世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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スモーク

前回、「マイ・ベスト10」というタイトルでコラムを書きました。

おもな理由は、自分がいままで書いてきたコラム群が、そのまま自分が感動した映画作品と必ずしもイコールってわけじゃないことを書き残しておきたかったからです。

つまり、映画「花芯」の感想を書いているあいだにも、実に多くの映画に出会っていて、実は、そちらの方をこそ書きたかったこと、むしろ書き残しておくべきだったのだけれども、そうできなかったのは、それなりの「遣り過ごさなければならなかった事情とイキサツ」のあったことなどを書いておかなければと、ちょっと「遣り切れない気持ち」から、背中を押されるようにして書きました。

いつのときもきっと「そう」なのでしょうが、すべてのことを忘れてしまうくらいの時間が経ってしまったとき、コラムの表題の羅列を眺めながら、そのなかに混ざり込んでいる「花芯」のタイトルを見つけ、「ああ、こんな作品にも関心を持ったんだ」と、この自分でさえもシンプルに思ってしまうに違いない可能性(いわば、「懼れ」です)が大いにあることに呆然とし、当然それは現実には避けられないことであって、そういうこと(忘却)の繰り返しで日常は成り立っているのだとしても、そのタイトルを掲げたことによって剥落したもの(タイトル)もまたあったのだということを書き残したかったのだと思います。

時が過ぎ、すべての記憶が失われ、やがてくる未来のいつの日かに、たまたま「花芯」のタイトルを見出した時、「花芯」に囚われていたその時間の流れの中には、自分のチカラ不足のために、たとえ自立したコラムとして成立させることができなかったとしても、そこには同時に


「ニーチェの馬」、「裁かれるは善人のみ」、「ひつじ村の兄弟」、「ブルックリン」、「若者のすべて」、「スモーク」、「さよなら歌舞伎町」、「裸足の季節」、「教授のおかしな妄想殺人」、「ティエリー・ドグルドーの憂鬱」、「セトウツミ」、「ある終焉」

に寄せる想いもまたあったこと、いや、そればかりではなく、実に多くの愛すべき作品たち、

「ドリームホーム 90%を操る男たち」、「朗らかに歩め」、「座頭市 地獄旅」、「箱入り息子の恋」、「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」、「ターザン:REBORN」、「カミハテ商店」、「黄色いからす」、「ザ・ギフト」、「ジュラシック・ワールド」、「ジュリエットからの手紙」、「座頭市 牢破り」、「地獄」

に揺れた想いもまたあったのだということを書き残しておきたかったこと、少なくともそれが「いま」の自分のリアルでもあったことを「未来」に向けて是非とも書き残しておきたかったのだと思います。

さて、こんなふうに言い訳がましいことを縷々書き綴ってきたのですが、それにはひとつの理由があります。

それは、「スモーク」(監督:ウェイン・ワン)の感想を書きたいと思いながら果たせないでいるという現状があって、ただ、手元にはその素晴らしい一場面を書き残したメモだけが中途半端な「猶予」の状態で残ったままになっています。

これをなんとかしなければという気持ちから、この一文をここまで無理やり引っ張ってきた次第です。

ブルックリンの街角で小さな煙草屋を営んでいるオーギー・レン(名優ハーヴェイ・カイテルが演じています)は、10年以上毎日同じ時刻の同じ場所で写真を撮影する習慣をもっている。

煙草屋の常連でオーギーの親友でもあるポール・ベンジャミン(これまた名優ウィリアム・ハートが演じています)は作家で、数年前の銀行強盗があったとき流れ弾で妻を亡くして心に深い傷を負っています、それ以来、小説がまったく書けない状態(静かな悲嘆と空虚な日々)が続いています。

ある夜、切れた煙草を求めて閉店間際の店に駆け込んできたベンジャミンは、たまたまオーギーに写真撮影の趣味のあることを知り、アルバムを見せてもらいます。

「みんな同じ場所だ」と驚くポールに

「そう、しかも同時刻にね」とオーギーは答えます。

いわゆる「同時刻・定点撮影」というやつです。

そして、アルバムのページをめくっていくポールは、その写真集のなかに亡き妻の在りし日の姿を見つけて驚き、号泣するというとても素晴らしい場面です。

妻を亡くして傷心を抱え持った男の孤独と、孤独がどういうものか知り尽くしている親友の優しい交歓の傑出した場面、そう簡単には忘れるわけにはいきません。

そのシーンのやり取りを必死になって逐一メモりました。


ポール「みな同じだ」
オーギー「そう、4000枚、みな同じ写真だ。朝の8時の7番街と3丁目の角、4000日、1日も欠かしていない。休暇もとれない。毎朝、同じ時間に同じ場所で写真を撮る。」
ポール「こんな写真は初めてだ。」
オーギー「おれのプロジェクトだ。一生を懸けたおれの仕事だ。」
ポール「驚いたな。だが、分からない。なぜそんなことをする。そもそもこんなことを始めた切っ掛けはなんだ。」
オーギー「ただの思いつきさ。おれの街角だ。世界の小さな片隅にすぎないが、いろんなことが起こる。おれの街角の記録だ。」
ポール「確かにすごい記録だ。」

同じ時間・同じ場所で撮られた写真ばかりだと知ったポールは、無造作にさっさとページを繰り始めます。

オーギー「ゆっくり見なきゃだめだ。」
ポール「どうして?」
オーギー「ちゃんと写真を見てないだろう。」
ポール「でも、皆同じだ。」
オーギー「同じようでいて一枚一枚全部違う。よく晴れた朝、曇った朝。夏の日差し、秋の日差し。ウィークデイ、週末。厚いコートの季節、Tシャツと短パンの季節。同じ顔、違った顔。新しい顔が常連になり、古い顔が消えていく。地球は太陽を廻り、太陽光線は違う角度で差す。」
ポール「ゆっくり見る?」
オーギー「おれはそれを勧めるね。明日、明日、明日、時は同じぺースで流れる。」

そして、

ポール「これを見ろ。見ろよ。エレンだ。」
オーギー「そうだ、奥さんだ。ほかにも何枚かある。出勤の途中だ。」
ポール「エレンだ。見ろよ。僕が愛したエレン。」

そして、ポールは泣き崩れます。

同じようでいて一枚一枚全部違うこと、ポールにとっては特別な一枚である写真を見つけ出します。


よく晴れた朝、曇った朝。

夏の日差し、秋の日差し。

ウィークデイ、週末。

厚いコートの季節、Tシャツと短パンの季節。

同じ顔、違った顔。

新しい顔が常連になり、古い顔が消えていく。

地球は太陽を廻り、太陽光線は違う角度で差す。


季節はめぐり、時は移ろい、穏やかな静けさで残酷に時を刻み、新しい顔が常連になり、そして、古い顔が消えていく。

失われた名優ウィリアム・ハートに思いをはせながら、名優ハーヴェイ・カイテルのこの述懐の素晴らしい場面を繰り返し見続けました。

(1995米日独)監督・ウェイン・ワン、原作脚本・ポール・オースター『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』(邦訳・新潮文庫『スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス』所収)、製作・ピーター・ニューマン、グレッグ・ジョンソン、黒岩久美、堀越謙三、エクゼクティヴ・プロデューサー・ボブ&ハーヴェイ・ウェインスタイン、井関惺、製作・堀越謙三、黒岩久美、ピーター・ニューマン、グレッグ・ジョンソン、撮影・アダム・ホレンダー、音楽・レイチェル・ポートマン、美術・カリナ・イワノフ、編集・メイジー・ホイ、
出演: ハーヴェイ・カイテル(オーギー・レン)、ウィリアム・ハート(ポール・ベンジャミン)、ハロルド・ペリノー・ジュニア(トーマス・コール)、フォレスト・ウィテカー(サイラス・コール)、ストッカード・チャニング(ルビー・マクナット)、アシュレイ・ジャッド(フェリシティ)、エリカ・ギンペル(ドリーン・コール)、ジャレッド・ハリス(ジミー・ローズ)、ヴィクター・アルゴ(ヴィニー)、ミシェル・ハースト(エム)、マリク・ヨバ(クリーパー)、ジャンカルロ・エスポジート(トミー)

95年ベルリン映画祭金獅子賞受賞。95年度キネマ旬報外国映画ベストテン第2位



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# by sentence2307 | 2017-06-18 09:39 | 映画 | Comments(0)

「マイ・ベスト10」

なにせ性分なのでどうにも仕方がないのですが、映画を10本見るごとに、どうしても順位をつけずにはいられません。

むかしからずっと続いているこの習慣(ほとんど性癖です)を知った友人も「そんなことして、どうする」と訝しがりますが、「したいから、しているだけ」と、まるで小学生のような受け答えしかできないでいます。

べつに、このことを吹聴して、世間に対してどうこうする積りなど毛頭ありません。

たとえば、メモを大切に保管して2000本溜まったら(安打じゃねーし)集大成の一覧表でもつくって世界に向けて発信するとかなんて、ひとむかし前なら、こんなこと、大風呂敷のただの戯言として失笑されるのがオチだったのが、いまでは世界がネットで繋がっていて情報が世界の隅々にまで瞬時に拡散する時代です、到底冗談なんかでは済まされるわけもなく、こういう無責任な言いっぱなしは深刻な混乱を招きかねないので、そのへんは慎重に発言しなければならないと肝に銘じています。

このあたりがインターネットの面倒くさいところですよね、それに情報がまたたく間にグローバル化する「便利さ」が行き過ぎると、「自由」のはずのネット社会の盲点をつくみたいに、異常にナーバスな部分(弱者に対する「差別」意識とか、犯罪のたくらみとかテロの陰謀など)が密かに醸成され、単なる言い回しなどにも生真面目に反応し、皮肉にも、逆にひと言も発せられない「言葉の魔女狩り」みたいな息苦しい時代が迫っているような不吉な予感がします(いや、いまだって、十分「そう」かもしれません)。

この世から差別をなくすために、一挙手一投足にびくびくと気を使い、他人の行動にも異常に反応して、お互いを監視し合うサイト狩りに狂奔し、そうしたことに無知・無頓着な人々の揚げ足をとるみたいに暴き出しは糾弾し、正当化された「いじめ」みたいに苛烈に、まるで集団リンチのような集中攻撃をかけて追い詰め、自殺などという陰惨な結果を再生産しているのではないか(そもそも、その「正義」っていったいなんなんだと問いたいです)と胸を痛めているこの頃です。

さて、「映画を10本見ると、それごとに順位をつける」という自分のオタク的な私的行事(今どきの言葉でいえば「ルーティン」ですが)のことを書きますね。

あのとき、「そんなことして、どうする」と訝しがられた友人に、自分がささやかながらも映画のコラムを書く習慣があること(いずれにしても、べつに大したものではありませんが)を知らせていたら、せっせと「マイ・ベスト10」を考えたり、思いついたフレーズを手帳に書きとったりしていたことも、きっと友人はあんなふうに訝しがらずに済んだかもしれません。

友人には、自分の趣味は「映画鑑賞」と漠然と伝えていたので、そのへんで「いつもなにをそんなにメモしているわけ?」と戸惑わせてしまったことを、いつか機会があれば弁解したい気持ちです。

しかし、ただのコラムとはいえ、やはり「書く」よりも「見る」方が、はるかに楽なので、あるひとつの作品にこだわり続けていると、ずるずると書けない状態を長引かせてしまうので(なんだって長引かせれば煮詰まるのが当然です)、その期間に日々見ている映画の在庫をひたすら増大させてしまうという状態が常にあるわけですが、問題はテンションの高め方が、「書く」ことと「見る」こととは、まったく違うために、その切り替えが容易でないというところにあるかもしれません。

それに、どう転んでも自分には到底書くことのできないジャンルの作品というものがありますし、いざ書き始めても、モタモタしている間に「見る」方がどんどん捗って本数が増え、さらに10本に届いてしまったなんてこともざらにあります、自分の日常はその繰り返しで成り立っているといってもいいくらいです。

それに、「さらなる10本」の方が、現在モタモタとかかずらわっている作品より、はるかに優れた作品ぞろいだったりした場合など(多くの場合は「そう」なります)、かなり悲惨な状況で、「いったい自分は、なにをやっているんだ」みたいな惨憺たる気分におちいるわけなのです。

嫌味がましくなるかもしれませんが、例えば、安藤尋監督の「花芯」のコラムにグズグスとかかずらわっていた時が、まさに「それ」でした。
あのコラム全体に漂っている「まったく、もう」という苛立ちの半分は、その背後に、もっと書くに値する優れた作品があったこと、しかし、現状は、どうでもいいような作品に時間をとられていて、そのあいだにも、すぐれた作品を検討する機会を失い続けている外的圧力に対する腹立たしさだったと思います。

