自分が以前「テレビ名画座」について書いた一文(当時の新聞の番組欄を必死に繰って筆写した涙ぐましい労作です)に、LFANオーナーさんからコメントをいただきました。
LFANオーナーさんは2本の映画、「オルフェ」と「電撃作戦」が生涯の宝だとおっしゃっています。
なるほど、ジャン・コクトーの「オルフェ」なら、記憶が薄れたとはいえ、なにしろあれだけの超名作です、どうしたって見てないわけがありませんし、「オルフェ」やマヤ・デレンの「午後の網目」(大好きです)など難しい芸術映画の本やyou tubeで折々に接している名作なので、「見た」といってもいいくらいの「知識」なら十分にあります、なんら問題ありません。
しかし、もうひとつの「電撃作戦」という作品は、恥ずかしながら、まったくの初耳(眼)で、その「存在」すらも知りませんでした。
それってどんな映画なわけ?みたいな情けない状態です。
しかし、自分が訳もわからずとはいえブログに書いてしまった以上、責任というものがありますし、少なくとも「知ってる状態」くらいまでの誠意は、あってしかるべきかもしれません。いえいえ、当然ありますよ、それは。
こう見えても自分だって「映画狂」の端くれです、「あれかな」という見当がないわけじゃありません。
早速、いまでは滅多に開かない「ぴあシネマクラブ・外国映画編 2003~2004」(古いです)でその「見当」に当たってみました。
もしかして、これ!?
「電撃フリント GO!GO作戦」。
んなわけないか。
なにしろ LFAN オーナーさんが「生涯の宝」とおっしゃっているくらいの作品です、ジェームズ・コバーンじゃあ、ちょっと荷がかちすぎるかもしれませんよね。
こんなふうにグズグズしてても埒があきませんのでLFAN オーナーさんが書かれている
《原題「NORTH STAR」からYouTubeで見れますが、発禁ものだったそうで、肝心のシーンはやはり記憶とは異なる。》
を頼りに幾つかの事項を検索したあとで、本作をYouTubeで見てみることにしました。
なるほど、なるほど、ありますね。
欄外のタイトルは「電撃作戦」 (1943 禁止映画) とありますが、動画の本編では、「THE NORTH STAR」となっています。
そして、更に、
監督: ルイス・マイルストーン
脚本: リリアン・ヘルマン、バート・ベック
出演者: アン・バクスター、ダナ・アンドリュース、ウォルター・ヒューストン、エリック・フォン・シュトロハイム、ウォルター・ブレナン
ジャンル: ドラマ、ロマンス、戦争
発売日: 1943年11月4日
と記されていました。
いまだって配給会社が原題からかけ離れたタイトルを付けて顰蹙をかっている例が幾らもあるくらいですから、「THE NORTH STAR」が、「電撃作戦」と改名されるくらい別段気にすることもないのかもしれませんが、しかし、付記されている「1943 禁止映画」の文字は、ちょっと気になります、字面からしてもなんだか穏やかじゃありません。
その更に下には「原題: 北極星 別名: アーマード アタック (1957 年再リリース)」と記されています。
自分の勘ですが、これってもしかしたら、このふたつ「禁止映画」と「タイトル変更」は、何らかの「事情(政情)の変化」によって生じた「一対のもの」ではないかという気がしてきました。
ちなみに、英語のタイトルを検索したら「The North Star (also known as Armored Attack in the US)」という文章が書かれていました。なんだか怪しい感じがします。
さっそく、YouTubeで「電撃作戦」を見てみました。
なるほど、なるほど、冒頭は、若者たちがキーウに旅行するところから始まります。
馬車で行こうというのですから、キーウまでの距離はたいしたことがない、着ているブラウスの柄からとか見ても、この村はウクライナであり、彼らがウクライナ人であることがなんとなく推測できます。
しかし、画面からは、明確な「ウクライナ色」をうかがい知ることはできません。
彼らがウクライナ人であるよりもソヴィエト市民であることの自覚と誇りを表現的に優先しようとしているためでしょうか。
