世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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私の男

とても重厚な作品「私の男」を見たあと、ネットでこの作品の感想を読み漁っていたら、こんな記事に遭遇しました。

それは、監督と出演者がそろって受賞記念の舞台挨拶をしたときの出来事だそうです。

どの受賞記念か特定できませんが、受賞暦は最後に記しましたので見てください、実に壮観です。

その記念の舞台挨拶の出来事というのを、以下に引用しますね。

《ところが、先日、二階堂ふみ、浅野忠信、熊切和嘉監督らによる受賞記念の舞台挨拶でちょっとしたハプニングが起きた。観客からの質疑応答で、近親相姦の被害者という女性の観客から疑問が投げかけられたのだ。
「私は近親相姦の被害者です。浅野さん演じるお父さんは加害者。二階堂さん演じる花さんは、未成年だから被害者。一般の人たちはアダルトビデオでしか知らないと思いますが、あまり美化されてしまうと……」
 この突然の質問に、場内は静まり返ったという。壇上の熊切監督も「美化して描いたというつもりはない。そこにある厳しさをもって描いたつもりです」と緊張した震え声で答え、主演の浅野も「もし、見る方によって思い出させたりすることがあるならば、申し訳ない」と謝罪をするのが精一杯だった。
 だが、こうした反応は当然といえるかもしれない。》

こう言ってはなんですが、たかが映画の受賞記念の舞台挨拶、そのような浮かれ気分の華やいだ場の雰囲気のなかで、多くの観客の好奇の視線を一身に集めながら、堂々と「私は近親相姦の被害者です。」などと異様な自己紹介をすることのリアリティのなさとか、もしそれが事実だったとしても、その冷水を浴びせるような行為と発言に、はたしてどんな意味があったのか、そのなにもかもが、とても奇異に感じられてなりませんでした。

本当に「近親相姦の被害者」であることを訴えるのなら、実効性のある救済機関とか、捜査・公訴の強制力を持つ公的機関に告発するのならともかく、なんの効果も効力も期待できない映画の試写会場などというユルイ場所で、そんなに深刻な話をされても、受けた側はどう対処していいのか戸惑うばかりで、たぶん本心からは程遠い「謝罪」をするくらいがせいぜいだったと思います。

これでは、お騒がせだけが目的の、まるで嘘くさい低次元の「テロ」としか思えませんでした。

たとえ、こんなふうに衝撃的な「前置き」(この被害妄想発言は、「人道」を盾にとって他の反論を一切封じてしまうという狡猾な論難技巧みたいなものに感じられます)などしなくとも、単に近親相姦を美化した映画(自分としては、そんなふうには感じませんでしたが)への疑問を呈するだけで、質問者の意図は十分に果たせたはずで、むしろその方が、かえって監督や出演者たちの冷静で深みのある返答を引き出せたと思いますし、また、観客の共感も得られたと思います。

そう思えばなおさら、この目的不明の異様な「異議申し立て」は、結局ただのひとりの共感も得ることなく、誰にも利益をモタラさず、ただ単に場内を最悪な気まずさで制圧して、異様な静まりを強いただけであって、その不毛な状況を作り出したことに対する責任も含めて、この発言嬢が、いったいこれをどのように感じていたのか、たまらなく知りたいと思いました。

そして、加えて言うなら、この状況を伝えた記事の書き手は、ご丁寧にも、その文脈の最後で「だが、こうした反応は当然といえるかもしれない。」などと被害者に肩入れしているかのような結語を書き足しています。

これも随分唐突で奇異な感じを受けました。

しかし、これは、よく読むと、この原作が直木賞を受賞する際に、選考の過程で一部にあった「物議」に言及するための布石というか、無理やりの「つなぎ」みたいなものにすぎず、この筆者が本心から「この反応は当然」と考えているわけでないことが、すぐに分かりました。

単に文章の流れを体裁よく整えるためだけに、一見するとこの異常で奇妙なクレームを十分な検証もすることもなく「公認」してしまったように受け取れるご都合主義の無定見な締め括りだったらしいのです。

最初読んだときは、この記事の前後の乖離の甚だしさに、強引な論理の捻じ曲げの印象を受けて、ただ呆れ返ってしまいました。

しかし、ここまで書いてきて、自分の意図が少しずつズレ始めていることに、はじめて気がつきました。

たぶん、この杜撰な記事が、みずからの論理展開を無視して、唐突な同情と共感を装ったことへの苛立ちが、いっそう過剰に「発言嬢」への指弾に動いてしまったかもしれず、すこし反省もし、思わず立ち止まる感じで、いままで書いてきた全文を読み返してみました。

たぶん、描かれた陰惨で深刻なテーマ「近親相姦」を常日頃真摯に考えている者にとっては、その会場の、あまりにもかけ離れた鼻持ちならない華やかな賑わいへの苛立ちから、その和やかな雰囲気をぶち壊す目的のためだけに、「自分は近親相姦の被害者である」と思わず口走ってしまったのかもしれないという印象はありました。

たぶん、そうしたタグイの衝動なら、可能性も含めて自分の中にも確かに存在するかもしれないことに、遅れ馳せながら気がついたのでした。

まるで「スターウォーズ」でも鑑賞するかのようにして映画「私の男」を鑑賞しようとしている場違いな華やぎに対して、その雰囲気にどうしても馴染めず、単に疎外感を感じてしまうような者なら、その孤独な怒りを大衆の中で炸裂させようという衝動は、なおさら理解できないことではありません。

しかし、それが、あえて「近親相姦の被害者」であるという表明でいいのかとなると、おそらく、その必要性も含めて理解の外にあるというのが、自分のこの発言に対する根本的な違和感であって、たぶんそれ以上ではなかったのだと分かりました。

「発言嬢」に対する拒否の気持ちなど、はじめから微塵もないことだけは、はっきりと確認しておかなければならないかもしれません。

「近親相姦」は、たしかに映画なんかでは軽々しく扱ってほしくないと考えても無理からぬとても深刻で重大な問題です。

ネット検索をしていたら、最高裁判例・昭和48.4.4判決というのに出会いました。

中学生だった14歳の少女が父親に犯され、そのことを知って激怒した母親や親戚なども中にはいったのですが、結局効果なく失敗して一家離散、父親の元に残された娘は、日常的に性交を強要され続け、少女が29歳になるまで夫婦同然の生活が続けられたとのことです。

その間、彼女は5人の子どもを産み、5回の中絶をして、その5人の子どものうち2人は生後間もなく死亡して、3人が育ったと記事にはありました。

その後25歳で印刷会社に就職し、29歳のときに社内恋愛をして、父親に結婚の許しを求めます。

しかし、父親は激怒し、「男の家へ行って、そいつをぶっ殺してやる」と逆上して暴れます。

少女は絶望し、このままでは自分が駄目になる、彼氏にも迷惑がかかると一度は父親の元を逃げますが、連れ戻されて暴行を受け監禁されます。

酔った父親は、「お前を一生不幸にしてやる。今度逃げたら3人の子どもを殺すぞ」と脅され、さらに体を求め、拒むと殴られました。

追い詰められた彼女は、「もうどうにもならない」と絶望し、泥酔した父親を絞殺したという事案です。

親殺しは重罪で、死刑か無期懲役という当時にあって、懲役2年6月、執行猶予3年という最高裁としては、異例の温情判決として知られた事案でした。

この判例だけで十分に「近親相姦」の深刻さ・陰惨さ・重大さは理解できますが、しかし、一方で、この陰惨な案件の印象を、そのまま映画「私の男」に反映させてもいいものだろうか、という疑問が拭えません。

映画「私の男」は、そういう作品ではないような気がします。

血のつながりを十分に認識している娘は、父親との性的接触を最初から積極的に求め、父親は躊躇しながら娘の行為に引き摺られるように応じているかのような印象を受けます。

娘の方に性の快楽はあっても、はたして男に「それ」があっただろうか、「家族」がほしい、そして、ただ父親としての役割に憧れながら、しかし、「家族」というものをどのようにして作ればいいのか分からない男には、「娘への愛」の境界を見失ったまま、2人を追ってきた元警察官を殺害するに至るという印象です、そこには、あの最高裁判決の陰惨さはなく、むしろ、ラストの二階堂ふみの妖艶さにつながる爽快ささえ感じてしまったくらいでした。

それならば、この映画をキューブリックの「ロリータ」のように見ればいいのかというと、そこまで拡大することはできませんでした。

震災によってなにもかもを失ってしまった少女の孤独をもっとも理解できた父親もまた、この世に信じるに足りる確かなものなどなにもないという空虚を抱えたまま、絶望の淵で生きてきた男です。

一度壊れてしまった風景も家族も、二度と元には戻らないことを知っているふたりは、かつてあった「それら」を自分を責めるようにしてしか思い返せません。

少女の荒涼とした日々の風景は16mmフィルムで捉えられ、追い詰められて悲しい殺人を犯してしまう流氷の街の日々は35mmフィルムで撮影され、ウワベを装うだけの寒々しい都会はクリアなデジタルで捉えられています。

すっかり荒廃した故郷も、いまは亡き愛する家族のことも、そして家族に対して何もできなかったという悔いのなかでしか思い返すことができません。

家族をもち、「父親」でありたいと願う男と、大自然の理不尽なチカラによって家族を奪われ、突然この世にたったひとりで残された孤独な少女、この父と娘は、喪失の空虚をうめるかのように身を寄せ、あるいは性交によってしか、互いの生存の実感が得られなかったのだとしたら、ここで描かれている「近親相姦」は、あの試写会場で異議申し立てをした彼女の考えていたものとは、少し違うものだったかもしれません。

(2014日活)監督・熊切和嘉、製作・藤岡修、由里敬三、分部至郎、木村良輔、宮本直人、エグゼクティブプロデューサー・永田芳弘、プロデューサー・西村信次郎、西ヶ谷寿一、ラインプロデューサー・金森保、原作・桜庭一樹「私の男」(「別册文藝春秋」2006年9月号(265号)~2007年7月号(270号)まで連載。第138回直木賞受賞)、脚本・宇治田隆史、撮影・近藤龍人、美術・安宅紀史、衣裳・小里幸子、編集・堀善介、音楽・ジム・オルーク、VFXスーパーバイザー・オダイッセイ、スクリプター・田口良子、ヘアメイク・清水ちえこ、照明・藤井勇、装飾・山本直輝、録音・吉田憲義、助監督・海野敦、ロケーション総括・中村哲也、制作担当・刈屋真、アソシエイトプロデューサー・西宮由貴、小松重之、製作・「私の男」製作委員会(ハピネット、日活、マックレイ、ドワンゴ、GyaO!)、制作協力・キリシマ一九四五、企画協力・文藝春秋
出演・浅野忠信(腐野淳悟)、二階堂ふみ(腐野花)、高良健吾(尾崎美郎)、藤竜也(大塩)、モロ師岡(田岡)、河井青葉(大塩小町)、山田望叶(花10歳)、三浦誠己(美郎の先輩)、三浦貴大(大輔、花の婚約者)、広岡由里子(タクシー会社の事務員)、安藤玉恵(小町の先輩)、竹原ピストル(花の父親)、太賀(大塩暁)、相楽樹(章子)、康すおん(タクシー会社の運転手)、吉本菜穂子(海上保安官)、松山愛里(花の同僚)、奥瀬繁(ずぶ濡れの中年男)、吉村実子(老婆)、細谷隆広、高島恵美、高橋篤行、五十嵐陽子、諏訪陽子、佐藤友美、伊藤尚美、磯村カイ、川崎代気子、我孫子正好、松浦伸二、和田裕美、柳川英之、池田宜大、関寛之、ルビー、ダニエル・アギラル
上映時間:129分
第13回ニューヨーク・アジア映画祭(2014)ライジングスター・アワード(二階堂ふみ)、第36回モスクワ国際映画祭(2014)最優秀作品賞・最優秀主演男優賞(浅野忠信)、第6回TAMA映画賞(2014)最優秀女優賞(二階堂ふみ)、最優秀新進男優賞(太賀)、第38回日本アカデミー賞優秀主演女優賞(二階堂ふみ)、第69回毎日映画コンクール日本映画大賞、第57回ブルーリボン賞主演男優賞(浅野忠信)、第10回おおさかシネマフェスティバル2014年度ベストテン第5位、撮影賞(近藤龍人、「そこのみにて光輝く」と合わせて)
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# by sentence2307 | 2016-04-02 17:36 | 映画 | Comments(0)

