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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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「愚かにも程がある」と思っていただいて結構なのですが、1月の読書となると、やはり「詩集」を読むことが多くなります、普段は、詩集など滅多に読まないのに、です。

なぜでしょうか。

一応、自分も、新たな年の始まりともなると、一年の目標みたいなものを立てたくなり、年末に集計した昨年の読書量が如何にも貧弱だったことも影響して、今年こそは何が何でも読書冊数を増やそうというわけで、まずは活字数の少ない「詩集」を読み飛ばすということに行きつくワケです、そこには、「詩」にたいする興味も敬意もなにもなく、なんたる冒涜的な行為とワレながら呆れる限りです。

なんだそれ、馬鹿野郎!!と非難されてしまうかもしれませんが、だけど見てくださいよ、この「映画収集狂」のコンセプトだって「世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる」と書いてあるじゃないですか。この言葉の意味するところは、作品の質よりも量をこなすことの方に価値を見出そうじゃないかと言っている風にも受け取れるのですから、なんら疚しいところはありません、看板にも明記してあるとおり、自分は映像中毒であるとともに、ど真ん中の活字中毒者でもあるのですから、乱読は「収集癖」と根を同じくするものであって差支えないのです。

それにいまさら変えられると思いますか、こういう性格。

この奇妙で歪んだ性癖を抱え込んだ本人自身が一番大変なんですヨ。

ワタクシは、そういう人間です、異常性格においては江戸川乱歩や寺山修司よりは少しはマシというだけの、ほかには何の取柄もない人間です、仕方ありません。

しかし、そのアプローチの動機は不純かもしれませんが、お陰様で詩の世界については、少しは明るくなりました。

そこで、最近読み終えた二冊の詩集について感じたことを書いてみますね。ともに古本屋で手に入れました。ネタに使ってブログを書いてしまったら早速処分しようと思っていた2冊です。

それは、童心社刊「日本女流詩集」昭和50.3.20,3刷と

太平出版社刊「日本反戦詩集」1979.10.25,11刷という本です。

太平出版社という会社の社主は、崔容徳というひと、「反戦」も金儲けのネタにしてしまうのですから、さすが在日はキモの太さが違います。

詩集で重版することなど極めて稀なことなのに、とくに「日本反戦詩集」はなんと11刷ですから、時代を感じますね。

ロシアや中共が経済的発展途上にあって、まだピーピーしていて豊かな国から援助を受けていた時代、もちろん他国への領土侵略の毒牙も育っていなかった時代、その「静寂」を世界平和の到来と勘違いして「平和な時代がやっと来た」と錯覚した能天気な連中が、「もう二度と戦争はやめましょう」と叫びつつ、晴れ晴れとして、この「日本反戦詩集」をせっせと買い漁ったに違いありません。何を隠そう、自分もその中の残念な一人でした。

現在、世界のあらゆる場所で国家のエゴと領土的野心による侵略戦争によって何万もの市民が犠牲になっているのに、どういう積りか知りませんが、元気いっぱい「もう二度と戦争はやめましょう」と叫んでデモ日当をもらって嬉しそうに集団で散策している自己中人間のアッパラパーの神経というか、鈍感さが理解できません。

なので、そうした感慨をもって、この二冊の詩集を読みました。

この二冊の詩集には、三人の女性、与謝野晶子、石垣りん、茨木のり子が、どちらにも掲載されています。

作風としては、自分の夢をあきらめ家族のために早くから社会人となって働かねばならなかった石垣りんや、自分の感受性に徹底的にこだわった茨木のり子は、「反戦」とは、ちょっと違うかなという気がしないでもありませんが、「わたしが一番きれいだったとき」などは、舞台が戦時下のことなので、「無関係ではない」というくらいの繋がりはあるかもしれません。

しかし、与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」だけは、この本を読むまでは、自分的にはコテコテ「反戦」だろうなと思い込んでいました。

しかし、巻末の伊藤信吉の解説を読んで、少し考えが変わりました。

そこには、こんな風に書いてあります。

《だが作品の実際において、与謝野晶子は愛情の主題を踏み越えている。
踏み越えの一つは、
「堺の街のあきびとの舊家(きうか)をほこるあるじにて親の名を繼ぐ君なれば」
という点である。これは商人意識の自覚であり、商人は商人として生きることによって自分の生を獲得するっということである。商人にとって銃剣をとることは、商人の道から外れることに他ならない、ということである。》

この解釈によれば、「君死にたもうことなかれ」は「反戦歌」というよりもまず先に、あんたは商人になるのだから、無駄死にするかもしれない戦争なんかに行っちゃ駄目だよ、他の人のことなんて知らないけれどもね、と。

なるほど、なるほど、そういうことですよね、これでやっと石垣りんの歌や、茨木のり子の歌と比肩できる、個人的な感興を開陳する短歌らしくなりました。

おしなべて詩というものは、これでなくっちゃいけません。

と思っていた矢先に、「日本女流詩集」の中で林芙美子の「苦しい唄」という詩に出会い、なんだかやたら感動してしまいました。第一、林芙美子が詩を作ってたなんて、なんだか不思議な気がします。

こんな感じです。


苦しい唄

隣人とか
肉親とか
恋人とか
それが何であろう――

生活の中の食うと言う事が満足でなかったら
描いた愛らしい花はしぼんでしまう
快活に働きたいものだと思っても
悪口雑言の中に
私はいじらしい程小さくしゃがんでいる。

両手を高くさしあげてもみるが
こんなにも可愛い女を裏切って行く人間ばかりなのか?
いつまでも人形を抱いて沈黙っている私ではない。
お腹がすいても
職がなくっても
ウヲオ!と叫んではならないんですよ
幸福な方が眉をおひそめになる。

血をふいて悶死したって
ビクともする大地ではないんです
後から後から
彼等は健康な砲丸を用意している。
陳列箱に
ふかしたてのパンがあるが
私の知らない世間はなんとまあ
ピアノのように軽やかに美しいのでしょう。

そこで初めて
神様コンチクショウと怒鳴りたくなります。





【参考】

湾岸戦争反戦詩批判

1991年の湾岸戦争時、日本の言論界や文学界、そして日本の詩壇では、詩人や作家による「反戦詩」や平和への訴えに対し、その「言葉の軽さ」や「当事者性の欠如」を鋭く突く批判、いわゆる「湾岸戦争詩論争」と呼ばれる激しい議論が巻き起こりました。
この論争は、戦争を主題とした詩作品の発表や、文学者の反戦声明を巡って展開され、詩の役割や詩人の戦争に対する責任が問われました。

主な批判の焦点は以下の通りです。

【「戦争の美化」あるいは「無力な感傷」】戦争の悲惨さを詠う反戦詩が、結果として戦争を文学的・精神的な光景として消費し、美化しているのではないかという批判がありました。
特に、テレビ報道などで流された「原油まみれになった海鳥」の映像と詩を安易に結びつける表現は、「無力な感傷」として批判されました。

【「詩人の立場」と「集団的感情」】詩人がどのような立場から戦争について語るべきかという点が争点となりました。
集団的な反戦感情に立脚した詩は、真の批判精神を欠いているのではないか、あるいは「正しい」側に立つことで自己満足に陥っているのではないか、といった批判です。

【「言葉の力」と「現実への関与」】詩や文学といった「言葉」が、実際の戦争や政治に対してどこまで有効な力を持つのか、という「詩は無力であるか」という問いが改めて浮き彫りになりました。

この論争は、藤井貞和氏が積極的に湾岸戦争をモチーフとした詩を発表し、それを瀬尾育生氏らが批判したことから本格化しました。
論争は『鳩よ!』や『現代詩手帖』といった詩誌を中心に交わされ、その後も「戦争と詩」に関する長年にわたる問いとして尾を引くことになりました。
この議論は、文学が現実の政治的・社会的な出来事に直面した際の表現のあり方や倫理的な責任について、日本の文学界に重い課題を提起しました。

主な批判の論点は以下の通りです。

1. 批評家・柄谷行人らによる批判
最も有名なのは、批評家の柄谷行人が『批評空間』などの場で展開した批判です。
【「きれいごと」への嫌悪】多くの反戦詩が、戦争の複雑な政治的背景を無視し、「命は大切だ」「平和が一番」といった抽象的で手垢のついた倫理観に終始していることが批判されました。
【主体性の欠如】日本という安全な場所から、血を流さずに「反対」と唱えるだけのポーズ(態度の表明)が、かえって無責任であると断じられました。

2. 「言葉の機能不全」への指摘
【リアリティの欠如】湾岸戦争は、ハイテク兵器による「空爆の映像」がテレビでリアルタイム放送された最初の戦争でした。
ゲームのような映像を前にして、従来の情緒的な詩の言葉が、現実の暴力に対して無力であることが露呈しました。
【自己満足的な表現】詩が現実の戦争を止める手段ではなく、書いている本人の「良心」を確認するための自己満足(センチメンタリズム)に陥っているという批判です。

3. 吉本隆明による視点
思想家の吉本隆明は、大衆のリアリズムを重視する立場から、観念的な反戦運動や反戦詩が、実社会の動向や大衆の感覚から乖離していることを批判的に捉えていました。

4. 批判の影響
これらの批判は、その後の日本の文学界において、「安易な政治的正義を語ることへの躊躇」を生むきっかけとなりました。
一方で、あまりに冷笑的(シニカル)になりすぎたことで、社会的な発言自体が萎縮してしまったという反省も後に語られています。
当時の議論を詳しく知るには、柄谷行人の著作や、当時の文芸誌『海燕』『群像』などのバックナンバーが主要な資料となります。
具体的な書籍としては、『戦前の思考』 (講談社学術文庫) などで、当時の柄谷氏のスタンスを確認できます。

# by sentence2307 | 2026-01-27 18:22 | 徒然草 | Comments(0)

電撃作戦

自分が以前「テレビ名画座」について書いた一文(当時の新聞の番組欄を必死に繰って筆写した涙ぐましい労作です)に、LFANオーナーさんからコメントをいただきました。

LFANオーナーさんは2本の映画、「オルフェ」と「電撃作戦」が生涯の宝だとおっしゃっています。

なるほど、ジャン・コクトーの「オルフェ」なら、記憶が薄れたとはいえ、なにしろあれだけの超名作です、どうしたって見てないわけがありませんし、「オルフェ」やマヤ・デレンの「午後の網目」(大好きです)など難しい芸術映画の本やyou tubeで折々に接している名作なので、「見た」といってもいいくらいの「知識」なら十分にあります、なんら問題ありません。

しかし、もうひとつの「電撃作戦」という作品は、恥ずかしながら、まったくの初耳(眼)で、その「存在」すらも知りませんでした。

それってどんな映画なわけ?みたいな情けない状態です。

しかし、自分が訳もわからずとはいえブログに書いてしまった以上、責任というものがありますし、少なくとも「知ってる状態」くらいまでの誠意は、あってしかるべきかもしれません。いえいえ、当然ありますよ、それは。

こう見えても自分だって「映画狂」の端くれです、「あれかな」という見当がないわけじゃありません。

早速、いまでは滅多に開かない「ぴあシネマクラブ・外国映画編 2003~2004」(古いです)でその「見当」に当たってみました。

もしかして、これ!?

「電撃フリント GO!GO作戦」。

んなわけないか。

なにしろ LFAN オーナーさんが「生涯の宝」とおっしゃっているくらいの作品です、ジェームズ・コバーンじゃあ、ちょっと荷がかちすぎるかもしれませんよね。

こんなふうにグズグズしてても埒があきませんのでLFAN オーナーさんが書かれている
《原題「NORTH STAR」からYouTubeで見れますが、発禁ものだったそうで、肝心のシーンはやはり記憶とは異なる。》
を頼りに幾つかの事項を検索したあとで、本作をYouTubeで見てみることにしました。

なるほど、なるほど、ありますね。

欄外のタイトルは「電撃作戦」 (1943 禁止映画) とありますが、動画の本編では、「THE NORTH STAR」となっています。

そして、更に、
監督: ルイス・マイルストーン
脚本: リリアン・ヘルマン、バート・ベック
出演者: アン・バクスター、ダナ・アンドリュース、ウォルター・ヒューストン、エリック・フォン・シュトロハイム、ウォルター・ブレナン
ジャンル: ドラマ、ロマンス、戦争
発売日: 1943年11月4日
と記されていました。

いまだって配給会社が原題からかけ離れたタイトルを付けて顰蹙をかっている例が幾らもあるくらいですから、「THE NORTH STAR」が、「電撃作戦」と改名されるくらい別段気にすることもないのかもしれませんが、しかし、付記されている「1943 禁止映画」の文字は、ちょっと気になります、字面からしてもなんだか穏やかじゃありません。

その更に下には「原題: 北極星 別名: アーマード アタック (1957 年再リリース)」と記されています。

自分の勘ですが、これってもしかしたら、このふたつ「禁止映画」と「タイトル変更」は、何らかの「事情(政情)の変化」によって生じた「一対のもの」ではないかという気がしてきました。

ちなみに、英語のタイトルを検索したら「The North Star (also known as Armored Attack in the US)」という文章が書かれていました。なんだか怪しい感じがします。


さっそく、YouTubeで「電撃作戦」を見てみました。

なるほど、なるほど、冒頭は、若者たちがキーウに旅行するところから始まります。

馬車で行こうというのですから、キーウまでの距離はたいしたことがない、着ているブラウスの柄からとか見ても、この村はウクライナであり、彼らがウクライナ人であることがなんとなく推測できます。

しかし、画面からは、明確な「ウクライナ色」をうかがい知ることはできません。

彼らがウクライナ人であるよりもソヴィエト市民であることの自覚と誇りを表現的に優先しようとしているためでしょうか。

それとも後の改訂により「ウクライナ色」どころか、そもそもの「ソヴィエト色」が換骨奪胎、薄められた結果であるのかは、さだかではありません。

そして、1941 年 6 月のドイツ軍の侵攻が描き出されています。

若者たちは逃げ惑いながらも必死に抵抗して、それぞれが深く傷つきます。

村人たちもソヴィエト市民としての誇りを胸にゲリラ軍を結成して抵抗します。

もしこの映画を、現在、ロシアと戦争状態にあるウクライナ人が見たら、どんな感想を持つか、ちょっと複雑な気持ちになりました。


「The North Star」を英語タイトルで検索したら、こんなふうに書かれていました。

《これは、1947年10月に下院非米活動委員会(HUAC)によって「破壊的」とみなされた映画の1つです。
この映画が作られた当時、ロシアは第二次世界大戦でナチスドイツに対してアメリカの同盟国であったにもかかわらず、この映画がナチス軍と戦っていたロシアの農民とゲリラを同情的に描写していることは共産主義を是認するものである、と同委員会は決定しました。
一部のテレビ放送では、この映画のタイトルが「アーマード・アタック」と表記されています。
そのバージョンのオープニングクレジットには、「映画『北極星』の翻案」という特別な表記があります。
興味深いことに、この映画は出版物、オンライン、そして画面上の番組表では「ノース・スター」と表記されています。
大幅に再編集され、タイトルも変更された再リリースでは、元のストーリーの参加者のロシア国籍に関するすべての言及が削除または不明瞭にされた。
この映画は「東側諸国」の市民と兵士を執拗かつプロパガンダ的に称賛しており、第二次世界大戦中におけるソ連同盟国に対するアメリカの態度を的確に反映している。
1950年代にソ連に対するアメリカの感情が変化した際、この映画はハリウッドの「共産主義的共感」の好例として頻繁に引用された。
この映画は、非戦闘員のナチス医師の即決処刑を理由に、国民道徳擁護団体から「B」評価(すべての人にとって部分的に道徳的に問題がある)を受けた。
この映画の記録に残る最古のテレビ放送は、1946年1月7日(月)、ニューヨーク市のパイオニア的テレビ局WNBT(チャンネル1)で放送されたものです。
これは、カットも改変もされていないオリジナルのバージョンでしたが、間もなく下院非米活動委員会(HUAC)によって保管され、数十年後まで完全な形で復活することはありませんでした。》


