先日胃癌で亡くなった塩沢ときが、この「驟雨」に出演しているというのです。
咄嗟にあの独特のヘアスタイルと奇抜なメガネを思い浮かべてしまったのですが、もちろんその先入観はすぐに打ち消したものの、まずは奇を衒った風変わりなイメージを念頭において彼女を探していたことは否定できません。
だから尚更でしょうか、佐野周二の旧友のそのツレアイとして登場している上流階級の奥様然とした気品ある容姿(ほんの一瞬の登場場面にすぎませんが)を見つけたときは、意表を突かれました。
この気高い楚々とした女優さんを、僕たちの知っているあの「塩沢とき」とダブらせることは、相当困難な作業に違いありません。
もっとも、配役でクレジットされていた名前は、塩沢登代路と記されていましたが。
そのイメージの「落差」を考えているうちに、生涯の半分を癌に取り付かれ、業病と闘い続けなければならなかったひとりの女優の失意と絶望が、つまりその「ふっ切れ方」が、あんなカタチで噴出するしかなかったのなら、随分痛ましいことだなあと思いました。
いかに世間の顰蹙をかおうと、滑稽なまでのコスチュームや、聞いている方が赤面してしまうような彼女の赤裸々な性戯についての告白なども、いまから考えれば、最後まで演じる者としての生命を燃え上がらせ、この世に生きていた証しを、どうしても残しておきたかったのではないか、その焦燥の表れだったような気がしてなりません。
しかし、屋上で彼女の登場するその一瞬のシーンは、正直印象に残るものではありませんでした。
原節子の迫力に満ちた演技に圧倒されて、「塩沢奥様」はおろか、原節子以外のものに関心を裂く余力など観客は持ち得なかったというのが本当だったと思います。
倦怠期にある夫婦が、いつの間にか生じた溝をタガイニ埋めることができないまま、夫が勤める会社の合併話と同時決行されるリストラの話が持ち上がり、去就に動揺を隠せない夫を冷静に見つめる妻・原節子は、その「冷静さ」ゆえに夫から疎まれ、さらに夫との距離を生じさせています。
やがてこの話しは、夫が迷い続けることによってこじれ、どちらからともなく別居話にまで発展するというラストがほのめかされているのですが、しかし、同じような「夫婦の溝」を描いた他の成瀬作品と比べると、この「驟雨」は、その深刻さの深度と描き方に徹底を欠いた生ぬるさというか、淡白な印象を受けてしまい、「浮雲」に続く作品としては、なんだか肩透かしをくわされたような物足りなさを感じてしまったのかもしれません。
徹夜麻雀で帰宅しなかった夫からの呼び出しで、待ち合わせたデパートの屋上に出向いた妻・原節子は、夫が、偶然出会った旧友とその奥さんと話している姿を遠目に見つけます。
旧友の奥さんの金に飽かせた華麗な装いに比べて、自分のみすぼらしい身なりに気後れを感じて躊躇した妻・原節子は、顔を伏せて、あえてその立派な身なりの旧友夫婦(それが、伊豆肇と塩沢登代路です)に挨拶することもなくやり過ごします。
みすぼらしい自分の身なりを知人の前に晒すことがどうしても出来ず、気後れし、わが身を物陰に隠す惨めな妻を演じた原節子の演技は圧巻でした。
晴れやかで華々しい人々に対してどうしても気後れしてしまい、物怖じし、なんの自己主張もすることなく、目を伏せてドロップアウトしてしまおうとするタイブの「人」なのです。
この作品には、もうひとつ似たようなシーンがありました。
隣家の若夫婦と連れ立ってみんなで映画を見に行くことになっていた朝、妻・原節子は、急に外出することを嫌がります。
「だからお前は駄目なんだ」と夫は妻のそういう消極的なところに苛立っています。
どうしても人の中に入っていけない物怖じするタイプの人間を、これほどまでに優しく繊細に描いたシーンは、成瀬作品のなかでさえも見たことがありません。
成瀬巳喜男自身が、そういう人だったのだろうなと思うしかありませんが。
(56東宝)監督・成瀬巳喜男、製作・藤本真澄、掛下慶吉、原作・岸田国士、脚色・水木洋子、撮影・玉井正夫、音楽・斎藤一郎、録音・藤好昌生、照明・石井長四郎
佐野周二、原節子、香川京子、小林桂樹、根岸明美、恩田清二郎、加東大介、堤康久、堺左千夫、松尾文人、伊豆肇、塩沢登代路、長岡輝子、中北千枝子、出雲八重子、水の也清美、林幹、東郷晴子、千葉一郎、村上冬樹、山本廉、佐田豊、大村千吉、