恨みごとみたいになりますが、今回は、「花芯」のコラムにかかずらわっていた間にやり過ごさねばならなかった作品群について、「マイ・ベスト10」を検討するみたいに(いつもの方法です)書いてみようと思い立ちました。

まずは、ラインナップを見た順に書きますね、数えていませんでしたが、当然10本は超えていると思います。

「ドリームホーム 90%を操る男たち」(2014)監督:ラミン・バーラニ
「ニーチェの馬」(2012)監督:タル・ベーラ
「スモーク」(1995)監督:ウエイン・ワン
「朗らかに歩め」(1930)監督:小津安二郎
「さよなら歌舞伎町」(2014)監督:廣木隆一
「座頭市 地獄旅」(1965)監督:三隅研次
「箱入り息子の恋」(2013)監督:市井昌秀
「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」(2011)監督:瀬田なつき
「ターザン:REBORN」(2016)監督:デヴィッド・イエーツ
「カミハテ商店」(2012)監督:山本起也
「裸足の季節」(2015)監督:デニズ・ガムゼ・エルギュヴェン
「ブルックリン」(2015)監督:ジョン・クローリー
「教授のおかしな妄想殺人」(2016)監督:ウデイ・アレン
「ティエリードグルドーの憂鬱」(2015)監督:ステファヌ・ブリゼ
「裁かれるは善人のみ」(2014)監督:アンドレイ・スビャギンツェフ
「ひつじ村の兄弟」(2015)監督:グリームル・ハウコーナルソン
「黄色いからす」(1957)監督:五所平之助
「ザ・ギフト」(2015)監督:ジョエル・エドガートン
「セトウツミ」(2016)監督:大森立嗣
「若者のすべて」(1960)監督:ルキノ・ヴィスコンティ
「ジュラシック・ワールド」(2015)監督:コリン・トレヴォロウ
「ある終焉」(2015)監督:ミシェル・フランコ
「ジュリエットからの手紙」(2010)監督:ゲーリー・ウィニック
「座頭市 牢破り」(1967)監督:山本薩夫
「地獄」(1979)監督:神代辰己

ざっとこんな感じです。なるほど、なるほど、25本になりますか。

一応、見た順に並べましたが、この作品群からベスト10なるものを選び出すとなると、これはもう相当な難題です。

しかし、それがまた愉しみでもあるんですよね。

さて、上記の作品のうち、自分的に「ベスト10」としてイメージできない作品を、まずは抜き出してみました。

【「ベスト10」としてイメージできない作品とその理由】
*「ドリームホーム 90%を操る男たち」・・・最初被害者だった主人公が、加害者の側に加担しようとした悪への決意が明確に描かれていないのでは。
「朗らかに歩め」・・・もう少し気持ちに余裕があるときに見たら小津ワールドを堪能して、あるいは素直に評価できたかも。
「座頭市 地獄旅」・・・三隅研次監督作品として失望した。あの「座頭市物語」の孤独の深さはどこへいった。
「箱入り息子の恋」・・・夏帆のオヤジ役・大杉漣の演技は、アレで良かったのか。
「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」・・・怖い話なら、それなりの語り口で話してほしい。
「ターザン:REBORN」・・・今度のターザンは、とても小男に見えたのだが、ああいう理解でよかったのか。
「カミハテ商店」・・・自殺の名所の脇にある売店の老女の話で、そのたびごとに自殺者に立ち寄られて、彼女、最後まで鬱から抜け出せない。
「黄色いからす」・・・母親に甘えて纏わりつく設楽幸嗣の嫌らしさに、ちょっと嫌悪感を持ちました。
「ザ・ギフト」・・・ギフトが意味する最後のこのオチ、以前どこかで見たような。それともこれってリメイク。
「ジュラシック・ワールド」・・・改めてみると、ストーリーは、ジョーズそのまま。緊迫感だけが欠如。
「ジュリエットからの手紙」・・・恋でも愛でも、むかし失ったものは、それなりの理由があってそうなったわけだから、いまさら取り戻せないし、失われたものは、そのままでいいというのが、自分の立場です。
「座頭市 牢破り」・・・山本薩夫に座頭市を撮らせるなって。結果は最初から見えてたよ。あの「先生」とやらを、最後に腹黒い詐欺野郎だったとラストでバラしたら、結構座頭市らしくなっただろうに。タケシはそうしてたよね。
「地獄」・・・前振りのストーリーが理屈っぽくて長すぎて、これじゃ中川信夫に到底敵うわけない。


そして、いよいよ「ベスト10」作品です。

評価基準は、以下の5項目

荒涼たる風景、または心象風景が、自立した映像として捉えられている
荒廃した都市に見捨てられた人々の絶望と希望
孤独の深さと物語の完結度
痛切な演技
シナリオのちから


そして【「ベスト10」としてイメージできる作品】は、以下の通り

「ニーチェの馬」(2012)監督:タル・ベーラ
「裁かれるは善人のみ」(2014)監督:アンドレイ・スビャギンツェフ
「ひつじ村の兄弟」(2015)監督:グリームル・ハウコーナルソン
「ブルックリン」(2015)監督:ジョン・クローリー
「若者のすべて」(1960)監督:ルキノ・ヴィスコンティ
「スモーク」(1995)監督:ウエイン・ワン
「さよなら歌舞伎町」(2014)監督:廣木隆一
「裸足の季節」(2015)監督:デニズ・ガムゼ・エルギュヴェン
「教授のおかしな妄想殺人」(2016)監督:ウデイ・アレン
「ティエリードグルドーの憂鬱」(2015)監督:ステファヌ・ブリゼ
「セトウツミ」(2016)監督:大森立嗣
「ある終焉」(2015)監督:ミシェル・フランコ

一応、順不同ですが、上位5本は、圧倒的な映像のチカラで、ねじ伏せられてしまった5作品です。





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# by sentence2307 | 2017-06-17 22:26 | 映画 | Comments(0)
週末の夕方、久し振りに神保町の三省堂前で友人と待ち合わせをしました。

友人と会うのも久し振りなら、神保町に来るのも本当に久し振りです。

帰宅部だった高校生の頃の自分は、帰途、雨さえ降っていなければ九段の坂を下って神保町の古書店を見て回り、御茶ノ水か、気分次第で秋葉原(ここだって当時は古色蒼然としたドヤ街みたいな感じの街でした)や湯島・根岸くらいまで足を延ばして帰宅したものでした。

あるいは、秋に行われる恒例の「古書店まつり」には、どんな用事があっても都合をつけて必ず行ったものですが、社会人となってからは勤めが多忙になるにつれて行けなくなり、徐々にその習慣も崩れて途絶え、いつしか「神保町」の雑踏や匂いのことなども思い出さなくなり、現在にいたっています。

考えてみれば、この街に来るのはあれ以来ですから、ほんと何十年振りになるわけで、ほとんど「里帰り」状態で、どこもかしこも懐かしく、それだけに激変した町並みが一層物珍しくて、キョロキョロとあたりを見回して歩きました。

それだけに「ここは自分の知っている街じゃない」という思いに強く囚われたのかもしれませんが、なんといってもその極めつけは、待ち合わせ場所とした三省堂書店前についたときでした。

あの正面のパッと見の感じは、そのまんま高級レストランではないですか、それは少なくとも自分の知っているコテコテの「本屋」、店頭に野放図に本を山積みした「あの無防備な三省堂書店」なんかではありませんでした。

こう考えると、かつて自分の知っていた「三省堂書店」は、むしろ「焼け跡・闇市」の時代(戦後の荒廃)を引きずっていたのかもしれませんね。

そんなふうに、どこもかしこもすっかり綺麗になってしまったヨソヨソしい神保町ですが、それでもここはやっぱり「神保町」なんだよなと、足早に行きかう人の波をぼんやり眺めながら(誰もがとても身ぎれいで裕福そうなのが、むかしとは大違いです)、そこに立っているだけで、流れ去った時間の重さに押しつぶされそうになり、なんだか胸がいっぱいになってしまいました。

それにこんなに街の様子がサマ変わりしたと感じたのは、その人群れにチラホラ外国人学生や観光客が混ざっていて、その彼らが真顔で古書を物色している様子が、なんの違和感もなく自然に「神保町」の風景に馴染み溶け込んでいると感じたからかもしれません。

さて、待ち合わせの時間に少し早く着いてしまったので、靖国通りからすずらん通りを廻って(舗道はどこも綺麗に整備されていました)ふたたび三省堂まで戻ってこようと、古書店の店頭にあるワゴンや棚の廉価本を眺めながら、ぶらぶら歩き出しました。

そこには、なんと3冊で100円なんていう魅力的なサービス本もあるので、仇やおろそかに見過ごすわけにはいきません、なにせ自分は廉価本(小説か映画関係の本か歴史ものですが)というのには滅法弱く、内容よりも、まずは価格の誘惑に負けてしまって「とりあえず買っておいて、あとで精査する」という収集狂タイプの人間です、それが昂じてこんな夢をみたことがありました。

たぶん場所はこの神保町、古書店巡りをしている自分が、ある店の店頭で「三島由紀夫全集」全巻で100円という廉価本をみつけて、飛び上がらんばかりに狂喜乱舞し(夢なのですが)、歓喜のあまり大声をあげながら(こちらは現実です)跳ね起きたことがありました。

横で寝ていた家人がびっくりし起き上がり、訝し気に「ウナサレテタよ、なんか怖い夢でも見たの」と声をかけてきたので、そこは反射的に「うん、なんか、もの凄く怖いやつ」とかなんとか取り繕っておきました。

それでなくとも現状は整理の追いつかない「廉価本」で家が溢れかえり、生活に必要な空間まで徐々に占領し始めている危機的状況に常に苛ついている家人のことです、自分の能天気な夢のこと(三島由紀夫全集全巻100円で発見)、そして歓喜のあまり大声を発して飛び起きたなんてことを知ったら、それこそ逆上して明け方まで延々と嫌味を言われるのがオチなので、ここは機転を利かせた咄嗟の返答でうまく躱すことができたのは、我ながら実に見事な対応だったと思います。

さて、一応そのとき買った「3冊で100円」という本をちょっと紹介しておきますね。

①木村威夫「彷徨の映画美術」(株式会社トレヴィル)1990.10.25初版
②藤本義一「映像ロマンの旗手たち(下)ヨーロッパ編」(角川文庫)昭和53.12.20初版
③ダイソー日本の歴史ブックシリーズ6「平清盛」(株式会社大創出版)平成24.15.2刷

なのですが、この3冊のうち、当初いちばんの掘り出し物と思っていた①の木村威夫「彷徨の映画美術」は、意外に淡白・脱力系の内容で、映画美術というよりも、木村氏が仕事を始める前にいかに熱心に資料集めに奔走したか、今度やる映画が描く当時の世情や町並み・生活や風物を知るための資料集めがドンダケ大変だったかという、いわば資料集めの苦労話(それは、それなりに楽しいのですが)、「本の虫 行状記」みたいに読めば面白いにしても、「映画美術」の木村威夫の仕事が知りたい読者の期待にこの本がどれだけ答えられるかといえば、そこは大いに疑問とするところかもしれないなというのが、正直な印象でした。ですので、当初の「いちばんの掘り出し物」という看板は引っ込めなければなりません。

②の藤本義一「映像ロマンの旗手たち(下)ヨーロッパ編」は、ゴダール、トリュフォー、フェリーニ、パゾリーニの生い立ちを、彼らが撮った作品を随所に配して辻褄合わせのようにつなげながら生い立ちを「小説」に仕立てているのですが、しかし、個人的作業の小説家と違い映画監督に「生い立ち」を知ることが、それほど重要で有効なことなのかと少し疑問に囚われ、しかし逆に、この強烈な個性の4人なら、あるいは「あり」なのかもしれないなと考え直しました。

どちらにしても、映画が強烈な個性を前面に出して撮ることのできたあの「時代」こそ、そういうことも、あるいは許される「天才たちの時代」だったのだと、その「食い足りなさ」の残念な印象でさえも、それなりに楽しむことができました。

問題は③の「平清盛」です、具体的な執筆者名の表示がなく(当時放送していた同名の大河ドラマを当て込んだ際物として急遽作られた本だと思います)、ほんの140頁のパンフレット同然の如何にも安価な歴史本ですし、定価も100円と表示されていますので、100均のダイソーの100円ブランドとして売られたものと見当はつきましたが、その「侮り」は見事に裏切られました、一読して実に見事な間然するところなきその要約ぶりには心底感心してしまいました(巻末に16点のネタ本が参考文献として掲げられています)。

いずこかの名もなき編集プロダクションがダイソーから請け負って執筆・編集されたものだと思いますが、プロに徹した「匿名」氏たちのその見事な仕事ぶりには感銘を受け、密かな称賛を捧げた次第です。