LFAN オーナーさんが「肝心のシーンは、やはり記憶とは異なる」という印象を持ったのは、それが改変された「再リリース版」だったからではないでしょうか。あるいは、その逆の場合もあるかもしれません。

そして、さらに気になる文言が、その下に記されていました。

「おもしろい事実: 下院非米活動委員会 (HUAC) は『ノース・スター』を親ソ連のプロパガンダとして引用し、集団農場を理想化した描写を非難した。」とあり、さらに「HUAC裁判に関するドキュメンタリー『ハリウッド・オン・トライアル』(1976 年)をご覧ください。」と、そのコメントは当該YouTube動画に誘導しています。


➀下院非米活動委員会HUAC裁判に関するドキュメンタリー「ハリウッド・オン・トライアル」(1976 年)をYouTubeで見るとともに、「下院非米活動委員会HUAC」での公聴会の様子を英語検索する。
②「The North Star」を英語タイトル検索する。
③「リリアン・フローレンス・ヘルマン Lillian Florence Hellman」を英語人名検索する。

こう箇条書きにしてみると、バラバラだった関係性が、オノズカラつながってくるような気がしてきました。

このそれぞれの英語検索に拘ったのは、本作が「親ソヴィエト」と「反共」の間で動揺迷走しなければならなかったアメリカの政策と世情をリアルに知るためでもありますが(その重要な部分では、わが日本も大きく一枚かんでます)、その偏向した世情のなかで、共産主義と人道主義の区別のつかない頑なな「親ソヴィエト」を貫き固執した脚本家・小説家リリアン・ヘルマンが、ハリウッドとソヴィエトの板挟みの中で「いいように」利用され、踊らされ、そして打ち捨てられた哀れで数奇な人生を知りたかったからでもあります。

結局、彼女の「固執」こそは、残念ながら「無知・蒙昧」と同義の無様なものにすぎなかったことが、「下院非米活動委員会」のハリウッド映画人への糾問によって明らかにされています。

スターリンの五か年計画(農業を工業に転換)の失敗によって農作物が枯渇し、その穴埋めにウクライナ全農民に対して生産物の理不尽な供出を命じたところ、飢餓の恐れを抱いたウクライナ農民は反発し、生産物を隠すなどして抵抗したためにソヴィエト政府から徹底的に弾圧され、やがて襲った飢餓に対しても一切の救助はなされず、数百万の餓死者(ホロドモール)をだすなど、冷酷な政府に対する根深い不信と民族自立の反発の気持ちは共有された。

スターリンの軍将校に対する際限ない粛清によって、指揮系統が壊滅した軍は極度に弱体化し、ナチスドイツ軍の軍事侵攻に対しても為すすべがなかったこと、

ウクライナには、歴史的に「反ユダヤ」の風潮が強く存在し、ナチスドイツ軍に対しても親近感があり、ドイツ軍の軍事侵攻に対してもウクライナでは「歓喜」をもって迎えられたと伝えられている。

「下院非米活動委員会」の背景には、アメリカの極端な右傾化の世情を受けて、左掛かっていれば、それだけで祖国を裏切るスパイとみなされ「国賊」と名指しされた一方で、「知識人」であるためには「左傾」が必須条件だと思い込んだ悲しい妄想が存在したことも事実で、そうした浅はかな思い込みと迷妄があからさまにされた魔女裁判だったわけですが、その実態がどこまでも悲しい反共の茶番劇であったにしろ、一方でソヴィエトの言うがままに踊らされた知識人の哀れな「左翼信仰」が白日の下に暴かれたことは、事実というしかありません。


この映画について、興味深い論文がありましたので、以下に貼っておきますね、参考にしてみてください。

★★
《参考》

HUACと第二次世界大戦の赤い三部作・・・北極星、モスクワへの使節、ロシアのバラード

著者:ダン・ゲオルガカス


下院非米活動委員会(HUAC)がハリウッドに赴いたとされる懸念事項の1つは、アメリカ共産党が映画産業にひそかに浸透しているというものだった。
共産党員とその支持者たちは、主流のアメリカ映画に密かにイデオロギー的メッセージを挿入したとして告発された。
特に脚本家が罪に問われた。
HUACの主な懸念事項の1つは、ソ連の描写がひどくお世辞で不正確であるというものだった。
その代表例として挙げられた3本の映画は、『ロシアの歌』(1944年)、『モスクワ通商路』(1943年)、『北極星』(1943年)である。
最初の2本はワーナー・ブラザースとMGMといった大手スタジオで制作され、最後の作品はRKOを通じてこの映画を配給した有力な独立系プロデューサー、サミュエル・ゴールドウィンが制作した。
3本の映画すべてにおいて、共産主義運動と何らかの形で関係していることが知られている人物が、かなりの芸術的要素を盛り込んでいた。

これらの映画がソ連の現実を完全に歪曲したというHUACの主張は全く正しかった。
ハリウッドの夢の工場は確かに黒を白に変えた。
しかし、その結果を生み出したプロセスは、HUACが非難した左翼の陰謀ではなかった。
それでもなお、この赤い三部作の制作過程とその理由を紐解くことは、1940年代のスタジオシステムにおける共産主義左翼の役割について貴重な洞察を与えてくれる。

当時の映画製作について少しでも知識のある人なら、スタジオの責任者が映画製作を最初から最後まで管理し、通常は数ヶ月や数週間ではなく数年をかけて行っていたことを理解できるだろう。
プロデューサーは各映画プロジェクトを承認し、美術スタッフを雇用し、脚本の原案と修正案を承認し、毎日のテイクをチェックし、編集を監督し、最終カットを決定した。彼らの知らないうちに画面に映し出されるものは何一つなかった[このルールの有名な例外は、コメディ映画『結婚する暇などない』(1938年)である。]。
プロデューサーが信じられないほど愚かだった、あるいは世間知らずだったと仮定しない限り(彼らはどちらでもなかった)、レッド・トリロジーの内容には他の要因が関係しているに違いない。

もう一つの要因は、これらの映画がアメリカが第二次世界大戦に参戦した直後、つまりソ連がドイツ国防軍に軍事的に抵抗する唯一の主要勢力であった時期に構想されたことです。
真珠湾攻撃後、アメリカの産業界全体が戦争勝利への道を歩み始めました。
ハリウッドのスタジオも例外ではありませんでした。
アメリカが参戦する以前から、ルーズベルト政権はハリウッドに対し、国民の結束感を鼓舞し、あるいは潜在的な軍事同盟国への好意を育む映画を制作することで、アメリカ国民を来たるべき戦争に備えさせるよう強く求めていました。
国民の結束を育むには、アメリカのかなりの地域に蔓延していた地域間の対立、反ユダヤ主義、そして外国生まれの人々への敵意に対処する必要がありました[ライオネル・スタンダーはエレベーターを待つ間、口笛で曲を吹くように言われた。彼は冗談で「インターナショナル」を口笛で吹いたが、監督とその後の編集者はその曲を認識できず、そのまま映画に使われてしまった。資本主義は生き残った。スタンダーは二度もブラックリストに載せられたという逸話を持つ。パトリック・マクギリガンとポール・ビューレ(編著)『Tender Comrades』(ニューヨーク州セント・マーチンズ・プレス、1997年、607~625ページ)に掲載された彼のインタビューを参照のこと]。
軍事同盟国への支持を高めるには、主に20年以上にわたりメディアの常套手段となってきたソ連のネガティブなイメージを払拭する必要がありましたが、イギリスにもソ連を批判する人々がおり、その多くはアイルランド系アメリカ人でしたが、アイルランド系アメリカ人だけではありませんでした[このテーマに関する一般的な議論は、クレイトン・R・コップスとグレゴリー・D・ブラックの共著『ハリウッド戦争への道:政治の利益とプロパガンダが第二次世界大戦の映画をどう形作ったか』(ニューヨーク:フリープレス、1987年)に見られる。注目すべきは、1930年代後半、カフリン神父のような右翼のラジオ牧師が、外国生まれの人々、ユダヤ人、労働組合員に対する軽蔑に満ちた放送を何百万人もの聴衆が聴いていたことである。]。

こうした問題を扱った映画は、すぐにハリウッドの定番作品となった。
外国人排斥と地域主義への最も露骨な取り組みは、戦争映画だった。
次々と映画の中で、様々な背景を持つアメリカ人がナチスや日本の軍事力と戦いながら、共通の民主主義的価値観を見出す様子が描かれていた。
こうした傑作の脚本家の中には、左翼派の脚本家もいた。[ラジオにおける同様の状況に関する詳細な考察は、ハワード・ブルー著『Words at War』(メリーランド州ランハム、Scarecrow Press、2002年)に掲載されています。本書では、特定の脚本について議論されており、ルーズベルト政権からの脚本に関するアドバイスも紹介されています。]
スタジオの経営陣がこれらの脚本家を選んだのは、まさに彼らのイデオロギー的見解が、国家統一という平等主義的なシナリオを推進するのに完全に合致していたからである。
リベラル派はしばしば共産主義者の餌食になっているという非難に対し、ハリウッドで最も活動的なリベラル派の一人である脚本家フィリップ・ダンは、「共産主義者は我々ではなく、彼らこそが同行者だった」と指摘した。[よく引用される例としては、『ジョーという名の男』(1943 年)、『サハラ』(1943 年)、『東京上空三十秒』(1944 年)、『目標ビルマ』(1945 年) 、 『北大西洋での行動』(1943 年)、『海兵隊の誇り』 (1945 年)などがあります。]
ラリー・セプレーとスティーブ・イングランドは、彼らの代表作『ハリウッドにおける異端審問』の中で、脚本家兼プロデューサーのジェームズ・マクギニスのような「友好的な」HUAC(共産党員による反乱)の証人でさえ、戦時中に共産主義者が書いた脚本の内容には何の欠点も見出せなかったと述べている。[ラリー・セプレールとスティーブ・イングランド著『ハリウッドにおける異端審問:映画界の政治:1930-60』、イリノイ大学出版局、1979年初版の2003年版、151ページ。この引用は、共産主義と自由主義の関係をかなり詳細に扱った章に出てきます。]

外国を題材にした映画は、主に「彼らの価値観は我々の価値観と全く同じだ」ということを示すために作られました。
このジャンルで最も成功した例は、おそらく親英的なオスカー受賞映画である『わが谷は緑なり』(1941年、20世紀フォックス)、 『ミニヴァー夫人』 (1942年、MGM)、『ハミルトンの女』(1942年、ユナイテッド・アーティスツ)でしょう。[『ハリウッドにおける異端審問:映画界の政治:1930-60』181ページ。]
赤い三部作は、これらの映画や同様の映画がイギリスに対して行ったのと同じように、ソ連への共感を喚起することを目的としていました。

HUAC

レッド・トリロジーの3作品はどれも批評家や興行成績において興味深い歴史を刻んでいますが、『北極星』は特に独特です。
『北極星』は当初、批評家から概ね好評を博し、アカデミー賞6部門にノミネートされ、興行成績も好調でした。
しかし9年後(1952年)、戦時中最高の映画の一つと謳われたこの作品は、HUAC(戦時国際映画協会)によって破壊的イデオロギーを助長する作品として批判されました。
HUACの公聴会から5年後、『北極星』はナショナル・テレフィルム・アソシエイツに買収され、1943年の親ソビエト映画は反ソビエト映画へと生まれ変わり、 『装甲攻撃』(1957年)として公開されました。
この変貌は、オリジナルのサウンドトラックの大部分を削除し、大幅な再編集を行い、1956年のハンガリー動乱のニュース映画の映像を導入することで実現しました。
ハンガリー侵攻の映像が画面いっぱいに流れる中、オリジナル版のセリフは、ナチスに匹敵するほど邪悪な東方の脅威を警告するナレーションに置き換えられました。
『アーマード・ アタック』は主に中古市場での上映でしたが、再び利益を上げました。
ビデオカセットの時代が到来すると、『アーマード・アタック』の箱には、卍と鎌と槌が描かれ、「全体主義者の戦い」という見出しが付けられました。
1995年、改変版『ノース・スター』公開から35年後、サンダー・ヴァノクールはヒストリー・チャンネル・テレビネットワークで討論会を主催し、その結論として、『ノース・スター』には確かにソ連に関する誤った情報が含まれていたが、映画の多くの歪曲と芸術的な欠陥の多くは、プロデューサーがオリジナルの脚本を改変するという古典的なハリウッド症候群の結果であった、とした。[ウェールズの炭鉱労働者へのオマージュである『わが谷は緑なり』は、アカデミー賞10部門ノミネート、5部門受賞を果たしました。ダンケルクにおけるイギリスの勇敢さを称える『ミニバー夫人』は、アカデミー賞12部門ノミネート、6部門受賞を果たしました。ネルソン提督の英雄的行為を描いた『ハミルトン・ウーマン』は、アカデミー賞4部門ノミネート、1部門受賞を果たしました。]

『ノース・スター』の制作

『モスクワ大使 』や『ロシアの歌』のほとんどの制作を手がけたスタジオヘッズとは異なり、サミュエル・ゴールドウィンは現場主義のプロデューサーとして有名だった。
親ソビエト映画をハリウッドが言うところの「良質な映画」にしたいと考えたゴールドウィンは、この映画に300万ドルの予算を投じた。
これは彼が1本の映画に投じた最高額だった。
ゴールドウィンの特徴は、有名な作家を雇って脚本を書かせることだった。
『北極星』の第一候補は、有名な劇作家リリアン・ヘルマンだった。
ヘルマンは既にゴールドウィン作品3本のヒット作、 『三人組』(1936年)、 『行き止まり』(1937年)、『小さなきつねたち』 (1941年)の脚本または共同脚本を務めており、これらの映画でアカデミー賞7部門にノミネートされている。
ゴールドウィンはヘルマンのソ連への共感をよく知っていたが、それが彼女の創造性を刺激するだけだと考えた。
監督の第一候補は、ヘルマン脚本のヒット映画3作品を監督したウィリアム・ワイラーだったが、映画開発の初期段階でワイラーはハリウッドを離れ、軍に入隊した。