それとも後の改訂により「ウクライナ色」どころか、そもそもの「ソヴィエト色」が換骨奪胎、薄められた結果であるのかは、さだかではありません。
そして、1941 年 6 月のドイツ軍の侵攻が描き出されています。
若者たちは逃げ惑いながらも必死に抵抗して、それぞれが深く傷つきます。
村人たちもソヴィエト市民としての誇りを胸にゲリラ軍を結成して抵抗します。
もしこの映画を、現在、ロシアと戦争状態にあるウクライナ人が見たら、どんな感想を持つか、ちょっと複雑な気持ちになりました。
「The North Star」を英語タイトルで検索したら、こんなふうに書かれていました。
《これは、1947年10月に下院非米活動委員会(HUAC)によって「破壊的」とみなされた映画の1つです。
この映画が作られた当時、ロシアは第二次世界大戦でナチスドイツに対してアメリカの同盟国であったにもかかわらず、この映画がナチス軍と戦っていたロシアの農民とゲリラを同情的に描写していることは共産主義を是認するものである、と同委員会は決定しました。
一部のテレビ放送では、この映画のタイトルが「アーマード・アタック」と表記されています。
そのバージョンのオープニングクレジットには、「映画『北極星』の翻案」という特別な表記があります。
興味深いことに、この映画は出版物、オンライン、そして画面上の番組表では「ノース・スター」と表記されています。
大幅に再編集され、タイトルも変更された再リリースでは、元のストーリーの参加者のロシア国籍に関するすべての言及が削除または不明瞭にされた。
この映画は「東側諸国」の市民と兵士を執拗かつプロパガンダ的に称賛しており、第二次世界大戦中におけるソ連同盟国に対するアメリカの態度を的確に反映している。
1950年代にソ連に対するアメリカの感情が変化した際、この映画はハリウッドの「共産主義的共感」の好例として頻繁に引用された。
この映画は、非戦闘員のナチス医師の即決処刑を理由に、国民道徳擁護団体から「B」評価(すべての人にとって部分的に道徳的に問題がある)を受けた。
この映画の記録に残る最古のテレビ放送は、1946年1月7日(月)、ニューヨーク市のパイオニア的テレビ局WNBT(チャンネル1)で放送されたものです。
これは、カットも改変もされていないオリジナルのバージョンでしたが、間もなく下院非米活動委員会(HUAC)によって保管され、数十年後まで完全な形で復活することはありませんでした。》
LFAN オーナーさんが「肝心のシーンは、やはり記憶とは異なる」という印象を持ったのは、それが改変された「再リリース版」だったからではないでしょうか。あるいは、その逆の場合もあるかもしれません。
そして、さらに気になる文言が、その下に記されていました。
「おもしろい事実: 下院非米活動委員会 (HUAC) は『ノース・スター』を親ソ連のプロパガンダとして引用し、集団農場を理想化した描写を非難した。」とあり、さらに「HUAC裁判に関するドキュメンタリー『ハリウッド・オン・トライアル』(1976 年)をご覧ください。」と、そのコメントは当該YouTube動画に誘導しています。
➀下院非米活動委員会HUAC裁判に関するドキュメンタリー「ハリウッド・オン・トライアル」(1976 年)をYouTubeで見るとともに、「下院非米活動委員会HUAC」での公聴会の様子を英語検索する。
②「The North Star」を英語タイトル検索する。
③「リリアン・フローレンス・ヘルマン Lillian Florence Hellman」を英語人名検索する。
こう箇条書きにしてみると、バラバラだった関係性が、オノズカラつながってくるような気がしてきました。
このそれぞれの英語検索に拘ったのは、本作が「親ソヴィエト」と「反共」の間で動揺迷走しなければならなかったアメリカの政策と世情をリアルに知るためでもありますが(その重要な部分では、わが日本も大きく一枚かんでます)、その偏向した世情のなかで、共産主義と人道主義の区別のつかない頑なな「親ソヴィエト」を貫き固執した脚本家・小説家リリアン・ヘルマンが、ハリウッドとソヴィエトの板挟みの中で「いいように」利用され、踊らされ、そして打ち捨てられた哀れで数奇な人生を知りたかったからでもあります。