動物と裁判

朝一番、会社での「最初の仕事」は、デスクに積み上げられた業界紙や専門誌に一通りざっと目を通すことから始めます。

これは、前日に郵送されてきた雑誌や業界紙ですが、内訳は、各課が仕事上必要として、オノオノの申請が認められた購入雑誌と、その他寄贈を受けた業界紙・専門誌です。

そして、購入・寄贈にかかわらず、各資料の上部には回覧と記載された紙片がそれぞれ添付されており、一応順番にハンを押すことになっていますので、たとえ興味がない雑誌でも、形だけは、とりあえず目を通さないわけにはいきません。

会議のときなど、その日の日経新聞の記事から話が始まりますが、たまに回覧雑誌の掲載記事が取り上げられ、話題を広げる部長もいますので、その辺は緊張感をもって記事のチェックをしなければなりません、気は抜けません。

さて、その日届けられた雑誌の中には「法律時報」3月号がありました。

毎月送られてくる購入本の一冊で、法律関係の購入雑誌は、ほかに「ジュリスト」「判例時報」「法曹時報」などがあります。

なかでも「法曹時報」は、毎号、判例の動向を知るのには欠かせない貴重な最高裁判所判例解説が掲載されているので、はずせない一冊となっています。

さて、「法律時報」3月号の表紙を見ると、今月の特集は「集団的労働関係法の時代」ですか、フムフムなるほどね、こりゃかなり難しそうだ。

そしてその大きな活字の下には、有名大学教授の各論文が仰々しく6~7本掲げられており、やはりどれも相当ヤバそうです。

まあ、どう転んでも自分の仕事には直接関係がありませんし、正直言ってあまり興味もなかったりするので、まさか会社も自分ごときに「集団的労働関係法の時代」の理解までは要求してこないと思いますから、ここはさっさとハンコを押して、「さて次」とばかりに処理済みの雑誌の上に雑誌を積み重ねようとしたとき、表紙下の部分に「小特集・動物と法」という小さな活字が目に入ってきました。

とっさに、「動物と法」とは何だろうと訝しく思い、興味もわき、再びその雑誌を手に取り直して、該当頁をパラパラと大雑把にめくりました。

そういえば、つい最近だったか、都内各地で犬や猫など小動物を残酷に殺傷したり、水鳥に執拗に危害を加えるなどという異常で残忍な事件が頻発していると報道されたことを思い出しました。

たぶん、あれだな、「動物愛護」関係だなと思いました。

まあ、だいたい、その線で正解だったのですが、その中の論文のひとつに思わず釘付けになってしまいました。

メインタイトルは、「動物、生類、裁判、法」、サブタイトルは、「日本法制史からの俯瞰と問い」とあり、著者は、新田一郎東京大学教授と記されています。

タイトルからは、相当難しそうな内容ですが、ざっと読んだところ、どうも「動物愛護」というストレートなテーマではなさそうです。

文脈のタイミングとして、こんなふうに書き挟むのは、少し唐突で僭越かもしれませんが、いままで自分は、書名やタイトルを見ただけで、だいたいこういう内容だなという予想をし、それが外れたり、予想もしなかったことに遭遇するということは、まずありませんでした、「想定内」というやつです。

それぐらいは、本に対する勘を働かすことのできるくらいの読書量を重ねてきたつもりだし、読みこなしてもきたつもりだったので、とにかくそういった自信だけはありました。

たとえ、実際に未読の本でも新聞・雑誌などの書評に目をとおし、サイトの書評などもできる限り日々チェックしています、どういう本が出版されたかぐらいは知識として備えるように努めてきました。

一時期は「出版ニュース」なども購入したりして、自分なりのデータベースらきしものを作成し、カードも作ったことがありましたが、結局、月々の膨大な出版量に追いつかず、また、興味のない分野の本までカバーしなければならない矛盾に気がつき、記憶するのに相応しい本だけを絞るようにし、この壮大な構想は、単なる「妄想」として萎み、数ヶ月で結局「撤退」を余儀なくされたのですが、しかし、本の書名からその内容を類推し見当をつける自信みたいなものは、依然として十二分にあるつもりだったのです。

たぶん、一方で随分と鼻持ちならない嫌味な「読書家」だったかもしれませんし、いっぱしのマニア気取りで、「自分には、知らないことはない、知らない世界はない」くらいの自信過剰の大錯覚に陥っていたかもしれません。

しかし、この論文「動物、生類、裁判、法」に接して、ここには自分がいままで知らなかった世界のことが展開されており愕然としました。

その衝撃を是非書いておかなければと思い立ち、さっそくパソコンの前に座った次第です(内心、「知らなかったのは自分だけ」と笑われ、哀れな喜劇に終わるかもしれませんが、そこは恐る恐る手探りで書いてみるつもりです)。

この論文は、大きく分けてふたつの章から成っていて、前半はヨーロッパ中世に行われていた「動物裁判」のこと、後半は日本の「生類憐みの令」の論考です。

サブタイトル「日本法制史からの俯瞰と問い」とあるとおり、論点は「日本法制史」にあるのですが、なんといっても圧巻は、前半の「ヨーロッパ中世に行われていた動物裁判」の紹介の部分です。

まず「動物裁判」という字面を見て、なにを連想するか、何を意味するか、ということろから書き始められています。

ヨーロッパ中世においては、人間に害を与えた家畜・動物など生物(もちろん、そのなかには「虫」もふくまれます)は、人間と同じように公式の裁判に掛けられて、処刑されたというのです。

「えっ~! 動物が、人間と同じように裁判にかけられた?」

信じられません、とにかく、違和感だらけの「動物裁判」です。

論者は、「動物裁判」を、ネタ本の池上俊一著「動物裁判-西欧中世・正義のコスモス」(講談社現代新書、1990)からも部分的に引用しながら、こんなふうに要約しています。

「(動物裁判は)人に害をなした動物にどのような処分を下すべきか論ずる、いわば「刑事」的な審問によってもっぱら占められている。たとえば、子どもを食い殺した豚や、女を突き殺した牛などが訴追され、断罪・処刑されている。」

なるほど、なるほど。

さすが東大の先生ですが、「要約」があまりに明解に凝縮されすぎて、門外漢のシロウトの頭では、さっぱり理解できません。

自分としては、スキャンダラスな(あるいは、ミーハー的に)「具体的事例」が知りたいだけなので、さっそく、帰りに図書館に寄り、この論文のネタ本とされる池上俊一著「動物裁判-西欧中世・正義のコスモス」(講談社現代新書、1990)を借りて、さっそく読んでみました。

読んでみると、あるわあるわ、その壮絶さに慄然とさせられました。

家畜の牛が人間を襲って殺し、大人の留守のときに子どもが襲われ、赤ん坊が食われるなどという事例が実に多かったらしいのです。

その場合、(人間と同じように)動物たちも通常の裁判にかけられ、死刑判決がでれば、絞首刑・斬首刑・石打ち・溺殺・生き埋め・磔刑・四つ裂き・切り刻みなどの刑に処せられたということです。

そうそう、火刑なんていうのもあって、そこにはこんなふうに書かれていました。

「人間を殺すという同じ犯罪でも、それが、土曜日になされたのなら絞首刑なのに、金曜日ならば、断食の掟の侵害として生きたまま焼かれる、というふうに変更されることがあった」というのです。

本文からの引用としては若干前後しますが、こんなふうに書かれていました。

「処刑方法は、絞首刑がもっとも普通にみられるものであったが、もちろん他の処刑方法も存在した。たとえば、瀆聖(神に捧げられた人・もの・場所・行為などを侮辱し、その神聖をけがすこと)・性的逸脱行為(獣姦等)や魔術・異端は、初期中世以来、伝統的に火刑に処せられることとなっており、したがって獣姦罪に問われた人間のみか、相手の動物も火刑台の露と消えたのである。火とそこからのぼりたつ煙には、ものを浄め、もろもろの害悪を防止する効能がある、と信じられていたのである。」

ここまで読んできて、思わずカール・ドライヤーの「裁かるるジャンヌ」1928のラストシーン、あのあまりにも悲痛な火刑シーンを想起しました。

そうだったのか、「動物裁判」という言葉の違和感=謎がこれで解けました。

これは、「悪魔祓い」とか「魔女裁判」「破門」「聖水」などにつながるヨーロッパ中世の象徴的な言葉だったのだということだったのですね。

おかげで、朝の資料整理の貴重な時間を「法律時報」3月号一冊に掛かり切ってしまいました、「やれやれだわ」と思ったのですが、しかし、この「やれやれ」は、実はこれだけでは終わりませんでした。

つづく愛知大学法学部の紀要「法経論集」3月号に伊藤博文教授筆(あえて申すまでもなく元勲ではありません)「人工知能の民事責任」という論文が掲載されていて、そこには、ひとつの事例(近未来の想定です)が紹介されています。

「人工知能型介護ロボットが、食事介護時に、誤作動を起して食後投与される処方薬を過剰投与してA(70歳)を死に至らしめた」というもので、「どうような法理論に基づいて損害賠償請求が可能か」という問題提起がなされているのですが、提起の方はともかく、更問として、こんなことが書かれていたのです。

「もっとも、人工知能型介護ロボットが、A(70歳)の死期が近いことをバイタルサインから読み取り、もっとも効率的な介護動作を選択した結果、(誤作動ではなく)処方薬を過剰投与してA(70歳)を死に至らしめた」場合はどうかという更なる想定の問いが発せられていたのです。

これは、すごく怖い話です、囲碁どころの話ではありません。

そう遠くない未来では、生きていても仕方のない無能・無益な人間は、人工知能が勝手に「安楽死」を判断・選択し、知らぬ間に一服モラレそうなのです。

なんだか「動物裁判」と関係あるような・ないような、そんなモヤモヤとした朝のひとときでした。

あっ、コーヒー飲むの忘れてた。

ここではじめて、心から「やれやれ」と言うことができました。


【付録】
本文に引用しようとして、タイプしてみたのですが、あまりに難解なので挿入箇所がみつからず、あえて不採用とした一文ですが、せっかくタイプしたので、無碍に消去してしまうのは、なんだかもったいので、「付録」としてみました。