ワイラーの後任には、ヘルマンの同意を得てルイス・マイルストーンが起用された。
マイルストーンの強みの一つはオデッサ生まれという点であり、ゴールドウィンはこの点が映画をより本物らしく見せるのに役立つと考えた。[当評文の執筆者もその参加者の一人]
ゴールドウィンが映画の重要な要素と位置づけようとしていた音楽は、ニュー・マス誌関連の数々のプロジェクトや左翼系作曲家集団への所属など、左翼的な経歴を持つアーロン・コープランドに割り当てられた。
撮影監督は、伝説的な左翼思想家ジェームズ・ウォン・ハウが務めた。

この映画のタイトルは、ウクライナの架空の集団農場の名称に由来しています。
ヘルマンの脚本は、集団農業が大成功を収め、集団農民が社会主義の理想に熱烈に忠誠を誓っていたことを示そうとしました。
しかし、ウクライナにおける集団主義の実際の歴史は、ヘルマンのユートピア的なシナリオとは明らかに異なっていました。
ウクライナの農民は、国内の他のどの地域の人々よりも激しく集団化に抵抗し、家畜のほとんどを集団所有に引き渡すのではなく、殺処分するほどでした。
この不服従の罰として、この地域で不作と農業の崩壊が起こったとき、スターリンは援助を拒否し、その結果、地域は飢餓と貧困に陥りました。
死者数は600万人に上るとの推定もあります。
1941年にナチスに侵攻されたウクライナは、依然として貧困に苦しみ、中央政府への忠誠心は全くありませんでした。
ウクライナ人はしばしばナチスを、ロシアの抑圧と見なされていたものからの解放者として歓迎し、ナチスが彼らを劣等民族として扱うようになるまで、ナチスに反旗を翻すことはなかった。
要するに、ヘルマンの集団化のイメージは、強制的な集団化の残虐性と、多くの集団に蔓延していた劣悪な労働環境を無視していた。
『ノース・スター』が主要な懸念事項として取り上げたナチスによるユダヤ人迫害は、ウクライナ人がナチスに反応する上で大きな要因とはならなかった。
なぜなら、この地域には根強い反ユダヤ主義の伝統があったからだ。

『ノース・スター』の舞台としてウクライナが選ばれたのは偶然ではない。
長編映画の企画が持ち上がる以前から、ソ連当局はヘルマンに対し、他の地域ではなくウクライナを舞台にした、ソ連の抵抗運動に関するドキュメンタリーの執筆を強く求めていた。
ヘルマンは1930年代の集団化への抵抗については確かに知っていたが、ロシアの情報源から得た情報以外に、ウクライナで実際に起こった出来事とその現代的影響についてどれほど知っていたかは不明である。
注目すべきは、この点においてソ連以外の情報源はあまり役に立たなかったということだ。
アメリカの公式紙であるニューヨーク・タイムズでさえ、ウクライナ飢饉の正確な報道を行っていなかったのだ。[マイルストーンは、レナード・マルティン著『映画百科事典』(ニューヨーク:ダットン、1994年、605ページ)で、視覚的に華やかなスタイルで技術的かつ美的技巧を巧みに駆使する熟練の職人として描かれている。その一方で、キャリア後期には、映画をできるだけ早く安く仕上げることに満足する、単なる職人監督であることが多かった。彼の評判は、『西部戦線異状なし』(1930年)、『フロント・ページ』(1931年)、『雨』 (1932年)といった初期の作品に基づいていた。その後の彼の作品のほとんどは、おそらく『将軍暁に死す』 (1936年)と『陽なたの散歩』 (1945年)を除いて、標準的なハリウッド映画となった。1950年代に主にテレビで活躍した後、マイルストーンは『オーシャンズ11』 (1960年)を監督し、 『叛乱』 (1962年)のリメイク版ではキャロル・リードに代わって監督を務めた。]

ヘルマンは脚本を書き始める前に、ソ連戦争についての 250 ページの調査ノートを作成した。
このノートの約半分は、ソ連およびソ連以外の情報源からの新聞記事で、これには 1 か月分のプラウダ紙の逐語訳も含まれていた。
ヘルマンは、ソ連が日々戦争にどのように対処していたかを把握するために翻訳を依頼した。
彼女の情報源には、ナチスが負傷兵のためにロシア人とポーランド人の子供たちから輸血を行い、子供たちが治療を施されずに放置された結果、何千人もの命が失われたという真実の話が含まれていた。
ヘルマンはこのナチスの犯罪を物語の中心に据えた。
他の報告では、映画『北極星』でコーリャ (ダナ・アンドリュース) がやったように、ロシア人パイロットが損傷した航空機で敵の戦車隊に墜落したことが語られていた。
新聞やその他の文書には、ソ連が自らに課した焦土作戦に関する詳細も含まれていた。

ヘルマンの脚本は、ハリウッド映画における典型的な三幕構成の定型を踏襲している。
第一幕では、ソ連の集団農場の社会主義的性質が明確に示され、関係者全員にもたらされる利益が、計画の想定された成功を裏付ける。
農場の医師であるクリン博士(ウォルター・ヒューストン)は、世界的に著名な病理学者であり、大手医療機関の名誉ある地位を捨て、「人々と共に」草の根レベルで活動しているという設定が、集団精神をさらに高めている。
リンカーン・ステフェンスはソ連について、「私は未来を見た。そして、それはうまく機能する」と有名な言葉を残している。
ヘルマンの脚本は、この感情を改めて強調するものである。

第二幕は、北極星集団の一員であるコーリャがソビエト空軍の現役任務に召集されるところから始まる。
友人たちは彼と短い休暇を過ごすため、キエフへ同行する。
旅の途中で、ナチスがソ連に侵攻する。
コーリャは部隊へと急ぎ、他の者たちは大変な苦労を強いられながらも、武器を荷馬車一杯に積み込み、集団に持ち帰る。

ヘルマンが脚本の道徳的中心と見ていたものが、ハーデン博士(エーリッヒ・フォン・シュトロハイム)率いる医療部隊の到着とともに展開し始める。
集団へと向かう道中、ハーデンはナチス将校たちを、ユダヤ人に対する愚かな迫害だと非難し、偉大なユダヤ人医師に師事したことを自慢する。
ハーデンは、他の人間よりも優れ、劣った者たちが従う慣習に正当に反抗する超人(英語では通常「スーパーマン」と表現される)が確かに存在すると信じていることを明らかにしている。
当然のことながら、彼自身も超人であると考えている。

最終幕では、ノース・スターの男たちは文字通り馬に乗り、女性と子供たちを救出するために駆けつける。
クリン博士はハーデン博士をピストルで射殺することで、この攻撃に加わる。
勇敢で華麗な反撃により、ノース・スターはナチスから解放され、英雄的なウクライナ人たちは、侵略者には焦土のみを与えるという政府の呼びかけに従い、自ら家を焼き払うまでになった。
ノース・スターの生存者たちは皆、いかなる犠牲を払おうとも、勝利まで戦い続けることを誓う。

ヘルマンは、ゴールドウィンとマイルストーンが最終撮影台本として承認したと彼女が考えた脚本を持ってハリウッドを去る前に、ゴールドウィンとマイルストーンとの6週間に及ぶストーリー会議を行っていた。
しかし、ニューヨークに戻って2週間後、彼女は最初の50ページを取り戻した。
マイルストーンは台詞の大部分を書き換えており、第一幕をイデオロギー的に浄化することに成功していた。
しばらくして、映画の残りの部分に変更を加えたページが届いた。
ヘルマンが様々な会話に挿入していた「社会主義」と「共産主義」という言葉は完全に削除された。
「集団」と「ソ連」はそれぞれ一度だけ(ゲリラ戦士が正式に国家への忠誠を誓う時)のみ使用が許された。
これが社会主義国家である可能性を示唆する唯一の手がかりは、「同志」という言葉が時折使われていることだ。
1957年にナショナル・テレフィルム・アソシエイツが『ノース・スター』を買収し、映画がほぼフレームごとに再編集された際、「同志」という言葉さえも削除された。
NTA幹部の一人は「残念なことに、我々が排除できなかった唯一のものは、ソ連の制服を着て走り回っているダナ・アンドリュースでした」と嘆いた。[タイムズ紙のモスクワ特派員ウォルター・デュランティは後に、ウクライナ情勢の事実を故意に隠蔽したとして告発された。]

肝心の第一幕では、セリフ以上のものが変更された。
ゴールドウィンは、アメリカ国民を共産主義者に馴染ませるには、大量の音楽が必要だと考えていた。
彼は集団生産農民たちを、心身ともに純粋な素朴な農民へと変貌させた。
彼らは東欧の衣装を着て仮面舞踏会に出席するカンザスのコーンハスカーズのように、はしゃぎ回っていた。
これらの素朴な人々は、パルプ・フィクションの農民が常にそうであるように、土地、子供、配偶者、そして村を愛していた。
彼らは、例えば「空っぽの白い穂が最も高く頭をもたげる」といった、深遠な民衆の知恵を観客に語り聞かせる。
改訂版の脚本では、彼らの歌、踊り、そして物語の語りが映画の3分の1を占めている。

ゴールドウィンはまた、ヘルマンが当初予定していたクリンとハーデンの死闘を、映画の中央ではなく、第三幕のクライマックスの反撃に移すことを決定した。
ヘルマンは映画のラフカットを見た時、その出来栄えに愕然とした。
重要なセリフやシーンが大幅にカットされたり、完全に削除されたりして、彼女の関心事とは関係のないシーンのためのスペースが確保されていたのだ。
彼女は、クリンとハーデンの重要なシーンを再撮影し、映画のエンディングを書き直し、そして映画全体の構成を再構築して、対立する幕間の関係性をより合理的なものにする必要があると主張した。

ヘルマンによる脚本の書き直しにもかかわらず、クリンとハーデンの対立は映画の道徳的中心として具体化されることはなかった。
ゴールドウィンがクリンの人物像を特徴づけるシーンを脚本途中で削除したことで、映画の道徳的・思想的重みは薄れてしまった。
クリンとハーデンの対決を反撃の場面に置いたことで、彼らが体現しようとしていたイデオロギー的見解の鮮明な対比はさらに曖昧になってしまった。
より一般的に言えば、マイルストーンは『西部戦線異状なし』(1930年)などの監督として高く評価されていたものの、ヘルマンの主要人物に命を吹き込むという難題に応えられなかった。
二人の医師のやり取りは、真に対照的な人生哲学を情熱的に表現するというよりは、会話的な軽口に過ぎない。
彼らの最後の対決さえも、不完全なものとなっている。
クリンがハーデンのナチス系アシスタントを射殺するシーンは、あまりにも不適切でコメディの域に達しており、ハーデンが致命傷を与える銃弾を発射する前の医師たちのやり取りは、まるで学校の「挑戦状」ゲームのような雰囲気だ。
医師たちのシーンにわずかに残るエネルギーは、主にフォン・シュトロハイムのトレードマークであるいやらしい視線と威勢のよさによるものだ。
医師たちの葛藤は依然として善と悪の対立のままだが、脚本の書き直しによって、それは単純な「ホワイトハット」対「ブラックハット」の二分法へと縮小された。

マイルストーン社はまた、ウクライナ軍の反撃の扱いを誤り、ありきたりの西部劇における米軍騎兵隊の突撃のように撮影した。
軽武装のウクライナ軍が騎馬隊で、この種の攻撃であれば殲滅できたはずの機関銃、戦車、大砲を何故か効果的に使用できない熟練のナチス軍を、かくも容易に打ち負かすことができると信じるためには、相当の疑念を抱く必要がある。
約26万ドルの費用がかかったセット全体が破壊された焦土のシーンのほうがはるかに信憑性がある。
大量の爆薬が使用され、その結果、俳優数名が軽傷を負うほどの破壊力があった。
爆発の失敗でサウンドステージの屋根が焼け、周囲の多くの建物で火災が発生した。
燃えるノーススターのセットから噴き出す煙が数時間ハリウッド上空に漂った。

ヘルマンは、ゴールドウィンが脚本を貶めた責任を永遠に負い、マイルストーンが重要なシーンをひどく誤った演出をしたと非難し続けた。
彼女は『ライン河畔の監視』(1943年)と同等の高尚な目的と質の高い映画を作ろうとしていた。
ところが、実際には様々な部分がグロテスクなまでに不釣り合いな、奇妙なジャンルのサンドイッチに仕上がってしまったのだ。
しかし、ヘルマンは様々な記者会見でゴールドウィンとマイルストーンを激しく非難したが、映画そのものを全面的に否定していたわけではない。
彼女は、この映画はナチスについて真実を語っており、統一戦線の促進に役立ったと感じていると述べた。
脚本クレジットから自分の名前を削除するよう求めることもなかった。
また、アカデミー脚本賞ノミネートの辞退もしなかった。

ヘルマンとは異なり、サム・ゴールドウィンは『ノース・ スター』の完成版に大喜びしていた。
オスカー6部門ノミネートと興行収入の好調も、その喜びをさらに高めた。
彼は『ノース・スター』にはプロパガンダ要素が一切なかったと主張し、ニューヨーク・サン紙の記者にこう軽々しく語った。
「最初のリールは明るく楽しい。村人たちの暮らしが描かれており、彼らは音楽好きでダンスが好きな人々だ。(中略)この物語の多くはパントマイムでも語れただろう。西部劇にも劣らないアクションだ。大人向けの作品なのに、子供たちに人気の理由なのかもしれない」[NTA の変更は、ニューヨーク公共図書館の舞台芸術図書館のリリアン・ヘルマンのファイルに収められている 1957 年 10 月 29 日の AP 通信のプレスリリースに概説されています。]

批評家の反応もおおむね好意的だった。
集団農場が理想化されすぎているという苦情はあったものの、ほとんどの批評家はこの映画を面白く、かつ啓発的だと評価した。
ニューヨーク・ポスト紙の批評家アーチャー・ウィンストンの意見に同調する者が多く、「この批評家は『ノース・スター』にプロパガンダがまったく見出せなかったことを認めるのは恥ずかしいが、それは見ていなかったからではない」と書いた。[ニューヨーク・サン、 1943年10月25日、娯楽面]
ダラス・モーニング・ニュースなど一部の新聞は、この種の映画の上映が遅いとしてハリウッドを実際に非難した。[ニューヨーク・ポスト、 1943年11月8日、46ページ]
約30年後、リバイバル劇場での『ノース・スター』の上映について書いた著名な批評家アンドリュー・サリスは、同様の感想を述べている。
「今日見ると、『 ノース・スター』は比較的ありきたりなレジスタンス映画の例として見られるが、他の映画より少し血に飢えている」[ジョン・ローゼンフェルド、「ハリウッドが発見したロシア人の戦争への関与」、ダラス・モーニング・ニュース、 1944年1月23日、第4部、1ページ。]
主な反対意見はハースト系の新聞で、記者たちはハースト自身から映画を酷評するよう指示されていた。
この指示がニューヨークの新聞に届いたのは少し遅れたため、朝刊の読者は好意的な批評を得たが、午後刊の読者にはこの映画は「赤化プロパガンダ」であると伝えられた。