結局、彼女の「固執」こそは、残念ながら「無知・蒙昧」と同義の無様なものにすぎなかったことが、「下院非米活動委員会」のハリウッド映画人への糾問によって明らかにされています。
スターリンの五か年計画(農業を工業に転換)の失敗によって農作物が枯渇し、その穴埋めにウクライナ全農民に対して生産物の理不尽な供出を命じたところ、飢餓の恐れを抱いたウクライナ農民は反発し、生産物を隠すなどして抵抗したためにソヴィエト政府から徹底的に弾圧され、やがて襲った飢餓に対しても一切の救助はなされず、数百万の餓死者(ホロドモール)をだすなど、冷酷な政府に対する根深い不信と民族自立の反発の気持ちは共有された。
スターリンの軍将校に対する際限ない粛清によって、指揮系統が壊滅した軍は極度に弱体化し、ナチスドイツ軍の軍事侵攻に対しても為すすべがなかったこと、
ウクライナには、歴史的に「反ユダヤ」の風潮が強く存在し、ナチスドイツ軍に対しても親近感があり、ドイツ軍の軍事侵攻に対してもウクライナでは「歓喜」をもって迎えられたと伝えられている。
「下院非米活動委員会」の背景には、アメリカの極端な右傾化の世情を受けて、左掛かっていれば、それだけで祖国を裏切るスパイとみなされ「国賊」と名指しされた一方で、「知識人」であるためには「左傾」が必須条件だと思い込んだ悲しい妄想が存在したことも事実で、そうした浅はかな思い込みと迷妄があからさまにされた魔女裁判だったわけですが、その実態がどこまでも悲しい反共の茶番劇であったにしろ、一方でソヴィエトの言うがままに踊らされた知識人の哀れな「左翼信仰」が白日の下に暴かれたことは、事実というしかありません。
この映画について、興味深い論文がありましたので、以下に貼っておきますね、参考にしてみてください。
★★
《参考》
HUACと第二次世界大戦の赤い三部作・・・北極星、モスクワへの使節、ロシアのバラード
著者:ダン・ゲオルガカス
下院非米活動委員会(HUAC)がハリウッドに赴いたとされる懸念事項の1つは、アメリカ共産党が映画産業にひそかに浸透しているというものだった。
共産党員とその支持者たちは、主流のアメリカ映画に密かにイデオロギー的メッセージを挿入したとして告発された。
特に脚本家が罪に問われた。
HUACの主な懸念事項の1つは、ソ連の描写がひどくお世辞で不正確であるというものだった。
その代表例として挙げられた3本の映画は、『ロシアの歌』(1944年)、『モスクワ通商路』(1943年)、『北極星』(1943年)である。
最初の2本はワーナー・ブラザースとMGMといった大手スタジオで制作され、最後の作品はRKOを通じてこの映画を配給した有力な独立系プロデューサー、サミュエル・ゴールドウィンが制作した。
3本の映画すべてにおいて、共産主義運動と何らかの形で関係していることが知られている人物が、かなりの芸術的要素を盛り込んでいた。
これらの映画がソ連の現実を完全に歪曲したというHUACの主張は全く正しかった。
ハリウッドの夢の工場は確かに黒を白に変えた。
しかし、その結果を生み出したプロセスは、HUACが非難した左翼の陰謀ではなかった。
それでもなお、この赤い三部作の制作過程とその理由を紐解くことは、1940年代のスタジオシステムにおける共産主義左翼の役割について貴重な洞察を与えてくれる。
当時の映画製作について少しでも知識のある人なら、スタジオの責任者が映画製作を最初から最後まで管理し、通常は数ヶ月や数週間ではなく数年をかけて行っていたことを理解できるだろう。
プロデューサーは各映画プロジェクトを承認し、美術スタッフを雇用し、脚本の原案と修正案を承認し、毎日のテイクをチェックし、編集を監督し、最終カットを決定した。彼らの知らないうちに画面に映し出されるものは何一つなかった[このルールの有名な例外は、コメディ映画『結婚する暇などない』(1938年)である。]。
プロデューサーが信じられないほど愚かだった、あるいは世間知らずだったと仮定しない限り(彼らはどちらでもなかった)、レッド・トリロジーの内容には他の要因が関係しているに違いない。
