世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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竜二

妻子のためにヤクザを抜けようとした竜二が、堅気の仕事としてトラック運転手をやります。

しかし、そこで見たものは、まるで自分がヤクザを抜けたために、昔の仲間達がちりぢりばらばらになり、まるで自分が見捨てたような惨状を見せ付けられますが、しかし、むしろ、ヤクザが堅気になることの本当の難しさは、堅気の衆がヤクザの威を借りて虚勢を張ったり強がったりハクをつけて自分を大きく見せようとすることです。

一匹狼としてあらゆる権威に牙を剥きながら生きてきた竜二にとって、それは何よりも苦痛だったに違いありません。

【同僚が言います
「おれなんかよ、名古屋のヤクザで若頭のオサムさんていう人に可愛がってもらったのよ」。
竜二(顔は凄みの効いたヤクザの表情に戻っています。男の手に煙草の火をおしつけながら)「それがどうしたんだよ!」】

嘘で固めた堅気の生きかたに深く絶望した竜二が、本音で生きる一匹狼のヤクザでいる方が、まだしも人間的だとして、苦い旅立ちを痛切に描いた場面でした。

いまはもう既にこの世にはいない金子正次という俳優をきっと僕は永遠に忘れることはないだろうと思います。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 07:24 | 映画 | Comments(0)

野良犬

黒澤明の凄さは、設定の素晴らしさですね。

すべり出しから、いっきに観客の気持ちを掴んでしまう本当の意味のジェットコースター・ムービー?

刑事が拳銃をなくす、なんて、本当にいい設定ですよねえ。

村上刑事が失くした拳銃を探し回ることによって当時の焼け跡闇市の荒廃した風景を隅々まで見せてしまうという手法もそうなのですが、描写そのものとしても本当に凄いです。

イタリア・ネオリアリズモの諸作品に対等に向き合える力のある作品であるとともに、ドキュメンタリーとしても十分鑑賞に耐えるものと思っています。

多くの日本人が、「拳銃」ではないにしても、しかし、やはり何かを探しながら、焼け跡を彷徨い歩いていたんですよね。

黒澤明はそうやって生きていく人間たちの活力にたまらない魅力を見ていたのだと思います。

そのなによりの証拠に、この戦争直後の、貧しさに耐えながら真剣に生きる目的を探す、という当時の多くの日本人の生き方が、しかし高度経済成長によって少しずつ崩れ失われていったのと同じスピードで、黒澤作品は徐々にではあっても確実にその本来の魅力と面白さを失っていったのもまた事実だと思っています。

黒澤作品の中で、僕が好きで繰り返し見る映画は、

① 「七人の侍」、
② 「生きる」、
③ 「わが青春に悔いなし」or「素晴らしき日曜日」

ですが、「一番美しく」も結構同じくらい好きなのです。

そして、戦時中に作られたこの作品を時局迎合映画とは全然思ってはいません。

限界状況の中で誠実に精一杯生きていくというテーマは、まさに、黒澤明が絶頂期に撮った優れた作品群に一貫して描かれたテーマでもあったわけですからね。

ですから、上記の4作品に較べても、僕はテーマ的な隔たりを全くといっていい程、感じてはいないのです。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 07:19 | 映画 | Comments(0)
あの頃は、高倉健や藤純子・緋牡丹博徒とかの東映映画全盛期で、「男はつらいよ」はそのパロディ(松竹が成し得る精一杯の「やくざ路線」に便乗するみたいな?)として作られたんでしょう? 

でも、結果的にはうまい所を突いたんですよね。

ともすると、庶民感覚から全く懸け離れた「やくざ」という非日常的次元のものを、柴又という日常生活を根にしっかりと持つ香具師寅次郎を描くことで、架空の絵物語を日常の次元にまで引き摺り下ろし、いわば間隙を突くそれなりの思想性を持つことが出来たんだと思うんです。

高倉健からは想像もできないような日常的な「もう半分の生活者の世界」を寅次郎が見事に補填したのだと思います。

映画で描かれてきた「やくざ=旅烏」は、庶民が決して持つことも為すこともできなかった暴力という夢を託すことができた(勿論最後には追放という否定的立場をも視野に入れて)唯一の反権力的な好都合な存在だったんだろうと思います。

それはともかく、「男はつらいよ」を引き締めている重要な核は妹「さくら」の存在にあると思いませんか。

僕たちは芯の強い薄幸な感じのしっかり者の「倍賞さくら」しか知らない訳ですが、もし「長山さくら」だったら、どんなだったでしょうね。  
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# by sentence2307 | 2004-11-06 07:06 | 映画 | Comments(0)
「男はつらいよ」には、ひとつひとつ思い出があります。

最初はテレビ・シリーズだったの知ってました? 