ソ連は『北極星』に大変満足し、1944年に自国国内で上映するために購入した5本の映画のうちの1本に選んだ。
『ロシアの歌』とヘルマン監督の『小さなきつねたち』も選ばれた。
前年に購入した5本の映画には、『モスクワへの密命』とフランク・キャプラ監督のドキュメンタリー『ロシアの戦い』が含まれていた。[アンドリュー・サリス、「リバイバル」、ヴィレッジ・ヴォイス、 1976年2月2日、119ページ。この遅い時期にも、ウクライナ飢饉の問題は取り上げられていないが、おそらくまだ広く一般に知られていなかったためだろう。]

結局のところ、『北極星』のメッセージは他の戦時映画と大差ない。
「我々」側は英雄的で民主的であり、「彼ら」側は残忍で独裁的だ。
特にウクライナにおける幸福なロシア農民の歪曲描写は不条理だが、『東京上空三十秒』(1944年)のような映画で、それほど民主的ではない蒋介石に忠誠を誓う幸福な中国人の描写ほど不条理ではない。
ゴールドウィンは映画の細部に至るまで、最初から最後まで精通しており、製作方法もゴールドウィン傘下の他の映画と同様だった。
『北極星』はハリウッドへの共産主義の浸透というよりも、戦時下においてハリウッドのスタジオがアメリカ政府の差し迫ったニーズだと考えていたものにいかに応えたかを示す例である。

ヘルマンは、ソビエトの現実を単純化した見方をしていた点で批判されるべきだろう。
1938年の悪名高い粛清裁判以前から、責任ある知識人によるソビエト政権への批判について、彼女が知らなかったはずはない。
一方で、アメリカ国民にファシスト的な思考様式への洞察を与えようとしたヘルマンの試みは称賛に値する。
彼女は、無知な権威主義的暴君を口では軽蔑する社会の特権階級が、しばしばイデオロギーに忠実な人々と同じくらい効果的に彼らに仕えていることを、劇的に示そうとしたのだ。
戦後のナチス時代の分析は、悪の陳腐さと「命令に従うだけ」症候群を強調してきた。
ヘルマンは、悪に対して何もしないことは、悪が勝利しやすくなることを意味すると示唆していたのだ。

ロシアの歌

ルイス・メイヤーは、他の映画の製作チームを選ぶのと同じ方法で『ロシアの歌』の製作チームを選んだ。
ジョー・パステルナークはちょうど、MGMで商業的に成功した戦時中のミュージカル『千人の歓声』(1943年)を製作したばかりだった。
ポール・ジャリコとリチャード・コリンズが脚本を書いた。[ソ連が1943年と1944年に国内観客向けに選んだ他の映画は、『バンビ』、『太陽の総統』、『古い水車』、『ハリケーン』、『チャーリーのおばさん』だった。最終的に脚本の大部分を執筆したのはジャリコだった。彼はソ連が宗教を軽蔑し、多くのキリスト教会を世俗化あるいは破壊していたことをよく知っていたはずだ。]
メイヤーは、この3人組がロシアを舞台にしたミュージカル・ロマンスの創作にぴったりだと考えた。
コリンズとジャリコの左翼的な傾向はメイヤーがよく知っていたが、ゴールドウィンがヘルマンの政治思想から『北極星』に最適だと考えたのと同じように、メイヤーは彼らがプロジェクトに一層熱心になるだろうと考えた。
さらに、グレゴリー・ラトフ監督とパステルナークはどちらも急進派ではないので、映画を不要なイデオロギー的発言から自由にすることができるだろうと考えた。

『ロシアの歌』のストーリーはシンプルだ。
チャイコフスキーの音楽を専門とするアメリカ人指揮者ジョン・メレディス(ロバート・テイラー[HUACにとって友好的な証人であり、非常に保守的な見解を持っていたテイラーは、明らかに、左翼的な芸術作品だと考えていた映画で主役を演じることはなかっただろう。)は、第二次世界大戦前夜のソ連で演奏旅行に出かける。
彼は間もなく、小さな村出身の健全な若い女性ピアニスト、ナージャ・ステパノワ(スーザン・ピーターズ)と出会う。
豊かで幸福なロシアの価値観は、アメリカのメインストリートとほとんど区別がつかないほどだが、二人は恋に落ちる。
二人の恋人は、両国の真の類似点を絶えず観察する。
一見政治的ではないこれらの場面にも、ソ連の日常生活の歪みが数多く描かれている。[ロバート・メイヒューは、「MGMの『ロシアの歌』におけるポチョムキン教会の宗教」というタイトルで、アメリカ共産主義史第1巻第1号、2002年6月、91-103ページで、この映画がソ連の宗教について誤ったイメージを描いていると簡潔に批判している。ロバート・メイヒュー著『アイン・ランドと『ロシアの歌』:ハリウッドにおける共産主義と反共産主義』 (メリーランド州ランハム、 スケアクロウ・プレス、2005年)は、この映画の制作過程、歴史的誤り、そしてその評価について包括的に解説している。アイン・ランドのこの映画批判は特に詳細かつ具体的ではないが、彼女の反ソ連的見解を強く反映している。]

ジョンとナージャはやがて彼女の村へ行くが、そこは信じられないほど豊かで近代的で楽しい場所だった。
異なる文化を持ち、価値観が似ていても二人は幸せになれるのだろうかという表面的な懸念の後、二人は結婚を決意する。
この結婚には、『北極星』や『モスクワへの密命』には見られない、ソ連に関する重大な誤解が含まれている。
つまり、結婚式は民事婚ではなく、二つのドームを持つロシア正教会での伝統的な儀式である。
豪華な正教会の儀式の後には、チョコレートケーキまで出る祝宴が開かれる。
視聴者は、ロシア正教会がアメリカの教会と同じくらい自由に機能しているという印象を受ける。
ソ連の国教が無神論であったことや、1930年代に多くの宗教指導者に対する激しい迫害や教会の全面的な破壊、教会の建物の世俗的な用途への転用を含む、活発な無神論運動があったことについては触れられていない。

愛し合う夫婦の幸せな結婚生活は、ドイツ軍のソ連侵攻によって短く幕を閉じます。
ナージャは村に残って戦うことを決意し、ジョンはコンサートツアーを終えるために村を去ります。
この悲惨な時代においても、ロシア人の音楽への愛は育まれなければならないと確信しているからです。
ナチスがロシアを急速に進軍するにつれ、ジョンと観客は戦争がロシア国民にもたらす恐ろしい苦しみを実感します。
やがてジョンはナージャの村へと戻りますが、そこは瓦礫と化していました。
多くの人が亡くなりましたが、ナージャは生き残りました。
ジョンとナージャが抱き合っているまさにその時、ナチス機の機銃掃射により、またしても少年が命を落とします。
間もなく、正教会の司祭が遺体の上で十字を切る姿が映し出されます。

ジョンは村に留まり、妻と共に戦いたいと願うが、村の長老は彼に告げる。
「祖国へ帰り、自分が見たことを人々に伝えなければならない。…それが君にできる最も偉大なことだ」。
長老はナージャに、夫と共にアメリカ軍にドイツ軍がロシアを征服することは決してないと伝えるよう告げる。
その後、ジョンとナージャがニューヨークのコンサートホールでチャイコフスキーの演奏会に出演しようとしていた時、再び長老のナレーションが聞こえる。
「君たちが私たちと共に戦っているのを感じる。同じ軍隊の兵士として、子供たちに新たな光をもたらすために戦っている。世界中が自由の新たな歌で鳴り響く偉大な日のために。君たちは全人類のために戦う中で、私たちの国々を結びつけるだろう。」

『ロシアの歌』のこれらの最後のシーンは、この映画の目的がソ連を称賛することではなく、苦境に立たされた同盟国へのアメリカの援助を集めることにあったことを強調している。
ソ連への援助への支持獲得が国家の最優先事項となった時、物語の選択肢は限られていた。
製作者たちは、相違点ではなく共通点を強調する必要があると感じた。
どんなに正当な批判であっても、不安定な同盟関係に悪影響を及ぼす可能性があるため、避けなければならなかった。
これは、戦時中に作られるあらゆる映画、特に戦争の帰趨が不透明な時期に作られる映画の性質である。

モスクワへのミッション

レッド・トリロジーの3作品の中で、 『モスクワへのミッション』は当然のことながら最も悪名高く、最も問題の多い作品である。
前述の2作品とは異なり、『モスクワへのミッション』はスターリンの犯罪に目をつぶるどころか、それを正当化したのだ!
さらに、称賛されている犯罪の一つである1938年の粛清裁判は、ソ連の統治の根幹にまで踏み込んだ。
ソ連との同盟が戦争勝利に不可欠だと信じていたとしても、長編映画で粛清に焦点を当てる必要はなく、ましてや粛清されたボルシェビキが実際にはドイツ政府と日本政府から雇われたエージェントだったという不条理な非難を支持する必要などなかった。[政府の「なぜ我々は戦うのか」シリーズのために制作されたドキュメンタリー『バトル・オブ・ロシア』の中で、フランク・キャプラは、自らが非難した粛清やその他の行為について言及していなかった。彼は、この「省略の罪」は、戦争の必要性とロシア国民の並外れた勇敢さゆえに許されると考えていた。]
『モスクワへのミッション』の中でこれらの非難が真実であると断言するシーンは、共産党と関係のある映画製作者たちが大手スタジオの映画に露骨なスターリン主義的プロパガンダを挿入することに成功したというHUACの疑惑を裏付けているように思える。
しかし、この映画の制作過程を振り返ると、それは妥当な結論ではないことがわかる。

『モスクワへの使節』は、 1936年から1938年までソ連駐在の米国大使を務めたジョセフ・デイヴィスが書いた同名の書籍に基づいています。
デイヴィスは、その著書の中で、ナチスドイツとの避けられないと思われた戦争には、ソ連との同盟が不可欠であると主張しました。
この本から抜粋された記事は、真珠湾攻撃のわずか1週間後にニューヨーク・タイムズ・マガジンの主要記事として掲載されました。
書籍は2週間後に店頭に並びました。
638ページという大部にもかかわらず、 『モスクワへの使節』はハードカバーで約70万部を売り上げ、すぐに1冊25セントの新しいペーパーバック形式で発行された最初の書籍の1つとなり、一般の人々にとって非常に手頃な価格になりました。
『モスクワへの使節』は最終的に、2か国語の点字版を含む13の外国語に翻訳されました。

ジャック・ワーナーは、この本の映画化はワーナー・ブラザースの戦争遂行への貢献となり、かなりの利益を生む可能性があると判断した。
彼は、ルーズベルト政権が本の感情を強く支持していると確信し、1941年7月にデイヴィスと契約を結んだ。
当時としては非常に異例だったのは、契約書にデイヴィスが脚本の最終承認権を持つという条項があったことだ。
ワーナーは、これは単なる形式的な手続きであり、デイヴィスは他の作家と同様、ワーナー組織が作成した本格的な脚本に署名するだけだと誤解した。
しかし実際はそうではなかった。
まず第一に、デイヴィスは、『タバコ・ロード』などの小説を書いた左派の作家、アースキン・コールドウェルに脚本を依頼するよう主張したが、コールドウェルには脚本家としての経験がほとんどなかった。
原作に忠実に作られた脚本はあまりにも酷かったため、デイヴィスは1年後、後にブラックリスト入りすることになるハワード・コックにプロジェクトを引き継ぐことに同意した。
コックはまもなく『カサブランカ』(1943年)の共同脚本家としてアカデミー賞を受賞することになる。
コックは1942年8月下旬に脚本の書き直しに取り掛かった。

映画の大筋は、デイヴィスがソ連での任務に就く様子を描いており、彼はロシアの工業的潜在力に大きな敬意を払う。
スターリン本人と会談する場面もある。
その後、アメリカに戻り、孤立主義者と激しく議論し、ソ連との同盟を熱烈に訴える。
映画の大部分は、デイヴィスが様々な役人と会話する場面と、ソ連の産業、そして後に戦争状態にあるソ連の場面が交互に映し出される。[最後の瞬間にスターリングラード攻防戦の映像が挿入されたが、これは戦争の情勢が急速に変化したからこそ可能になった台本なしの挿入だった。]
コールドウェルと同様に、コックも原作を忠実に再現した。
彼はより優れた台詞を書き、物語を映画の形式に落とし込む術を知っていた。

粛清裁判に関するシーンは、ソ連への援助支持を募るというこの映画の目的にとって中核を成すものではなかった。
プロデューサーのロバート・バックナーは裁判を映画に盛り込むことに全く反対であり、そもそも被告人を真に有罪と描くのは大きな誤りだと考えていた。[デイヴィッド・カルバート著『モスクワへのミッション』、ウィスコンシン大学出版局、マディソン、1980年、252-256ページ。本書には、『モスクワへのミッション』の脚本、カルバートによる優れた解説、そしてHUAC公聴会の抜粋が収録されている。本書の特徴は、カルバートが映画の様々な側面の責任者を特定するために開始した書簡にある。最も重要なのは、プロデューサーのロバート・バックナーのコメントである。]
バックナーの報告によると、裁判の描写と判決の支持を主張したのはデイヴィスだったという。[デイヴィスは著書『モスクワへの使命』の中で、被告の有罪について複雑な思いを表明していた。映画では異なる路線を主張したのも、ソ連の不興を買うことへの過度の恐怖の表れであるように思われる。]
今日では不条理に思える判断にも、確かな論理があった。
デイヴィスは、アメリカがスターリンを全面的に支援しなければ、第二のヒトラー・スターリン協定、あるいは少なくともアメリカを軍事的に大きく不利にする何らかの妥協が生まれるかもしれないと懸念していた。
スターリンによって粛清されたボルシェビキが国内の政治的反対勢力であることは十分に理解していたが、スターリンの指導力に不満を抱くこれらのベテランのボルシェビキが、ドイツとの協力こそがスターリン打倒の唯一の手段だと考える可能性を彼は十分に理解していた。
このような状況下では、レーニンが第一次世界大戦からロシアを撤退させたのと同じように、ソ連を戦争から撤退させることに同意する可能性もあった。
もしスターリンが政治的敵対者を外国勢力の雇われたエージェントとして描き出そうとするなら、デイヴィスは喜んでそれに応じるだろう。
一方、ワーナー社は契約上、デイヴィスの意向に沿うよう義務付けられていた。
トロツキーとヒトラーの会談を描いたと思われるシーンは、土壇場で削除されたと伝えられている。[『モスクワへの使命』29ページ]

