと思えてきました。

その距離が、主観から僕たちを遠去け冷静さを保たせながら、「過激」とか「衝撃的」とかというコピーによって見えにくくされてしまったイギリスの若者たちの姿を少しは見え易くしてくれているのかな、と思えてきました。

この映画の持つ途轍もないエネルギーに終始圧倒されながら、1話を書くだけで全精力を使い果たし、もはや、2話「カモ」、3話「アシッドハウス」を書く余力を失いました。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 11:58 | 映画 | Comments(0)
戦前から戦後にかけて喜劇王の名をほしいままにした斎藤寅次郎作品、そして美空ひばりの出世作ということで長い間見るのを楽しみにしていた映画です。

やっと見ることかができました。

というのも、山田洋次監督が「男はつらいよ」の主役・車寅次郎を命名するにあたって斎藤監督を強く意識したに違いないと思い込んでいたことや、そのほか折にふれ、その自由奔放な卓越したギャグの数々をまるで伝説のように伝え聞いていたからでした。

しかし、実際の作品を見て、本質的な部分で山田作品への影響はないと感じました。

山田洋次のもつ湿度のあるヒューマニズムでは、このハチャメチャでアナーキーなブラックユーモアをカバーするには、どうしても限界があると思います。

むしろ、人間をもっと辛辣に見据えた川島雄三や北野武に繋がるのではないかなと思いました。

この作品の中には、貧しいアパートの子供たちや浮浪児など実に数多くの子供が描かれており、そのなかの1人として母を病気で亡くした身寄りのない少女・美空ひばりが描かれています。

映画の前半は、流しの川田晴久が押し付けられた子供をどうやって体よく棄てるかを算段する描写に費やされ、そこには、自分の生活にさえも窮しているのに、なおも背負い込まなければならない子供をあからさまに厄介者と忌避する時代的な感覚が存在します。

チャップリンの「キッド」とは本質的に異なるものがあります。

「人間愛」という立場があるとするなら、しかし、その人間認識、社会認識をあまりにも甘すぎると冷笑し、あえて、シビアなブラックユーモアをことさらに描きつくそうとする失意や絶望から苛立ちや憤りに至る感情の在り方というものもまたあり得るのだなと、何となく分かってあげたくなる気がします。

賞金欲しさにひばりを誘拐する榎本健一演ずるにせ易者も、冷静に考えれば不気味な存在ですよね。

斎藤寅次郎監督は、「男はつらいよ」シリーズが日本映画史上空前の大ヒットを始めた頃、長年称してきた「寅次郎」をやめ、本名の「寅二郎」を使うようになったということです。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 11:54 | Comments(4)

木下恵介「陸軍」

木下恵介は、黒澤明と同じ年に新人監督賞を得て注目されてスタートしました。

男性的な豪快さの黒澤と、女性的な繊細さを有する木下は、資質的には好対象ながら、共にその才気煥発と明晰な資質は他を圧するものがあったのだと思います。

木下恵介の「香華」を見たときに、この人の演出力のただならぬものを感じました。

男にだらしない淫乱な母親に振り回され、憎しみながらも、その母に寄り添って生きた娘の一生の話です。

有吉佐和子の名作ですが、ただ、僕はその原作への忠実さが少し気になりました。

もちろん、偉大な演出力がなければ、あそこまでは撮れません。

それを踏まえても、あえて言えば、時としてその器用さが災いすることもあり得た映画監督だったのじゃないのかな、という印象がありました。

例えば、黒澤明の力強さから派生する無骨さ不器用さを見るとよく分かると思います。

登場人物の一人一人が魂の底から自らの存在価値を、身を震わせるようにして問いかけます。

カメラは、心臓が脈打つように縦横に彼らの周りを踊り狂います。

黒澤作品の強烈なリアリズムは、自ずから見る者を厳しく選び、いずれにしても観客として好悪をはっきりとさせない中途半端な立場は許されません。

多分、それが熱烈な黒澤ファンを産むと同時に、忌避する層をも明確に生み出していったのだと思います。

しかし、木下恵介の作品は、それ程の厳しい選択を強いられることもなく、感動する質も他人との差をそれ程感じることなく、鑑賞することができるような気がします。

そのことを強烈に意識したのが、木下恵介が戦時中に撮った「陸軍」でした。

黒澤明が同時期に撮った「三四郎」や「一番美しく」と何となく比較してみました。

共に軍部の干渉を強く受け、またそのことを十分に意識した作品です。

それらの作品に登場する主人公、三四郎や軍需工場で働く女子挺身隊の少女たちは、自らの技をみがくことや、課せられた職務を誠実に果たしていこうとする行為を通して自分を高めようと努力します。