自分は、「メディアマーカー」というサイトに蔵書を入力して管理しているのですが、以前はその「蔵書」という言葉に拘って、こういう3冊(読了したら処分する予定です)は「蔵書」扱いせずに、読了したら右から左にさっさと処分するだけ、あえて入力(記録)はしていませんでした。

いわば「読み捨て」状態のこれらの本は、期間限定の「記憶」に残るだけで「記録」としては残りません。

しかし、これってなんかオカシナ話ですよね。買って読みもせずにただ積んでおくだけの本(多くは権威ある執筆者によるメジャーな出版社の本です)は「蔵書」としてコマメに記録するのに、たとえダイソー本であっても、自分に大きな感銘を与えた「平清盛」は、ある日「燃えるゴミ」と一緒に処分されようとしている。

しかし、自分にとって、一番大切なこと(記憶すべきもの)は、まずは自分に感銘を与えることができた「実績」の方であって、少なくとも未だ頼りない存在でしかない「期待」の方なんかじゃないことは明らかです。

ここまで考えてきたとき、「それなら図書館から借りて読んだ本は、どうなんだ」と自分の中から問い掛けてくる声がありました。

実は、こんなふうに考えたのは、ひとつの理由があります(前振りが少し長くなりましたが、ここからが表題の「小津安二郎、厚田雄春、宮川一夫」です)。

小津監督作品について考えているとき、派生的に、以前なにかで読んだエピソードがふっと思い浮かんできて、それを原典にあたって確かめたくなるなんてことがよくあります。

例えば、そういう位置付けにある本として蓮實重彦が聞き手になった厚田雄春の「小津安二郎物語」(筑摩書房)があげられ、近所の図書館が在庫しているので時折借りて愛読しています。

しかし、この本、難点もないわけではありません。

本来なら、撮影現場で小津監督のすぐ傍らにいて、時折遠慮がちにでも小津監督にお願いしてカメラを覗かせてもらっていた小津組のハエヌキ・厚田雄春の述懐ですから、それだけでも「第一級資料」たるべき役割を果たさなければならないのに、自由奔放、移り気で散漫な厚田雄春の思うがままに四散する述懐を制御できない蓮實重彦の聞き出しのまずさが、掘り下げにも広がりにも失敗したという大変残念な印象だけが残る淡白な本です。

しかし、それでも折に触れ、そこに書かれているエピソードを確かめたくなるときもあって、図書館から借り直すということをしばしば繰り返している本で、例えば、木暮実千代が厚田雄春に撮り方について注文をつけるクダリ(170頁~171頁)は、こんな一文ではじめられています。

「で、『お茶漬けの味』は、女優が木暮実千代、木暮が小津さんに出たのは、後にも先にもこれっきりでしょう。いまだからいえるけど、これは撮影中にいろいろあったんです。スキャンダルめいたことはいいたくありませんけど・・・」と前置きし、まず、木暮実千代が自分がどんなふうに撮られているか、所長試写ということで、小津監督には内緒でラッシュを(製作の山内武と渋谷組のキャメラ助手とともに)見ていたという話を紹介したあとで「大変無礼なことだと思いましたね」と憤慨し、「で、木暮は自分のアップが少ないから不満だっていってるんだってことがあとでぼくの耳に入ったんです。で、ぼくは小津さんに言ったんです。『撮影がまずくて汚く撮れた』っていわれたんなら仕方がない。でもそうじゃなくて、アップが少ないからいやだなんていわれたんじゃあ絶対困る。小津さん、『そんなことで騒ぐなよ』っていっておられましたけどね。」

そして、さらにこんなふうに続きます。

「御承知のように、小津組で『アップ』というときは顔一杯のアップじゃない。本当のこといえば、『アップ』は『バスト・ショット』なんです。みんな、胸から上くらいをねらっててそれが小津さん独特の画面になってる。そしたら、ある日、準備ができて位置が決まったとき、木暮が『厚田さん、こっち側から顔を撮ってね』といったんです。自分が綺麗だと思ってる右側の顔にしろというんでしょう。ぼくは、『うん、うん』っていって7フィートの位置をつけたんですけど、小津さんそれを聞いてらしたようで、『ロングでいいよ』と。で、ぼくは小津さんの顔を見たわけですよ。あ、私に対して気をつかって下さるんだな、ありがたいなって思いましたね。」

この一連の文章をどう読み取るか、「あ、私に対して気をつかって下さるんだな」でこのエピソードを覆い包むか、それとも、傲慢で我儘な女優の横暴を茶坊主よろしくご注進に及びバタバタと騒ぎ立てる厚田氏に対して「そんなことで騒ぐなよ」とうんざりしながら苦笑する小津監督の言葉の真意が、この文章の最後まで覆って支配しているとみるべきか、自分などには判断がつかないところですが、ただ、フィルムアート社刊・田中眞澄編の「小津安二郎 戦後語録集成 1946~1963」における厚田雄春への小津監督の言及のあまりの少なさとか、例の「女中に手を付けてしまった」発言などを考えると、小津監督は厚田氏をあくまで内輪のスタッフとして冷徹にみていたことが分かります、その裏付けとして、大映に出向いて宮川一夫と仕事をした際の、過剰ともいえる気の使い方や、敬意の払い方を伝えるエピソードなどを読み比べてみれば、あるいは、おのずとそこに答えは出ているのかもしれませんね。



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# by sentence2307 | 2017-06-04 08:59 | 映画 | Comments(0)

花芯

この「花芯」という作品が、もの凄く優れた作品なのか、それとも単に奇をてらっただけの愚劣な作品にすぎないのか、ずっと考え続けているのですが、もうかなりの期間、考えをまとめられないまま煩悶の日々を過ごしています。

そして、いまでは、この「花芯」は、自分にとって「躓きの石」というか「死の棘」というか、そういう作品になっていて、まるでそれは黒々とした癌細胞のように自分の内部を侵蝕しつづけています、たぶん、こういうのを「脅迫観念」とでもいうのだろうななどと、まさに恐慌状態にあります。

しかし、そんなふうに共感はおろか理解のできない映画というなら、なにもこれが最初の遭遇ってわけでもないので、この作品もそのうちの一作とみなしてさっさと思考放棄してしまえば、それはそれで済むことなのですが、しかし、それがなかなかできません。

それに、たとえ、自分の第一印象が「嫌悪」や「理解不能」であったとしても、また、この作品自体のチカラ不足のために見る側に十分な理解を届けられない卑力な映画なのだからと「負い目」に感じる必要はないと思う一方で、そういう作品にだって(「だからこそ」というべきか)なんらかの「伝えたいもの」があるはずで、たとえそれが自分にとって「負の部分」に位置するものであっても、そのことを理由として、つまり自分の「負の部分」を占めるものは一切考えないし書くことも放棄するのかという部分で引っ掛り、自分は「躊躇」し「煩悶」もしてきたのだと思います。

それに、自分の反応として、せいぜい「嫌悪感」くらいしかなかったのですが、やはりそれが「反応」のひとつであるなら、そのことをもって「思考停止」につなげるのはなんだか違うかなという思いもあり(むしろ、そちらの方が大きいかも)、たぶんそんなふうにこの作品を放棄したら、いままでの経験から、きっとあとあとまで後悔するに違いないと思いました。

思考停止して、過去に置き去りにしてきた「書けなかった作品」というのが、自分の中ではまるで「水子」か「喉につかえた魚の骨」みたいに、記憶の底深くに淀み沈殿しつづけ、ときおり疼き出して、その存在を痛みとして意識することに辟易しているので、いま目の前にあるこの映画「花芯」までミスミスそのうちのひとつとすることに戸惑うものがあるからかもしれません。

ですので、書けないのなら書けないなりに、そこに確かに存在しているものだけを頼りにしてでも、つまり「花芯」という作品に対して持った、たとえ「苛立ちと嫌悪感」だけを手掛かりにしてでも、ということですが、考えを少しでも前へすすめてみようかと思い立ちました、そして、足掻きついでに、この映画の感想をサイトでざっとオサライしてみました。

「この女性(主人公の園子です)は、誰も幸せにできないし、自分も幸せになれない感じで切ない。男性からすると、どう扱っていいものやら、どうしようもないって感じですかね。」とか、

「全く理解できないふしだらな女の話で、当時なら青線や赤線ででも働けば、きっと天職だっただろうにという感想しか思い浮かばなかった。」とか、オオムネこんな感じでしょうか。

しかし、この感想の背後に、自分が感じたのと同じ「嫌悪感」が見え隠れしているところからすると、このコメント氏もきっと男性に違いありません。

この「誰も幸せにできない」とか「青線や赤線ででも働けば、きっと天職だ」という、本質論とはまるで無縁の感情的な感想は、逆にいえば「自分のことを幸せにしてくれない女は駄目だ」とか「フシダラな女は、自分の伴侶にしたくない」と読み替えもでき(そこに男性の側の身勝手な願いや一方的な危惧が込められているだけなら)、当然、女性の側にだってそれなりの言いたいことも在り得るわけで、そこのところを是非とも知りたいと思いました。

たぶん、検索するまえの自分は、「男の所有物になって、経済的にも性的にも支配下に置かれることに反発する」という「男におもねらないで生きる時代を先取りした女性讃歌」みたいなコメントを想定していて(その延長線上で「寂聴先生バンザイ」なんていうのもあるかもしれません)、検索前に自分がどういう方向で論を進めていこうとしているのか、すでに無意識下で組み立てていたと思います。たぶん、ジェンダーギャップみたいな方向からのアプローチとか、ですが。

しかし、意外なことに、自分の安易な予想は、悉く裏切られました。

多くのコメントは、この作品を「理解」しようと務めてはいるものの、手放しの「好意的」なコメントはまったく見当たらない、「性差」を論ずる以前に「なんだか嫌な感じ」みたいなものがほとんどで、いわば「シャットダウン」的な拒否反応という印象を受けました。

「そうか、分かった!」思わず自分は膝を叩きました。

つまり、これってこういうことですよね。

「それが、どういう世界のことかは不明だけれども、とにかくフツーの人間の理解を阻む『いかがわしさや嫌悪感』だけなら、それは確かに『ここ』にある」みたいな。

つまり、(「つまり」だかどうだか分かりませんが)「それでも地球はやっぱ回っている」だったのです、自分の「嫌悪感」だけは確かに正しかった、のです。

自分は、この「花芯」という作品を、いつの間にかトッド・ヘインズ監督作品「キャロル」2015と同じタイプの誠実な作品と思い込み、必死になってその次元で理解しようと努めていたために、なおさら「理解」できずに(最初からそこには「出口」なんかなかったのですから当然だったのです)、拒否反応のような「嫌悪感」だけが、まるでサーモスタットか安全装置のように反応・機能して、思考がシャットダウンしたのだと始めて気がつきました。

あの作品において、中年女キャロルがテレーズを求めたのは、なにもレスビアンとして彼女の若い肉体をムサボリたかったからではありません。そもそもキャロル自身が真にレスビアンだったかどうかさえきわめて疑問と考えているくらいです。

もはや嫌悪感しか抱けない夫との冷え切った夫婦関係を修復できないまま、娘の親権さえ失おうとしているなかでキャロルはテレーズと出会います、上辺だけの人間関係に上手に適応できずに疲れ切り、世間の悪意ある偏見をうまく捌けないまま社会の片隅に追いやられようとしている孤独を抱え込んだ彼女にとって、その「孤独」を理解し合えるその一点で寄り添う誰かが必要だったというだけで、たとえその関係を成立させるものが、仮に「レスビアン」だったとしても一向に構わない、それは単にひとつの関係を築く手段にすぎないというだけで、孤独な人間同士が結びつくことができれば、その理由づけなんて実は「なんでもよかった」のだというのが、自分の印象でした。

しかし、映画「花芯」は、そういう世界のことが描かれているわけではありません。

親が決めた「いいなずけ」と結婚した園子は、夫との無味乾燥な夫婦関係を惰性的に続けていくうちに、逆に「無味乾燥でないsex」があることを徐々に肉体的に自覚します。

そして彼女は、「大恋愛」と思い込みながら夫の上役・越智と肉体関係をもちますが、実はそれは「無味乾燥でないsex」の歓びを自己証明するためのほんの最初の試みにすぎなかったということが、第二の自己証明としてなされる画学生・正田との性交のあとの「な~んだ、こんなことだったのか」というヒステリックな不意の高笑いによって彼女の「性の気づき」は的確に描かれています。

性交における肉体の歓びの前では、「親子関係」や「夫婦関係」と同じように、真実らしくみえる「恋愛関係」(じつは不倫です)でさえも空々しく、ただの取り繕ったマヤカシにすぎないことを、このとき園子は見抜きます(あるいは、「見抜いた」と錯覚します)。