そして、「動物裁判は、如何なる紛争解決能力もなかったにせよ、人間の私法上の権利を介して、人間界の動物の王国=自然界の関係を定義し、さらに、社会の自己像が普遍的に正しいのだ、と自ら肯定するのを助ける観念的効果はあった、と評価される」と述べているが、それはつまり、動物の行動によって惹起された事態を、人間界の力の射程に収めて処理し、状況を治癒する、ということを意味する。「裁判」という形式が、人と動物との関係を(相互的な「対決」の結果としてではなく)人間界の側から一方的に定義づけるuniversalな手段として用いられた、ということに他ならない。例示された「動物裁判」においては、人間化命からが動物に対していかに行使されるべきかが、人間たちによって議されているのであって、訴追された動物は、形式上は「被告」の立場に立つとはいえ、訴追者と動物とが対決する構図になるかというと、そのような能動的な役割が動物に配当されているわけではない、のではないか。
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# by sentence2307 | 2016-03-19 14:41 | 映画 | Comments(0)
この作品が、映画批評家や観客に大きな衝撃を与え高く評価された理由は、ある家族の12年間を描くにあたって、すべての俳優を実際と同じ12年間という「時の経過」の中に晒しながら、そのままドラマを進行させて撮った斬新さにあったからだと思います。

もちろん、いままでの映画の「時間の経過」を表現する技法といえば、「子役を使い、やがて青年の演者に交代させて」成長の姿を見せるとか、若い俳優に「老けメイク」をほどこすとか、あるいは字幕による「時間とばし」やCGを駆使するといったことが常識だったわけですから、長大な時間のなかで実際に成長したり老いたりする姿をその都度ドラマの中に織り込みながら撮るなどということは、ある意味、根源的なカルチャーショックみたいなものを含んでいて、その辺が多くの観客や批評家に評価されたのだと思います。

映画製作には莫大な金がかかる映画経済の面からいえば、各界から資金を集めて製作し、できるだけ早く興行をうって資金の回収をはかりたいという産業システムからいえば、映画の「製作期限」に余分な時間など与えられないというのが資金提供者からの喫緊の要請なのであって、それを考えれば、この「12年間」という空費は、どう考えても常識外れで、まずは「有り得ない」衝撃だったのかもしれません。

まさに、フェリーニ作品やヴェンダース作品にも、その辺の切迫・焦慮した裏話を描いた映画がありましたよね。

しかし、この作品の「衝撃」がどの程度のものだったかというと、一本の映画を12年間にわたり、すべて同一スタッフ・キャストで撮るという、その超アナログ的な考え方に対してよりも、まずは、その「期間」の不安定な悠長さ(例えば、その12年の間、はたして演出者は、演出の意図を同じレベル・同じテンションで保つことができただろうかなど)に対してだったでしょう。

すべて同一スタッフ・キャストを12年間コウソクするというのは、人事的に大きなリスクがあるわけですし(生死も含めてです)、演出者の忍耐とか、厳しい経済条件など、そのどれもが映画制作的な「時間の観念」という常識枠から大きく逸脱する考え方なので、その意味でちょっと考えられない「期間」への驚きだったのですが、しかし、ノンフックションの製作では別に珍しいケースでもないらしいので、その意味からすれば、この映画に携わった関係者の考え方に「軽く驚いた」くらいが、まあ適当だったかもしれません。

むしろ、もっと「大きな衝撃」は何だったかといえば、冒頭、草原に寝転びながら、真っ青な空に浮かぶ白い雲を夢見るように微笑して眺めていた愛くるしい少年メイソン(6歳)が、ラストの方では、いかにも扱いにくそうな、むさくるしい髭モジャの気難しげな青年に変貌していることにあるのだと、多くのメディアやサイトにもそのように書いてありました。

僕たちの日常には、確かに時間の境目なんか、どこにも記されているわけではありませんし、実際急に老け込むなんてことも滅多にあることではなく、普段の生活で実感することなどもないので、まあ、あるとすれば、久しぶりに会った親戚のおばさんに「あんたもずいぶん老けたわね」などと嫌味ったらしく言われるくらいで(カゲで僕のことを「若年寄」と言いふらしていたことは知っていました)、思わずカッとしながらも、改めて「時の経過」を苦々しく実感するのがせいぜいです。

その意味では、この作品は目からウロコ的に「映画の嘘」を教えてくれた画期的な作品といえるのかもしれませんが、しかし、僕的には、正直いうと「教えてくれなくとも、よかったかなあ」という感じをもってしまいました。

「時間の経過」を表現する「子役」や「演者の交代」や「老けメイク」や「字幕による時間とばし」などは、創成期から映画が持っていた愛すべき技術であり(それを「嘘」といってしまえば、「映画」芸術の単なる否定にすぎません)、もちろん「長所」なのであって、この映画のように、その辺をそれほど責め立てることにどんな意味があるのか疑問です。

それに、たった一本の映画の中で、どこの誰とも分からない外国人俳優の「12年間」を追体験できたからといって、それほど感動すべきことだともトウテイ思えませんでした。

などなどと考えながら、別の意識の部分で、最近亡くなった原節子の幾本かの映画を、ぼんやりと思い返していました。

この映画でいわんとしていることなど、自分などはアタマの中でとっくの昔に実行してるワイ、少女だった頃から、壮年に至るまでの原節子の映画群をいままで繰り返し何度も見てきた自分にとって、「時間の経過」など、なにも「一本の映画」である必要など、どこにもないわけで。

この作品風にいえば、「自分は、いつまでも、草原に寝転びながら、真っ青な空に浮かぶ白い雲を、夢見るように微笑して眺めていた愛くるしい少年メイソンのままでありつづけたい」と思うばかりです、少なくともあの・・・いやいや、やめておきましょう、この作品でいっているように、そんなことはトウテイ不可能ことと大いに分かっていますから。

(2014)監督脚本製作・リチャード・リンクレイター 、製作・キャサリン・サザーランド、ジョン・スロス、ジョナサン・セリング 、撮影・リー・ダニエル、シェーン・ケリー、編集・サンドラ・エイデアー
出演・エラー・コルトレーン(メイソン・エヴァンス・ジュニア、主人公)、パトリシア・アークエット(オリヴィア・エヴァンス、メイソンの母親)、ローレライ・リンクレイター(サマンサ・エヴァンス、メイソンの姉)、イーサン・ホーク(メイソン・エヴァンス・シニア、メイソンの父親)、リビー・ヴィラーリ(キャサリン、オリヴィアの母親)、マルコ・ペレッラ(ビル・ウェルブロック、オリヴィアの二番目の夫)、ジェイミー・ハワード(ミンディ・ウェルブロック、ビルの娘)、アンドリュー・ヴィジャレアル(ランディ・ウェルブロック、ビルの息子)、ブラッド・ホーキンス(ジム、オリヴィアの三番目の夫)、ジェニー・トゥーリー(アニー、メイソン・シニアの後妻)、リチャード・アンドリュー・ジョーンズ(アニーの父親)、カレン・ジョーンズ(アニーの母親)、ビル・ワイズ(スティーヴ・エヴァンス、メイソン・シニアの兄弟)、ゾーイ・グラハム(シェーナ、メイソンの彼女)、チャーリー・セクストン(ジミー、メイソン・シニアの友人、ルームメイト)、リチャード・ロビショー(メイソンの上司)、スティーヴン・チェスター・プリンス(テッド、オリヴィアの彼氏)、トム・マクテイグ(ミスター・ターリントン、メイソンの写真の先生)、マクシミリアン・マクナマラ(ダルトン、メイソンのルームメイト)、テイラー・ウィーヴァー(バーブ、ダルトンの彼女)、ジェシー・メクラー(ニコル、バーブのルームメイト)、バーバラ・チザム(キャロル、オリヴィアの友人)、キャシディ・ジョンソン(アビーキャロルの娘)、ウィル・ハリス(サマンサの彼氏)、アンドレア・チェン(サマンサのルームメイト)

2014第64回ベルリン国際映画祭 監督賞受賞、Prize of the Guild of German Art House Cinemas 受賞、Reader Jury of the Berliner Morgenpost 受賞、金熊賞ノミネート、サウス・バイ・サウスウエスト映画祭 Louis Black Lone Star Award 受賞、Special Jury Recognition 受賞、サンフランシスコ国際映画祭 Founder's Directing Award 受賞、シアトル国際映画祭最優秀作品賞受賞、最優秀監督賞受賞、最優秀女優賞受賞、国際映画批評家連盟賞グランプリ受賞、ゴッサム・インディペンデント映画賞作品賞ノミネート、男優賞ノミネート、女優賞ノミネート、ブレイクスルー演技賞ノミネート、観客賞受賞、ニューヨーク映画批評家協会賞作品賞受賞、監督賞受賞、助演女優賞受賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞作品賞受賞、監督賞受賞、主演女優賞受賞、英国インディペンデント映画賞外国映画賞受賞、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞2014作品賞トップ10受賞、ボストン映画批評家協会賞作品賞受賞、監督賞受賞、アンサンブル・キャスト賞受賞、脚本賞受賞、編集賞受賞、カンザスシティ映画批評家協会賞監督賞受賞、助演女優賞受賞、サンフランシスコ映画批評家協会賞作品賞受賞、監督賞受賞、助演女優賞受賞、編集賞受賞、助演男優賞ノミネート、オリジナル脚本賞ノミネート、ダブリン映画批評家協会賞作品賞 受賞、監督賞受賞、トロント映画批評家協会賞作品賞受賞、監督賞受賞、助演女優賞受賞、脚本賞次点、2015ノーステキサス映画批評家協会賞作品賞受賞、監督賞受賞、助演女優賞受賞、ゴールデングローブ賞作品賞 (ドラマ部門) 受賞、監督賞受賞、助演男優賞ノミネート、助演女優賞受賞、脚本賞ノミネート、放送映画批評家協会賞作品賞受賞、監督賞受賞、助演女優賞受賞、毎日映画コンクール外国映画ベストワン賞受賞、おおさかシネマフェスティバル2014年度ベストテン外国映画(作品賞)1位、アメリカ映画編集者協会エディ賞 最優秀作品賞(ドラマ部門)受賞、サテライト賞作品賞ノミネート、監督賞受賞、助演男優賞ノミネート、助演女優賞受賞、脚本賞ノミネート、編集賞ノミネート、主題歌賞ノミネート、インディペンデント・スピリット賞作品賞ノミネート、監督賞受賞、助演男優賞ノミネート、助演女優賞受賞、編集賞ノミネート、アカデミー賞作品賞ノミネート、監督賞ノミネート、助演男優賞ノミネート、助演女優賞受賞、脚本賞ノミネート、編集賞ノミネート
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# by sentence2307 | 2016-03-14 13:12 | 映画 | Comments(0)