自分の足元をしっかりと定め、自分らしく納得して生きていくことが必要なんだ、こんな時代だからこそ、とでも言っているようです。

まるで過酷な時代に耐えて生きていくための一種のニヒリズムとでもいえばいいのでしようか。

木下恵介の「陸軍」は少し趣きが異なります。

「陸軍」は、代々軍に仕えてきた一族の話です。

立派な軍人になることが、一族の勤めであり誇りだと、繰り返し映画の中で語られます。

軍人として立派に死ぬことが求められていることを、折りあるごとに息子に言い聞かせます。

この作品を見ていて、そこまで軍部におもねらなくてもいいじゃないか、と思うくらい露骨な描写が続きます。

ラストシーンで、出征する息子を見送りながら母親が泣くシーンが軍部の怒りをかったことは、あまりにも有名な逸話ですが、そのことで彼の反戦思想を云々するのは、あまりにもかいかぶりにすぎるのではないかなと、その極論を危惧します。

多分、あの場面においてもかれは、ただ単に演出の工夫を凝らして才能豊かに泣かせ所を考えただけなのに、それに軍部がクレームをつけるなんてあんまりだという気がしたのです。

あれだけ軍部を持ち上げてあげたのに、ただその一箇所で木下の媚びを退けるなんて、と。

おそらく彼は、卓越した演出家であっても、看板だけの人道主義とか観念的な平和主義とかには無縁の人です。

常に庶民の感覚から総てを推し量り、それに沿って原作を選択する嗅覚というか能力に長けた人だったのだろうな、と思います。

しかし、あの過酷な時代に、どうにか映画を撮り続けようとした多くの映画人にとって、とにかく不幸な受難の時だったわけですから、それをとやかく言うことはもとより無意味です。

むしろ、踏絵を踏むことで撮ることが許されるなら、「陸軍」を撮ることは、映画人としては当然の選択だったと思います。

時代と密接な関係をもつ映画の宿命として、「陸軍」をとおして木下恵介を考察することは、それなりに意義あることと信じていますが、そこには、「二十四の瞳」を撮った木下恵介のイメージからは若干のズレをみせている別の木下恵介がいるかもしれないこともまた事実なのです。

そして、それもまた隠蔽したり否定すべきことではないと思っています。

木下恵介のような才人も、時代にがんじがらめに囚われ、無様に足掻きながらも必死に生きる途を模索した姿を晒したあの「陸軍」が戦争協力映画だろうとなんだろうと、彼は「陸軍」を撮り「二十四の瞳」を撮り、そして「楢山節考」を、そのどれをも、彼は「上手」に撮ったのです。

そして、それが彼の生き方だったのです。

そんなふうに感じました。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 11:50 | 映画 | Comments(2)

無法松の一生

とても迂闊でしたが、長い間、2作あるこの作品を、単なるオリジナルとリメイクの関係程度にしか思っていませんでした。

しかし、この作品が戦時中と戦後の2度にわたり時の為政者によって検閲の受難にあった「いわくつき」のものであることを始めて知りました。

43年に作られた阪妻版は、内務省から「車夫のごとき無学粗暴の輩が、大日本帝国陸軍将校の未亡人に懸想するなどもってのほか」と、約10分43秒にわたりカットされたそうです。

本作を限りなく愛した山田洋次が、この作品のパロディを様々な形で使っていることはつとに有名ですが、なかでも削除の憂き目にあったラストの未亡人への断ち切れぬ思慕の情を胸に秘めたまま別れを告げに来る場面が、確か「男はつらいよ・私の寅さん」のラストでそのまま使われているのに驚いた記憶があります。

改めて撮られた58年の三船版ではGHQにより戦前の封建思想を賛美するような部分(小学唱歌青葉の笛を歌う場面、日露戦争大勝祝賀の提灯行列の場面等)が、約7分カットされたそうです。

おそらく、阪妻版を撮った稲垣浩監督にとって、この映画の命ともいえるラストを削られたことが何よりの痛手であったろうことは、戦後再びこの映画を作ったことで推測できます。

自分を理解し、愛してくれた吉岡大尉の死後、残された母子を献身的に見守り続けながら、ひそかな未亡人への恋情を告白することもなく(わずかに「俺の心は汚い」と未亡人に恥じ入りながら語り掛けた言葉が愛の告白といえば、そうなのですが)、雪の日に死んでゆきます。