スターリンの肯定的な描写も同様の論理に基づいている。
やや誇大妄想的なデイヴィスは、スターリンと一度会っただけで心から感銘を受けたようだ。
しかし、映画の中で、パイプを吸う賢明な老ジョーおじさんとしてスターリンを聖人のように描くのは、同作におけるチャーチルの聖人描写や、ルーズベルトを声だけで描いた描写と似ていないわけではない。
このような政治指導者への敬意ある扱いは、ハリウッド伝記映画の伝統において常套手段だった。
それよりもはるかに深刻なのは、映画の最後でフィンランドはソ連に侵略されていなかったという記述である。
このような否定は物語にとって決定的なものではないが、デイヴィスは必要だと主張した。[『モスクワへの使命』]
こうした問題に関してアメリカ共産党員の影響を受けるどころか、デイヴィスは自ら脚本をソ連大使マクシム・リトヴィノフに見せるという異例の自由を行使した。
デイヴィスが脚本をいかに支配的になっていたかを示す例として、公開予定のわずか2週間前に、妻とモロトフ夫人が化粧品店で一緒に買い物をするシーンの追加を要求したことが挙げられます。
また、チャーチルの台詞の一部もデイヴィスが口述しました。

デイヴィスが脚本に対して拒否権を持っていたことを考えると、ハワード・コッホとマイケル・カーティス監督の貢献は脚本の内容にほとんど影響を与えなかった。
『レッド・スター・オーバー・ハリウッド』の著者であるロナルドとアリス・ラドッシュは、この映画に隠された大きな影響を与えたのは左翼のジェイ・レイダであり、レイダは映画の技術顧問としてクレジットされていると主張している。[ロナルド・ラドッシュ、アリス・ラドッシュ著『Red Star Over Hollywood: The Film Colony's Long Romance with the Left』サンフランシスコ、エンカウンター・ブックス、2005年。レイダの『ミッション・トゥ・モスクワ』における役割については98~107ページで論じられている。]
映画脚本に対する綿密な研究で知られるトム・アンダーソンは、レイダの功績だと彼らが挙げている3つの変更点は最終版には含まれていないと指摘している。[「あとがき」フランク・クルトニック他編著『非アメリカ的ハリウッド:ブラックリスト時代の政治と映画』ニューブランズウィック、ニュージャージー:ラトガース大学出版、2007年、271頁]
彼はさらに、ラドッシュ夫妻の細部へのこだわりは物足りないと指摘している。
彼らは、映画の主演である有名なウォルター・ヒューストンがスターリンを演じていると思っていたのだ!
ヒューストンはデイヴィスを演じており、セリフのあるシーンのほとんどに出演している。[ラドッシュ著『レッド・スター』 96ページは、「著名な俳優ウォルター・ヒューストン」がスターリンを演じたと主張している。100ページでは、著者らはさらに、デイヴィスがヒューストンがスターリンのキャラクターを身体的に表現するのに適切なメイクをしなかったことに腹を立てていたと主張している。この種の誤りの一つは編集のまずさに起因するかもしれないが、ほぼ半数のシーンで特定の人物について強い主張が二つあることから、ラドッシュ夫妻は映画の実際の構成、内容、制作過程よりも、その政治的側面に関心を持っていることが窺える。]

コッホとバックナーは、レイダが脚本の内容に影響を与えたことを否定している。
彼の主な仕事は、物語に組み込むソ連のニュース映画の映像を選定することだった。
しかし、この貢献は絶対的なものとは程遠く、監督、プロデューサー、編集者による通常の共同作業によって行われる最終的な編集作業にはレイダは関与していなかった。
レイダが裁判やスターリンの描写に関する決定に関与していたという点にさらなる疑問を投げかけるのは、レイダがレフ・トロツキーの見解に共感的だったと一般的に考えられていたことである。
レイダは1930年代にソ連で制作された映画でセルゲイ・エイゼンシュテインと共演していたが、エイゼンシュテインをスターリン支持者とみなすことは到底できない。

『モスクワ大使』は公開直後から、ジョン・デューイ、アルフレッド・カジン、エドマンド・ウィルソン、ドワイト・マクドナルド、A・フィリップ・ランドルフ、ノーマン・トーマス、ジェームズ・T・ファレルといった著名な知識人らが起こした声明の中で、現実を大きく歪曲した作品として激しく非難された[Culbert, Mission、 257-60 ページに、声明の全文と声明の発起者全員の名前が記載されています]。
政治に関心のない批評家たちも同様に否定的だった。
彼らの総評は、演技がぎこちなく、個々のシーンが退屈な語り手で詰め込まれすぎており、ドキュメンタリー風のスタイルが説得力に欠けるというものだった。
ワーナー・ブラザースはこの映画の宣伝に50万ドルという途方もない金額を費やしたにもかかわらず、興行的には大失敗に終わり、その費用を回収することはできなかった。
数年後、HUACにおいて彼は証言で、「この映像は、我が国がロシアを同盟国として存亡をかけて戦っていた時に撮影されたものです。…モスクワへのミッションが破壊活動であったならば、ロシアの拠点に食料や銃器を運んだアメリカのリバティー船や、それらを輸送したアメリカの船舶も同様に破壊活動に従事していたことになります」と述べた。[Culbertの付録、266ページ。]

無罪

赤い三部作の映画に対する主な非難は、アメリカの娯楽産業を転覆させようとする共産主義者の陰謀の証拠であるというものでした。
しかし、これらの映画の制作過程は、これが真実ではないことを示しています。
共産主義者はこれらのプロジェクトを一切開始しておらず、また、どの映画の最終的な内容も共産主義者が支配していませんでした。
これらの映画は、ソ連への軍事支援を支持する世論形成を求めるアメリカ政府の要請に応えて、ハリウッドのスタジオ経営者によって制作されました。
これらの映画の内容を推進し、独特の緊迫感を与えたのは、これらの映画がナチスが戦争に勝利しつつあった時期に構想されたという点です。
ドイツ軍の師団はモスクワとレニングラード郊外に展開しており、決定的なスターリングラードの戦いはまだ起こっていませんでした。
これらの映画は、アメリカ政府の戦争政策に反対するものではなく、むしろそれを推進するものでした。

スタジオの最高責任者たちは、3本の映画製作の主要人物を選ぶ際に、共産主義運動に関わりのある脚本家を意識的に選んだ。
脚本家たちはスタジオのあらゆる作品に適用される組織の中で働くことになるため、イデオロギー的な懸念を抱くことなくそうすることができた。
スタジオの最高責任者たちは、赤軍がファシズムの断固たる反対者であり、ソ連における戦争の甚大な人的・物的犠牲を痛感していることを知っていた。
さらに、赤軍は、計画経済の長所が明らかになったソ連に対して、肯定的な見解を表明することに全く抵抗がなかった。
彼らの政治的見解をさらに後押ししたのは、共同戦線が米ソ間の戦後関係の調和につながるという信念だった。
同僚たちと同様に、赤軍は、この極めて重要な歴史的瞬間にソ連を支持することが様々な問題を無視することを意味するのであれば、そうすべきだと考えた。
彼らは、これは、この特定の歴史的瞬間に、米国における人種差別や、英国、フランス、ベルギー、オランダなどの同盟国によって運営された植民地帝国の悪行に映画でスポットライトを当てることを控えることと何ら変わらないと感じた。

赤い三部作が提起する真の政治的問題は、転覆工作の問題ではなく、問題のある同盟国のために意図的にプロパガンダとして制作された映画の本質である。
平時であれば批判されるような行為が、戦時中においてどれほど看過されるべきだろうか。
信教の自由、ウクライナ飢饉、強制的な集団化、粛清裁判、そしてソ連の日常生活の実態に関して行われたように、現実を歪曲することが、関係者全員にとって長期的などのような結果をもたらすだろうか。
これらは、マスメディアに関わる者すべてにとって基本的な問題である。
真の芸術は、時と場所がいかに不都合であろうとも、常に権力に真実を訴える。
プロパガンダは常に既存の権力に奉仕する。1940年代半ばのプロパガンダ的な親ソ連映画を制作した同じスタジオの責任者が、1950年代のプロパガンダ的な反共産主義映画も制作したのは、偶然ではない。
彼らは常に、国家政策に奉仕していると感じていたのだ。
そのように自らの政治的視点を全面的に変えることを望まない、あるいはできない映画製作者は、新たな政治的風が吹くまでハリウッドで働くことを禁じられるだろう。
2013年夏 (新政治誌第14巻第3号、全55号)


著者のダン・ゲオルガカスは、季刊映画雑誌『Cineaste』の編集委員を務めており、ニューヨーク大学、コロンビア大学、クイーンズ・カレッジ、マサチューセッツ大学アマースト校で映画講座を教えている。



# by sentence2307 | 2025-12-15 12:20 | ウクライナ | Comments(0)
散歩のついでに古本屋に立ち寄り、興味を引いた廉価本を買って帰って、ごろ寝しながら数日かけて読み飛ばす毎日を楽しんでいます。

時には、読みながら「寝落ち」することもあり、それはそれで実に気持ちいいのですが、目が覚めたときに、死ぬ瞬間というのは、この「寝落ち」みたいな感じなのかなと考え、少しぞっとし、あるいは奇妙な気持ち(なんだか名残惜しいというか)になったりします。

古本屋でチョイスする本の基準など特にありませんが、肩の凝らない小説とか、深刻でないドキュメンタリーなど(犯罪ものとかスキャンダルもの)が多いかもしれません。好きなのです。

その流れで軽い「戦後史もの」などがあれば、手当たり次第に買い込んでいる感じです。ただし、「エロ」は避けています、なにせ「あと」をひきますし、事後「時間を無駄にしたなあ」という自己嫌悪と後悔に苛まれるので。

だけど前立腺がんのリスクを軽減する効果はあるみたいですよ。アメリカの学会あたりで報告されたそうです。

先日、その古本屋で「戦後芸能史物語」(朝日選書344)という本を見つけました。

店頭でざっと見た感じでは、昭和20年代から昭和40年代前半までの世相や事件が、こまかい項目立ての写真入りで解説してあり、映画の話題も豊富そうなので、早速買ってきました。

映画に限りませんが、その当時でこそ大いに「話題」になっても、時の経過とともに風化して忘れられてしまうことは随分ありますから、記憶の掘り起こしという意味でも、この手の古い本を読むことは、ひとつのメリットでもあり愉しみです。

さて、昭和20年代の映画関係の項目というのは、「そよかぜ」「鐘の鳴る丘」「青い山脈」「君の名は」「笛吹童子」「ゴジラ」などGHQとの関係を絡めた作品説明があったりするなかで、ひと際孤立した印象の項目「ケニー・ダンカン(昭和26年6月)」というタイトルがありました、なんだか面白そうです、早速読んでみました。

出だしはこんな感じです。

《ピストルを腰に、カウボーイ姿の男が、羽田空港で女優たちから熱っぽい歓迎を受けたのは、昭和26年6月27日だった。
男の名は、ケニー・ダンカン。射撃と投げ縄の名手で、ハリウッド映画に150本も出演したスターという触れ込みで、以後三か月余りにわたって全国の映画館や劇場で「神業」を披露して回る。
当時盛んだった「映画と実演」という興行の中で、舞台で実弾を放つ(?)珍しいアトラクションは受けに受けた。
しかし、外人タレントの走りとなったこの「役者」と、その興行の実態は、実は・・・。》


なんですか、この書き出しは。

「スターという触れ込みで」とか、「舞台で実弾を放つ(?)」の(?)とか、あるいは、役者という活字をワザとらしくカギ括弧で括ったり、思わせぶりに「その興行の実態は、実は・・・」などと、うさん臭さを匂わせる厭味ったらしい書き方は、ケニー・ダンカンが、まるでスターを騙った詐欺師だと言わんばかり、アタマから読者をあからさまに「食わせ物の偽俳優」に誘導しようという悪意に満ちた下品な書き方には驚きました。

まあ、偏向新聞がよく使う手ではありますが。

実は、この本の内容は、朝日新聞に掲載された記事をまとめたものです、

十分な知識のない記者が、なんの根拠もないまま書いたこの悪意ある予断に満ちた記事が、全国紙に堂々と掲載されて流布され、多くの国民の目に晒されたかと思うと、空恐ろしく、思わずぞっとします。

いま、シンプルに「ケニー・ダンカン」と検索すると、時折「イカサマ野郎」と嘲笑気味に決めつけているブログに出会うことがありますが、その震源地は、まさにこの悪意の記事からだったのではないかと勘ぐってしまうくらいで、国民の総意を誘導し世論形成を企図する新聞の空恐ろしい一面を垣間見た思いです。

知識人を気取る高尚な朝日新聞は、こういう浅はかなでっち上げがゴク得意なのですが、被害を受けた側(ケニー・ダンカン)のダメージは相当深刻なものがあったと同情を禁じ得ません。

こんな例は掃いて捨てるほどあると思いますが、そこは例の「マスコミの強権」を発揮して被害者を抑え込んで黙らせることくらい、いとも簡単な芸当です。

この悪意ある黒き熱意は、戦中、ひたすら部数を伸ばすために、先頭に立って戦意高揚をぶち上げ、軍部の尻を叩いて侵略戦争をあおった強欲新聞の名残がうかがえます。そして現在、まるでその犯罪行為を償うみたいな媚中で、更なる恥の上塗りをしているというわけです。まあ、とんだ勘違いであることには、かわりありません。

さて、もう少し引用を続けてみますね。
《二丁拳銃でさっそうと現れたダンカン、舞台上手から10メートル近く離れた下手の風船や菓子、硬貨などを的にして、ダーン、ダーン。もちろん百発百中。さらに、股に頭を突っ込んだ姿勢で撃ったり、後ろ向きで手鏡を利用して撃ったり、あげくは立てたナイフの刃に命中させ二つに割れた弾丸で両側の標的を落とすという信じられない技も。
手品とはわけが違う、使っているのは実弾なのだ。そう思い込んで興奮に身を浸す観客たち。
馬にまたがって銀座パレードやマスコミでの宣伝など、この西部男の人気を煽り立てた興行は、連日満員の客を集めて盛り上がった。この後続く日本縦断ツアーでもこの盛り上がりが引くことはなかった。
劇場の関係者ら一部の間で「インチキ臭さ」を指摘する声もあるにはあったが、ほとんどの人はからくりがあるとは疑わなかったようだ。》

「インチキ臭さ」が新聞社の結論のくせに、その断定を第三者が発信源であるかのように工作し、あたかも世論に否定的な意見があるかのような新聞独特の姑息な言い回しで「一部の間で『インチキ臭さ』を指摘する声もあるにはあったが」などと前置きし、さらに同じ「インチキ臭さ」をテーマにした藤本義一の小説「曲射ちケニイ始末記」を取り上げ、都合のいい部分だけを引用しています。