レイ/Ray

超有名人とか、メディアが最初から「超名作」と決めつけプッシュしてくる映画(映画ばかりとは限りませんが)に対して、抗体というものをまったく有していない大衆があやつられるままに一斉に同じ方向を向くというような環境の中で、ひとり別な方向を向く(顔をそむける)という「孤立無縁」の立ち位置を選び取ることは、とても勇気のいることだと思います。

レイ・チャールズの生涯を描いたこの辛らつな作品「レイ/Ray」は、きっと「その辺」のところを試しにかかってくる映画かもしれません。

もともと自分は、ギター一本でうめくように歌い上げる泥臭いブルースがむかしから大好きなので、you tubeでもアメリカのかなり古い貴重な動画を繰り返し見て楽しんでいます。

その観点から言わせてもらえば、「逸脱」とか「堕落」とはいわないまでも、ごくごくポピュラーソング化されたレイ・チャールズやレオン・ラッセルなどの楽曲も、臆することなく、よく聞いて親しんできました。

そういう感じで親しんできたこともあって(楽曲に親しむことが、その歌手の人格まですっかり分かってしまったような気分にさせられたのかもしれません)、レイ・チャールズの生涯が、こんなふうに薬物中毒と複雑な女性関係(それもこれも結局は自分の「ダラシナサ」のせいだったのですが)に囚われていたとは、この映画を見るまで少しも知りませんでした。

その意味ではショックでしたが、しかし、すでに「ジャージー・ボーイズ」など多くの内幕もの映画を散々見てきた自分にとって、それほどショッキングなものということもなく、まあ、「レイ・チャールズよ、お前もか」という程度でしたので、その気分のままに、この作品を深くアプローチすることもなく通り過ぎたのだと思います。

それから少し時間が経っています。

最近、沢木耕太郎の「銀の森へ」(朝日新聞社刊)という映画批評集を読んでいて、この「レイ/Ray」の批評に邂逅しました。

「テロルの決算」以来、沢木耕太郎の著作は刊行されるたびにどうにか読むようにしていますが、しかし、自分が、この著者の作品を、まず「テロルの決算」から読み始めてしまったことが、果たして自分にとって良かったことだったのか、すこし複雑な気持ちでいます。

というのは、この著者の他の作品を読むたびに、この著者にとって、日本のテロリスト青年を描いた「テロルの決算」とは、いったいどういう位置づけの作品だったのか、そしてまたどういった意味があったのだろうかと問い返さずにいられない自分がいて、眼の前の著作以外のところで、少しずつ積み上げてしまう根本的な「失望」みたいな堆積があって、遣り切れない重苦ししさが増すばかりなのです。

思えば、あの「政治の季節」の真っ只中で「テロルの決算」と出会ったことは、自分にとって、またこの著者との関係にとっても、とても「不運なスタート」だったのではなかったかという憂鬱な気持ちに満たされてしまいます。

たとえば、しかつめらしく「著者」などという位置づけなどせずに、最初から「スポーツ・ライター」というラフな認識だったなら、もっと楽な気持ちで沢木耕太郎やその著作に接することができただろうし、もっと自由な読書体験も持てたかもしれないと思うと、なんだかとても悔しい気持ちでいっぱいですが、あの「政治」や「思想」を最上なものと思い上がり、「スポーツに血道を上げる愚劣さ」と貶めていた自分の硬直した思考は、歪んだ政治の季節のなかで道を見失い、彷徨っていたころの「宿痾」としか呼びようのない人間的欠陥であって、いまさら治癒するわけもなく、この欠陥をこのまま引き受けて生きていくしかないと、もうほとんど途方にくれながらすっかり諦めています。

しかし、その話とは全然違う部分で、この「銀の森へ」という本は、あまりお薦めすることはできません。

朝日新聞に連載されていた映画コラムだそうですが、なにしろ実質本文350頁ほどのスペースに90本の映画批評がぎゅうぎゅう詰めにされていて、一本につき僅か3頁に満たない分量なので、著者の書き足りない苛々感が、そのまま読者の読み足りない欲求不満に直結してしまうという惨憺たる反映のうえに成り立っているような、筆舌に尽くしがたいストレス本という感じをもちました。

それは、所詮「広く浅く」が宿命付けられている新聞記事というものの持つ運命みたいなものの、反映そのものの姿だったのかもしれません。

それに、金詰りの会社(まさかあの大新聞社の朝日に限ってそんなことはありませんが)が、「予算達成のために、なにか売れそうな本があれば、なんでもいいからでっち上げて、「朝日経」信者の馬鹿どもに売りつけろとばかり、ゴリ押しで無理やり編まれた本なのではないかと邪推したくなるくらいの安普請です。

さて、そのような本の中に収められている「レイ/Ray」の批評ですから、あまり期待されても困りますが(模範解答の見出しの羅列のようなもの、という意味です)、要約すれば、こんな感じです。

沢木氏は、「それなりに楽しんで見た作品だが、はっきりいって上っ面だけ描かれているだけで深みに欠ける残念な映画だった、しかし、映画のなかで聞いたレイ・チャールズの楽曲は、どれも自分が親しんできた曲なので、帰宅して改めて聞いてみたが、どの曲も映画で聞いたような感慨はなかった。

やはり、映画というものはそれなりに(ストーリーに裏付けられるため楽曲を輝かせられる)意味あるものなんだなあ」ってな具合に書いてみると、結局筆者がこの映画をどう評価しているのか、特に最後の部分など何を言っているのか、さっぱり分かりませんでした。

たぶん、その理由は、結論を曖昧なままにしてしまったからに違いないのですが、原文を何度読んでみても、やはり明快な決め言葉などどこにも書かれていません。

どうも筆者自身が結論を避けているように感じられてなりません。

なにしろ発表の場が、大新聞紙上ということもあって、滅多なことなど書けるわけもないでしょうし、書く側としても、仕事とあれば、新聞社の意をくんで口籠もるくらいの芸はみせたかもしれません。

しかし、自分としてもこの映画批評を貶すばかりでは後味が悪く、気持ちの治まりがつきませんので、ここはひとつ出色の部分もあるにはあったことを紹介しておかなければ、と思います。

その出色の一文というのは、以下のとおりです。

「たとえば、目の見えないレイ・チャールズが恋愛遍歴を重ねる。
彼はどのようにして女性を認識し、選んだのか。
映画では、レイ・チャールズが女性と握手するとき、反対の手でそっと相手の手首を握るというシーンが挿入されている。
監督のテイラー・ハックフォードは、そうした細部によって、レイ・チャールズの歌の官能的な部分を視覚的に伝えられるよう周到に組み立てていたのかもしれないのだ。」(266頁)

「握手しながら、もう片方の手で相手の手首を握る」シーンを、沢木耕太郎は、「歌の官能的な部分を視覚的に伝えられるよう周到に組み立てていた」などとあえて上品に無力化して逃げていますが、この部分は明らかにレイ・チャールズが、女性の体を卑猥に撫で回し「女」を物色していたことと同義であることを描いていることは明らかです。

誰が見ても手首が女性としての官能的で重要な「その部分」を暗示しているか、もしくはモロ直結しているか、おそらくそのどちらともであって、それはそのまま、レイ・チャールズという男が、目の不自由なことをいいことにして下卑た好色さを隠そうともしなかったしたたかな姿を描ききっているのだと思います。

そんな例なら日本にだって、つい最近ありました。

障害を盾に取り、良識をよそおった世間の偽善と哀れみの虚をついた「佐村河内」現象です。

と、ここまで書いてきて、ひとつの投稿文と出会いました。

レイ・チャールズは、こんな人じゃないというファンによる作品「レイ/Ray」に対する怒りの一文です。

ちょっと感動したので、転載させていただきました。

《この作品を見終えた後の感想は、とても不快なものでした。
私は小さい頃からのレイ・チャールズファンです。(当然、今でも‥)
だから、彼の人生を冒涜しているみたいで、とても不愉快なんです。
この作品を見て、彼(レイ)を、どんな男だと思いましたか?
音楽の才能があることで大金を得て、眼が見えないことを言い訳にして、好き勝手なことばかり‥。
最低だとおもいませんか?(誰の証言を元に製作されたか知りませんが‥)
特に、麻薬の常習容疑で逮捕されるも、金の力で取消し。
にもかかわわらず、やめようとさえしない。(暗闇を理由に‥)
全盲ながら、一生懸命いきている人達は沢山おられます。
(あえて、それ以上は触れませんが‥)
確かに、ジェイミーの演技は素晴らしかったけど、ただだらしない男を演じたに過ぎないし‥。
むしろ、レイの母親を演じた彼女こそ、素晴らしかった。
とても自然に演じていたし、母親も愛情の深さも体現していた。
しつこいようですが、私はレイ・チャールズの大ファンです。
晩年の彼しか知らない私には、彼の苦労話など当然解りません。
でも、この作品は彼のことを想っての製作だとはとても思えません。
彼が生きていてこの作品を見たら、どう想うでしょう。
子供達に夢を持たせようと、努めていた彼です。》

このレイ・チャールズファンの人が、たとえどちらを向いて何を語ろうと、したり顔した大勢から顔をそむけたその姿の凛々しさに惹かれて転写してみたのですが、「レイ・チャールズの生涯を描いたこの辛らつな作品「レイ/Ray」は、きっと「その辺」のところを試しにかかってくる映画だったのかもしれません」ね。

(2004UIP映画配給)監督脚本製作・テイラー・ハックフォード、製作・ハワード・ボールドウィン、カレン・エリス・ボールドウィン、スチュアート・ベンジャミン、製作総指揮・ ウィリアム・J・イマーマン、ジェイム・ラッカー・キング、原案: テイラー・ハックフォード、ジェームズ・L・ホワイト、脚本・ジェームズ・L・ホワイト、撮影・パヴェル・エデルマン、編集・ポール・ハーシュ、音楽・レイ・チャールズ、クレイグ・アームストロング、美術・スティーヴン・アルトマン、音楽監修・カート・ソベル、衣装(デザイン)・シャレン・デイヴィス、
出演・ジェイミー・フォックス(Ray Charles)、ケリー・ワシントン(Della Bea Robinson、レイ・チャールズの妻)、クリフトン・パウエル(Jeff Brown、ツアー・マネージャー)、ハリー・レニックス(Joe Adams、長年にわたるマネージャー)、リチャード・シフ(Jerry Wexler、レイ・チャールズのプロデューサー)、アーンジャニュー・エリス(Mary Ann Fisher、女性バック・ヴォーカル歌手)、シャロン・ウォーレン(Aretha Robinson、レイ・チャールズの母)、カーティス・アームストロング(Ahmet Ertegun、レコード会社の重役)、レジーナ・キング(Margie Hendricks、女性バック・コーラス)、テレンス・ダッション・ハワード、ラレンツ・テイト(クインシー・ジョーンズ)、ボキーム・ウッドバイン、C・J・サンダース( 幼少のレイ)
152分

第77回アカデミー賞主演男優賞・ジェイミー・フォックス、録音賞・スコット・ミラン、グレッグ・オルロフ、ボブ・ビーマー、スティーヴ・カンタメッサ(英語版)
第62回ゴールデングローブ賞主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)・ジェイミー・フォックス
第47回(2005年)グラミー賞最優秀コンピレーションサウンド トラック賞/映画・テレビ・映像部門・レイ・チャールズ、映画・テレビサウンドトラック部門・クレイグ・アームストロング
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# by sentence2307 | 2016-02-28 21:45 | 映画 | Comments(0)