しかし、彼女が、本当に「見抜いたのか」どうか、僕たちの抱いた「嫌悪感」は、まさに「そのこと」を正しく感覚的に否定していたのだと思います。

そのとき彼女の感じた性の歓びは、小学生や中学生が発見するのと同質の、極めて素朴な、単なる「自慰」の切っ掛け程度の「訪れ」でしかなかったはずなのに、園子にとっては、親が決めた許婚に唯々諾々と従ったように同じ無能な無抵抗さで、襲いかかる「快楽」にも唯々諾々と蹂躙・従属しただけのことにすぎなかったのであって、そのダラシナサや、「きみという女は、からだじゅうのホックが外れている感じだ」というセリフの演出者の解釈間違い(だらしない歩き方や阿部定のような着崩れでしか表現できない演出者の底知れない無能)が、僕たちに堪らない嫌悪感を抱かせたのだと思います。

フツーの人間ならやり過ごせるその性との遭遇を「事大」にしか認識できない意志薄弱な園子は、驚き戸惑い、自分の中で上手に処理できないまま(中学生がオナニーにふける他動的な熱心さで)性の快楽にのめり込んでいったにすぎません。

それは、少なくとも僕たちの世界のものではないし、映画「キャロル」が描こうとしたものでもありません。

むしろそれは、「わが秘密の生涯」や「O嬢の物語」や「悪徳の栄え」で描かれるべきものであって、そうである以上、同時に社会の見え透いた価値観に敢然と立ち向かい、みずからの全存在と命を懸けて戦いつづけ、ついには早世を余儀なくされた誠実な文人たちと同じような誠実さが不可欠だったのに、しかし、瀬戸内晴美こと寂聴は、よりにもよって、仏門などといういかがわしい見当違いな場所に逃れ込み身を隠してのうのうと小銭稼ぎに精を出しているという偽善者以外のなにものでもないことに心底あきれかえり、その「あきれ返り」の直感として、僕たちのあの「嫌悪感」があったのだと思い当たりました。

ラストシーン、久しぶりに逢った実の子供に手を差し伸べたとき、母親として・人間としての存在そのものを全否定されるような子供からの拒否にあったとき、園子はただぶざまな薄笑いを浮かべることしかできませんし、そこにはいささかの演出の工夫もありません。

そこにはただ、どうしていいか分からないでいる単なる定見なき淫乱女の惨憺たる戸惑いが描かれているにすぎませんでした。


(2016日本)監督・安藤尋、原作・瀬戸内寂聴『花芯』(講談社文庫刊)、脚本・黒沢久子、製作・間宮登良松、藤本款、エグゼクティブプロデューサー・加藤和夫、根上哲、プロデューサー・佐藤現、成田尚哉、尾西要一郎、キャスティングディレクター・杉野剛、ラインプロデューサー・熊谷悠、撮影・鈴木一博、照明・中西克之、録音・小川武、美術・小坂健太郎、編集・蛭田智子、助監督・石井晋一、
出演・村川絵梨(古川園子)、林遣都(雨宮清彦)、安藤政信(越智泰範)、藤本泉(古川蓉子)、落合モトキ(正田)、奥野瑛太(畑中)、毬谷友子(北林未亡人)、



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# by sentence2307 | 2017-05-28 10:32 | 映画 | Comments(0)

阪東妻三郎の強欲

wowowで放送した番組を、たとえそのとき見逃しても、パソコンでいつでも見ることができる「メンバーズ・オンデマンド」というのがあって、これってなかなかの優れもので、結構便利に活用させてもらっています。

とにかく、放送時間にこちらが合わせなくてもよくて、しかも、わざわざテレビの前に陣取る必要もないという「時間と場所」に拘束されないで済む自由で手軽なところが大いに気に入っています。

しかし、考えてみれば、「放送時間に合わせてテレビの前に座るのが億劫だ」なんて、なんという怠惰かと我ながら呆れ返りますが、思えばこの手の進化って、テレビのコントローラーが登場したあのあたりから、こんなふうな便利グッズへの「依存と鈍感」が始まったのではないかという気がしています。

便利に使わせてもらっていて、散々恩恵を受けているくせに、こんなふうに言うのも随分と身勝手で気が引けるのですが、逆にいえば、視聴者に対するメーカーの際限のないオモネリが、どんどん歯止めがかからなくなったという面もあるような気がします。

視聴者をただ甘やかしているにすぎない現実の「技術の進歩」が目指している定見なき「方向」というものが、なんだか間違っているのではないか・本当にこれでいいのかと、家電メーカーの凋落の報に接するたびに、なんだか分からなくなることがあったりします。

そういえば、むかしのテレビは、チャンネルを合わせるたびに、ダイヤルをガチャガチャ回していたわけで、それだけにダイヤル部分の劣化が激しく、故障といえば、まずはダイヤルの接触不良によって画像が写らなくなるというのが、最もポピュラーな故障だったように記憶しています。

応急処置として、その緩みはじめたダイヤルの下に文庫本かなにかを当てがい持ち上げておけば、しばらくはどうにか写るのですが、また少し経つと再び画像が乱れて薄れ始める、さらに文庫本を追加して持ち上げる、なんてことを際限なく繰り返しているうちに、いよいよ画像が心霊写真状態になって、とたんに「プシュー」とかいって消え、ついになにも写らない「放送終了画面」(当時は、深夜の放送はありませんでした)に至るということが多かったような気がします。

しかし、そんなふうに故障しても、当時はとても高価だったテレビ受像機のことですから、そう簡単に買い替えるなどという発想はなく、町の電気屋さんに幾度も修理にきてもらい、散々手を尽くし、いよいよ「こりゃ駄目だ」と最終宣告を受ける臨終状態になるまで、どうにかテレビ受像機を持たせていたことを思い出しました。

それを思うと、「死なないダイヤル」を生み出したテレビのコントローラーっていうのは、物凄い発明だった代わりに、その発明自体がテレビ受像機の販売台数を激減させた原因ともなったのだとしたら、なんだか皮肉な話だなあと思ったりしました。

話が物凄く横道に逸れてしまいましたが、なんでしたっけ、あっそうそう、wowowの「メンバーズ・オンデマンド」でしたよね。

アレ、結構よく見ていて、いまでもジャンル的には圧倒的に「映画」をチョイスすることが多いのですが、先日たまたま「ドキュメンタリー」というジャンルを選択してみました。

しかし、別に、この選択が初めてというわけではなくて、少し前に「アンダーカバー・ボス」とかいうアメリカの番組をよく視聴していました。

企業の社長とかCEOが変装して、身分を隠して自社の工場に新米の臨時工として入り込み、現場の様子(勤務状態とか不満とか)をつぶさに実見し、忠誠心を正当に評価されていない社員には金銭的な顕彰をして感謝・感激を強要するというなんとも安普請の「泣かせ番組」なのですが、その変装といっても、ヅラをつけて眼鏡をかけた付け髭という誰が見たってすぐに「あっ、社長だ」と分かってしまう程度のもので、それらを撮影するカメラだって別段隠す様子もないという「ヤラセ」はみえみえ、しかし、そういうことすべてを差し引いても、結構面白く見ていたのは、最後の「恐れ多くもここにおわしますのは」という水戸黄門的な、社長が身分を明かしたときの従業員のワザとらしいお約束のサプライズ・リアクションと、生活苦にある忠誠心に満ちた社員にボーナスを与えるときのスーパー・サプライズ・リアクション(感謝する従業員は大げさに号泣し、社長も貰い泣きします)にあるのですが、注目は、噓泣きしている貧しく哀れな従業員の方ではなくて、むしろ、二代目か三代目と思しき苦労知らずの若社長の見え透いた「どや顔」の方にあり、アメリカのクールな経営者たちがもし仮に、いままでの労使間関係になんらかの反省があって、ウワベではこうした家族的な繋がりもまた必要だなどと考えているのだとしても、アメリカの現実おいては、すでにシビアな格差社会(もはや移動不可能な固定された強固な階級社会です)がすっかり成熟して極限まで進行していて、すでに「自由と博愛」を語る小奇麗なタテマエなどとうに崩れており、そういう貧乏人の怒りを煽り、彼らの苛立ちを利用して仕事を奪う移民の排斥と過剰な保護主義政策を標榜して、実はひと儲けしようと画策している「死の商人」にすぎない「荒唐無稽なトランプ」を合衆国大統領に選出してしまうという、切迫した怒りの本音を吐露せざるを得ない貧困に苦しむ追い詰められた労働者たちが、この番組では、まるで従順な哀れで無力な羊にすぎなくて、そういう惨憺たる状態にある人間関係を、札びらを切って(あるいは、社長のポケットマネーを小出しにするような上から目線の見えすい行為によって)塗り固めようと夢見る経営者たちの見え透いたグロテスクなその時代錯誤の視点の噓寒さと滑稽さに(それが彼らのリアルの限界です)たぶん自分は惹かれ続けていたのだと思います。

それに、この愚劣な猿芝居(想像力の限界)を見ていると、アメリカのクールな経営者たちにとって、日本の「終身雇用」などという慣行は、まるで集団自決か自滅行為=カミカゼ特攻隊みたいな荒唐無稽で無謀な慣行としか考えてない冷笑さえ感じ取れる、実に興味深いものがありました。

あっ、またまた話が横道に逸れてしまいましたね。

≪その日、たまたま、ジャンルをいつもの「映画」ではなく、「ドキュメンタリー」を選択したとき≫までに話を戻しますね、やれやれ。

その日、たまたま、ジャンルをいつもの「映画」ではなく、「ドキュメンタリー」を選択したとき、真っ先に、「阪東妻三郎」の笑顔の写真が目にとまりました。

へぇ~、こんな番組があったんだと、意外な感じでちょっと驚きました。

タイトルは、「ノンフィクションW 阪東妻三郎 発掘されたフィルムの謎 ~世界進出の夢と野望」というものなのですが、なんで「意外な感じ」をもったのかというと、つい最近、高橋治の「純情無頼 小説阪東妻三郎」という本を読んだばかりだったので、この偶然になんだか不思議な巡り合わせを感じたからかもしれません。


高橋治には、「絢爛たる影絵―小津安二郎」という名著があって、読んだ当時は、随分ハマってしまいました。
その当時、自分もこの本から幾つかのネタを拝借した覚えがあります。

この著者の魅力は、なんといってもご当人が、しばらく松竹の撮影所に在籍していて、多くの絢爛たる映画人にジカに接したという生の経験の「引き出し」を多く持っていることで、紹介するエピソードの豊富さと迫力は群を抜いており、いわば余人の口出しを許さない「犯人しか知りえない事実の重み」みたいなものを語れる「特権的立場」にあるといえるからでしょう。

これは書き手とすれば最強であって、いわば「独壇場」には違いないのですが、その一方で、その関係があまりにも近すぎると「しがらみ」という要素が勝って、ややもするとそのエピソードに見え隠れする「きな臭い事実」の部分については、あからさまな言及ができずに口を閉ざすという、自制を伴う「足枷」も背負い込むという弱点もないわけでなく、その配慮が過剰であれば、当然単なる「ヨイショ本」に堕落するというリスクのあることは容易に想像できます。

紅白歌合戦のような華やかな「絢爛たる影絵―小津安二郎」においてなら「独壇場」という真価を十分に発揮できたものも、「純情無頼 小説阪東妻三郎」にあっては、「しがらみ」が大いに災いして、機能したのは「ヨイショ」の視点だけという残念な印象を受けました。
そして、今回wowowで見た「ノンフィクションW 阪東妻三郎 発掘されたフィルムの謎 ~世界進出の夢と野望」もまた、同じようにその無残な「ヨイショ」的な視点の域をいささかも出ていなかったのではないかという感じを持ちました。

このドキュメンタリーは、サブタイトルにもあるように阪東妻三郎の「世界進出の夢と野望」という文字通り華々しい視点から作られたものですが、しかし、映画史的に見れば、このユニヴァーサル社との提携と破局に至るまでの事情について、もうひとつ別の観点がなかったわけではありません。

田中純一郎の「日本映画発達史 Ⅱ」には、ユニヴァーサル社の現代劇部長だったという近藤伊与吉の談話が紹介されていますが、かくいう近藤伊与吉もユ社との契約解除後に「美しき奇術師」(1927)という作品を監督したと記録されています。どういうイキサツでユニヴァーサル社の現代劇部長になり、契約解除になったあとに提携作品を監督し(たぶん、残債整理ということもあったかもしれません)、そしてどういう立場で以下のようなコメントを残したのか、大いに興味があります。