もちろん、それらは、新聞社そのものの主張でもあることは、いうまでもありません。

こんな感じです。
「トニー谷のほかに付き添いが二人いて、いま思うとあれが細工していたのだろう。針とかピンとかを使ったトリックで」
「ケニー・ダンカンの仕掛け人は、二世の米軍芸能係軍属をかたった日本人の詐欺師。駐留米軍の将校を抱きこんで一旗揚げようとたくらんだ。」
「藤本の小説では、ダンカンが何者だったか追及していない。忽然として消えた彼の行方も追わない。ニュアンスとして、アメリカのおっさんのイメージでとらえている。」
「本当に映画出演の経験はあったのか、射撃の腕前はどうだったのか。こんな話がある。来日直後、警視庁がダンカンに射撃の手本を見せてもらうため、月島射撃場に招いた。ところがその日、あいにくというか、幸いにもというか、風が強く吹き、それを理由に彼は射撃をやめた。」(しかし、警察予備隊の隊員の前で射撃指導している写真は存在する)


「KENNE DUNCAN」で検索すると、ヒットするひとつのyou tube動画があります。「the face」と題するもので、サブタイトルが「trick shooting with KENNE DUNCAN」、原作と監督は、edward d wood jrとありました。

英語版wikiによると、ケニー・ダンカンと親交があったエド・ウッドは、ダンカンのために5本の映画を撮っており、そのうちの1本がこの「トリック・シューティング」で、まるで針の穴を撃ちぬくような精密な腕前を披露しています。なにも針とかピンなどを使ったり、黒子のお世話にならなくても、十分に小さな的を撃ちぬく腕前を有していたことがこれでわかります。ただ、大勢の観客のいる前で実弾発射に及んだかどうか、興行師の立場からすれば安全確保のための一考があったかもしれません。その意味での針とかピンとかね。

以上、数々の指摘(ケニー・ダンカンの「イカサマ師説」)が如何に根も葉もない捏造(書き手の調査の怠慢)であったか、濡れ衣だったかを明かすために以下に、彼がハリウッド活躍した記録(英語版wikiより)を貼っておきますね。



【ケニー・ダンカン(ケネス・ダンカン・マクラクラン)】

誕生 1903年2月17日 カナダ、オンタリオ州チャタム
死亡 1972年2月5日(68歳) ハリウッド、ロサンゼルス、カリフォルニア州、米国
墓地 グランドビューメモリアルパーク墓地、グレンデール、カリフォルニア州
その他の名前ケン・ディンカン、ケネス・ダンカン
職業俳優
活動年数1928–1962

ケニー・ダンカン(1903年2月17日 - 1972年2月5日)は、カナダ生まれのアメリカのB級映画キャラクター俳優でした。
「映画界で最も意地悪な男」としてプロとして宣伝され、250本を超える出演作の大半は西部劇でしたが、ホラー、犯罪ドラマ、SFにも時折出演しました。また、12本以上の連続ドラマにも出演しました。

幼少期、ダンカンはカナダのオンタリオ州でケネス・ダンカン・マクラクランとして生まれました。
俳優になる前、ダンカンは乗馬を趣味とし、一時期は騎手として働いていました。その分野での功績には、カナダ、ケベック州モントリオールのブルー・ボネット競馬場での障害競走優勝などがあります。

キャリア
ダンカンは、一部の界隈では、エド・ウッドとの仕事で最もよく知られている。ダンカンは、ウッド作品の5作品に出演している。『ナイト・オブ・ザ・グールズ』、 『トリック・シューティング』(ケニー・ダンカンと共演)、『クロスロード・アベンジャー』、 『シニスター・アージ』、そしてウッドがヤキマ・カナット監督と組んだ映画『ローレス・ライダー』である。
ダンカンが最後に出演した映画は、ウッドの低予算映画『シニスター・アージ』と、ドラマ「ローハイド」(「狙撃手事件」)のエピソードでの端役である。また、 『シスコ・キッド』、『バット・マスターソン』、『ワイアット・アープの生涯と伝説』、『トゥームストーン・テリトリー』など、特に西部劇に出演している。1961年、58歳で映画界を引退した。

ダンカンは共演者の女性たちと女たらしとして知られ、ハリウッドでは恵まれた体格で知られていた。
女優ヴァルダ・ハンセンは「ケン・ダンカンは撮影の合間に何度も何度も私の耳元で卑猥な言葉を囁いてきた。『舌は好き?』とか。…ついに私はあの老いぼれに我慢できなくなり、セットのマイクに向かって『黙れ!』と叫んだ。…すると皆が大笑いした」と回想している。
映画監督のロン・アシュクロフトは「ケンはかなり分厚い本を持っていて、ベッドで寝た女性たちの名前が書いてあった。1000人以上の女性が載っていると言っていた。1000人以上の女性が」と回想している。
メイクアップアーティストのハリー・トーマスは、ハリウッドのパーティーでケン・ダンカンの裸を見たことがあり、数年後にインタビュアーに「ご存知の通り、男性は皆平等に生まれているわけではない」と語った。


1972年2月5日、ダンカンは69歳の誕生日の12日前にバルビツール酸系の薬物を過剰摂取して自殺した。
友人のロン・アシュクロフトは当時を振り返り、「彼が自殺した時、信じられませんでした。彼は生きることに疲れていたのです。ジョージ・サンダースと同じように、彼はあらゆることを見て、あらゆることを経験してきました。ただ座ってテレビを見ているだけでした。」と語っている。ダンカンはカリフォルニア州グレンデールのグランド ・ビュー・メモリアル・パーク墓地に埋葬された。

エド・ウッドはケニー・ダンカンの遺産執行人に任命され、自宅の裏庭にあるプールサイドで小さな追悼葬儀を執り行いました。ウッドと妻、そして友人たちは順番に飛び込み台に上がり、それぞれがダンカンの短い弔辞を述べました。