愛の告白はおろか、恋情を抱くことさえ恩人に対する裏切りであり、恥ずべき行為と考えた松五郎の哀しい程の実直さに胸が痛みます。

ラスト、残された彼の荷物の中には、長年月、未亡人から貰った封も切らないままの祝儀袋や、「ぼんぼん」名義の貯金通帳が発見されます。

未亡人から貰った物ひとつひとつを、松五郎がどれ程大切に受け止めていたか、未亡人への一途で純粋な気持ちが一挙に判明し、それと知った未亡人が泣き崩れる感動的な場面です。

自己抑圧と禁欲的な献身というものが、いかに美しいものか、この映画でなら抵抗なく受け入れることができました。

三船版は、58年のヴェネチア国際映画祭で金獅子賞をとりました。

既に阪妻は、亡くなっていましたが、もし生きていて再度阪妻でこの映画が撮られていたら、また別の日本的な国際スターが誕生していたかもしれませんね。

同年の審査員特別賞は、ルイ・マルの「恋人たち」でした。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 11:46 | 映画 | Comments(0)
映画を見るとき、評判には出来るだけ影響されないように気をつけている積りなのですが、この作品はモロ先入観を持ってしまい、見るまでにこんなに時間がかかりました。

否定的な評判なら、きっと反撥もあってすぐにでも見るのに、あまりにも絶賛されると、なんか二の足を踏んでしまう変な癖があるのですね。

でも、見て良かった。

否定的な評価の中には、ベニーニの軽すぎる演技や、熾烈な歴史的事実を前にして、「たかが」自分の子供のためだけに、その場しのぎの嘘を重ねて現実を直視しない態度を疑問視する評を読んだこともありました。

でも、それが、ベニーニの描き方なのだと思います。

アラン・レネなら、ナチスのユダヤ人虐殺の犯罪行為を、目と口をぽっかりと開けたゴム人形のようなユダヤ人の夥しい死体の山の衝撃的な映像を日常的に見せてしまうことで告発したと同じように、ベニーニは、たったひとりの子供の命を守るために必死に道化て、嘘をつき通すことの滑稽と悲哀で、かけがえのない子供の命を守ることへの執着を描いて、虫けらのように殺していったその一人一人にこそかけがえのない家族がいて、生きることを願った人達がいたこと、そういうもの総てを踏み躙った犯罪性を、レネが描いたのと同じような重厚さでナチスの犯罪行為を告発したのだと思います。

一人の人間の命の尊さや、家族への愛は、レネが撮った死体の山の衝撃的な映像に些かも見劣りすることのないほどの匹敵するものと感じました。

アラン・レネは、言ってます。
強制収容所を撮った「その現在」は、映画が撮られた時点であるとともに、あらゆる時代の観客がその映画を「見る」時のそれぞれの現在なのだ、と。

レネが、人間の命の尊さを夥しい量の衝撃的な死体の量の映像でみせたのと同じように、ベニーニは、たった一人の子供の命をも守もろうとした哀しい奮闘を描くことで、「ベニーニの現在」から彼自身の語り口をもって、ナチスの犯罪行為を告発したのだと思います。

ラスト、グイドが射殺されるあまりにも素っ気無い描写が、その直前、子供の視線を意識して、生きる希望を与えるために道化た身振りをする父グイドの残像が消えやらぬ直後に描かれているだけに、僕たちの心に彼の、グイドの、ベニーニの生き方が、なおさらに深く印象付けられたのだと思いました。

アカデミー主演男優賞、外国語映画賞、作曲賞、カンヌ国際映画祭グランプリを受賞した作品です。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 11:43 | 映画 | Comments(0)
「ハンニバル」と「ワンダフルライフ」を見ました。

「ハンニバル」は、レクター博士をアイドルみたいに描いてしまって、ぶち壊しですね。

「異常」なりの納得させるだけの論理が描けなければ、単なる怖いもの見たさの悪趣味なグロテスクに陥ってしまうというこの作品は好例だと思いました。
「羊たちの沈黙」が泣いてます。

是枝裕和の「ワンダフルライフ」には、感心しました。

デ・シーカとかヴェンダースとかを引き合いに出して、何か一言いってみたくなるような佳作です。

死者たちが、一番大切な思い出を選び、それを持って天国へ旅立つ、という荒唐無稽ともいえる設定のその裏側には、そのために忘れられてしまう思い出とともに置き去りにされる人間もいるのだ、という視点もちゃんと取り込んだシビアな作品です。