≪ユ社は、The Picture of Bantsuma,Tachibana and Universal Corporation のCorporationは、製作を含めた興業、配給の共同責任と解釈し、阪妻、立花はCorporateしても、製作は自由で、ユ社は配給と興業に専念すればよい、と解釈した。だから、アメリカから技術者が来たり、製作上のアイデアをいくら持ってきても少しも受けつけず、ユ社と契約して来た自分などは、異端者扱いにされた。何よりもいけないことは、阪妻、立花は、1フィートいくらでユ社にネガフィルムを売り、これによってユ社は独占権を持つというだけの、紳士契約であった。ユ社は第一回配給映画を試写した時から、この紳士契約に悩まされた。1フィートいくらで買うのだから、どんな作品でもいいのだというので、片っ端から出鱈目な作品を製作した。尺数が予定に足らなければ、金のかからぬタイトルを、どしどし長引かしたのである。つまり、「あっ! しまった!」というタイトルは、通常1フィートでよいのに、それを6フィート、10フィートにして、観客はいつまで経っても「あっ! しまった!」を熟読し玩味しなければならなかった。だが、ユ社はこれに対しても、劇的場面同様、1フィートいくらの代金を支払わされたのである。≫


ユニヴァーサル社相手に尺数で金儲けを画策した「商魂」と、作品によって世界進出を図ろうとした「野心」とのあいだにどういう整合が成り立つのか、いまさら誠実さだとか営業倫理などを持ちだすまでもなく、ただひたすら戸惑うばかりですが、少なくともこのドキュメンタリーのタイトルに「世界進出の夢と野望」など到底似つかわしいとは思えず、この小文のタイトルとして冒頭に掲げた「阪東妻三郎の強欲」くらいが最も相応しいのではないかと愚考した次第です。


提携作品は、以下のとおりです。


★1927年 1月
1 「切支丹お蝶」原作脚本監督山上紀夫、撮影ハロルド・スミス・高城泰策、照明アル・ボックマン、主演五月信子、高橋義信 (※同時上映『大帝の密使』ヴィクトル・トゥールジャンスキー監督) 
★1927年 2月
2 「吸血鬼」監督山口哲平   
3 「笑殺」監督川浪良太、製作ジェイ・マーチャント、原作・脚本志波西果、主演金井謹之助   
4 「青蛾」監督鈴木重吉  
5 「突風を突いて」監督深海陸蔵  
6 「狂乱星月夜」監督悪麗之助  
7 「馬鹿野郎」監督志波西果   
★1927年 3月
8 「相寄る魂」監督小沢得二  
9 「濁流」監督多々羅三郎  
10 「明暗」監督安田憲邦  
11 「血潮」監督深海陸蔵  
12 「若人とロマンス」監督服部真砂雄  
13 「逆生」監督石川聖二  
14 「輪廻」監督門田清太郎  
15 「潮鳴」監督小沢得二  
16 「愛怨二筋道」監督宇沢芳幽貴  
★1927年 4月
17-1 「嵐に立つ女・前篇」監督小沢得二  
18 「泥濘」監督山口哲平  
17-2「嵐に立つ女・後篇」監督小沢得二  
19 「武士の家」監督深海陸蔵  
20 「惑路」監督笹木敦  
21 「当世新世帯」監督小沢得二  
22 「石段心中」監督古海卓二  
23 「仇討奇縁」監督宇沢芳幽貴  
24 「湖」監督服部真砂雄  
★1927年 5月
25 「雲雀」監督鈴木重吉
26 「兄貴」監督小沢得二  
27 「閃影・前篇」監督悪麗之助  
28 「閻魔帖抜書」監督宮田十三一  
29 「街道」監督石川聖二  
30 「弱虫」監督鈴木重吉  
31-1 「飛行夜叉・前篇」 監督宇沢芳幽貴  
★1927年 6月 契約解除後  
32 「武士なればこそ」 監督山口哲平  
33 「港の灯」 監督印南弘  
★1927年 7月
34 「美しき奇術師」 監督近藤伊与吉  
31-2「飛行夜叉・中篇」 監督宇沢芳幽貴(最終作品、後篇は製作せず)




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# by sentence2307 | 2017-05-05 09:41 | 映画 | Comments(0)
ずいぶん以前にアップした作品のコメントに、最近になって多くのアクセスをいただいて、意外な思いをしたことが幾度かありました。

例えば、松本俊夫監督が亡くなられた時には、「薔薇の葬列」に多くのアクセスをいただきましたし(あの訃報を知った日、自分も書棚から久しぶりに「映画の革命・芸術的ラジカリズムとは何か」を引っ張り出して、学生時代に引いた傍線の力のこもった文体にしばし読みふけり、受けた影響の大きさとか、鋭い論理で既成の価値観に決然と立ち向かった松本監督の孤高の「過激」をひとりしみじみと偲びました)、そのほかにも、思い出の作品に多くのアクセスをいただいたときなど、きっとどこかのチャンネルでその作品が放映されたに違いないという当て推量で、懐かしさも手伝って、もし再放送でもあれば是非みたいものと考え、大急ぎで検索をかけてみたことも再三ありました。

それに、自分が、当時いったいどんなことを書いたのかも、とても気になりますので、テレくささを抑え、恥ずかしながらと拙文をチラ見することもしばしばあり、ここ数日のことについていえば、成瀬己喜男監督の「山の音」がまさにそういう感じでアクセスをいただきました。

おそらくはきっと、この作品も、どこかの上映会かチャンネルで放映したに違いありません。

そして、本当に久し振りに自分のその感想なるものを読み返してみたのですが、文章のあまりの稚拙さ・言葉足らずに思わず顔が赤らみ、恥ずかしさでひとりウツムイテしまったほどだったものの、しかし、思えば、その稚拙さは、「言い回し」とか「語彙の貧しさ」とか「文体」についてだけのことであって、当時必死になって書こうとしたことのエッセンス自体は、「いま」でも、さほど変わっているとは思えません、いや、もしかすると同じようなことをまた書いてしまうかもしれないなというのが正直なところです(人間の感情というものは、たとえ時間がいくら経過しても、そう簡単には「変わったり、進化したり」するようなものではないということなのだろうと思います)。

さて、今回、自分の書いたものながら、読んでいるうちに、ハッと気づかされることがありました、最近見た幾つかの映画で共通して感じた「あること」が、その「山の音」のコメントのなかに書き込まれていたからでした。

少し長めの引用になりますが、「その部分」を契機にして自分が感じたことも併せて書いてみようかと思います。


≪「山の音」一部引用≫
「夫の異常な性向は、事務所の女子事務員を伴って愛人宅を訪れるという不自然なシチュエーションに加えて、さらに、その愛人と同居しているという女友達をも巻き込みながら、酔って荒れるという「乱交」的な異常さを連想してしまうような部分に簡潔に描かれていると思います。
そうした異常な余韻を受けて、観客は「娼婦の真似など出来ない」妻を追い詰める夫の冷ややかな朝のシーンの皮肉な言葉に、夜の寝間での夫婦の性的なやり取り(ある性技の要求と拒絶、あるいはその延長にある無理矢理の性交)という秘められた淫らなイメージがどこまでも広がっていき、だからこそ妻は、自分に宿った命を殺すという堕胎によって、そういう夫に対する拒絶の意思を明らかにしたのだと思います。」

*

最後の部分「だからこそ妻は、自分に宿った命を殺すという堕胎によって、そういう夫に対する拒絶の意思を明らかにしたのだ」というところですが、これってまさに最近見て感銘を受けた「レボリューショナリー・ロード / 燃え尽きるまで」(2008サム・メンデス監督)そのものじゃないですか。


会社での仕事が思うようにいかずに、すっかり生気を失って苛立ちを募らせている夫(レオナルド・ディカプリオが演じています)を見かねた妻(ケイト・ウィンスレットが演じています)は、こんな淀んだ生活なんかさっさと清算し、心機一転、かつて夫が夢のように語っていた「パリでの新生活」を提案します。

最初は半信半疑だった夫も、すっかり行き詰ったこの生活(妻とのあいだにも不協和音があり、言い争いが絶えません)を打開するには、あるいはいいことかもしれないなとちょっぴり気持ちを動かされ、ずるずると妻に同意してしまいます。

しかし、この時ですら、「パリでの新生活」に対して、ふたりの気持ちがぴったりと寄り添っていたかといえば、それはきわめて疑問だったといわねばなりません。

夫は、表向きには妻の提案に同意したものの(正確には、「拒否できなかった」からというのが本音です)、意識のどこかで、「そんな夢みたいなことなど、できるわけがない」と高をくくっていて、それは、そう決めた以後の夫の奇妙な陽気さと快活さ(そこにあるのは、パリ行きなど、所詮は非現実的な絵空事としか捉えてない実感のなさからくる解放感です)に序実に表れているように思えます。

そんな折、夫は図らずもオーナーから自分の仕事を評価され、破格の待遇で共同経営者にならないかと誘われます。

気持ちが揺らぐ夫に対して、その優柔不断さを妻は厳しく詰ります。

そしてある日、夫婦は修復不可能なくらいに互いを激しい言葉で難詰し、非難し、卑しめ、完膚なきまで傷つけ、もはや互いに共感できるものなど何ひとつ残ってないという極限の絶望の淵まで追い詰め、疲れ切って失意の夜を過ごします。

そして翌朝、すっかりぼろぼろになった夫は、「もはや、すべてを失ったのだ」という絶望と不安のなかで起き出していった台所で、不意に、背中を向けて甲斐甲斐しく朝食の支度をしている妻の姿を見出します。

妻は、静かに振り向き、優しい笑顔で夫を迎えます。

昨夜、口汚く罵り合った激しく無残な言葉の応酬は、あれは錯覚かマボロシにすぎなかったのかと思わせる奇跡のように穏やかな朝の食事をとりながら、ふたりは静かに言葉を交わし、微笑み合い、深く心を交わす(かに見える)素晴らしいラスト・シーンでした。

そして、妻は夫に穏やかに語り掛けます。

妻「夢を話しているときのあなたが、とても好きだったの」

夫「どの夫婦もするように、微笑みを交わしながら静かに朝食を食べ、そして、妻に笑顔で送り出されて会社にいく平凡な毎日が自分の望みだったんだ」

思えば、妻と夫のこの言葉のあいだには、修復不能な絶望的な亀裂があって、夫は「これで、すべてうまくいく」と喜びに胸躍らせて会社に向かっているそのとき、妻は、夢を失い、愚劣な「現実」を嬉々として語る夫に失望しながら、失意の中でお腹の子供(という「現実」)をオロス作業にわが身を傷つけ、そして失敗し、苦悶のなかで血まみれになって無残に息を引き取っていきます。

最初から「パリの新生活」など求めてもいなかった夫には、妻を不意に失ったその理由も、彼女が熱く求めていた夢のことも、結局は理解できなかったのだと言わざるを得ません。

「レボリューショナリー・ロード / 燃え尽きるまで」で描かれた妻と夫の絶望的な亀裂の物語は、日常に深く根ざした成瀬作品「山の音」が描いた妻の失意と諦念の物語に比べれば、随分と観念的なストーリーと感じられてしまうことは否めないとしても、それだけに一層ピュアなものを感じてしまったのかもしれませんね。


当初、「堕胎によって夫を見限る妻たち」と大きく構えてタイトルをつけたのは、橋口亮輔監督の「ぐるりのこと。」と、マイケル・ウィンターボトム監督の「トリシュナ」を絡めながら書くつもりだったのですが、ついにチカラ及ばず息切れして、残念な結果に終わらせてしまったことを告白しておかなければなりません。

アシカラズ


Revolutionary Road
(2008アメリカ・イギリス)監督・サム・メンデス、脚本・ジャスティン・ヘイス、原作・リチャード・イェーツ『家族の終わりに』(ヴィレッジブックス刊)、製作・ボビー・コーエン、ジョン・N・ハート、サム・メンデス、スコット・ルーディン、製作総指揮・ヘンリー・ファーネイン、マリオン・ローゼンバーグ、デヴィッド・M・トンプソン、音楽・トーマス・ニューマン、撮影・ロジャー・ディーキンス、編集・タリク・アンウォー、プロダクションデザイン・クリスティ・ズィー、衣装デザイン・アルバート・ウォルスキー、音楽監修・ランドール・ポスター、製作会社・BBCフィルムズ、ドリームワークス
出演・レオナルド・ディカプリオ(フランク・ウィーラー)、 ケイト・ウィンスレット(エイプリル・ウィーラー)、 キャシー・ベイツ(ヘレン・ギヴィングス夫人)、 マイケル・シャノン(ジョン・ギヴィングス)、 キャスリン・ハーン(ミリー・キャンベル)、デヴィッド・ハーバー(シェップ・キャンベル)、 ゾーイ・カザン(モーリーン・グラブ)、 ディラン・ベイカー(ジャック・オードウェイ)、 ジェイ・O・サンダース(バート・ポラック)、 リチャード・イーストン(ギヴィングス氏)、 マックス・ベイカー(ヴィンス・ラスロップ)、 マックス・カセラ(エド・スモール)、 ライアン・シンプキンス(ジェニファー・ウィーラー)、 タイ・シンプキンス(マイケル・ウィーラー)、 キース・レディン(テッド・バンディ)、