★厳選されたフィルモグラフィー

警察記者Police Reporter(1928年)
ワイオミングから来た男A Man from Wyoming(1930年) - ヘイリー(クレジットなし)
遺棄された男Derelict (1930年) - ラジオマン(クレジットなし)
ノー・リミットNo Limit(1931年) - カーリー・アンドリュース
グリーフ・ストリートGrief Street(1931年) - 新聞記者(クレジットなし)
勇敢な恋人たちLovers Courageous(1932年) - カウボーイ(クレジットなし)
保護観察Probation(1932年) - 結婚式のリハーサル係(クレジットなし)
マウスピースThe Mouthpiece(1932年) - オフィスワーカー(クレジットなし)
シャドウ・リバーShadow River(1933)
潜入捜査官Undercover Men (1934年) - ブレイク・ハーディ
勇敢な守護者Gallant Defender(1935年) - グースネック・スミス(クレジットなし)
『9時から9時まで』From Nine to Nine(1936年) - ジョン・サマーセット
サラブレッドThoroughbred(1936年) - チック・ウィリアムズ
クロス・マイ・ハートCross My Heart(1937) - スティーブ・キング
メイクアップMake-Up(1937) - ロレンツォ
最後の幕The Last Curtain(1937年) - ガルサッティ
コロラド・キッドThe Colorado Kid(1937年) - シムズ・レザー
フラッシュ・ゴードンの火星旅行Flash Gordon's Trip to Mars(1938年、連続ドラマ) - 飛行場のキャプテン
ワイルド・ビル・ヒコックの大冒険The Great Adventures of Wild Bill Hickok(1938年、連続ドラマ) - 鍛冶屋(第13話)(クレジットなし)
フロンティア・スカウトFrontier Scout(1938年) - クランドル - ヘンチマン
蜘蛛の巣The Spider's Web (1938年、連続ドラマ) - ラム・シン
ファイティング・サラブレッドFighting Thoroughbreds (1939年) - ブレイディ
ユーコンの北North of the Yukon(1939年) - ヘンチマン・ミーカー
バック・ロジャースBuck Rogers(1939年、連続ドラマ) - レイシー中尉
テキサスから来た男Man from Texas(1939年) - スピード・デニソン
ミッキー・ザ・キッドMickey the Kid(1939年) - ヘンチマン(クレジットなし)
キット・カーソンと行くオーバーランドOverland with Kit Carson(1939年、連続ドラマ) - 罠猟師(クレジットなし)
戦う反逆者The Fighting Renegade(1939) - ヘンチマン(クレジットなし)
トリガー・フィンガーズTrigger Fingers(1939年) - ヘンチマン・ジョンソン
燃える鉛Flaming Lead(1939) - ラリー - 牧場労働者
ウェストバウンド・ステージWestbound Stage(1939年) - ジム・ウォレス大尉
緊急救命隊Emergency Squad(1940年) - ジャック(クレジットなし)
テキサス・レネゲイズTexas Renegades(1940) - ビル・ウィリス
セージブラッシュ一家は西へ旅するThe Sagebrush Family Trails West(1940年) - バート・ウォレス
シャイアン・キッドThe Cheyenne Kid(1940年) - チェット・アダムス
ビリー・ザ・キッドの禁断の日々Billy the Kid Outlawed (1940年) - デヴィッド・ヘンドリックス
ユーコン川の殺人Murder on the Yukon(1940年) - トム - 手下
幌馬車道Covered Wagon Trails (1940年) - ヘンチマン・ブレイン
ピント・キャニオンPinto Canyon(1940年) - フレッド・ジョーンズ
六大銃の国Land of the Six Guns(1940) - マックス
誓いを立てるI Take This Oath(1940年) - レンタカー係(クレジットなし)
サンタフェの子供The Kid from Santa Fe(1940年) - ジョー・ラヴィダ
フロンティア・クルセイダーFrontier Crusader(1940年) - メサ・キッド
スカイ・バンディッツSky Bandits(1940) - ブラウニー - ヘンチマン
デッドウッド・ディックDeadwood Dick(1940年、連続ドラマ) - 二丁拳銃 - ヘンチマン(第7話)(クレジットなし)
ビリー・ザ・キッドの禁断の旅Billy the Kid Outlawed (1940年) - デイブ・ヘンドリックス
ロール・ワゴンズ・ロールRoll Wagons Roll(1940年) - クレイ大尉
アリゾナ・ギャング・バスターズArizona Gang Busters  (1940) - ダン・カーク保安官
トレーリング・ダブル・トラブルTrailing Double Trouble(1940年) - ボブ・ホーナー
緑の射手The Green Archer(1940年、連続ドラマ) - マイケル・ベラミー(クレジットなし)
ビリー・ザ・キッドの銃の正義Billy the Kid's Gun Justice(1940年) - ヘンチマン・ブラッグ
ソウルズ・イン・ポーンSouls in Pawn (1940年) - JWカールトン
バック・プライヴェートBuck Privates (1941年) - 歩道に立つ軍曹とコリンズ軍曹(クレジットなし)
ホワイト・イーグルWhite Eagle(1941年、連続ドラマ) - カーク(クレジットなし)
リオグランデの無法者Outlaws of the Rio Grande(1941年) - ボブ・デイ保安官
キャプテン・マーベルの冒険Adventures of Captain Marvel(1941年) - バーネット - チーフ・ヘンチマン [第2-10章]
蜘蛛の帰還The Spider Returns(1941年、連続ドラマ) - ラム・シン、ウェントワースのヒンドゥー教徒の運転手
ビリー・ザ・キッドのサンタフェBilly the Kid in Santa Fe(1941年) - ヘンチマン・スコッティ
テキサス保安官The Texas Marshal(1941年) - 手下レフティ(クレジットなし)
デッドリー・ゲームThe Deadly Game(1941年) - ヘンチマン #2
ダイナマイト・キャニオンDynamite Canyon (1941年) - ヘンチマン・ロッド
アパッチ・キッドThe Apache Kid(1941年) - ヘンチマン・ベントン(クレジットなし)
キング・オブ・ザ・テキサス・レンジャーズKing of the Texas Rangers(1941年、連続ドラマ) - ニック - ヘンチマン [第1~4、6~9話]
ビリー・ザ・キッド指名手配Billy the Kid Wanted(1941年) - 手下(クレジットなし)
サンセット・トレイルを駆けるRiding the Sunset Trail(1941年) - ジェイ・リンチ
ローン・ライダーの逆襲The Lone Rider Fights Back(1941年) - バーフライ(クレジットなし)
ミズーリ州の無法者A Missouri Outlaw(1941年) - ヘンチマン・ピート・チャンドラー
ビリー・ザ・キッドのラウンドアップBilly the Kid's Round-Up(1941年) - ヘンチマン・ジョー(クレジットなし)
テキサス・マンハントTexas Man Hunt(1942年) - ヘンチマン・レイク
ローン・ライダーと山賊The Lone Rider and the Bandit(1942年) - 酒場の手下(クレジットなし)
無法者の掟Code of the Outlaw(1942年) - プラグ - ヘンチマン
西部開拓時代Raiders of the West(1942年) - ハリス - ダンディ・ギャンブラー(クレジットなし)
リオグランデ川の心臓Heart of the Rio Grande(1942年) - 列車の乗客(クレジットなし)
二つの命を持つ男The Man with Two Lives(1942年) - ジェス・ファウラー
シャイアンの孤独なライダーThe Lone Rider in Cheyenne (1942年) - ウォルト副保安官
ウェストワード・ホーWestward Ho (1942年) - ヘンチマン・ダラス(クレジットなし)
ニョカの危険Perils of Nyoka(1942年、連載[ 7 ]) - アブ
ソンブレロ・キッドThe Sombrero Kid(1942年) - ピート・レイモンド - ヘンチマン(クレジットなし)
ロー・アンド・オーダーLaw and Order(1942年) - ヘンチマン・ダーガン
秘密のコードThe Secret Code(1942年、連載) - マーヴィン [第1-3、5-6話]
行方不明者たちの島Isle of Missing Men(1942年) - ボブ・ヘンダーソン
外国のエージェントForeign Agent (1942年) - 連邦エージェントのトム(クレジットなし)
オーバーランド駅馬車Overland Stagecoach(1942年) - ポッセライダー(クレジットなし)
テキサスからバターンへTexas to Bataan(1942年) - アンダース大尉
追われる男たちの谷Valley of Hunted Men(1942年) - ナチス(クレジットなし)
ボルダー峠の無法者Outlaws of Boulder Pass (1942年) - ヘンチマン・ムリー
レッド・リバーのロビン・フッドRed River Robin Hood(1942年) - ヘンチマン・エド・ランス
トレイル・ライダーズTrail Riders (1942年) - フランク・ハモンド元帥
消えゆく人々の谷The Valley of Vanishing Men(1942年、連続ドラマ) - ローガン(クレジットなし)
サンダウン・キッドThe Sundown Kid(1942年) - ヘンチマン
キッド・ライド・アゲインThe Kid Rides Again(1943年) - 酒場のカウボーイ(クレジットなし)
シャイアン・ラウンドアップCheyenne Roundup(1943年) - エクスプレスライダー(クレジットなし)
サンタフェスカウトSanta Fe Scouts (1943) - チンピラ (ノンクレジット)
ワイルドホース・スタンピードWild Horse Stampede(1943年) - ハンリー
牧場の狼Wolves of the Range(1943年) - ヘンチマン・アダムス
西部の命知らずDaredevils of the West (1943年、連続ドラマ) - ジョージ・フッカー [第9章]
オールド・シャイアンの日々Days of Old Cheyenne(1943年) - ヘンチマン・ピート
復讐の騎士The Avenging Rider(1943年) - ブラック
ボーダー・バッカルーBorder Buckaroos (1943) - トム・バンクロフト
牧場の狼Wolves of the Range(1943年) - ヘンチマン・アダムス
平原の逃亡者Fugitive of the Plains(1943年) - RJコール
バットマンBatman (1943年、連続ドラマ) - フレッド - メカニック [第5-6話] (クレジットなし)
法の復活The Law Rides Again(1943年) - ジェフ保安官
幌馬車道西行きWagon Tracks West (1943年) - ヘンチマン(クレジットなし)
燃える国境Blazing Frontier(1943年) - 開拓者クラーク(クレジットなし)
恐怖の道Trail of Terror (1943年) - ヘンチマン・トム
スウィング・シフト・メイジーSwing Shift Maisie(1943年) - チャーリー - アンのブラインドデート(クレジットなし)
ブレイジング・ガンズBlazing Guns(1943年) - ヘンチマン・レッド・ヒギンズ
リオグランデ川の男The Man from the Rio Grande(1943年) - ヘンチマン
オーバーランド郵便強盗Overland Mail Robbery(1943年) - ハンク(クレジットなし)
キャニオン・シティCanyon City(1943年) - ターナー - ヘンチマン(クレジットなし)
オールド・オクラホマIn Old Oklahoma(1943年) - 列車に乗った憤慨したビジネスマン(クレジットなし)
ピストル・パッキン・ママPistol Packin' Mama(1943年) - ドアマン(クレジットなし)
サンセット峠の略奪者Raiders of Sunset Pass(1943年) - ヘンチマン・テックス
平原の誇りPride of the Plains(1944年) - スナイダー - ヘンチマン
国境を越えた手Hands Across the Border(1944年) - 副官(クレジットなし)
ファイティング・シービーズThe Fighting Seabees(1944年) - 建設作業員(クレジットなし)
キャプテン・アメリカCaptain America (1944年、連続ドラマ) - エド・グラハム [第14話](クレジットなし)
西部の空の下Beneath Western Skies(1944年) - バロー副保安官
モハーヴェ・ファイアブランドMojave Firebrand(1944年) - トニー・ウェッブ
ヒドゥン・バレー・アウトローズHidden Valley Outlaws(1944年) - ヘンチマン・ベン・バノン
ララミー・トレイルThe Laramie Trail (1944年) - バッドのパートナー(クレジットなし)
サンタフェの無法者Outlaws of Santa Fe(1944年) - チャック - 手下
ツーソン・レイダースTucson Raiders(1944年) - ヘンチマン(声、クレジットなし)
虎女The Tiger Woman(1944年、連載[ 8 ]) - ジェントリー - ヘンチマン[第7、11章]
サイレント・パートナーSilent Partner(1944年) - ギャング(クレジットなし)
マン・フロム・フリスコMan from Frisco(1944年) - フォアマン(クレジットなし)
リノ元帥Marshal of Reno(1944年) - アダムス - 手下
スコットランドヤードの秘密Secrets of Scotland Yard(1944年) - スチュワード(クレジットなし)
勇気ある少女The Girl Who Dared(1944年) - ポール・デクスター博士
ネバダの歌Song of Nevada(1944年) - トンプソンのワゴンレースの運転手(クレジットなし)
幽霊港Haunted Harbor(1944年、連続ドラマ) - グレッグ
モントレー行きの駅馬車Stagecoach to Monterey(1944年) - ジョー - ヘンチマン
サンフェルナンドバレーSan Fernando Valley(1944年) - 馬泥棒(クレジットなし)
シャイアン・ワイルドキャットCheyenne Wildcat(1944年) - ヘンチマン・ピート
マイ・バディMy Buddy(1944年) - 囚人(クレジットなし)
リスボンの嵐Storm Over Lisbon(1944年) - ポール・デレスコ・アイデ
終着点End of the Road(1944年) - アル・ハーマン
サンダウンの保安官Sheriff of Sundown(1944年) - アーサー・ウィルクス - 長官
ドッジ・シティの自警団Vigilantes of Dodge City(1944年) - 手下デイブ・ブリュースター
ブラジルBrazil(1944年) - タクシー運転手(クレジットなし)
サラブレッドThoroughbreds(1944年) - (クレジットなし)
ラスベガスの保安官Sheriff of Las Vegas(1944年) - ホワイト - ヘンチマン
ミステリー島の追跡Manhunt of Mystery Island(1945年、連続ドラマ) - シドニー・ブランド
コーパスクリスティの盗賊団Corpus Christi Bandits(1945年) - スペード - ヘンチマン
ファントム・スピークスThe Phantom Speaks(1945年) - 殺人被害者(クレジットなし)
バーバリー海岸の炎Flame of Barbary Coast(1945年) - ギャンブラー(クレジットなし)
サンタフェ・サドルメイツSanta Fe Saddlemates(1945年) - ブラゾス・ケイン
スポーツのチャンスA Sporting Chance(1945年) - ボーダー
ロザリタの鐘Bells of Rosarita (1945年) - 誘拐犯(クレジットなし)
シカゴ・キッドThe Chicago Kid(1945) - アル
アルカトラズへの道Road to Alcatraz (1945年) - 召使い
キット・カーソンの足跡Trail of Kit Carson(1945年) - トリガー・チャンドラー
オレゴン・トレイルOregon Trail(1945年) - ジョニー・スレイド - ヘンチマン
しあわせへのヒッチハイクHitchhike to Happiness(1945年) - バーの男(クレジットなし)
紫の怪物の襲来The Purple Monster Strikes (1945年、連載) - チャールズ・ミッチェル [第1~2章、第10章]
愛と名誉と別れLove, Honor and Goodbye(1945年) - カウンターマン(クレジットなし)
ラフ・ライダーズ・オブ・シャイアンRough Riders of Cheyenne(1945年) - ランス - ヘンチマン
ダコタDakota (1945) - ヘンチマン (クレジットなし)
幌馬車西行きWagon Wheels Westward(1945年) - ヘンチマン・ジョー
緋色の騎士The Scarlet Horseman (1946年、連続ドラマ) - ヘンチマン(クレジットなし)
ファントムライダーThe Phantom Rider(1946年、連続ドラマ) - ベン・ブレイディ - ヘンチマン
男は変われるA Guy Could Change(1946年) - フランク・ハンロン
カリフォルニア・ゴールドラッシュCalifornia Gold Rush(1946年) - ヘンチマン・フェルトン
レッドウッドバレーの保安官Sheriff of Redwood Valley (1946年) - ヘンチマン・ジャクソン
ホーム・オン・ザ・レンジHome on the Range(1946年) - ヘンチマン #2
虹の彼方にRainbow Over Texas(1946年) - ヘンチマン・ピート・マカヴォイ
サンバレー・サイクロンSun Valley Cyclone(1946年) - ダウ
オールド・サクラメントIn Old Sacramento(1946年) - 副保安官(クレジットなし)
レインボーバレーの男Man from Rainbow Valley(1946年) - トレイシーのパートナー
犯罪密輸Traffic in Crime(1946年) - ヘンチマン(クレジットなし)
マイ・パル・トリガーMy Pal Trigger(1946年) - ディーラー
メンフィス行き夜行列車Night Train to Memphis (1946年) - エイサ・モーガン
レッド・リバー・レネゲイズRed River Renegades(1946年) - ヘンチマン・ハケット
シャイアン征服Conquest of Cheyenne(1946年) - 地質学者マクブライド
GI戦争花嫁G.I. War Brides (1946年) - (クレジットなし)
ミステリアス・ミスター・バレンタインThe Mysterious Mr. Valentine(1946年) - サム・プリーストリー
リオグランデレイダースRio Grande Raiders(1946) - スティーブ - ヘンチマン
テキサス・ムーンRoll on Texas Moon (1946年) - ヘンチマン・ブランニガン
クリムゾン・ゴーストThe Crimson Ghost(1946年、連載) - チェンバース博士 [第1~2話、第8話]
サンタフェ蜂起Santa Fe Uprising(1946年) - ヘンチマン
スーシティ・スーSioux City Sue(1946年) - クローリー(クレジットなし)
天使と悪人Angel and the Badman(1947年) - ギャンブラー(クレジットなし)
リオグランデ川の黄昏Twilight on the Rio(1947年) - ルー・エヴァース - 米国税関職員(クレジットなし)
バック二等兵の帰還Buck Privates Come Home(1947年) - 歩道の軍曹(クレジットなし)
侵入者The Trespasser (1947年) - 仲間(クレジットなし)
クローズアップClose-Up (1948年) - 刑事(クレジットなし)
サンタフェの夕暮れSundown in Santa Fe (1948年) - 幌馬車の運転手(クレジットなし)
隠された危険Hidden Danger (1948年) - ヘンチマンベンダー
クラッシュ・スルーCrashing Thru(1949) - レンジャー・ティム・レイモンド
西部の影Shadows of the West(1949) - ビル・メイベリー
ガンランナーGun Runner(1949年) - ネブラスカ州
西の法Law of the West(1949) - フランク・スティーブンス
スタンピードStampede(1949) - スティーブ(クレジットなし)
リオグランデ川を渡ってAcross the Rio Grande (1949) - ジョー・バーデット
エルドラドの西West of El Dorado (1949) - スティーブ・ダラス
レンジ・ジャスティスRange Justice(1949) - ヘンチマン・カーク
西へ進軍Roaring Westward(1949年) - モーガン
副保安官Deputy Marshal(1949年) - カル・フリーリング
空の騎士Riders in the Sky(1949) - トラヴィス
無法の掟Lawless Code(1949年) - トム・ブレイン - ヘンチマン
ニューメキシコの息子たちSons of New Mexico(1949) - エド - ヘンチマン(クレジットなし)
レンジ・ランドRange Land(1949) - ウィンターズ保安官
デイビー・クロケット、インディアン・スカウトDavy Crockett, Indian Scout(1950年) - ゴードン軍曹
レーダー・シークレット・サービスRadar Secret Service(1950年) - マイケルの手下
ラバ列車Mule Train (1950) - ラティーゴ (ノンクレジット)
銀の賢者の掟Code of the Silver Sage(1950年) - ディック・キャントウェル - ヘンチマン
ジグスとマギーの西部劇Jiggs and Maggie Out West(1950年) - スリム - ヘンチマン(クレジットなし)
彼女自身の人生A Life of Her Own(1950年) - 招待状を求める男(クレジットなし)
降伏Surrender(1950年) - ライダーがグレッグに警告(クレジットなし)
インディアン準州Indian Territory(1950年) - アパッチに撃たれた3人目の男(クレジットなし)
ラスト・オブ・ザ・バッカニアーズLast of the Buccaneers(1950年) - 海賊船長(クレジットなし)
灼熱の太陽The Blazing Sun(1950) - アル・バートレット&マーク・バートレット
生死を分けるWanted: Dead or Alive(1951) - ヘンチマン (クレジットなし)
バッドマンズ・ゴールドBadman's Gold (1951) - ランス
旋風Whirlwind(1951) - スリム - ヘンチマン(クレジットなし)
ネバダ・バッドメンNevada Badmen(1951) - ボブ・バノン(クレジットなし)
テキサス・レンジャーズThe Texas Rangers (1951年) - バート・ハワード - 無法者(クレジットなし)
シルバー・キャニオンSilver Canyon(1951年) - 伍長(クレジットなし)
オクラホマ・ジャスティスOklahoma Justice (1951年) - バーンズ保安官
ユタの丘The Hills of Utah(1951年) - インディゴ・ハバード - ヘンチマン
ドラムス・イン・ザ・ディープ・サウスDrums in the Deep South(1951年) - 北軍将校(クレジットなし)
インディアン蜂起Indian Uprising(1952年) - リチャーズ中尉(クレジットなし)
フロンティア・ファントムThe Frontier Phantom(1952年) - サム・マンテル
オン・トップ・オブ・オールド・スモーキーOn Top of Old Smoky(1953年) - マクエイド
ジャック・マッコール、『デスペラード』Jack McCall, Desperado(1953年) - パーティーのギャングメンバー(クレジットなし)
パック・トレインPack Train(1953) - ロス・マクレーン
無法騎士The Lawless Rider (1954) - フレノ・フロスト
地獄の水平線Hell's Horizon(1955年) - ネイラー少佐
肉体と拍車Flesh and the Spur(1956年) - ケイル・タナー
ララミー砦の反乱Revolt at Fort Laramie (1957年) - フォーリー大尉(クレジットなし)
アウトロー・クイーンOutlaw Queen(1957年) - 保安官
鉄の保安官The Iron Sheriff(1957年) - レヴァレットの義理の兄弟(クレジットなし)
牧師と無法者The Parson and the Outlaw(1957年) - マット・マクラウド(クレジットなし)
驚異の女怪物The Astounding She-Monster (1957年) - ナット・バーデル
死とのデートDate with Death (1959年) - アンドリュース - 貨物列車の番人
処女の復讐Revenge of the Virgins(1959) - ナレーター(声、クレジットなし)
グールの夜Night of the Ghouls(1959) - アキュラ博士(監督・エド・ウッド)
オクラホマ準州Oklahoma Territory(1960年) - ビゲローの手下(クレジットなし)
ミュージック・ボックス・キッドThe Music Box Kid(1960年) - トラック運転手の助手(クレジットなし)
ナチェズ・トレースNatchez Trace(1960) - ウィリアム・マレル
邪悪な衝動The Sinister Urge(1960年) - マット・カーソン中尉(監督・エド・ウッド)
すごい!Like Wow!(1962年) - カーセールスマン


★厳選されたテレビ番組(年タイトル役割注記)

1950シスコキッド駅員エピソード「犬の物語」
1950ローン・レンジャー(テレビシリーズ)ジェフ・バーンズエピソード「金への欲望」
1950ローン・レンジャー(テレビシリーズ)ジョー・パーカー副保安官エピソード「死の罠」
1951シスコキッドシェリフエピソード「老いた浮浪者」
1951シスコキッドシェリフエピソード「水の権利」
1953デスバレーデイズ2人目の強盗シーズン1、エピソード9「シンシーの夢のドレス」
1953ローン・レンジャー(テレビシリーズ)ダン保安官エピソード「トレーダー・ボッグス」
1953デスバレーデイズネバダ州務長官シーズン2、エピソード2「リトル・ワシントン」
1955ワイアット・アープの生涯と伝説デイヴィー - ピアース・フォアマンエピソード「牛追い道の王」
1956デスバレーデイズバーテンダーエピソード「Pay Dirt」
1956デスバレーデイズマコーネルエピソード「運命の年」
1956ワイアット・アープの生涯と伝説パーキンス博士エピソード「世界で最も孤独な男」
1958ワイアット・アープの生涯と伝説デューシー・ミラーエピソード「カンザス・リリー」
1958ワイアット・アープの生涯と伝説ケンドールエピソード「賞金稼ぎ」
1958ワイアット・アープの生涯と伝説コールドウェルエピソード「編集者を殺せ」
1958トゥームストーン領土バーテンダーエピソード「逃亡者のための戦い」
1958トゥームストーン領土バーテンダーエピソード「ガトリングガン」
1958トゥームストーン領土バーテンダーエピソード「デッドウッドのブラック・マーシャル」
1958バット・マスターソン新聞記者エピソード「シャーマン将軍のドッジシティ行進」
1960生皮ブラウン保安官エピソード「狙撃手の事件」