すっかり忘れていましたが、そういえば、荒唐無稽でなければ伝わらないこともあるのだという大切なことを、僕たちは映画を通して幾度も経験してきたはずでしたよね。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 11:40 | 映画 | Comments(0)
「みじかくも美しく燃え」きれいなラストシーンで、よく覚えてます。

でも、1度見ただけで、以後チャンスがあっても見なかった理由は、ままごとのような生活感のない心中が、死ぬくらいなら、もっと生きようとする努力もあり得たんじゃないかという思いが強かったからかも知れませんね。

本当は、その「儚さ」が、この映画のテーマだったのにね、無粋な先入観てホント怖いです。

美しい映像で思い出したのですが、ピーター・ウィアーが、まだブレーク前にオーストラリアで撮った「ピクニック・アット・ハンギングロック」(75)という実際に起こった女生徒失踪事件を扱った作品ですが、美しく神秘的で、少し怖いです。これは、オススメです。

それに引き換え「心の旅路」は、何度も繰り返し見ている作品です。

たとえ夫が記憶喪失でも、形だけは以前と変わらない平穏な生活を取り戻したのだから、それはそれでいいじゃないかと思ってしまう僕のいい加減な「常識」を超えた愛のつきつめ方に感動しますが、今度は喪失中の自分の失われた記憶に苦しめられないかなと、つい考えてしまいます。

「ミニヴァー夫人」とこの「心の旅路」は、良妻賢母型の知性と気品でMGMの看板スターの名を欲しいままにしたグリア・ガースンの代表作です。

監督のマービン・ルロイは、「哀愁」や「若草物語」など女性映画の巨匠として知られていますが、「悪い種子」(56年)というスティーブン・キングを思わせるような異色作もあります。

キングのインタビュー本に同じ題のThe Bad Seed という本がありますから、どこかで繋がっているのかもしれませんが、分かりません。

とにかく、この作品、二人が、それぞれの絶頂期に撮られた稀有な傑作だと思います。僕も大好きです。

「心の旅路」のことを考えていたら、意外にも、大島渚「絞死刑」との関連に気がつきました。(かなり、強引ですが)

妻が夫の記憶を取り戻させようと、あれこれ苦心するところ、この作品と構造的になんか似てませんか。

心神喪失に陥った死刑囚に記憶を取り戻させる(刑訴法479条)ために、刑務所長や検事や医師が、事件の模様や、そのような犯罪を為すに至った背景として社会的差別の中で歪んだ人格が形成されていった過程を、権力執行を担う官吏たちが寸劇で演じてみせるという茶番を通して、日本国家に公然と存在する諸矛盾を告発した記念すべきATG最初の一千万円映画でした。

しかし、「心の旅路」に「絞死刑」を繋げるのは、やはりちょっと無理がありますよね。

ついでに、通勤電車の中で「哀愁」のことを考えていました。

娼婦にまで堕ちたヴィヴィアン・リーが客引きをしている駅で、帰還してきたかつての恋人ロバート・テイラーを見つける場面です。

その、驚愕・歓喜・そしてすぐに困惑と不安に表情がくもり、その一瞬に総ての感情が交錯する彼女の複雑な心理の移ろう模様が描かれる名場面です。

役者なら一度はやってみたいの魅力的な設定での演技ですよね。

つい、僕も、驚愕・歓喜・困惑の順に表情を動かしてしまいました。

隣に立っていたOLが少しずつ遠ざかっていきました。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 11:32 | 映画 | Comments(0)
ロシア革命によるロマノフ王朝崩壊のとき、ニコライ2世の一族が銃殺刑に処せられたのですが、しかし皇女アナスタシアだけが奇跡的に生き残って逃れ、どこかで生存しているらしいという風聞がこの物語の発端です。

皇女を発見すれば、莫大な賞金が手に入るとあって、金目当ての山師たちが幾人もの偽の皇女を仕立て上げ亡命中の皇太后に接見させます。

皇太后にすれば、たとえ、ほんのわずかな可能性でも皇女の生存を信じたいというその思いから、露骨な金目当ての多くの偽者に会うことを断ち切れず、その度に失望し、やがて今では不信感で頑なに心を閉ざしている傷心の様子が痛ましい程の見事な演技で伝わってきます。