もう一つの要因は、これらの映画がアメリカが第二次世界大戦に参戦した直後、つまりソ連がドイツ国防軍に軍事的に抵抗する唯一の主要勢力であった時期に構想されたことです。
真珠湾攻撃後、アメリカの産業界全体が戦争勝利への道を歩み始めました。
ハリウッドのスタジオも例外ではありませんでした。
アメリカが参戦する以前から、ルーズベルト政権はハリウッドに対し、国民の結束感を鼓舞し、あるいは潜在的な軍事同盟国への好意を育む映画を制作することで、アメリカ国民を来たるべき戦争に備えさせるよう強く求めていました。
国民の結束を育むには、アメリカのかなりの地域に蔓延していた地域間の対立、反ユダヤ主義、そして外国生まれの人々への敵意に対処する必要がありました[ライオネル・スタンダーはエレベーターを待つ間、口笛で曲を吹くように言われた。彼は冗談で「インターナショナル」を口笛で吹いたが、監督とその後の編集者はその曲を認識できず、そのまま映画に使われてしまった。資本主義は生き残った。スタンダーは二度もブラックリストに載せられたという逸話を持つ。パトリック・マクギリガンとポール・ビューレ(編著)『Tender Comrades』(ニューヨーク州セント・マーチンズ・プレス、1997年、607~625ページ)に掲載された彼のインタビューを参照のこと]。
軍事同盟国への支持を高めるには、主に20年以上にわたりメディアの常套手段となってきたソ連のネガティブなイメージを払拭する必要がありましたが、イギリスにもソ連を批判する人々がおり、その多くはアイルランド系アメリカ人でしたが、アイルランド系アメリカ人だけではありませんでした[このテーマに関する一般的な議論は、クレイトン・R・コップスとグレゴリー・D・ブラックの共著『ハリウッド戦争への道:政治の利益とプロパガンダが第二次世界大戦の映画をどう形作ったか』(ニューヨーク:フリープレス、1987年)に見られる。注目すべきは、1930年代後半、カフリン神父のような右翼のラジオ牧師が、外国生まれの人々、ユダヤ人、労働組合員に対する軽蔑に満ちた放送を何百万人もの聴衆が聴いていたことである。]。
こうした問題を扱った映画は、すぐにハリウッドの定番作品となった。
外国人排斥と地域主義への最も露骨な取り組みは、戦争映画だった。
次々と映画の中で、様々な背景を持つアメリカ人がナチスや日本の軍事力と戦いながら、共通の民主主義的価値観を見出す様子が描かれていた。
こうした傑作の脚本家の中には、左翼派の脚本家もいた。[ラジオにおける同様の状況に関する詳細な考察は、ハワード・ブルー著『Words at War』(メリーランド州ランハム、Scarecrow Press、2002年)に掲載されています。本書では、特定の脚本について議論されており、ルーズベルト政権からの脚本に関するアドバイスも紹介されています。]
スタジオの経営陣がこれらの脚本家を選んだのは、まさに彼らのイデオロギー的見解が、国家統一という平等主義的なシナリオを推進するのに完全に合致していたからである。
リベラル派はしばしば共産主義者の餌食になっているという非難に対し、ハリウッドで最も活動的なリベラル派の一人である脚本家フィリップ・ダンは、「共産主義者は我々ではなく、彼らこそが同行者だった」と指摘した。[よく引用される例としては、『ジョーという名の男』(1943 年)、『サハラ』(1943 年)、『東京上空三十秒』(1944 年)、『目標ビルマ』(1945 年) 、 『北大西洋での行動』(1943 年)、『海兵隊の誇り』 (1945 年)などがあります。]
ラリー・セプレーとスティーブ・イングランドは、彼らの代表作『ハリウッドにおける異端審問』の中で、脚本家兼プロデューサーのジェームズ・マクギニスのような「友好的な」HUAC(共産党員による反乱)の証人でさえ、戦時中に共産主義者が書いた脚本の内容には何の欠点も見出せなかったと述べている。[ラリー・セプレールとスティーブ・イングランド著『ハリウッドにおける異端審問:映画界の政治:1930-60』、イリノイ大学出版局、1979年初版の2003年版、151ページ。この引用は、共産主義と自由主義の関係をかなり詳細に扱った章に出てきます。]