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# by sentence2307 | 2017-04-23 16:52 | 映画 | Comments(0)
インターネットの怒涛のような普及で、web対応に遅れた雑誌(紙ベースにこだわってきた雑誌は特に悲惨です)は、刊行部数激減の果てに、雪ダルマ式に負債を増やしながら追い詰められ、どんどん廃刊に追い込まれている現実に歯止めがかかりません。

雑誌の刊行部数の戦後最低記録を年毎にますます塗り替え続けているというのが現状です。

通勤電車のなかで雑誌はおろか新聞を読んでいる人さえ最近はまったく見かけませんし(ましてや書籍などトンデモナイという感じですから)、町で行き交う人たちが片手に雑誌を抱えている姿など見なくなりました。

スマホがそういう日常風景の在り方を根本から変えてしまったのでしょうね、驚くべきことだと思います。

以前ならサラリーマンが週刊誌(自分の場合は「週刊文春」か「週刊新潮」でしたが)を抱えている姿などザラだったし、なかにはあの分厚い「文芸春秋」をさえ持ち歩いていた人もいたくらいですから、いまの出版業界の閑散としたシャッター状態と比較すると、ほんとに昔日の感があります、実にさびしい限りです。

まあ、ハナから発行部数が少なかった学術誌や地味系の専門誌などは、それでも律儀な固定読者がしっかりと支えてくれているので、どうにか踏みとどまっているらしいのですが、もっとも厳しい局面にあるのが膨大な発行部数を誇っていたトレンディなファッション雑誌や料理本など趣味の本関係ということらしいのです。

しかし、なにも読者が「ファッション」や「レシピ」の情報を必要としなくなったのかといえば、そうではなくて、いま必要な部分だけが提供される「切売り」があれば十分(まさにスマホです)なので、いま必要としない情報までには金は出さないという「シビア」な姿勢に変わってきたのだと思います。

そういう熾烈な状況を考えると、自分が愛読している「キネマ旬報」などは、随分と頑張っていると思います、実にたいしたものだと常々感心している次第です。

まあ、これからちょっと苦言を呈しようかと思っているので、ここはひとつ軽く褒めておかないといけないかなということで。
しかし、この「キネマ旬報」、月にたった2回の配本だというのに、(自分のズボラとテイタラクを棚に上げて言うのもなんですが)ここのところ、じっくり腰を落ち着けて読んだという記憶がありません。

いえいえ、記事がつまらないということではなくて、むしろ「ぜひとも読んでみたいという記事があるのにもかかわらず」ですから、そこを「読み逃」してしまう(イメージは「見逃す」と同じです)というのですから、自分のグウタラ振りもほとんど重症です。

そのなかで、これだけは是非ともじっくり目を通したい・通さねば、という一冊がありました。それは去年の11月下旬号掲載の「100%監督主義」という巻頭の特集記事で、サブタイトルが「100人の評論家が選んだ外国映画監督ベスト・テン」という物凄い企画です。
なるほど、なるほど。

世の中の急激な変化を敏感に反映する映画のことです、昨日の情報が、今日には役立たないなんてことは当然で、入れ替わりの激しいトレンディな「映画監督情報」なら是非ともチェックしておきたいとは気になっていながら、なんだかんだと延び延びになり、ついに「今日」になってしまいました。

記事の構成は、「外国映画監督ベスト・テン」の12人(同数として7位が2人、9位が4人)が顔写真入りで紹介されており、次頁に、下位の監督名がずらっと並んでいます。

大まかに振られているNo.を辿っていくと総勢361人になる勘定なのですが、実は、189位とすべき箇所を「289位」と表示したミスプリントがあって、実のところの総勢は、261人であることをリスト(下記参照)を作成して確かめました(「読者1位」は、読者のベストテン1位の意味です)。

そして、リストのうち1行空けた箇所は、そのグループの獲得ポイントの境目で、例えば、

クリント・イーストウッドの81ポイントの1位からはじまって、ドゥニ・ヴィルヌーヴの43ポイントの2位、ポール・トーマス・アンダーソン30ポイトンの3位、という具合にベストテングループがあり、順次ずっと下がって、【アベル・フェラーラ】のグループがすべて3ポイント獲得、【アヌラーグ・バス】のグループがすべて2ポイント獲得、【アキ・カウリスマキ】のグループがすべて1ポイント獲得した監督という感じで下位の大きなグループが極めて僅差な点差で接しています。

しかし、考えてみれば、なんとアバウトで大味なランキングかとあきれてしまいました。なにしろ、各グループ内は、きっちり「五十音順」になっているところを見ると、最初に五十音順になっている整然たるリストがあって、それを切り取ってきただけらしいイージーさです、あきれないわけにはいきません。

なにしろ、たった2ポイントの差で100位からの差がついてしまううえのこの「五十音」ですから、どこがベストテンかと、思わず苦笑してしまいました。日本の雑誌でこんなことして遊んでいるなんて知ったら、カウリスマキはなんて言うでしょうね、うっかり教えられませんよね。

知られたら大変だ、もう日本になんか来てくれないかもしれません。

それに、末尾に掲げた4人は、読者のベスト10でランクされていた監督なのですが、業界人が選んだ261位にも入らなかったというわけで、「それってどういうことなの」という気分です。

なんだか釈然としませんが。

以下は、ランキング・リストです。とにかく「労作」です、褒めてください。


【クリント・イーストウッド】1位・読者2位
【ドゥニ・ヴィルヌーヴ】2位・読者5位
【ポール・トーマス・アンダーソン】3位
【ミゲル・ゴメス】4位
【ウェス・アンダーソン】5位・読者17位
【デイミアン・チャゼル】6位・読者9位
【ジャン=リュック・ゴダール】7位
【キム・ギドク】8位
【ジャン・ジャンクー】9位・読者26位
【ラース・フォン・トリアー】10位
【クリストファー・ノーラン】11位・読者1位
【ジョエル&イーサン・コーエン】12位・読者20位

【ジョニー・トー】13位・読者14位
【パオロ・ソレンティーノ】14位

【グザヴィエ・ドラン】15位・読者8位
【スティーヴン・スピルバーグ】16位・読者7位
【トッド・ヘインズ】17位
【リチャード・リンクレイター】18位・読者28位

【アルフォンソ・キュアロン】19位
【アルハンドロ・ホドロフスキー】20位
【イエジー・スコリモフスキー】21位

【アピチャッポン・ウィーラセタクン】22位
【アスガー・ファルハディ】23位
【クェンティン・タランティーノ】24位・読者4位
【トーマス・アルフレッドソン】25位
【ブリランテ・メンドーサ】26位
【ホン・サンス】27位
【ワン・ピン 王兵】28位

【アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ】29位・読者10位
【ウディ・アレン】30位・読者6位
【ジャウマ・コレット=セラ】31位
【ブライアン・デ・パルマ】32位
【ポール・フェイグ】33位

【アルノー・ディプレシャン】34位
【アンドレイ・ズビャギンツェフ】35位
【イーライ・ロス】36位
【ジャック・オディアール】37位
【ドリュー・バリモア】38位
【ポン・ジュノ】39位・読者18位

【イ・チャンドン】40位
【ヴィクトル・エリセ】41位
【ギヨーム・ブラック】42位
【ケン・ローチ】43位
【サラ・ポーリー】44位
【ジャンフランコ・ロージー】45位
【ジョン・カーペンター】46位
【ジョン・ワッツ】47位
【ミア・ハンセン=ラブ】48位
【レオス・カラックス】49位

【アブデラティフ・ケシシュ】50位
【アン・リー】51位
【ヴェルナー・ヘルウォーク】52位
【シュー・ハオフォン 徐浩峰】53位
【チャウ・シンチー】54位
【ディアオ・イーナン 刀亦男】55位
【トム・フォード】56位
【ハニ・アブ・アサド】57位
【ホウ・シャオシェン】58位
【リドリー・スコット】59位・読者24位

【アダム・ウィンガード】60位
【ギレルモ・デル・トロ】61位
【ジョン・カーニー】62位・読者15位
【ソフィア・コッポラ】63位
【ペドロ・アルモドバル】64位
【マーティン・スコセッシ】65位・読者20位
【モフセン・マクバルハフ】66位
【ラヴ・ディアス】67位

【ショーン・ペン】68位
【ディヴィッド・ミショッド】69位
【ヌリ・ビルゲ・ジェイラン】70位
【ノア・バームバック】71位
【ベン・アフレック】72位

【アイラ・サックス】73位
【アニエス・ヴァルダ】74位
【アリ・フォルマン】75位
【イム・グォンテク】76位
【ギジェルモ・アリアガ】77位
【ジェームス・L・ブルックス】78位
【ジェームス・キャメロン】79位
【ジェームス・グレイ】80位
【ジェフ・ニコルズ】81位
【ジャファール・バナヒ】82位
【ジョージ・ミラー】83位・読者19位
【ジョン・トレス】84位
【シルヴェスタ・スタローン】85位
【スサンネ・ビア】86位
【スティーヴン・ダルドリー】87位
【スティーヴ・マックイーン】88位
【セバスチャン・シッパー】89位
【ダン・ギルロイ】90位
【チャン・ロンジー】91位
【ツァイ・ミンリャン】92位
【トミー・リー・ジョーンズ】93位
【トム・ティクヴァ】94位
【ナ・ホンジン】95位
【ニコラス・ウィンディング・レフン】96位
【バズ・ラーマン】97位
【ファティ・アキン】98位
【フィル・ロード&クリストファー・ミラー】99位
【フランソワ・オゾン】100位・読者13位
【ペドロ・コスタ】101位
【マティアス・ピニェイロ】102位
【ミロスラヴ・スラボシュピツキー】103位
【リ・イン 李纓】104位
【リョン・ロクマン&サニー・ルク】105位
【レナ・ダナム】106位
【レニー・エイブラハムソン】107位
【ローズ・ボッシュ】108位
【ロブ・マーシャル】109位
【ロブ・ライナー】110位

【アトム・エゴヤン】111位
【ウィゼマ・ボルヒュ】112位
【ウィリアム・フリードキン】113位
【ギャスパー・ノエ】114位
【クアク・ジャヨン】115位
【クレイグ・ブリュワー】116位
【サイモン・カーティス】117位
【シーグリット・アーンドレア・P・ベルナード】118位
【J・J・エイブラハムス】119位
【ジム・ジャームッシュ】120位
【ジョー・カーナハン】121位
【ジョシュア・オッペンハイマー】122位
【ジョン・ファブロー】123位
【チャンヤン 張楊】124位
【チャン・ユーシュン】125位
【チョン・モンホン】126位
【デイヴィッド・エアー】127位・読者25位
【デブ・ラグラニック】128位
【ナンシー・マイヤーズ】129位
【ネヴェルダイン/テイラー】130位
【パン・ホーチョン 彭浩翔】131位
【ブルハン・クルバニ】132位
【フレデリック・ワイズマン】133位
【ベルトラン・ボロネ】134位
【ホイット・スティルマン】135位
【マーレン・アーデ】136位
【マルガレーテ・フォン・トロッタ】137位
【ミケランジェロ・フランマルティーノ】138位
【ミシェル・アザナヴィシウス】139位
【ミヒャエル・ハネケ】140位・読者23位
【ヤウ・ナイホイ】141位
【リチャード・アイオアディ】142位

【アベル・フェラーラ】143位
【アレクセイ・フェドロチェンコ】144位
【イー・ツーイェン】145位
【ヴォルフガング・ベッカー】146位
【ウルリヒ・ザイドル】147位
【エリック・エマニュエル・シュミット】148位
【キム・ゴク&キム・ソン】149位
【ギャヴィン・フッド】150位
【キャスリン・ビグロー】151位
【クリスティアン・ペッツォルト】152位
【クリストファー・マッカリー】153位
【クリスビン・グローヴァー】154位
【ジェイ・ローチ】155位
【J・C・チャンダー】156位
【ジェームズ・ガン】157位
【ジャスティン・リン】158位
【ジャド・アパトー】159位
【ジャン=マリー・ストロープ】160位
【ジョディ・フォスター】161位
【ジョナサン・グレイザー】162位
【ステファヌ・ブリゼ】163位
【ダニー・ボイル】164位
【ダン・トラクテンバーグ】165位
【ディヴィッド・フィンチャー】166位・読者3位
【ディヴィッド・リンチ】167位
【ティム・バートン】168位・読者12位
【テリー・ギリアム】169位
【トッド・フィールド】170位
【トニー・ガトリフ】171位
【トム・フーバー】172位
【ナワポン・タムロンラタナリット】173位
【ニール・ブロムカンプ】174位
【ネメス・ラースロー】175位
【ハイレ・ゲリマ】176位
【パトリシオ・グスマン】177位
【フランシス・F・コッポラ】178位
【ベネット・ミラー】179位
【ベン・ウィートリー】180位
【ホセ・ルイス・ゲリン】181位
【マーク・ローレンス】182位
【ミランダ・ジュライ】183位
【メイベル・チャン】184位
【ラージクマール・ヒラーニ】185位
【リュ・スンワン】186位
【ロバート・ストロンバーグ】187位
【ロン・ハワード】188位