皇女の死を信じたくない、という思いが、逆に金目当ての浅ましい悪意に自分を晒す結果となっているのです。

そんな中でのバーグマン演じるアナスタシアとの接見となるのですが、珠玉のような素晴らしいシーンでした。

皇太后は頭からバーグマンを信じていません。バーグマンが、いままで孤独だった分、やっと会うことができた血縁者に愛を求める言葉をいかに尽くしても、それが、切実な心情を吐露すればする程、皇太后は言います、「みごとな演技だ。金が欲しいのならあげよう」と。

他人の悪意に傷ついた人間が、二度と人を信じまいとする時、あらゆる言葉は無力です。そして、更に拒絶されたバーグマンは、崩おれ咳き込みます。

「おびえると、咳がでる癖があるのです」と言うと、それがアナスタシアであることの証しとなるのです。

傷ついた人間同士が、自分の心の鎧を必死に脱ぎ捨てて触れ合う感動的な素晴らしい場面でした。

イングリット・バーグマンが、総てを棄ててロッセリーニの元へ走ったとき、いとも簡単に彼女に棄てられたアメリカ映画界にとっては、あらゆる意味で当然侮辱されたと感じたに違いありません。

タテマエは、その不貞行為に対する非難でしたが、アメリカは、以後彼女をボイコットしました。

そのロッセリーニと組んだイタリア時代のバーグマンの作品は、一般には芳しくない評価しか得られませんでしたが、それは、二人の過去の実績に照らしてのことで、僕は、それぞれがとても素直で好感の持てる作品だと思っています。

まあ、そこは、バーグマンを中心に据えた女性映画ということになりますから、ソフィスケートされた分だけ、ロッセリーニ・リアリズムを期待した観客には物足りない感もあったのでしょうが、例えば「ヨーロッパ1951年」など、とてもいい作品だと思いました。

現実のぬるま湯的環境から、自己変革を求めてもがき苦しむ上流階級の主婦が、結局行き場を失い、禁治産者=精神異常者として収容所に拘禁されてしまうという映画でした。

心情はよく分かりました。バーグマンが、ハリウッドでは、決してできなかったこと・演じてみたいと思っていたことが、多分こういうふうな役柄だったろうとは想像はできます。

しかし、一方で、こうした役をいくら懸命に演じたとしても、積み上げてきた過去の実績というものも現に残酷なくらいに生々しくそこに「あった」のでした。

「追想」は、バーグマンのアメリカ映画界復帰第一作、この作品で2度目のアカデミー主演女優賞を受けることとなります。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 11:23 | 映画 | Comments(137)

十二人の怒れる男

この映画を単に「死刑になったかも知れない父親殺しの容疑のかかった少年を12人の陪審員が議論を尽くして、その無実を証し立てた。」と一言で片付けてしまったら、この作品の持つ本質的な意味を見失うと思いました。

少なくとも、少年は有罪となって電気椅子に送られていた可能性もあり得たことを念頭において見るべきなのではないか、と。

ヘンリー・フォンダが、少年の運命を議論もせずに性急に決めてしまっていいのか、と無罪を主張すると、他の陪審員は「早いとこ、有罪の評決を出して、さっさと切り上げようや」とにべもなく言い放ち、更に「どこにも、ヘソ曲がりはいるもんだ」とヘンリー・フォンダをあからさまに非難します。

ここには、ひとりの人間の生死を決する重大な局面においてさえ、議論をつくして事を決するという民主主義の前提そのものを放棄した危機的状況が一般的風潮でもあることを示唆すると共に、更に、リンチに向かって流れかねない暴走の危険を孕んだ集団に個人が呑み込まれてしまう危機感を象徴的に演出しているのだと思いました。

陪審員の一人一人が、どのような偏見を持ち、その「有罪」の心象を、どのような葛藤を経て「無罪」に変えていったのか、審理室の中だけのドラマの緊張感を息もつかせぬほどに最後まで持続し得たのは、あの最後まで「有罪」を主張し続け偏見に凝り固まった象徴的な二人の男エド・ベグリーと、リー・J・コップのあまりにも激しい差別的言語、他の陪審員を威圧し続ける脅迫と恫喝、口汚い罵り、それらすべての言葉や考え方を支える人種的偏見に真っ向から立ち向かっていったこの映画の精神の気高さがあったからだと思います。