寺田寅彦の映画論

ある人から寺田寅彦の著作に映画評論があると聞いたとき、なんだか物凄く興味を惹かれたのは、この作家の固定観念に対して「映画」という言葉のイメージに物凄い違和感を覚えたからだと思います、それはまさに「ギャップ」といっても差し支えないくらいのものだったかもしれません。

物理学者で随筆家として著名な寺田寅彦(1878~1935)は、あの極端に人見知りで気難しい夏目漱石にこよなく愛され、漱石宅にも自由に出入りを許されていた(「木曜会」だったと記憶しています)くらいの愛弟子で、なにしろ「吾輩は猫である」や「三四郎」などにモデルとして描かれているくらいですから、それは相当なものだったろうし、漱石を尊敬していた多くの人たちからも特別な存在として一目おかれていたというのも当然と頷かれます。

なにしろ、漱石にしてからが、日本文学の地平を切り開いた先駆者なので、印象的には「むしろ江戸時代に近い方の明治の人」という感じをもつ自分にとって、そういう時代的な部分と、比較的新しい芸術という先入観のある「映画」との取り合わせに意外な感じを受けてしまったとしても、たぶんそれは、無理からぬことだったと思います。

さっそく近所の図書館から岩波書店刊「寺田寅彦全集 第八巻」(1997.7.7.1刷、425頁)を借り受けてきました。

受付窓口でこの本を受け取ったとき、思わず、自分がこの本を手にした最初の人間なのではないかと疑ってしまうくらい、それは清潔で汚れのない「新刊」そのままのような状態でした。

果たしていままで、この本に借り手というものがあったのかと、余計な心配をしてしまうくらい、それは皮肉なほどの新しさです。

目を凝らせば、あるいはその冷ややかな表紙から、「敬遠」の二文字がいまにも浮かび上がってきそうなくらい、ヨソヨソしいほど人の気配を感じさせない清潔さでした。

自分が蔵書している「寺田寅彦」本は、筑摩書房の「現代日本文學全集22」(昭和30.7.25.1刷、438頁)で、「森田草平・鈴木三重吉」との三人集ですが、この原稿不足の現代からはちょっと考えられない、いまどき有り得ない本文三段組という野放図な贅沢さで組まれている、まさに時代に逆行したような「日本文學全集」です(昭和30年刊行の本なので当然ですが)。

このクラシックな本は、いまはもう廃業して取り壊されてしまった駅前の古本屋で購入しました。

たしか「100円均一」の棚に数十冊もならべられていたものを一挙に購入した(20冊買っても2000円ですから財政的にはビクともしませんが、重量を考えるとやはり「一挙」には無理だったかもしれません)そのなかの一冊だったと記憶しています。

実はこれまで寺田寅彦の随筆は、そのひとつひとつが、ほどよい「短さ」(もちろん「いい意味での」短さです)ということもあって、折りにふれて親しんでいました。

その随筆の全体的な印象をざっくりと挙げれば、まず、過ぎ去った少年の日の甘美な思い出とか、まあ、同じような感じの哀切な望郷とか、あるいは、いまは亡き人々への尽きせぬ回顧などという感じの随筆です。

しかし、こうしてテーマだけを言葉として挙げていくと、なんだか思い入れたっぷりの情緒過多の随想になってしまいそうな感じがしますが(日本の多くの作家たちが、往々にして「そういう傾向」があるので、ついそんなふうに考えてしまいます)、しかし、そのような「ベタベタ感」は一切なく、日本の歌謡曲的情緒からは距離をとって客観的写生的に書かれていて、むしろ、西欧的な知性や理性を感じさせる乾いた筆致という印象でした。

自分がもっとも印象深く読んだのは、「團栗(どんぐり)」という小品です。

明治38年4月の「ホトトギス」に掲載されたものだそうですが、筑摩本でいえば、わずかに2頁半という短さです。

不治の病で早世した最初の妻・夏子のことを書いたもので、夫との気持ちのわずかな行き違いに苛立ったり、ちょっとした親切に喜んではしゃいだりと、細々とした妻の仕草や会話を冷静に描写していきながら、しかし、一進一退を繰り返す病状は、徐々に、そして確実に彼女を蝕み悪化していくという妻との日常を、まるで生態観察のような緻密な冷静さで描写しています。末尾の部分をちょっと要約すると・・・

体調がいいときの妻を誘って「植物園」に行った帰り道、妻はたまたまどんぐりをみつけ、どんぐり拾いに熱中します。あまりのその熱中振りに夫はあきれ、少し苛々して、「もう大概にしないか、馬鹿だな」「一体そんなに拾って、どうしようというのだ」ときくと、妻は「だって拾うのが面白いじゃありませんか」といい、なおも拾うのをやめようとしない、それどころか、さらに「あなたのハンケチも貸して頂戴」といって、夫のハンケチもどんぐりでいっぱいに満たして、やっと帰る気になるという部分です。

その圧巻の部分をちょっと書き写してみますね。

ハンケチ一杯に拾って包んで大事そうに縛って居るから、もう止すかと思うと、今度は「あなたのハンケチも貸して頂戴」と云う。とうとう余のハンケチにも何合かの團栗を充たして「もう止してよ、帰りましょう」と何処迄もいい気なことをいう。
團栗を拾って喜んだ妻も今はない。御墓の土には苔の花が何遍か咲いた。山には團栗も落ちれば、鵯の啼く音に落葉が降る。

「もう止してよ、帰りましょう」という妻の言葉にまるで覆い被さるように
不意に、「團栗を拾って喜んだ妻も今はない。」と語られ、そして無常な風景として
「御墓の土には苔の花が何遍か咲いた。」と苔むした墓がひっそりとたたずむ山
「山には團栗も落ちれば、鵯の啼く音に落葉が降る。」と山の自然は人の生き死にや愛憎など、すべて呑み込み、何もなかったかのような静けさだけがいつまでもつづいていく。

妻が残した最後のひとことが、死の床でのものでなく、そして、妻の最後の細々しい描写や、妻を失う夫の苦悩などのことごとくを省略したうえでのこの「團栗を拾って喜んだ妻も今はない。」の一文は、いまでも僕が出会った圧巻の一文だったと思っています。

少し、寄り道しすぎて時間がなくなってしまいました。

岩波書店刊「寺田寅彦全集 第八巻」所収の映画論のタイトルだけでも書いておきますね。

映画時代、ラジオ・モンタージュ、青磁のモンタージュ、映画の世界像、映画雑感(1)、生ける人形、教育映画について、映画芸術、音楽映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」、ニュース映画と新聞記事、Image of Physical World in Cinematography、映画雑感(2)制服の処女、ひとで、巴里―伯林、巴里祭、人生謳歌、映画「マルガ」に現れた動物の闘争、耳と目、踊る線条、山中常盤双紙、映画雑感(3)にんじん、居酒屋、世界の屋根、忠臣蔵、イワン、バンジャ、漫画の犬、一本刀土俵入、カルネラ対ベーア、只野凡児第二編、荒馬スモーキー、忠犬と猛獣、血煙天明陣、喰うか喰われるか、吼えろヴォルガ、或る夜の出来事、映画雑感(4)商船テナシティ、実写映画に関する希望、誤解されたトーキー、映画批評について、人間で描いた花模様、麦秋、ロスチャイルド、ベンガルの槍騎兵、アラン、ナナ、電話新選組、映画錯覚の二例、「世界の終り」と「模倣の人生」、黒鯨亭、乙女心三人姉妹、外人部隊、男の世界、映画雑感(5)永遠の緑、家なき児、管弦楽映画、その夜の真心、すみれ娘、映画と生理、映画雑感(6)パーロの嫁取り、ロス対マクラーニンの拳闘、別れの曲、紅雀、泉、映画雑感(7)影なき男、ロバータ、
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# by sentence2307 | 2016-02-22 10:14 | 映画 | Comments(0)

「鬱」時代

「あらゆる映画をみまくる」などと大見得をきって始めたこのブログですが、いまその強烈な副作用に苦しんでいます。

つまり「あらゆる映画」といっても、なにもそれが感動作や名作ばかりとは限らないので、いつのまにか、見ること・イコール・「数をこなす」義務みたいになって自分を縛り、気がついてみると、新たに映画をみようとするとき、つまり、自分の意に添わない一本の映画を見通すためのエネルギーの準備とか、そのために自分に強いなければならない辛抱強さとか我慢とかの相当な「うんざり感」は、考えてみれば、どうも「鬱」に等しいのではないかと気がついたのでした。

自分の楽しみのために映画を見つづけてきたのに、それが「鬱」などになったのでは困ります。

思えば、そのことに気がついたのは、ジェームズ・グレイ監督の「エヴァの告白」と、パオロ・ソレンティーノ監督の「グレートビューティー/追憶のローマ」を見たときでした。

抑制された暗鬱な映像の粘り強い描写力や、溢れ出る情念の豊饒さなど、このいずれもすぐれた作品の映像美に心惹かれ、そして圧倒されもし、さっそく、ブログに感想をアップしようと断片的な下書きをつくるためのメモ用紙の準備をしました。

自分の感想の書き方は、思いついた断片を片っ端からメモしていって、それらを論旨がつながるように並び替え、どうしても繋がりの悪い部分には、適当なコメントで補強して完成させるという、安直でごくオーソドックスな方法で、出来上がりの方は保証しかねますが、比較的スムーズに完成に仕上げられるというメリットはあります、しかし、そのときばかりは、どうもそう簡単にはいきませんでした。

「エヴァの告白」と「グレートビューティー/追憶のローマ」は、いずれも、とても優れた作品です。

ですので、この感動を少しでも言葉で表現できたらと、自分なりに苦労し、煩悶してみたのですが、どうしてもしっくりとした書き出しのひと言が浮かんでこないのです。

メモ用紙に書き付けられるものは、フェデリコ・フェリーニ作品との連関性ばかり、自分のオリジナルな感想は、ひとことだって出てきません。

「道」に酷似したこの「エヴァの告白」という作品について、どのようなアプローチを試みようと、かつて「道」について書いたイメージがよぎり、結果、「道」との比較において、その足らざる部分を辛らつに(自分は根っからのフェリーニ好きですから、どうしても、「そう」なると思いますヨ)指摘することくらいしかできないのです。

そんな一方的な観点しか持てないような批評なら、この意欲作に対して、とても失礼な見方になってしまうのではないか、そして同じように、あらゆる作品に対してだって、ことごとく感応してしまうこの「焼き直し」感から自由になれないなら、いっそ批評などしない方がよほど誠実であることに気がついたのでした。

それはちょうど、まるで自分が所属してきた社会がすでに一巡して終わりを告げ、完結してしまったような感じです。

やがて、リセットされた新たな社会が動き始め、その新時代に相応しい(旧世代に捉われない)価値観も生み出されるに違いない。

それら新たな作品が、旧時代に作られた焼き直しとしてしか(「エヴァの告白」は「道」の、「グレートビューティー/追憶のローマ」は「甘い生活」のフィルターを通してしか)評価できないとしたら、やはりそれは旧世代人間たる自分の判断の、もはやの限界を示しているのではないかと真剣に考え込んでしまいました。