# by sentence2307 | 2025-10-17 14:08 | Comments(0)

最近、今村昌平監督の「赤い殺意」について以前書いた自分の記事を読んでいたら、以下の一文に遭遇しました。

ただ、これを書いてからすでに相当な時が経過しているので、当時の思い入れから放れた「他人の目」で、客観的に読んだことを申し添えます。

《(佐藤忠男は)「赤い殺意」を論じている箇所でこんなふうに書いています。
「強姦された女が、逆に強く自由になるというのは、前の『豚と軍艦』でも見られたモチーフであり、それは、あるいは、敗戦によって日本文化の純粋性といった虚妄の観念を、外国から力ずくで打破された国民的な経験の、逆説的な表明であるかもしれない。」
なるほどなるほど、「強姦されて逆に強く自由になる」というのは、日本という当時の国の状態を示していたのかと気づかされました。》

戦争に負けた日本がアメリカ軍に占領され、日本国民が戦前から持っていた伝統的な価値観を大きく変えねばならなかった痛手(価値観が全否定された痛みの挫折と屈辱と、それを克服して生き残るための知恵と狡猾さまで)を今村監督は「豚と軍艦」や「赤い殺意」、そして「にっぽん昆虫記」に込めて鮮烈に描いていたのだという「気づき」を、この佐藤忠男の一文は教えてくれたのだと思います。

映画とはまさに「時代」を描くものなのだなという、それまでの自分の映画の見方の迂闊さを指摘された感じでした。

「そうだったのか、『赤い殺意』!!」という感じです。

この一文を読んで、自分は思わず、最近、アメリカで起こった保守活動家チャーリー・カーク射殺事件を報じる新聞記事と、朝日新聞web版の微妙な差異を思い出しました。

この唐突な「連想」は、随分奇異に聞こえるかもしれませんが、その辺は追い追い説明しますね。

朝日新聞web版は、この事件を
「米国の人気トーク番組、突然の休止に波紋 言論の自由は守れるのか」
という見出しでこんなふうに報じています。

《言論の自由が建国以来の精神として根付いてきた米国で、人気コメディアンのジミー・キンメル氏の長寿番組が一時的に放送休止に追い込まれた。
トランプ大統領の盟友である政治活動家の射殺事件をめぐり、キンメル氏の発言が不適切だと批判されたためだ。
番組は再開が決まったが、政治家を風刺する笑いの内容さえ封じ込めようとするトランプ政権の動きに、危機感を募らせる市民も多い。》

そして、トランプ政権の政策に反対する街頭デモの参加者の二三のコメント(この紹介にしたって随分偏った印象を受けます)を紹介したあとで、記事はこんなふうに締めくくっています。

《問題とされたのは、右派の政治活動家チャーリー・カーク氏(31)が10日にユタ州で射殺された事件をめぐって、キンメル氏が15日夜の番組で発言した内容だった。
 キンメル氏は、カーク氏を射殺したとして殺人罪などで訴追された容疑者とトランプ氏のスローガン「MAGA」(米国を再び偉大に)に触れ、「MAGAの一味は、チャーリー・カークを殺害したこの若者を、自分たちの仲間ではないと描写することに必死で、この事件から政治的利益を得ようとあらゆる手段を講じている」などと発言した。》

「左・右」がどうあれ、人ひとりが射殺された事件を受けて、報じることといえば相も変わらぬ「言論の自由」ですから、まったく首を傾げざるを得ません。まさに「アホカ」です。

その日和見報道ぶりには、呆れかえって批判するのも馬鹿らしくなりますが、実際その朝日新聞のweb版と新聞記事とを読み比べてみると、大きな違いというか、これって意識的に「隠蔽」したのではないかと勘ぐってしまうくらいの欠落があります。

つまり、この記事の中には番組内で道化師ジミー・キンメルなるものが、具体的にどういう不適切な発言したのかが一行も記されておらず、むしろ「あえて隠した」のではないかという印象です。

新聞の方の記事では、キンメルが「トランプはこの事件から政治的利益を得ようとあらゆる手段を講じている」と批判したあとで、「まるで4歳の子供が金魚の死を悼んでいるようだ」と嘲笑したと書かれています。

往々にして単細胞のアメリカ人たちは、自分より劣等な敗者=弱者とみるや、居丈高に冷笑を浴びせ、論難し、下品な揶揄を駆使して(相手を間抜けなガキ扱いし)徹底的に馬鹿にし偉そうに嘲笑するというのが彼らのやり方です。

自分は、この(嘲りと罵倒としての)「まるで4歳の子供」という文言について、あることを思い出しました。

朝鮮戦争で指揮をとっていたマッカーサー元帥が、(原爆使用を提言したために)突然トルーマン大統領から解任され、アメリカに帰国したそのあとでアメリカ議会でした演説で、「日本人は、せいぜい12歳の少年だ」という発言をしたという出来事がありました。

それまでマッカーサー元帥に手放しの好意と親愛の情を寄せていた日本国民は冷水を浴びせ掛けられ、大いに失望した事件です。

それまで、なにしろ日本では、「マッカーサー神社」でも建てようかという勢いのマッカーサー人気だった矢先のことで、まさに「事件」というに十分な出来事だったと思います。

アメリカ議会でのマッカサーとロング上院議員とのやりとりは、こんな感じでした。

《「私の日本統治は歴史上稀に見る大成功だった。私のほかにはジュリアス・シーザーぐらいしか敵国の統治に成功した例がない。一度民主主義を享受した日本がアメリカ側の陣営から出ていくことは決してない」
と自慢するマッカーサーに、ロング上院議員が
「あなたはそう言うが、ドイツも第一次大戦後、ワイマール憲法下で非常に民主的な体制になったものの、その後で、ヒトラーに熱狂したという事実がある。日本人もそうならないとは限らないではないか」という趣旨の質問をしたところ、マッカーサーは
「ドイツと日本とでは全然違う。ドイツ人は文明の発展過程を考えると、我々と同じ45歳くらいの年齢に達している成熟した人種だが、日本人は、(アメリカ人なら)赤ん坊でも知っている民主主義を教えてもらって喜んでいる段階であり、いわば12歳の少年のようなものだ」という主旨の答えを返した》というのです。


それまで素朴な感情からマッカーサーに好意を寄せていた日本人は、マッカーサーも日本に対して善良な親愛感を持ってくれているに違いないと固く信じていたのに、元帥のこのあからさまな日本人に対する侮蔑的な愚鈍呼ばわりには、驚愕し、衝撃を受け、裏切られたという失望と憤激とを感じたに違いありません。

自分もやはり日本人ですから、この出来事の反応として同じような「驚愕、衝撃、痛憤」を当然持つだろうな、とは思いますが、その反面、「ある事実」を知ってしまったために、素直に「驚愕や痛憤」に浸れるかどうか、自信がなくなりかけている部分もあるのです。というのは、マッカーサーが「日本人は12歳の少年」と考えたかもしれない根拠が、なくはないと思うからです。

敗戦後、アメリカ軍が日本を軍事占領した際、連合軍総司令官マッカーサーのもとに、多くの日本人は、せっせと手紙を送りつけています。

その数、なんと50万通。そして内容といえば、勝者としての米軍への祝辞(当然、無知で無謀な戦いを起こした愚かな日本軍部への非難が伴います)、進駐軍への感謝から始まって、日本をアメリカの属国にしてくれとか、天皇を廃止せよとか、隣近所の讒訴密告のたぐい、マッカーサーの銅像を建てたいとか、農地改革の手直しの提案とか、朝鮮戦争の献策とか、「おもねり」「すり寄り」「へつらい」への慙愧逡巡などなんのその、実に生真面目でおおらかな意見具申のオンパレードなのです。

論より証拠ということで、強烈なところを見繕ってサンプルをひとつ貼っておきますね。


「もし事情が許されるなれば、日本の国のすべてのものを貴国に託して貴国の御賢明にして宗教的なる御指導を仰ぐ、すなわち米日合併をしていただいて、この溺れる日本国を救っていただけることができたなら、日本国民はいかほど幸福であろうかと皆異句同音に切なる望み願望を抱いております。
これは偽らざる事実でございます。
おそらく現在の日本国民は誰も彼も米日合併によりて、なにもかも貴国に捧げて貴国の御慈悲によりてこの日本国を再び繁栄に導くよりほかないと、口には言わずとも、腹の底には抱いていることは疑う余地はありません。
真に然り。
私は貴国が枉げて日本を合併してくだされることによりてのみ、日本は救われるのであると固く信じます。
こんな考えは間違っているでしょうか。
しかし、現在の日本人の多くの考えが、そういう方向に向かっていることは事実であります。」


この乗りの手紙が50万通もきたわけですから、マッカーサーが「敵国の統治に成功した」のは、自分とジュリアス・シーザーぐらいしかいない」と誇り、また、「日本人は12歳の子供だ」と思ったとしても無理ありません。

しかし、この程度のヨイショくらい平気でカマスしたたかな日本人の本性を見抜けなかったマッカーサーのお目出度さも見逃すわけにはいきません。

詳しくは、岩波現代文庫、袖井林次郎著「拝啓マッカーサー元帥様~占領下の日本人の手紙」をご覧ください。大いに楽しめる一冊です。

日本人て、ホント、人の悪い「いい人」ばかりで、実に心温まる名著です。

# by sentence2307 | 2025-10-07 21:47 | 徒然草 | Comments(0)
前稿「すべての時代を通じての妖術(魔女) haxan」を書いた動機は、宗教裁判にかけられた女性たちが、なぜ、この異常な異端審問に屈し、かくもやすやすと、荒唐無稽な判決と火刑を受け入れたのだろうかという素朴な疑問から発したものでした。

そして、映画の最後でクリステンセンが、その「原因」をヒステリーという「病気」に無理やり結びつけるという強引さにいささか呆れて、ミシュレ「魔女」からの引用を試みたのですが、果たしてその引用が当を得たものだったのかどうか、今になっていささか不安になってきました。

引用部分は、魔女と断罪されたイギリス人女性が、刑場の柱に括られ、今まさに火刑に処せられようというとき、群衆に向かって叫んだ最後の言葉です、

「私を裁いた人たちを責めないでください。わたしはみずから身を滅ぼしたかった。わたしの両親はおびえて遠ざかっていった。夫はわたしを見捨てた。わたしが生き続けるとしても、もう失われた名誉は二度と再び還ってきはしない・・・わたしは死にたかった・・・だからわたしは嘘をついた。」

これは、今まさにわが身が焼き棄てられようとしているときに発した叫びです、狂気や錯乱、心神喪失状態ならともかく、正気にあって、なお人が理不尽な処刑を受け入れるのは、少なくとも「病気」なんかではあり得ない、と考えたからでした。

人が、わが身の破滅に向かって、みずからを死へと一歩を押し出させるものがあるとすれば、それはこの社会のすべてに対する強烈な「絶望」と「拒否」以外にはあり得ないとの思いからの引用だったのですが、果たしてそのチョイスが相応しいものだったのか、という迷いに囚われたのでした。

しばし熟考し、「正解」ではなくとも、「第二案」としての別の引用を試みることに思い至りました。

引用する本は、岩波書店刊「癒されて生きる」、著者柳澤桂子は生命科学者、若年より原因不明の痛みに悩まされて失職、ずっと入退院を繰り返す生活を続けてきた。しかし「原因不明」の病根を突き止められない医師たちは苛立ち、ついには患者に矛先を向け、詐病乃至は仮病扱いし始める。

現代医療のマニュアルから外れて見捨てられ、孤立無援となった柳澤桂子は、孤独と絶望のなかで先哲の書に救いを求める、という追い詰められた心境のなかで記されたクダリです。


《宗教書、哲学書、文学書などを乱読するうちに、次第に何かが見えてくるように思えた。
何かから解き放たれていく自分を感じた。
人間であることの悲しみが薄らいだわけではない。
本を読むことによって、むしろその悲しみは動かしがたいものになっていった。
しかし、そのほんとうの悲しみを知ってしまったのは、私だけではないということに気づいたのである。
それらの感銘深い本の著者たちは、みんなその悲しみを知っていた。
その悲しみを受け入れて、しかも立派に生き抜いたひとたちである。
私はもはや孤独ではなかった。
たとえ書物を通してでも、共感できるひとびとにめぐり会えたのである。
ユダに裏切られて、不当な罪状によって十字架にかけられたキリストの心のなかにあったものは、怒りでも悔しさでもなく、深い悲しみであったはずである。
私は本物の宗教に出会えたと思う。
それは自分がいかに小さいかということを知ることであった。
存在の深淵からにじみ出る悲しい運命を背負っているのが私のほんとうの姿であった。
それに気づくことが宗教心に目覚めることであると思うようになった。
その小さい自分というものは、科学的に見ても正しい自分の姿である。
宗教と科学は相容れないものではない。
宇宙のなかの小さい自分に気づいてみると、自分が宇宙の懐に抱きかかえられているように感じられた。
その逆転がなぜ起こるかはわからない。
人間の心は不思議である。
その不思議さをかいま見せてくれたできごとが、(次の章で述べる)神秘体験である。
このようにして、私は次第に何かを成し遂げることを最高とする価値観から解放され、苦しみのなかで苦しさを感じないで生きていく道を体得していった。
苦しみも悲しみも、私の心のなかにあるものである。
苦しみを苦しみにしているのは、ほかならぬこの私なのである。
何でもないことであった。
この一つことに気づいたことで、私の心はすっとほどけた。
悲しいと思う心も恥ずかしいと思う心も、すべて私がつくりだしている。
それをつくりさえしなければ、そのような心に縛られさえしなければ、私はいつも安らかでいられる。》


ここに記されているものは、絶望の果てに得た生き続けるための縁(よすが)としての諦念なのですが、かつて中世の過酷な時代を生き、そして死んでいかなければならなかった女たちが得た諦念もまた、同じ思考の道筋を辿ったのではないか、生きるにしろ死ぬにしろ彼女たちは「諦念」という悟りに辿り着き、せめて精一杯の気持ちを鼓舞して晴れやかに運命を受け入れたのではないかと愚考した次第です。

# by sentence2307 | 2025-08-31 10:25 | ベンジャミン・クリステンセン | Comments(0)