外国を題材にした映画は、主に「彼らの価値観は我々の価値観と全く同じだ」ということを示すために作られました。
このジャンルで最も成功した例は、おそらく親英的なオスカー受賞映画である『わが谷は緑なり』(1941年、20世紀フォックス)、 『ミニヴァー夫人』 (1942年、MGM)、『ハミルトンの女』(1942年、ユナイテッド・アーティスツ)でしょう。[『ハリウッドにおける異端審問:映画界の政治:1930-60』181ページ。]
赤い三部作は、これらの映画や同様の映画がイギリスに対して行ったのと同じように、ソ連への共感を喚起することを目的としていました。
HUAC
レッド・トリロジーの3作品はどれも批評家や興行成績において興味深い歴史を刻んでいますが、『北極星』は特に独特です。
『北極星』は当初、批評家から概ね好評を博し、アカデミー賞6部門にノミネートされ、興行成績も好調でした。
しかし9年後(1952年)、戦時中最高の映画の一つと謳われたこの作品は、HUAC(戦時国際映画協会)によって破壊的イデオロギーを助長する作品として批判されました。
HUACの公聴会から5年後、『北極星』はナショナル・テレフィルム・アソシエイツに買収され、1943年の親ソビエト映画は反ソビエト映画へと生まれ変わり、 『装甲攻撃』(1957年)として公開されました。
この変貌は、オリジナルのサウンドトラックの大部分を削除し、大幅な再編集を行い、1956年のハンガリー動乱のニュース映画の映像を導入することで実現しました。
ハンガリー侵攻の映像が画面いっぱいに流れる中、オリジナル版のセリフは、ナチスに匹敵するほど邪悪な東方の脅威を警告するナレーションに置き換えられました。
『アーマード・ アタック』は主に中古市場での上映でしたが、再び利益を上げました。
ビデオカセットの時代が到来すると、『アーマード・アタック』の箱には、卍と鎌と槌が描かれ、「全体主義者の戦い」という見出しが付けられました。
1995年、改変版『ノース・スター』公開から35年後、サンダー・ヴァノクールはヒストリー・チャンネル・テレビネットワークで討論会を主催し、その結論として、『ノース・スター』には確かにソ連に関する誤った情報が含まれていたが、映画の多くの歪曲と芸術的な欠陥の多くは、プロデューサーがオリジナルの脚本を改変するという古典的なハリウッド症候群の結果であった、とした。[ウェールズの炭鉱労働者へのオマージュである『わが谷は緑なり』は、アカデミー賞10部門ノミネート、5部門受賞を果たしました。ダンケルクにおけるイギリスの勇敢さを称える『ミニバー夫人』は、アカデミー賞12部門ノミネート、6部門受賞を果たしました。ネルソン提督の英雄的行為を描いた『ハミルトン・ウーマン』は、アカデミー賞4部門ノミネート、1部門受賞を果たしました。]
『ノース・スター』の制作
『モスクワ大使 』や『ロシアの歌』のほとんどの制作を手がけたスタジオヘッズとは異なり、サミュエル・ゴールドウィンは現場主義のプロデューサーとして有名だった。
親ソビエト映画をハリウッドが言うところの「良質な映画」にしたいと考えたゴールドウィンは、この映画に300万ドルの予算を投じた。
これは彼が1本の映画に投じた最高額だった。
ゴールドウィンの特徴は、有名な作家を雇って脚本を書かせることだった。
『北極星』の第一候補は、有名な劇作家リリアン・ヘルマンだった。
ヘルマンは既にゴールドウィン作品3本のヒット作、 『三人組』(1936年)、 『行き止まり』(1937年)、『小さなきつねたち』 (1941年)の脚本または共同脚本を務めており、これらの映画でアカデミー賞7部門にノミネートされている。
ゴールドウィンはヘルマンのソ連への共感をよく知っていたが、それが彼女の創造性を刺激するだけだと考えた。
監督の第一候補は、ヘルマン脚本のヒット映画3作品を監督したウィリアム・ワイラーだったが、映画開発の初期段階でワイラーはハリウッドを離れ、軍に入隊した。
ワイラーの後任には、ヘルマンの同意を得てルイス・マイルストーンが起用された。