目の前の意欲作を、旧作品のパターンの繰り返しとしてしか理解できないとしたら、いまの自分はまさに、「これはむかし見たあの映画と同じだ。これに比べたら、むかしの方がずっと良かった」と繰り言をいう老人と同じではないかという強迫観念に捉われたのでした。

その融通のきかない柔軟性の欠如した感性は、つまりはこの社会の居場所を失ったことこそを意味しているわけで、それはつまり、当然の「失語」状態に(自分の現状です)通じていたのだと分かりました。

これは半年ほど以前の話です、それでも映画だけは毎日毎日見続けています。

もちろん「うんざり」もし、そして感動した作品は幾つもあり、いつかは、自分のなかのなにかがいずれかの部分に感応し、不死鳥のように映画好きが甦り、自然に湧き出てくるなにかがあるに違いないと待ちもし、信じる気持ちで映画を見続けてきました、あるいは、こういうときだからこそ「映画切れ」になるのが怖いのかもしれませんが。

しかし、結論からいってしまえば、まだスランプ(この状態を「スランプ」などといってしまっていいのか分かりません。

永続する「失語」状態かも)は脱していません。

一方でこの悪戦苦闘のジタバタを愉しんでみるのもいいかなとか、新たなものを感応できないなら、いっそ旧作をたどってみる開き直りも一興かと、あれこれと考えている現在です。

そうそう、ある人から、寺田寅彦が映画好きで、随分な数の映画評論を残していると教えてもらい、図書館から所収の「寺田寅彦全集 第八巻」を借りて読んでいます。
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# by sentence2307 | 2016-02-20 16:09 | 映画 | Comments(0)

愛の渦

映画を見たあと、すぐの印象として「平凡な作品だった」と思うか、「すごく良かった」と思うかの二極化的仕分けの観点からいえば、この「愛の渦」は、もちろん「すごくいい作品だった」という方に整理されたこと言うまでもありません。

世評もそうでしたし、自分もまた「そう」した一人でした。

しかし、見てからの時間が少しずつ経過するにつれて、これが本当に「すごくいい」という程の作品だったのかと、思い返すたびになんだか自信が薄れていくことに気がつきました。

最初の印象がすこぶる「高評価」だったのに、時間が経つにつれて、その高揚感が急速に失われていくというこの「色あせ」経験は、なにもこの作品が初めてのことではありませんし、むしろ、こういうことの方が多かったとさえいえるかもしれません。

その失速感というか、墜落感がどの辺にあるのか、自分なりに考えてみました。

ずいぶん乱暴な話ですが、この映画のテーマをひと言でいってしまえば、「欲望を剥き出しにすることが本当に人間的であって、また、欲望に忠実に生きることが本当に自分らしいといえるのかという思いを抱えながら、冷厳な日常生活が立ちはだかる現実を前にして生き惑う男と女の物語」ということができるかもしれません。

しかし、思えば、この映画の登場人物において、「欲望を剥き出しにすることが、人間的なことなのだ」と思い込んだのは池松壮亮演じるニート青年ただひとりだけであって、この有料乱交パーティーに集った他の男女は皆、「日常」と「乱交」を上手に生き分け、淫乱さを剥き出しにして快楽をむさぼった夜のあとでは、なにくわぬ顔で光溢れる「日常生活」の朝へと違和感なく踏み出していける健康な市民です。

あの門脇麦演じる女子大生ですら、その辺の分別は十分にそなえていて、ニート青年の求愛に対する明確な拒絶は、そのことを十分にあらわしているといえます。

この世には、「欲望を剥き出しにすることが許される闇の世界」と「欲望を押し隠し取り澄まして生きることを強いられる禁欲的な光溢れる日常の世界」とがあって、その辺の欺瞞を上手に飼いならし、使い分けなければ、この社会がすこぶる生きづらいことを、この「境界線」を理解できないニート青年をとおして、この映画は教えてくれています。

当初、周囲の高評価につられ、そちら側に自分もつい同調してしまった理由は、やはりこの「ニート青年の思い込み」にある純粋さを感じて共感してしまったからに違いありません。

そもそもこの有料乱交パーティーでは、相手を独り占めにする「愛」が最初から禁じられている規則なので、いまさらながら「性欲」と「愛」とが両立するかどうかなどを考察するのは、場違いの見当違いであることは明白です。

しかし、それにしても、それだけでは、この作品に対する自分の「色あせ感」が、どの辺に由来するのか、もうひとつ摑めません。

女子大生に求愛したニート青年は、その拒絶にあって、ただタジロギ、為すすべもなく、うな垂れているだけのように見えました。

しかし、彼のあの去勢されたような素直なリアクションが、自分のなかではもうひとつ納得できないのです。

たとえ稚拙であったとしても、もっと自分の考え・彼女に対する愛する気持ちを真摯に彼女に伝える場面があっても良かったのではないか、理不尽な彼女の拒絶にもっともっとアガライ、あるいは激昂するくらいのものがあってもよかったのではないかと。

そのとき、いままで自分が感じていた「もうひとつ分からない」という気持ちが、このラストシーン(彼女の「拒絶」に対するニート青年の不自然なくらい無力な素直さ)に対する単なる苛立ちであることに気づいたのでした。

「性欲」と「愛」との両立などという一見高尚なテーマに目を奪われたのですが、むしろこのシーンに描かれているのは「女子大生に拒絶されるニート青年」というシンプルな格差の図式であったことに気づいたのです。

この感覚は、「慶応義塾大学」に入れば、ただそれだけで「人間のくず」ではなくなる、というあの「ビリギャル」を見たときに感じた違和感と同じものでした。

自分の苛立ちや、そして多分怒りも、たぶんその整然とした短絡さに対してだったのだと思います。

「慶応義塾大学」に入れるわけもないニートにとって、いずれも「見づらい映画」ということになると思いますし、ならばこんな作品になにも無理して感動する振りをすることもないかと。

この「愛の渦」を見て、最近同じような思いに捉われたことがあったので、ごく私的なことですが、少し書いておこうと思います。

ある日、帰りの通勤電車で、高校の頃、すこしの間つき合っていた「彼女」にばったり会いました。

彼女とのことは、もうすっかり忘れていたと思っていたのに、こうして顔を合わせれば、付き合っていた頃の出来事のなにもかもを精密に思い出せるくらい、熱く感情的になって将来のことを考えたかもしれない仲だったことが、あらためて思い出されました。それは彼女だって、同じだったと思います。

懐かしさよりもその気まずさが、かえって2人をそのままでは別れにくくさせたのかもしれません。

よりを戻すとかそんな気持ちなど、もとより少しもありませんが、駅前の喫茶店でその後のお互いのことを少し話しました。

ありふれた恋愛をし、結婚して子供ができ、郊外に家を買って平凡に暮らしていることなど、どれも似たような身の上です。

話が途切れ、もう話すことも尽きた感じなので、腕時計を見る仕草を切っ掛けにして席を立ちました。

右と左に「じゃあ」という別れ際になって、彼女はなにか言いにくそうに立ち尽くしています。

このまま自分としても立ち去りにくく、彼女の言葉を待つ姿勢になりました。

彼女は、ポツリと言いました。

「あのとき、あなたを受け入れていたら、わたしたち、もっと違った人生をおくれたかしらね・・・。SEXが、こんなものなら、いっそあのとき、あなたにさせてあげればよかったと、最近よく思う。」

あの頃、僕は彼女を執拗に求め、彼女は必死に拒み続け、そのいかがわしい僕の態度を激しくなじった果てに2人が別れたあのときのことを言っているのだと、すぐに分かりました。

その頃の僕としても「性交」は未知の領域でしたが、性交しないかぎり愛は成就しないくらいに思いつめていたのかもしれません、時代です、仕方ありません。

彼女の言葉に自分はただ言葉なく頷くしかありませんでした、頷く以外に自分になにができたというのでしょう、いまでも分かりませんが。

それだけいうと彼女は去り、そして僕も反対方向に歩き出します。

頭の中で彼女の言葉が、繰り返し・繰り返し思い出されます。

いまでならSEXくらい、なにもそんなに問題になることもなく、その深刻さなど信じられないかもしれませんが、僕たちの時代は「草原の輝き」の時代です。

「純潔」を求める社会の目が病魔のように少女たちを監視し、蝕んでいました。

でも、いまなら分かるような気がします。

彼女の腰に手をまわそうとする僕の手を、彼女は失笑しながら優しく払いのける、僕は彼女のその優しい恥じらいの所作をこよなく愛していたこと、それは、彼女のカラダが欲しかったからじゃない、いまなら分かる、「彼女の腰に手をまわし、それを失笑しながら優しく払いのける」、そうして僕たちは微笑を交し合った、ただそれだけの関係でよかったのだと。

だから、彼女が最後に言ったように、たとえ、彼女が僕を受け入れていたとしても、僕たちは決して「違った人生」などおくれやしなかっただろう。

いずれにしろ、僕たちは「SEX」した途端、破綻しなければならなかったのだと、あのとき、立ち去る彼女に言うべきだったと、いまでも時折後悔することがあります。

(2013クロックワークス)監督脚本原作・三浦大輔、三浦大輔、企画・加藤和夫、企画協力・太田雄子、製作・間宮登良松、藤本款、プロデューサー・岡田真、木村俊樹、撮影・早坂伸、美術・露木恵美子、音楽・海田庄吾、音楽プロデューサー・津島玄一、録音・永口靖、照明・神谷信人、編集・堀善介、キャスティング・おおずさわこ、ライン・プロデューサー・坂井正徳
出演・池松壮亮(ニート)、門脇麦(女子大生)、滝藤賢一(サラリーマン)、中村映里子(保育士)、新井浩文(フリーター)、三津谷葉子(OL)、駒木根隆介(童貞)、赤堀セリ(常連)、柄本時生(カップル)、信江勇(カップル)、窪塚洋介(店員)、田中哲司(店長)、
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# by sentence2307 | 2016-02-11 12:46 | 映画 | Comments(0)
この猛暑のなか、格別な用事でもなければ、炎天下にわざわざ外出するなど、思っただけでもウンザリなので、結局、冷房をギンギンにきかせた部屋で寝転がりながら、終日、新作・旧作の映画を手当たり次第見ている毎日です。

しかし、いざ映画を見るとなると、どうしても録画したストックのなかから古いものを見なければという気持ちが強く、結構な旧作を見ることが多いのですが、昨日もそんな感じで、増村保造の「巨人と玩具」1958と「最高殊勲夫人」1959、そして吉田喜重の「告白的女優論」1971を立て続けに見ました。

録画データによれば、この3作品、かなり以前に(残念ながら正確な日付は記されていません)「日本映画専門チャンネル」で放映時期が一緒だったみたいで、ともに追いたてられるような逼迫した時代の雰囲気みたいなものがシビアに感じられる秀作だと思います。