知っている人にとっては、なんてことないのでしょうが、撮影のボリス・カウフマンについて2度驚きました。

①エリア・カザンの「波止場」54年でアカデミー撮影賞を受賞した人だということは知っていたのですが、彼が、あのジャン・ヴィゴの「新学期・操行ゼロ」33年と「アタラント号」34年の撮影監督と同一人物だったと知ってビックリです。

この伝説的な2作を監督したジャン・ヴィゴは、29歳の若さで夭折した天才といわれた人ですが、つい最近、たまたま上記の2作品とともに、ジュリアン・テンプルの「ヴィゴ」98年を見たばかりなのです。実際、驚きました。

②また、ボリス・カウフマンは、ロシア革命後の内乱の時代に前衛的記録映画作家として活躍したジガ・ヴェルトフの末弟にあたると知って、これも驚きました。

ジガ・ヴェルトフという名前だけは、ゴダールたちが商業主義の世界から手を切って映画制作運動を展開するにあたって名づけられたグループ名が「ジガ・ヴェルトフ集団」という名前だったので、その程度の知識があったにすぎませんが、それにも関係があったなんて。

解説書によれば「映画空間から文学性と演劇性を否定した記録映画運動《キノグラース(映画眼)、キノプラウダ(仏語訳が、シネマ・ヴェリテ)》は、映画の分析的側面を重視し、映画キャメラに触媒者の役割を担わせることにより現実の新たな様相を記録し、編集プロセスを自己反省的に捉えることにより、「記録」という行為を重層的にとらえようとした。」のだそうです。

ゴダールが継承したジガ・ヴェルトフ集団の活動は、上記の解説を読むと、現代の原一男の仕事にまで脈脈と続いているような感じがしますね。

③「アタラント号」34年から「波止場」54年までの間、ボリス・カウフマンは、僕の乏しい資料から第二次大戦中、連合軍の記録映画のカメラマンをしていたらしいことを除けば、何をしていたのか不明です。

これだけの才能があっての20年の空白とは、なんともミステリアスですよね。

とにかく、このボリス・カウフマンという人の生きた人生そのものが、映画の歴史みたいなものだったのですね。

全くもって驚きました。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 10:59 | 映画 | Comments(0)
いま考えてみると、ライザ・ミネリとデ・ニーロの共演なんて時代的に噛み合わないのではないかと錯覚するくらい、現在役者としてふたりのいる場所が随分隔たってしまったような印象を受けます。

例えば、このオスカーを受賞した大女優ライザ・ミネリの名前は「ぴあシネクラブ2004年版」の女優索引からは見つけることは出来ません。抹消されています。実にシビアです。

72年の「キャバレー」でオスカーをとった後、2本コケ、この次もコケたら俳優生命が危ないと言われながらの再起を賭けたMGMでの「ニューヨーク・ニューヨーク」の仕事でした。母ジュディ・ガーランドが使った同じ楽屋が使われたそうです。

デ・ニーロの方は、「ミーン・ストリート」「ゴッドファーザー part 2」「タクシードライバー」と各作に高い評価を得ている日の出の勢いの新進気鋭です。鬼才スコセッシとともに、満を持して、この作品に臨みました。

しかし、こう書いただけでも何か無理がみえみえのミスマッチであることがよく分かります。

ドラッグの濫用や、その他いやな噂もつきまとい、結局芳しくない結果となった作品でした。

ライザの自伝を翻訳した蒲田耕二氏は、その「あとがき」でこう記しています。

「ライザがどれほど心優しく、傷つき易い少女だったか、大人にとって常にいい子であるように期待され、自分の感情にブレーキをかける習慣が身についていた・・・
その平凡な少女が、ショー・ビジネスという生き馬の目を抜く世界で生きていく。
そこには当然、無理がつきまとう。
自分の本性を偽りつつ全力投球の奮闘を続けなければ芸能界の非情な競争から落伍してしまう。
ステージの上で体をくの字に折って声を搾り出すライザを眺めながら、そこに観客への奉仕精神よりも、本来の彼女と芸能人の彼女とのギャップを埋める必死の頑張り、もしくは強迫観念を見るように思った。
絶え間のない男遍歴、ドラッグの濫用など、彼女の行動は、常識的とは到底いえない。
しかし、それも、普通の女が普通でない世界で生きている矛盾の現われと見れば納得がいく。ライザがしばしば父親型の男性に惹かれ、当たりの柔らかなゲイ・ピープルと好んで交遊し、田舎の平凡な暮らしに憧れるのも根は同じだろう。」
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# by sentence2307 | 2004-11-06 10:54 | 映画 | Comments(0)