マイルストーンの強みの一つはオデッサ生まれという点であり、ゴールドウィンはこの点が映画をより本物らしく見せるのに役立つと考えた。[当評文の執筆者もその参加者の一人]
ゴールドウィンが映画の重要な要素と位置づけようとしていた音楽は、ニュー・マス誌関連の数々のプロジェクトや左翼系作曲家集団への所属など、左翼的な経歴を持つアーロン・コープランドに割り当てられた。
撮影監督は、伝説的な左翼思想家ジェームズ・ウォン・ハウが務めた。
この映画のタイトルは、ウクライナの架空の集団農場の名称に由来しています。
ヘルマンの脚本は、集団農業が大成功を収め、集団農民が社会主義の理想に熱烈に忠誠を誓っていたことを示そうとしました。
しかし、ウクライナにおける集団主義の実際の歴史は、ヘルマンのユートピア的なシナリオとは明らかに異なっていました。
ウクライナの農民は、国内の他のどの地域の人々よりも激しく集団化に抵抗し、家畜のほとんどを集団所有に引き渡すのではなく、殺処分するほどでした。
この不服従の罰として、この地域で不作と農業の崩壊が起こったとき、スターリンは援助を拒否し、その結果、地域は飢餓と貧困に陥りました。
死者数は600万人に上るとの推定もあります。
1941年にナチスに侵攻されたウクライナは、依然として貧困に苦しみ、中央政府への忠誠心は全くありませんでした。
ウクライナ人はしばしばナチスを、ロシアの抑圧と見なされていたものからの解放者として歓迎し、ナチスが彼らを劣等民族として扱うようになるまで、ナチスに反旗を翻すことはなかった。
要するに、ヘルマンの集団化のイメージは、強制的な集団化の残虐性と、多くの集団に蔓延していた劣悪な労働環境を無視していた。
『ノース・スター』が主要な懸念事項として取り上げたナチスによるユダヤ人迫害は、ウクライナ人がナチスに反応する上で大きな要因とはならなかった。
なぜなら、この地域には根強い反ユダヤ主義の伝統があったからだ。
『ノース・スター』の舞台としてウクライナが選ばれたのは偶然ではない。
長編映画の企画が持ち上がる以前から、ソ連当局はヘルマンに対し、他の地域ではなくウクライナを舞台にした、ソ連の抵抗運動に関するドキュメンタリーの執筆を強く求めていた。
ヘルマンは1930年代の集団化への抵抗については確かに知っていたが、ロシアの情報源から得た情報以外に、ウクライナで実際に起こった出来事とその現代的影響についてどれほど知っていたかは不明である。
注目すべきは、この点においてソ連以外の情報源はあまり役に立たなかったということだ。
アメリカの公式紙であるニューヨーク・タイムズでさえ、ウクライナ飢饉の正確な報道を行っていなかったのだ。[マイルストーンは、レナード・マルティン著『映画百科事典』(ニューヨーク:ダットン、1994年、605ページ)で、視覚的に華やかなスタイルで技術的かつ美的技巧を巧みに駆使する熟練の職人として描かれている。その一方で、キャリア後期には、映画をできるだけ早く安く仕上げることに満足する、単なる職人監督であることが多かった。彼の評判は、『西部戦線異状なし』(1930年)、『フロント・ページ』(1931年)、『雨』 (1932年)といった初期の作品に基づいていた。その後の彼の作品のほとんどは、おそらく『将軍暁に死す』 (1936年)と『陽なたの散歩』 (1945年)を除いて、標準的なハリウッド映画となった。1950年代に主にテレビで活躍した後、マイルストーンは『オーシャンズ11』 (1960年)を監督し、 『叛乱』 (1962年)のリメイク版ではキャロル・リードに代わって監督を務めた。]
ヘルマンは脚本を書き始める前に、ソ連戦争についての 250 ページの調査ノートを作成した。
このノートの約半分は、ソ連およびソ連以外の情報源からの新聞記事で、これには 1 か月分のプラウダ紙の逐語訳も含まれていた。
ヘルマンは、ソ連が日々戦争にどのように対処していたかを把握するために翻訳を依頼した。
彼女の情報源には、ナチスが負傷兵のためにロシア人とポーランド人の子供たちから輸血を行い、子供たちが治療を施されずに放置された結果、何千人もの命が失われたという真実の話が含まれていた。
ヘルマンはこのナチスの犯罪を物語の中心に据えた。