確か、さくら役は長山藍子で、高視聴率だったので映画化の運びとなったと日本映画専門チャンネルで知りました。

とても懐かしいのですが、まだ、渥美清の死が生々しくて、作品を観て素直に楽しめない状態です。

あの最後の方「男はつらいよ、寅次郎紅の花」のときは、病み衰えた寅次郎を見ているのが辛くて、みんな、いつかは来るに違いないシリーズの終わる日を、そして、そのことが一体何を意味しているのかを、まるで考えてはいけないもののように思いながら、きっと見ていたのだと思います。

僕もそうでした。

しかし、周囲の観客は、料金分は笑わせてもらおうと笑う用意をしながら寅次郎が道化るのを待っています。

宿痾に蝕まれ動けなくなった寅次郎など、観客は認めもしないし許すはずもありません。

老いた渥美清という男が、深刻な段階に至った病を抱えながら、しかし軽妙な寅次郎を演じなければならない俳優という職業の二重の残酷さをしみじみ感じました。

いや、むしろ残酷を通り越して、そのような「喜劇」を撮る監督も、そのような「喜劇」を笑う観客も、すこぶるグロテスクな様相を露呈しつつ、国民的映画と称するものが醜悪な断末魔を迎える瞬間に立ち会うことになったのでした。

もちろん僕もその時、一緒に笑った一人なのですが、滓のように残るこの自己嫌悪は、時間が経てば忘れることができるのでしようか。

それとも僕もまた渥美清が元気だった頃の初期の作品だけを観るように努めればそれでいいのでしょうか。

日本映画史にこれだけ多くの秀作を残したシリーズから眼を逸らすことの不可能にいまはただ呆然としているだけの今日この頃ですが。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 07:03 | 映画 | Comments(0)

アンタッチャブル

いつも思うのですが、ケビン・コスナーの映画には、どうも入り込めないでいるのです。

思い入れを拒むというのか、もうひとつ深い演技が出来ない俳優さんのように思いませんか。

どこまでもなぜか余所余所しさが付きまとうという感じなのですね。

しかも「アンタッチャブル」のエリオット・ネスといえば、ロバート・スタックと思い込んで育ってきた者には、ちと違和感がどうしてもあって・・・。

デ・バルマ作品が大好きで、なんでもOKの積もりだったのですが、この「アンタッチャブル」、そして乳母車のシーンには苦笑してしまいました。

これって、エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」→「オデッサ階段の虐殺」シーンのパロディですよね。

世界映画史上最も有名な6分間といわれているシーンをこんな形のパロディで見せられると、なにかとてもシラケてしまって、映画のなかに浸りきれませんでした。

二宮金次郎の写真でオナニーしろといわれているようで(失礼)。

もっとも、エイゼンシュタインのモンタージュの技法も、もとはアメリカ映画(イントレランス等)から学んだといわれていますから、そんなに目くじらを立てることもないのかも知れませんね。

「戦艦ポチョムキン」の衝撃と感動が大きすぎて、例えば、エイゼンシュタインのことを、オーソン・ウエルズが「ソ連のマイケル・カーチス」といったのを聞き咎めてしまうような、そんな愚を犯しているのでしょうか。ご容赦ください。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 06:58 | 映画 | Comments(0)

長距離ランナーの孤独

盗みで少年院に送られたコリンが、院長からその健脚を買われ、少年院対パブリック・スクールのマラソン大会に出場することを命じられ、毎日早朝から練習するために辛い労働を免除される特別扱いを受けています。

院長の面子にかけて勝つことが厳しく求められている一方で、収容者たちからは白い目で見られます。

野山を走りながら、孤独と貧しさの中で盗みを働いては警官から走って逃げるために足だけは速かったこと、父が働きづめで癌で死んだ後、その保険金で母親が男たちと遊び回っていたことなどを思い出したりします。

そしてレース当日、コリンは、終始トップを走り続けながら、ゴール直前で突然立ち止ります。

騒然となる観衆や「走れ!」と怒鳴る院長をコリンはその尊大で自信たっぷりのうぬぼれを叩き潰し挑み掛かるような不適な薄笑いを浮かべてその場を動きません。

僕は、このシーンで映画というものがどういう精神性を持つものか初めて知りました。

映画には左右硬軟いろいろあるでしょうし、もしかしたら、この作品は極端に位置する異端の作品群にはいるのかもしれませんが、映画というものの在り方とか考え方とかの基本的なものを教えてくれた作品でした。

社会の底辺で貧困や屈辱に甘んじながらも、どこまでも誇り高く偽善に満ちた権威・権力に反抗し続けながら、生きていこうとする者の気高さを教えてくれました。
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# by sentence2307 | 2004-11-06 00:13 | 映画 | Comments(0)

風と共に去りぬ

この「風と共に去りぬ」について、こんなふうに、みんなよく言いますよね。

「日本じゃ食うや食わずでヒイヒイ言ってた時にアメリカじゃ、あんな凄い映画作ってた」って。

でも、あの映画、そんなに名作ですか? 

少しでも共感する部分があれば何とか理解もできるのでしょうが、全く駄目でした。

ほとんどの人が手放しで絶賛しているこの映画、どこがいいのかさっぱり分からないのです。

だいたい、このスカーレットという女、よく観ると実に嫌なタイプの女だと思いませんか?