【アヌラーグ・バス】189位
【ウォン・カーウァイ】190位
【エドモンド・ヨウ】191位
【オリヴィエ・アサイヤス】192位
【カルロス・ベルムト】193位
【カン・ギェジュ】194位
【ゲイリー・ロス】195位
【サース・ヤーノシュ】196位
【サミュエル・ベンシェトリ】197位
【ジャンニ・アメリオ】198位
【ジュゼッペ・トルナトーレ】199位
【ジョージ・クルーニー】200位
【ジョゼ・パジーリア】201位
【ジョセフ・カーン】202位
【ジョン・ブアマン】203位
【ジョン・リー・ハンコック】204位
【スティーヴン・フリアーズ】205位
【ソト・クォーリーカー】206位
【ダン・ニャット・ミン】207位
【ディヴィッド・クローネンバーグ】208位
【ディヴィッド・マッケンジー】209位
【ディヴィッド・ロバート・ミッチェル】210位
【トム・マッカーシー】211位
【ニコラス・ローグ】212位
【ニック・パーク】213位
【パスカル・フェラン】214位
【プラッチャヤー・ピンゲーオ】215位
【フレッド・カヴァイエ】216位
【フロリアン・ダーヴィト・フィッツ】217位
【ホアン・ミンチェン 黄銘正】218位
【マーティン・マクドナー】219位
【マシュー・ヴォーン】220位・読者11位
【マルタン・プロヴォスト】221位
【ヨアヒム・トリアー】222位
【ラミン・バーラニ】223位
【リー・ダニエルス】224位
【リサンドロ・アロンソ】225位
【リチャード・ケリー】226位
【リティ・パニエ】227位

【アキ・カウリスマキ】228位
【アラン・モイル】229位
【アレキサンダー・ペイン】230位・読者30位
【イム・スルレ】231位
【ヴァンサン・マケーニュ】232位
【エドウィン】233位
【カルロス・レイガダス】234位
【ジェームス・T・ホン】235位
【ジェームズ・ヴァンダービルト】236位
【ジェフリー・C・チャンダー】237位
【シャロン・マイモン&タル・グラニット】238位
【ジョー・グータイ 周格泰】239位
【ジョエル・ホプキンス】240位
【ジョージ・A・ロメロ】241位
【ジョージ・ルーカス】242位
【ジョージ・ロイ・ヒル】243位
【ジョン・ハイアムズ】244位
【スティーヴン・ナイト】245位
【スパイク・ジョーンズ】246位
【スペイシー・ペラルダ】247位
【ダミアン・マニヴェル】248位
【タル・ベーラ】249位
【チェ・ドンフン】250位
【チェン・ユーシュン 陳玉勲】251位
【チョン・グンソプ】252位
【デレク・シアンフラン】253位
【ドーリス・デリエ】254位
【トビアス・リンホルム】255位
【ハーモニー・コリン】256位
【ブリュノ・デュモン】257位
【マイケル・マン】258位
【モンテ・ヘルマン】259位
【リリ・リザ】260位
【ルーシャン・キャステーヌ・テイラー&ヴェレナ・パラヴェル】261位

【ジャン=ピエール&リュッリ・ダルデンヌ】・読者16位
【ペドロ・アルモノバル】・読者22位
【ギレルモ・デル・トロ】・読者26位
【ナ・ホンジン】・読者29位



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# by sentence2307 | 2017-04-08 13:40 | 映画 | Comments(0)

小津安二郎と俳句

実は、前回ブログに書いた「エイゼンシュテインと俳句」の後日談というのがありまして、例の理髪店から帰宅して、しばらくテレビを見たあと、すこし早めの夕食でもとろうかと思っていたとき、さきほどの理髪店のオヤジさんが訪ねてきました。

なにか店に忘れ物でもしたのかと思って出てみると、先ほど店で話した雑誌をオヤジさんがわざわざ届けにきてくれたというのです。
手渡されたその雑誌の表紙には「月刊・俳句界」(文学の森刊行)2015.3月号とあり、その下に幾分小さめの活字で「特集・映画人の俳句」と書いてあります、なるほど、なるほど。

そしてそのすぐ下には、確かに「小津安二郎から渥美清、夏目雅子まで」とありました。

「これですよ、店で話した特集記事というのは。ほら、ほんとだったでしょう。さっき旦那が、なんだか疑わしそうな顔をしていたので、実物を見てもらおうと思って届けにきました」ということでした。

「返却の方は、いつでも結構ですからね」とそれだけ言い残して、オヤジさんは、そそくさと帰っていきました。

「あっ、いえ、かえって恐縮」とかなんとか、およそ場違いな挨拶を遠ざかっていくオヤジさんの背中に慌てて投げかけました。

このときの自分の応対が素っ気なかったとすれば、それは不意のことに戸惑っただけなので、「小津安二郎と俳句」というのなら大歓迎、興味なら大いにあります。

しかし、こうした「証拠」を目の前にしたいまでも、なんだか半信半疑なのは解消していません、そもそも「小津安二郎と俳句」なんて、いままで考えたこともありませんでした。

だって、なんだか「らしくない」感じの方が勝って、どう考えてもしっくりこないというのが正直な気持ちです。

いままで自分のなかで「小津安二郎」と「俳句」を結びつけるという「発想」そのものがなかったということもありますが、そもそもあの寂しがり屋の小津安二郎がひとり孤独にふけって俳句という言葉遊びに興じたり・熱中したり・煩悶したりという孤独な時間を過ごしたということに(仲間を集めてワイワイ賑やかなことがとても好きな小津監督のことですから、そういう孤独な「時間」をひとりで過ごして言葉遊びにふける人とはどうしても思えなかっただけに)、なんだか意表を突かれたからだと思います。

さっそく「月刊・俳句界」の小津安二郎の俳句が掲載されているとかいうページを開いてみました。

なるほど、ありますね、あるある。

ページの右端に「小津安二郎」という見出しがあり、俳句が6句掲載されています。

ごく短いので、ちょっと書き写してみますね。


つくばひに水の溢るる端居かな
黒飴もひとかたまりの暑さかな
手内職針の針のさきのみ昏れのこる
未だ生きている目に菜の花の眩しさ
月あかり築地月島佃島
春の雪石の仏にさはり消ゆ


最初から分かっていたことですが、俳句の素養なんてまるでない自分です、この6つの句を目の前に並べて、その句の良し悪しが「どうこう」判断できるわけもありません、ただ言えることは、どの句にも感情というものが些かも感じられないということくらいでしょうか。

あっ、そうか、これって正岡子規がいっていた「写生」とかいうもので、後継者の虚子も「花鳥諷詠」とかいってたっけな(これは深見けん二先生からの受け売りです)と乏しい知識から、これら小津俳句の「素っ気なさ」の意味がだんだん分かってきました。

そういえばあの司馬遼太郎の「坂の上の雲」で、なんで正岡子規の設定が必要だったのか、読んだ当時も(そしていまでも)訝しく思ったことを思い出しました。

とかなんとか余計なことを考えながら、まあ、この小津俳句、早い話が、感動していいものやら、しなくていいものやら、少しも分からないという思いだけがヤタラ空回りして同じ所を堂々巡りするばかりです。

で、いつもなら、これで話は途切れて「おしまい」になってしまうのですが、この特集記事の最初に掲載されている齋藤愼爾という方の「映画人の俳句逍遥」という論考の、そのなかの一文を読んで、俄然興味が湧いてきました。

そこには、こんなふうに書かれていました。

「田中眞澄(小津映画の研究家)が、小津の手帳、メモ帳、覚書帳から編集した1933年から63年に至る「全日記小津安二郎」(フィルムアート社)には、およそ123句の俳句と10首ほどの短歌を拾うことが出来る。最も多産だったのは、「東京の宿」が公開された1935年の46句だ。5月18日には、同行13名で仙台行。夜は句会を開いている。連衆は小津の他に斎藤寅次郎(監督)、清水宏(監督)、野村浩将(監督)、野田高梧(脚本家。小津とは処女作以来、終生の名コンビ)である。」


そして、そのすぐあとに、つぎの3句が紹介されていました。
籤運の悪さをなげく旅の空 斎藤寅次郎
さみだれに濡るる仔馬を見て過ぐる 野田高梧
郭公もしとどに濡れて五月雨 小津安二郎

ちなみに、ここにある13名とは、

斎藤寅次郎、清水宏、野村浩将、野田高梧のほかに、荒田正男、佐々木啓祐、柳井隆雄、井上金太郎、池田忠雄、北村小松、伏見晁、斎藤良輔、そして小津安二郎だったそうです。

なるほど、なるほど、これならよくわかります。出来の方はともかく、あの寂しがり屋の小津が愛した俳句というのが、こうして仲間内でワイワイ賑やかに楽しむ華やかな連句だったんだなと、「小津安二郎にとっての俳句」の意味が少しだけ分ったような気がしてきました。



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# by sentence2307 | 2017-04-01 10:41 | 映画 | Comments(1)
先週の木曜日、朝の通勤途中のことでした、別段急いでいた訳でもないのですが、歩道の段差に蹴躓いて転倒し、その勢いで車道まで転がり出て、アスファルトに額をしたたか打ち付けてしまいました。

しばらくは容易に立ち上がれず突っ伏したままでした。

そのときのタイミングで自動車が通りかかっていたら、完全に軋かれていました。

激突で衝撃を受けた額はかなりの痛みがあり、手を当てるとどんどん腫れてきたのが分かり、血も少し滲んできたのですが、救急車のお世話にもならずにそのまま出勤しました。

とりあえず会社に入って、総務課で労災の手続きをしてもらい、そのうえで病院に行こうととっさに判断したのだと思います。

手続きが終わり、虎の門病院に連絡してもらって、緊急外来として駆け込みました。

そこでCTスキャンなどの検査をしてもらったのですが、脳内に出血はなく、骨にも「別段の異常はない」という結果が出たので、ひとまず安心です。

早々に会社に戻り、上役に経過を報告し、翌日の休暇届を出し、金曜日の夜に友人と飲む約束があったので事情を話して約束の延期をお願いしたり(ごめんなさい)、仕事の引継ぎをしたりと、大方の手当てをしてその日は早めに退社した次第です。

翌日は、別段静養というほどでもないのですが、脳内出血していれば痙攣は2日後くらいにはあるはずだぞ、そのときの処置はだね、などと救急担当医師に脅されていたので、おとなしく痛み止めを飲んだり湿布を変えたりして終日家で過ごしました。

その日の夕方には何事もなく腫れも引き、痛みの方も和らいできたことが自分でもはっきり実感できました。

そして、明けて土曜日には、あっけないくらい「いつもの常態」に戻っていたので、「もう、なんともないぞ」と家人に話したところ、「ちょっと鏡を見てみなさいよ」と言われ、言われるままに鏡を覗き込んでビックリ、「これがオレ!?」、そこには顔面全部痣だらけの物凄い顔が写っていました。

あの「豹柄」とでもいった方がふさわしいくらいの、まるで歌舞伎のくま取りといっていいシュールさです、特に目の周りなど黒々と腫れあがっていて、これじゃあまるでパンダです。

そういえば、額を打ち付けた際に眼鏡の枠が目の周囲の柔らかい部分に食い込んだかもしれません、そのときだって、たまたまそこに自動車が通りかからなかったから良かったし、それに加えて眼鏡にしても、よくぞガラスが割れなかったものと、ぐにゃりとひしゃげた眼鏡のフレームを見ながら、いずれにしても「一歩間違えば大変なことになったのだ」と今更ながら事故の重大さにゾッとした次第です。

しかし、よく見ると、目の周りの痣は、ちょうどアイラインを入れみたいに色っぽくなっていて、退職したら一度ニューハーフのホステスでも試してみるか、結構いけるかも、などと冗談が出そうになりましたが、なんだか昨日から不機嫌な家人には到底通じるとは思えないので、躊躇の末に口にするのはやめました。

まあ、痣だらけの猛烈なこの顔はどうにかカモフラージュするとして、体は健康なので、とりあえず、月曜日には出勤するつもりでいますが、そのためには、このひしゃげた眼鏡をどうにか修理しとかなければなりません。

そうそう、それに、髪も伸びすぎているのでそろそろ散髪に行かなければならないだろうな等と考え、とりあえず、この土曜日は、このふたつのことを一回の外出で一挙に処理してしまうことに決めました。

眼鏡は去年の12月に安売りで有名な近所のチェーン店の年末セールで買ったばかりのもので、いつもなら領収書とか保証書のたぐいは、早々に捨ててしまうのですが、今回は幸いにもちゃんと保管してありました。ああ良かったという感じです。