増村保造の2つの作品は、日本経済が加速度的な高度成長をとげていくなかで、その過酷な渦に否応なく巻き込まれて翻弄されるサラリーマンの焦燥と破滅への無残な活力と、そして絶望とを人間喜劇としてヒステリックに描いた秀作です(まさに60年安保直前の不安と動揺感が伺えます)し、一方の吉田喜重の「告白的女優論」の全編に漂う過度の内向き姿勢は、あの経済の狂奔と破綻、政治の季節の終焉の底深い絶望のなかで、結局なにひとつ得ることのなかった日本人の静かに内向した絶望が描かれた魅力的な作品だといえるかもしれません(あの浅丘ルリ子までが全裸になって性交画面を撮らせるなど、ある「時代」が終わり、その絶望感が過度に「性」へと振り切れた時代の片方の歯止めのきかない異常さも顕著に描かれていました)が、しかし、そういうことをすべて認識しながらこれら諸作品をいざ見るとなると、そこに描かれた状況が「いま」ではないというズレの決定的な理由によって、観客たちに見る集中力を止切らせてしまうということは、どうしても否めない事実だと思います。

なかでも出だしから結末が見えてしまう「最高殊勲夫人」では、それが特に顕著で、若尾文子が、自分の置かれた恵まれすぎるシチュエーション(姉たちが秘書から玉の輿を得るという道筋)に反発して決意した最初の「約束」に反して、徐々に川口浩に惹かれていくという定番の展開も、しかし、集中力を欠いてしまった不運な目の端で、すぐ脇の金魚の水槽の汚れの方がどうしても気に掛かり、結局映画鑑賞を中止して、水槽洗いを思い立つという実に情けない仕儀になってしまいました。

しかし、この不謹慎な「水槽洗い」にも、一定の収穫はありました。

水の滴りを受けるため、水槽の下に敷いていた日経新聞(2015.2.15朝刊。つまりこの日以後水槽を洗っていなかったのかも)に魅力的な記事を見つけたのです。

水槽洗いなどそっちのけで、記事を読みふけってしまいました。

最終の文化面に掲載されている「芸術と科学のあいだ」という小さなコラム(生物学者・福岡伸一筆)です、題して「ダリにもまた科学者の心」。

本文で、「科学者にとって、ときにアートの心が必要であるように、芸術家にもサイエンスの解像度が求められることがある」と書き出され、サルバドール・ダリのフェルメールへのオマージュ作品「フェルメールの〈レースを編む女〉に関する偏執狂的=批判的習作」(つまりデフォルメということだと思います)を掲げながら、「よほどフェルメールのことが好きだったのだろう、繰り返し自作のなかにフェルメールの〈レースを編む女〉を引用している。シュルレアリズム、ある意味でSF的世界を精密に描き続けたダリも科学者の心を持った芸術家といえるのではないか。」と結論づけられている小文なのですが、問題の箇所は、ダリのフェルメールへのオマージュを導き出すために挿入されたエピソードにあります。

ちょっと長い引用になりますが、筆写してみますね。

「そういえば、スペイン出身の映画監督ルイス・ブニュエルは、若い一時期、解剖学者ラモニ・カハールの研究室で学んだ経験があると聞いた。
カハールは顕微鏡であらゆる細胞を探求し、今日の神経化学の基礎となるニューロン説を唱え、ノーベル賞を受賞している。
ブニュエルの映画の中で、眼球にカミソリを入れる衝撃的なシーンがあるが、彼は研究室で来る日も来る日も細胞を削ぎきりする作業を命ぜられていたのかもしれない。
そう思って「アンダルシアの犬」1928をもう一度眺めていたら奇妙なシーンに気がついた。
本のページが風でめくれ一瞬だけ絵が見える。
それはフェルメールの「レースを編む女」なのだ。
ここにはどんな意味が込められているのだろう。
思えば、フェルメールほど科学的なマインドで絵を描いた画家もいなかった。
三次元空間をありのまま二次元のキャンバスに写し取りたい。最先端技術を使って。
これは科学的探究心以外の何ものでもない。彼は焦点深度のずれやレンズ視野周囲のにじみまで正確に描きとめた。」


ブニュエルが「アンダルシアの犬」のなかにフェルメールの「レースを編む女」を密かに描き込だという目新しいエピソードの引用でこの文を感動的に閉じてもいいのですが、実は、自分が興味を引かれたのは「ブニュエルとフェルメール」のエピソードというより、「引用する」という行為そのものの方にあったことを書いておかねばなりません、もう少し書いてみます。

この同じ文化面には、もうひとつ富士川義之の「詩話について」というエッセーが掲載されています。

実は、こちらの方が紙面の半分を領する大きな記事で、その日の文化面のメイン記事なのですが、筆者は文学形式としての「詩話」を現代に蘇生させるために、こんなふうに解説しています。

そもそも「詩話」とは、江戸時代の文人たちが愛好したジャンルで、「著名な先人の名詩や人柄や生活などに関する故事逸話が、古書の渉猟を通じてまとめられ、語りなおされたもの。
江戸時代の代表的な知識人である儒者たちは文化の継承に不可欠なものとしての知識の伝承行為を重視し、それを主として逸話や逸事の蒐集を通じて行っていた」のだそうで、「日本随筆大成」全71巻という書物も刊行されており、そのなかに多数の「詩話」が収められているのだそうです。
つまり江戸期の文人墨客のエピソードを集めたものということでしょうか。

そして、この「詩話について」を読んだあと、同じ紙面のコラム「ダリにもまた科学者の心」を読み、「ブニュエルとフェルメール」のエピソードに遭遇したのですが、アタマのなかには、まだ「詩話について」の読後のイメージがあって、「ブニュエルとフェルメール」のエピソードが、その江戸期の文人墨客のエピソードを集めた「詩話」と共通するものがあるような気がして興味をそそられ、「詩話」の映画編みたいなものがあったら面白いなという気持ちで、この文章を書いた次第です。
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# by sentence2307 | 2015-08-04 08:27 | 映画 | Comments(1)
この作品を見る前に、見たあとできっと原題にないサブタイトル「ふたつの心をつなぐ旅」は必要ない、余計なものだと感じるだろうなという予感を持っていました。

いままで、鑑賞前にもったこうした予感は、だいたい的中するのですが、しかし、今回に限っては違っていました、別に、これくらいのサブタイトルならあってもいいかなと。

この「これくらいなら、いいかな」は、おそらく、この作品に対する自分の「期待」と「失望」の落差を示しているような気がします。

それは、そのまま、この作品を予告編で見たときの印象と、実際に本編を見たときの微かな失望を現わしているのですが、実は、そのまえに、あえて「抑えたモノクロ画面」で撮られた作品というものに対する自分の先入観、というか「偏見」について説明しておかなければなりません。

この「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」が、なぜ、あえてモノクロにこだわって撮られなければならなかったのか、という考察のまえに、映画史における多くの監督たちが、転換期の時代的な要請に従って「モノクロ作品」から「カラー作品」に移行しなければならなくなったときの「煩悶」についてどうしても考えておきたいと思ったからでした。

その「煩悶」こそが、「あえてモノクロにこだわって撮られなければならない作品」という問いの答えになるかも、と考えたのでした。

発明以後、映画を大きく変えた事件は、「発声」と「発色」だったといわれています。

特に、いままでは白黒だけでしか表現できなかった世界を、現実の色彩を反映させて描けるようになったということは、それだけで大きな事件、まさに革命的なことだったわけで、映画作家にとってその表現の広がりは、きっと驚天動地といえるくらいの喜びだったはずです。

しかし、色がついたことによって、失うものもまた少なくなかったのではないか、つまりそれが「煩悶」の意味だったに違いありません。

とりわけ人間の悲惨や悲痛な絶望を描くことに執着した映画作家たちにとっては、「そう」だったはずです。

小津作品が「色彩」を獲得たことによって、以後辛らつな「ペシミズム」や強烈な「絶望感」は影を潜めて、それらをストレートには描きづらくなったという事実をみれば、おおよそ分かるような気がします。

華やかで静謐な画調だけが描くことのできる上品で小市民の静かな絶望は、しかし「できる」というよりは、むしろ色彩の華やかな多弁性によって、逆にストーリーの饒舌を阻む「限界」ともなったのではないかという気がします。

はたして総天然色のシネマスコープとやらで、あの「風の中の牝鶏」の暴力的なまでに殺伐とした夫婦関係の感情の昂ぶりを、あのように描くことができただろうかと思わずにいられません。

以後、小津の描いたこの過激な「殺伐」は、時代を遡って「ぶれ過ぎ」と決め付けられ、戦争直後という時代の特殊性のなかに括られて封じ込められたあげく、評者たちの理解からも遠ざけられるという否定的な扱いを受けました(非難→無視)。

黒澤明にしても、色彩を獲得(熱中)することによって、「絶望→希望」を描けた世界観を次第に失い、晩年は「絶望→悲観」までしか描けなくなります。

それは、以前の黒澤なら、さらにもう一歩突き進んで、その先にある「希望」までをも強引に切り開いてみせた活力をすっかり失い、疲労感にみちた中絶に甘んじた無力な「悲観」の情景しか描けなくなったことを見れば明らかです。

いずれにしても(小津にしても黒澤にしても)、その凋落の根本には色彩の多弁に阻まれた限界が障碍となったからだと考えたのですが、それともうひとつ、モノクロに相応しい題材とのミスマッチということもあったかもしれません。

この「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」を見ながら、その「ミスマッチ」について考えていました。
あえてモノクロで撮ったというこだわりの傑出した名作ということで連想した作品が、ふたつありました、「ラストショー」と「ペーパームーン」です。

粗くざらついた白黒画面は、荒廃したアメリカの田舎町の風景を生々しく描くのにふさわしく、その寒々しい風景を的確に描き得ていたのですが、しかし、ただそれだけではない、寒々しい人間関係の絶望的なあり方が、まさにその風景と同調して痛烈に描き込まれていたからこそ、その「白黒画面」は、僕たちの楽観を傷つける強烈な印象と深い感銘を与えることができたのだと思います。

この「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」においても、そのモノクロ画面は、まさに「寒々しい風景」を的確に捉えていたのですが、その情景の画調が、すさんだ感情の象徴でも有り得たのかどうか、そこはしごく疑問と感じました。

この映画が傑出しているのは、「100万ドル当選」が、耄碌した老父の妄想でしかないことを、「生まれ故郷」の近親者や「親友」によって、タカられ、辛らつに暴かれ、そして、あからさまに嘲笑される過程に、息子もまた身を置くところにあります。

そこでは、「100万ドル当選」が、ただの妄想にすぎなかったように、「生まれ故郷」に抱いていた親しみや郷愁だって同じようなものだったのだと徐々に描かれます。

いや、むしろ「100万ドル当選」はともかく、「故郷」こそ馬鹿げた唾棄すべきものとさえいっているような気がします。

なにしろ、「100万ドル当選」の代わりとはいえ、ネブラスカの出版社は、輝かしい記念キャップをくれたのですから、タカルことばかり考えていた生まれ故郷の近親者や親友たちとは大違いだったわけで、「故郷」より余程誠実だったということができたのですから。