美人であることを鼻にかけて、黒人奴隷をこき使い、傲慢な上にぞっとするほど身勝手で、取り巻きにご機嫌をとられている時はまだいいものの、自分以外の幸福そうなカップルを見ると、あからさまに嫉妬するばかりか、実際にその恋人を奪い取って、ざまあみろとほくそ笑み、また、その男が自分に対して関心を失ったことを知ると、「あんな男」よばわりをして打ち棄てる。

バトラーに対しても、さんざん怒らせておいて、別離がくると追いすがる。

何だか訳が分かりません。

自分が始終ちやほやされていなければ気のすまないヒステリー女の、打算とはいっても、極めて低次元の感情の動きしか描かれていないこの程度の映画と、そしてこんな女のどこに共感できますか。

ところが最近眼からウロコのコメントを女ともだちから入手したのです。

彼女いわく
「女は、スカーレットに自分を置き換えるのが好きなのよ。皆からちやほやされ、人の恋人を奪うくらいの傲慢さで、野性的な男をさんざん焦らせて求愛させるように仕向け、その後で棄てるの。」

唖然としました。

この一大巨編が、作品の質に関係なく、女たちの妄想によって支持され、歴史的な不朽の名作として映画史に定着してしまったのだとしたら、それこそ鳥肌が立つ程の嫌悪と恐怖とに襲われました。

それに較べたら、男たちが思い描く淫らな妄想の所産であるポルノの方が、まだまだ罪が軽いとおもいませんか。

きっと、男と女の、超えることの出来ない生理の違いを試すようなものが、この「風と共に去りぬ」の中に象徴的に潜んでいて僕の嫌悪感が、この作品を本能的に拒絶したんだろうな、とは思うのですが・・・。
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# by sentence2307 | 2004-11-05 23:29 | 映画 | Comments(1)

曽根崎心中

「大地の子守歌」と、この「曽根崎心中」は、増村作品を通して見ても特別な思い入れがこめられた作品だと思いました。

両作品ともに共通しているのは総ての演技者が、そのひとつひとつのセリフを精魂こめて徹頭徹尾絶叫し通していることだと思います。

善良な実直さが、やがて徳兵衛を破滅へと追い込む偏屈な伯父九兵衛も、狡猾な継母も、そして徳兵衛の金を詐取する悪辣な九平次さえも、ともすれば単純で希薄な彼らの直情的性格を、しかし増村保造は絶叫させ通すことによって、この現実を精一杯生きる者達の真摯さを何の衒いもなく証かし立てさせています。

もし生きるために他人を騙し、おとしめ、辱め、完膚なきまでに叩きのめすしか他に術がないなら、その詐術や狡猾や暴力は正しい・・・生きることが、もし不可避的に悪を伴わざるを得ないものなら、その悪は正しい。

増村が描き続けてきたリアリズムにおいて一貫していたこの「道徳観」が、この作品に登場する脇役たちを通俗的な勧善懲悪の檻の中から解き放ち、生き生きとした生命力を吹き込み得たのだと思いますし、だからこそ、お初徳兵衛の凄惨な心中が、全力で闘い抜いて到達した「生」の一部のような死であったからこそ、哀れさどころか、むしろ気高さをさえ感じさせられることができたのだと思いました。

それは、生き場を失った惨めな恋人同士の肩寄せあった哀れな心中が、一般的には、ほのぼのとした独特の愛の連帯感を内に帯びるに違いないであろうという僕たちの陳腐な先入観を厳しく拒んで、どこまでも一人ぼっちのままの、それはあたかも偶然ひとつの場所でそれぞれ自立して死んでいった「二つの自殺」ようにも思えたのでした。

幸せや不幸になることが、絶えず他人のお陰でしか成り立ち得ないようなこの社会の仕組みの中で、しかしそのようにして生き長らえることには耐えられず、身分社会の掟に追い立てられ、やがて、怒りを込めたそれぞれ孤立した二つの憤死のようにしか思えなかった僕にとって、血みどろの赤い海の中で相対死して果てるこの恋人たちの凄惨な敗北の最期を、あえて刻明に描いた増村保造の意図を見たように思いました。

彼らは、壮絶ではあっても、哀れではありません。

しかし、哀れではないにしても、そのあまりの無力さは、やはり無残でしかありません。

それは彼らが、社会的制裁の前でされるがままの圧力に屈し、心中にまで追い込まれていったことと無縁ではありません。

世間の人々の、生きるためには躊躇なく繰り出される傲慢や我執、狡猾や悪辣など、自らのあらゆる作法を用いて社会に敢然と立ち向かっていったのと比べると、お初徳兵衛は、ただ社会の道徳秩序への善良な従順さゆえに敗退し、破滅していったことは明らかです。

もし、このラストに一片の美しさを見るとすれば、生きることが悪なら悪は正しいと言い切れずに死んでいった弱々しい人間への増村保造の憤りだったのかもしれません。 
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# by sentence2307 | 2004-11-05 23:17 | 映画 | Comments(230)