眼鏡店については、いままで安売りのチラシにつられて眼鏡を買いに行って、店員のしつこい営業トークにあい、圧倒され、フレームはブランドものでなければ見栄えがしないとか、安物レンズは分厚くていかにもチープでみっともないとか、話自体を聞いているのが面倒になって(いま思えばそれが営業戦略だったのでしょうが)、逃げる許可を得るみたいについつい高価な眼鏡を買ってしまう・買わされるという苦い経験を幾度もしてきました。

その点この安売りチェーン店の対応は実にあっさりしていることが大いに気に入っています。

それに、もともと安価なので、たとえ予備の眼鏡をもうひとつ作ったとしても、いままで買わされた眼鏡よりもはるかに安い価格で済むということもあり、最近はもっぱらこの店を愛用していますし、今回もそのとき作った予備の眼鏡があったので実に助かりました。

価格の安い眼鏡を求めて来客が多くたて混んでいるせいもあるのですが、対応も余計なことは一切言わないクールなビジネスライクに徹しており、その点も自分好みです。

今回の修理もサービス内で、翌日にはできるというので、まずは、こちらの方は一安心でした。

さて問題は散髪の方です、顔見知りの理髪店なので、この痣だらけの顔を見たら、あの好奇心の強いオヤジのことですから、きっと根掘り葉掘り何かとうるさいことを聞いてくるに違いありません、間断なく話しかけることがサービスかなんかだと勘違いしているらしい、その善良さ(かどうかは分かりませんが)そのまま面倒くささと同居しているごく単純な、それだけに厄介なオヤジなので、いわば今の自分にとっては、「死の棘」といってもいいような存在というしかありません。

客足が鈍る昼下がりを見計らって理髪店のドアを開けました。案の定お客さんはひとりもいません。

「いらっしゃい」とやたら元気ないつものオヤジの声です。「しばらくですね、どうされました」などと話しかけ、椅子を回しながら、にこやかな顔で客を招くいつもの仕草をして自分が座るのを待っています。

こちらは、オヤジが顔の痣のことをいつ切り出すかと身構えているのですが、一向にその気配はありません、緊張していたぶん次第に拍子抜けしていく感じです。

オヤジは、いつもの手順で散髪を始めながら、いつも最初は「野球」か「俳句」かのどちらかの話から始まります。

どの客にたいしても「そう」なので、きっとこれが彼にとっての営業用のルーティンなのだなと考えられ、今日のところもひと当たりこれをやらないと彼も私の「顔の痣」の話題に取り掛かるきっかけがつかめないのかもしれません。

そのときは終わったばかりの「WBC」の話題の方も大いにあり得たのでしょうが、今日の最初の話題は、「俳句」の方でした。方々の句会にも参加しているという、もう40年からのキャリアをもつ俳人で、大そうな号もあるとか、詳しいことは知りませんが、いずれにしてもたいしたものです。

オヤジは言います。「今日の夕刊見ました? 室生犀星の全集未収録の手紙が64通も発見されたそうですよ」

ここに来る前に自分も夕刊はチラ見してきたので、その記事は読みました。犀星に対して特別な興味があるというわけではないのですが、彼がまだ金沢にいた当時、裁判所に勤めていたという経歴が強くインプットされて印象に残っているので、関連記事には一定の反応をするのだと思います。

「なんだかその手紙には未発見の俳句も書かれていたんですってね」

オヤジが「俳句」の話題を振る前に、自分が先に言ってしまったのは、たぶんお喋りの彼に対して少しばかり意地悪をしてやろうという邪心があったことは否めません、事実です。

しかし、そのときは「そう」ではありませんでした。

いや、それは、話題を横取りした自分に対するオヤジの更なる逆襲だったのかもしれません。

「私が購読している俳句の雑誌に、たまに「小説家の俳句」とか「文化人の俳句」なんかを特集することがあるのですが、ごくたまに「映画人の俳句」なんていう特集もあるんですよ。」

「あっ、そうなんだ」映画好きの自分を見込んだうえで意表を突いてそうくるか、という感じです。

「そこにね、小津安二郎監督の俳句も載っていたことがありましたよ。小津監督も俳句を作ったんですね、五所監督や吉村監督が俳句好きってことは、有名ですけどね。」

「へえ、そうなんだ」だの「ほほお、なるほど」だの、今日の自分は、まるでバカみたいな「あいづちマシーン」になり下がっています。

「それによると、俳句っていうのは、それぞれまったく違う言葉の組み合わせによって異なるイメージが喚起するという部分で、映画作りにも多大な影響を与えたんだそうですよ」

もはや相槌どころではありません、感心しなから聞き入ってしまっていました。

「それって、小津監督が、ですか」

「いえいえ、そちらはエイゼンシュテイン、例のモンタージュ理論のもとになったとか。日本の文化が好きだったから、彼。もちろん小津監督や日本の多くの映画監督にだって相当な影響を与えたこと間違いないとは思いますけどもね」

散髪してもらっているのに、ほんとうに申し訳なかったのですが、あえてのけぞり、オヤジさんの顔を思う存分しげしげと仰ぎ見ました。


やがて散髪も終わり、「どうもありがとうございました」というオヤジの声に送り出されて店を出てきたのですが、結局最後まで、オヤジは、自分のこの顔の痣のことには一切触れませんでした。

ああ見えても、あのオヤジ、自分が顔の痣のことを気にしているかもしれないと忖度して、差しさわりのある話題をあえて避け、「エイゼンシュテインと俳句」などという驚天動地の話題を振ることができるあたり、彼も結構なプロだったんだなと感心しました。

たとえ自分が店のドアを閉めた途端、さっそく奥さんに「お前、あの人のすごい顔の痣見たかい、なんだろうね、ありゃ、ええ」などといつものオヤジらしく興味本位のネタにされたとしても、まあ、今度ばかりは許してもいいかなと考えながら家路をたどりました。



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# by sentence2307 | 2017-03-26 10:51 | 映画 | Comments(0)

自分対策

いつの間にか時間が物凄い勢いで過ぎてしまい、このブログにもすっかりご無沙汰で、実に大きなブランクをつくってしまいました。

まあ、仕事の方もそれなりに忙しく、慌ただしいこともありますが、もちろん、そんなことは、なんの言い訳にもなりません、いままでだって、そういう繁忙期の中でどうにか時間をやりくりしては、ささやかな映画の感想をコツコツと書きついできたわけですから。

その「ブランク」には自分の「なまけ癖」というものが大いに関係しているのは、事実ですが、しかし、要は、ある作品に対して筋道のついた考えをじっくり深めたり組み立てたりという集中力が、このところすっかり切れてしまったというのが、本当のところのような気がします。

モチベーションが途切れた理由として思いつくことといえば、去る2月の中旬、久しぶりに旧友と会い、雑談のなかで「好きな監督は誰」と聞かれ、思わず清水宏と答えたところ、「現在活躍している監督じゃなきゃ意味がない」と言われたことにあるかもしれません。

いまこの瞬間、「時代」に対峙して、この現実をどのように生きていけばいいのか、そういうテーマに取り組みながら、たとえ稚拙な表現ではあっても(これは、どのような作品でも器用にかたちをつけてしまう初期の清水宏監督のことを皮肉っているようにも聞こえました)閉塞した時代を切り開こうとしている同時代人の「映像作家」のことを話さなければなんの意味もないと言われたのだと思います。

彼は、一応映画関係の仕事をしていた人なので、この世界の苦労を知っている人に、素人の自分などが「青い議論」を吹きかけることなど、実におこがましく愚かしいことは、十分に承知しており、そのときはなんの反論もできずにいたことが、ストレスになってしまったのかもしれません。

それ以来、なにかにつけて、ちょっと不調なのです、特に映画の感想を書こうとすると、出かかってきた言葉が、変な自制心に邪魔されて、どうもすんなりでてきません。

しかし、だからといって映画の方は、相も変わらず見ているわけで、いわゆる「ストック」(正確には「保留」という感じですが)は、着実に増え続けています、まあ、見るだけなら「楽」という部分もありますので、見ることの方は、いまでも途切らせてはいません。

見た順に作品のタイトルと製作年度、それに監督名くらいはメモしていますが、実は、そのリストも、ただ書きっぱなし、それきりほったらかしているという極めてダレた状況にはあります。

自分の不甲斐なさを棚に上げて、出会う作品のクオリティの無さに責任転嫁してしまうみたいで気が引けますが、たぶんいままで、ぜひ書きたいという思いにさせてくれる程の作品に出会えなかったのだから、ということを言い訳としてずっと考えてきました。

しかし、それを言ってしまえば、「称賛」よりも、むしろ、ひたすら「けなす」ことの方がずっと多い自分のブログの性格上、「感動した作品」に出会えないからというのは、書けない理由にはならないわけで、むしろ「見すぎる」ということの方が、集中力を欠く原因になっているのかもしれないなどと、あれやこれや「行ったり来たり」「七転八倒」の迷いを重ねたすえに、そうだ、大づかみな「クオリティうんぬん」などと言っておらずに、実際にいままで見てきた映画を10本ごとに括って、ひとつひとつ検証してみたらどうだろうかと思いつきました。

時期的なくくりとしては、そうですね、このブログに最後にアップした「八日目の蝉」あたりくらいからではどうかなと。

ベスト10というわけではないのですが、一応自分の好みの順になってしまったかもしれません。

これは、いわば、自分自身の活性化をはかるための自分整理というか、「自分対策」みたいなものですね。



八日目の蝉(2011)監督・成島出
ブリッジ・オブ・スパイ(2015)監督スティーブン・スピルバーグ
この国の空(2015)監督・荒井晴彦
殺人カメラ(1948)監督ロベルト・ロッセリーニ
ザ・ウォーク(2015)監督ロバート・ゼメキス
黒の魂(2014)監督フランチェスコ・ムンズイ
忠臣蔵(1958)監督・渡辺邦男
妹の体温(2015)監督・アンネ・スウィツキー
シービスケット(2003)監督ゲーリー・ロス
ユーズドカー(1980)監督ロバート・ゼメキス


からゆきさん(1973)監督・今村昌平
元禄忠臣蔵(1941)監督・溝口健二
団地(2015)監督・阪本順治
総長賭博(1968)監督・山下耕作
葛城事件(2016)監督・赤堀雅秋
最愛の子(2014)監督ピーター・チャン
蜜のあわれ(2016)監督・石井岳龍
カナリヤ(2004)監督・塩田明彦
シン・ゴジラ(2016)監督・庵野秀明
僕だけがいない街(2016)監督・平川雄一朗


怪談(1965)監督・小林正樹
さよなら人類(2014)監督ロイ・アンダーソン
情事(1959)監督ミケランジェロ・アントニオーニ
岸辺の旅(2015)監督・黒沢清
王将(1948)監督・伊藤大輔
オデッセイ(2015)監督リドリー・スコット
黄金のアデーレ 名画の帰還(2015)監督サイモン・カーティス
サヨナラの代わりに(2014)監督ジョージ・C・ウルフ
クロノス(1993)監督ギレルモ・デル・トロ
白鯨との闘い(2015)監督ロン・ハワード


キャロル(2015)監督トッド・ヘインズ
三里塚の夏(1968)監督・小川紳介
大丈夫であるようにCOCCO終わらない夏(2008)監督・是枝裕和
ドラゴンタトゥーの女(2011)監督デヴィット・フィンチャー
春香伝(2000)監督イム・グォンテク
約束 名張毒ぶどう酒事件死刑囚の生涯(2012)監督・齊藤潤一
12人の優しい日本人(1991)監督・中原俊
さや侍(2011)監督・松本人志
森山中教習所(2015)監督・豊島圭介
ドレイ工場(68)監督・山本薩夫、武田敦


レヴェナント:蘇りし者(2015)監督・アレハンドロ・G・イニャリトゥ
あん(2015)監督・河瀬直美
風花(1959)監督・木下恵介
殿、利息でござる(2016)監督・中村義洋
沈黙(1971)監督・篠田正浩
あ、春(1998)監督・相米慎二
式部物語(1990)監督・熊井啓
先生と迷い猫(2015)監督・深川栄洋
日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里(1957)監督・森一生
ドグラ・マグラ(1988)監督・松本俊夫


永い言い訳(2016)監督・西川美和
スポットライト 世紀のスクープ(2015)監督トム・マッカーシー
弥勒MIROKU(2012)監督・林海象
野のなななのか(2013)監督・大林宣彦
起終点駅 ターミナル(2015)監督・篠原哲雄
珈琲時光(2003)監督・侯孝賢
地球最後のふたり(2003)監督・ペンエーグ・ラッタナルアーン
無知の知(2014)監督・石田朝也
リトル・マエストロ(2012)監督・雑賀俊郎



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# by sentence2307 | 2017-03-13 20:59 | 映画 | Comments(0)