妄想だったとはいえ(しかし、「それ」がなければ、故郷の者たちの悪意は、ここまであぶりだされることもなかったかもしれませんが)「100万ドル」にタカリ、それが妄想とわかると嘲笑するような故郷につくづく嫌気がさして、その地を見放して立ち去る親子の姿に、かつて見た「ペーパームーン」をダブらせることで、なんだか複雑なものを感じてしまいました。

息子は、老父が嘲笑され、非難を浴びたとき、はじめて老父の妄想に徹底的に付き合おうと決意します。

それまで息子は、父の妄想に付き合うとはいっても、それを事実として真に受けていたわけではありません。

ネブラスカに向かう父の気持ちをどうにか紛らわすために数日付き合うくらいに考えていただけで、そのついでに親類縁者や旧友のいる故郷に立ち寄ることが父のためにもいいと感じたはずです。

あの「ペーパームーン」の擬似親子には、ラストで心を通わせ、ほのぼのと「結束」する様子が描かれたのですが、この「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」に、そういうものが、果たして描かれているのだろうかと。

最初息子は、父の妄想を拒絶します。

それは、まだまだ父の「正気」の部分があるのに、「妄想」など受け入れられないというのが本心だったでしょう。

しかし、ありもしない「100万ドル」によって親類縁者や旧友から無心され、否定すると非難され、そしてそれが単なる妄想だったと知れたとき嘲けられたことで息子は父をかばい、自分だけは父の妄想(残された「正気」を含めて、ですが)を受け入れようと決意します。

いささか食い違ってはいてもそれでもいいのだと。

しかし、それが、サブタイトルにあったあの「ふたつの心をつなぐ旅」ということだったのか、という疑問が、やはりふたたび自分を捉えます。

残された「正気」の部分だけでなく、まだらにボケタ部分をも(口裏を合わせて)すべて受け入れることもまた愛情なのか、結局のところ、最後まで納得できないで終わるかもしれないという戸惑いをやり過ごしながら、このサブタイトルを受け入れてもいいような気にだんだんなってきました。

(2013アメリカ)監督・アレクサンダー・ペイン、製作・アルバート・バーガー、ロン・イェルザ、製作総指揮・ジョージ・パーラ、ジュリー・M・トンプソン、ダグ・マンコフ、ニール・タバツニック、脚本・ボブ・ネルソン、撮影・フェドン・パパマイケル、美術・デニス・ワシントン、衣装・ウェンディ・チャック、編集・ケビン・テント、音楽・マーク・オートン
出演:ブルース・ダーン(ウディ・グラント)、ウィル・フォーテ(デヴィッド・グラント、ウディの次男)、ジューン・スキッブ(ケイト・グラント、ウディの妻)、ステイシー・キーチ(エド・ピグラム、かつてウディと自動車整備工場を経営していた男)、ボブ・オデンカーク(ロス・グラント、ウディの長男)、アンジェラ・マキューアン(ペグ・ナギー、ウディの結婚前の恋人)、ティム・ドリスコル、デヴィン・ラトレイ(コール、レイとマーサの息子)
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# by sentence2307 | 2015-05-17 17:12 | 映画 | Comments(0)

そこのみにて光輝く

「そこのみにて光輝く」のなかで、どうしても引っかかる場面がありました。

同僚を自分の不注意から鉱山の発破事故で死なせてしまった達夫(綾野剛が演じています)が、その記憶に苦しみつづけ、立ち直れないまま苦痛を酒で紛らわすため、毎夜、歓楽街を彷徨って泥酔するまで飲み歩くという荒んだ生活を続けていたそんなとき、たまたま立ち寄った売春バーで千夏(池脇千鶴が演じています)と出会う場面です。

このシーンは、この物語にとって、もっとも重要な場面といっても言い過ぎではありません。

実は、その前日に、パチンコ屋で顔見知りになった拓児(菅田将暉の好演が光ります)という男に「メシでも食わないか」と彼の家に誘われ、そこで彼の姉・千夏にはじめて出会っています。

そしてふたりが交わしたわずかな会話の中に、互いに興味を抱いて惹かれあう兆しが、遠慮がちに描かれており、観客にこれからふたりの関係が徐々に深まっていくのだろうかと思わせたその直後に、この売春バーでの痛切な出会いが描かれているのです。

はじめて出会い、互いに興味を抱いて、わずかながらも好感を持ちはじめて会話を交わしたふたりにとって自分のいい面だけを見せたいに違いない「出会い」のその直後、偶然に出会ったその場所は、こともあろうに他人には絶対に知られたくない自分の最も弱く醜悪な姿をまるごとさらけ出しているという悲痛な、売春と泥酔の「現場」でした。

そこで不意に出会ったふたりは驚愕し、動揺し、しかし、戸惑いながらも、徐々に状況が分かってきた達夫が、「いくら」と店のママに「彼女の値段」を尋ねます。

そして、「8000円」という答えに、達夫は思わず笑い出してしまう。

千夏は、侮辱されたと激怒し、達夫を幾度も殴って店から追い出します。

しかし、達夫のこのときの笑いが、泥酔していたとはいえ、本当に「軽蔑」の笑いだったのだとしたら、このように嘲り傷つけられて破壊された人間関係が、果たして、まるでなにごともなかったみたいに、このように修復できるものなのだろうか、という疑問にとらわれてしまったのでした。

すこしあと、次第に2人が親密になって、やがて達夫から求愛されたとき、千夏は、自分には養わなければならない家族があり、そのためにはどうしても「売春」しなければならないのだと、言い返す場面があるのですが、しかし、それは、あの夜に受けた「8000円」と侮辱されたことに対しての抗弁だとしたら、あまりにも冷静すぎるように感じました。

侮辱され傷つけられた人間の怒りと怨念の記憶は、こんなもので収まるはずがない、という違和感、ストーリーの本道からいつの間にか忘れ去られてしまったかのような「8000円」といわれたあの侮辱はどこへいってしまったのかという違和感をずっと持ち続けてきました。

それとも千夏にとってあの「8000円」といわれたことは、侮辱でもなんでもないことで、右から左に聞き流せる些細なことだったのか、これではまるで侮辱を受けたことなど「なかった」みたいではないか、と考えたとき、そうか、本当は「なかった」のかもしれないなと思い立ちました。

映画のオリジナルなら、そういうことは十分に考えられることです。

映画を見てから、原作を読むなどということは、ついぞしたことがないのですが、今回は例外です。

さっそく図書館から原作本「そこのみにて光輝く」を借りてきて読み始めました。

欲情にとらわれた達夫が、女を求めて夜の街に彷徨い出るクダリは、確かにありますが(41頁)、しかし、そこでは千夏との出会いはありません。

あるいは、千夏が、達夫との性交時にバーで体を売っていることを告白するクダリもありますが(58頁)、達夫が客だったこともありません。

ですから、「8000円」も原作では最初から存在しなかったことになります。

分裂していたふたつのストーリーを「場」によって結び付け、ドラマを盛り上げる巧みさには心底感心しました。

しかし、ひとりの人間の値段の「8000円」という数字が、あまりに強烈すぎて、その痛切な存在感がドラマの中でいつまでも尾を引き、「あれってどうなった」みたいな影響力が一人歩きしてドラマに綻びをきたすことまでは想定できなかったことを除けば、ですが。

そして、もうひとつ原作と違うところがありました。

達夫が苦しんでいた「同僚を死なせてしまった」あの発破事故は原作にはなく、あるのは、造船所で働いていたとき拘わっていた組合活動に嫌気がさして、さっさと勧奨退職したことと(スト破りみたいな感じだったのでしょうか)、かつてのその組合員からときたま嫌味な干渉を受けていることが寒々しく描かれているだけです。

もし原作に忠実に描いていたとしたら、党派の迷宮に足を取られ、これほどまでの求心力を獲得できていたかどうか、すこぶる疑問とするところです。

監督・呉美保の選択は、ともに正しかったと言うほかありません。

(2014「そこのみにて光輝く」製作委員会)監督・呉美保、原作・佐藤泰志「そこのみにて光輝く」1989河出書房新社刊、第2回三島由紀夫賞候補作、脚本・高田亮、音楽・田中拓人、製作・永田守、企画製作・菅原和博、エグゼクティブプロデューサー・前田紘孝、プロデューサー・星野秀樹、アソシエイトプロデューサー・吉岡宏城、佐治幸宏、キャスティングディレクター・元川益暢、ラインプロデューサー・野村邦彦、撮影・近藤龍人、照明・藤井勇、録音・吉田憲義、美術・井上心平、編集・木村悦子、助監督・山口隆治、助成・文化芸術振興費補助金、配給・東京テアトル、函館シネマアイリス、宣伝・太秦、制作プロダクション・ウィルコ、製作・「そこのみにて光輝く」製作委員会(TCエンタテインメント、スクラムトライ、函館シネマアイリス、TBSサービス、ひかりTV、ギャンビット、TBSラジオ&コミュニケーションズ、太秦、WIND)、レイティング・R15+、英題THE LIGHT SHINES ONLY THERE
出演・綾野剛(佐藤達夫)、池脇千鶴(大城千夏)、菅田将暉(大城拓児)、高橋和也(中島)、火野正平(松本)、伊佐山ひろ子(大城かずこ)、田村泰二郎(大城泰治)、奥野瑛太、あがた森魚、猫田直、小林万里子、熊耳慶、中村憲刀、小林なるみ、近藤奈保妃、横内宗隆

第38回モントリオール世界映画祭コンペティション部門出品・最優秀監督賞(呉美保)、第22回レインダンス映画祭・ベストインターナショナル賞、第6回TAMA映画賞・最優秀女優賞(池脇千鶴)、最優秀新進男優賞(菅田将暉)、第36回ヨコハマ映画祭・ベスト10第1位、作品賞、第88回キネマ旬報ベスト・テン(2015年)・日本映画ベスト・テン1位、監督賞(呉美保)、脚本賞(高田亮)・主演男優賞(綾野剛、『白ゆき姫殺人事件』と合わせて)、第38回日本アカデミー賞 優秀主演女優賞(池脇千鶴)、第29回高崎映画祭・最優秀監督賞(呉美保)、最優秀主演男優賞(綾野剛)、最優秀助演女優賞(池脇千鶴)、最優秀助演男優賞(高橋和也、菅田将暉)、第69回毎日映画コンクール・日本映画優秀賞・男優主演賞(綾野剛)、女優助演賞(池脇千鶴)、監督賞(呉美保)、第57回ブルーリボン賞・監督賞(呉美保)、第10回おおさかシネマフェスティバル・作品賞、主演男優賞(綾野剛、『白ゆき姫殺人事件』と合わせて)、主演女優賞(池脇千鶴)、助演男優賞(菅田将暉、『海月姫』、『闇金ウシジマくん Part2』と合わせて)、監督賞(呉美保)、撮影賞(近藤龍人、『私の男』と合わせて)、平成26年度芸術選奨文部科学大臣新人賞映画部門(呉美保)、第9回アジア・フィルム・アワード - 最優秀助演女優賞(池脇千鶴)、第24回日本映画批評家大賞・監督賞(呉美保)、主演男優賞(綾野剛)、助演女優賞(池脇千鶴)、助演男優賞(菅田将暉)
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# by sentence2307 | 2015-05-04 20:54 | 映画 | Comments(0)