他の報告では、映画『北極星』でコーリャ (ダナ・アンドリュース) がやったように、ロシア人パイロットが損傷した航空機で敵の戦車隊に墜落したことが語られていた。
新聞やその他の文書には、ソ連が自らに課した焦土作戦に関する詳細も含まれていた。
ヘルマンの脚本は、ハリウッド映画における典型的な三幕構成の定型を踏襲している。
第一幕では、ソ連の集団農場の社会主義的性質が明確に示され、関係者全員にもたらされる利益が、計画の想定された成功を裏付ける。
農場の医師であるクリン博士(ウォルター・ヒューストン)は、世界的に著名な病理学者であり、大手医療機関の名誉ある地位を捨て、「人々と共に」草の根レベルで活動しているという設定が、集団精神をさらに高めている。
リンカーン・ステフェンスはソ連について、「私は未来を見た。そして、それはうまく機能する」と有名な言葉を残している。
ヘルマンの脚本は、この感情を改めて強調するものである。
第二幕は、北極星集団の一員であるコーリャがソビエト空軍の現役任務に召集されるところから始まる。
友人たちは彼と短い休暇を過ごすため、キエフへ同行する。
旅の途中で、ナチスがソ連に侵攻する。
コーリャは部隊へと急ぎ、他の者たちは大変な苦労を強いられながらも、武器を荷馬車一杯に積み込み、集団に持ち帰る。
ヘルマンが脚本の道徳的中心と見ていたものが、ハーデン博士(エーリッヒ・フォン・シュトロハイム)率いる医療部隊の到着とともに展開し始める。
集団へと向かう道中、ハーデンはナチス将校たちを、ユダヤ人に対する愚かな迫害だと非難し、偉大なユダヤ人医師に師事したことを自慢する。
ハーデンは、他の人間よりも優れ、劣った者たちが従う慣習に正当に反抗する超人(英語では通常「スーパーマン」と表現される)が確かに存在すると信じていることを明らかにしている。
当然のことながら、彼自身も超人であると考えている。
最終幕では、ノース・スターの男たちは文字通り馬に乗り、女性と子供たちを救出するために駆けつける。
クリン博士はハーデン博士をピストルで射殺することで、この攻撃に加わる。
勇敢で華麗な反撃により、ノース・スターはナチスから解放され、英雄的なウクライナ人たちは、侵略者には焦土のみを与えるという政府の呼びかけに従い、自ら家を焼き払うまでになった。
ノース・スターの生存者たちは皆、いかなる犠牲を払おうとも、勝利まで戦い続けることを誓う。
ヘルマンは、ゴールドウィンとマイルストーンが最終撮影台本として承認したと彼女が考えた脚本を持ってハリウッドを去る前に、ゴールドウィンとマイルストーンとの6週間に及ぶストーリー会議を行っていた。
しかし、ニューヨークに戻って2週間後、彼女は最初の50ページを取り戻した。
マイルストーンは台詞の大部分を書き換えており、第一幕をイデオロギー的に浄化することに成功していた。
しばらくして、映画の残りの部分に変更を加えたページが届いた。
ヘルマンが様々な会話に挿入していた「社会主義」と「共産主義」という言葉は完全に削除された。
「集団」と「ソ連」はそれぞれ一度だけ(ゲリラ戦士が正式に国家への忠誠を誓う時)のみ使用が許された。
これが社会主義国家である可能性を示唆する唯一の手がかりは、「同志」という言葉が時折使われていることだ。
1957年にナショナル・テレフィルム・アソシエイツが『ノース・スター』を買収し、映画がほぼフレームごとに再編集された際、「同志」という言葉さえも削除された。
NTA幹部の一人は「残念なことに、我々が排除できなかった唯一のものは、ソ連の制服を着て走り回っているダナ・アンドリュースでした」と嘆いた。[タイムズ紙のモスクワ特派員ウォルター・デュランティは後に、ウクライナ情勢の事実を故意に隠蔽したとして告発された。]
肝心の第一幕では、セリフ以上のものが変更された。
ゴールドウィンは、アメリカ国民を共産主義者に馴染ませるには、大量の音楽が必要だと考えていた。
彼は集団生産農民たちを、心身ともに純粋な素朴な農民へと変貌させた。
彼らは東欧の衣装を着て仮面舞踏会に出席するカンザスのコーンハスカーズのように、はしゃぎ回っていた。
これらの素朴な人々は、パルプ・フィクションの農民が常にそうであるように、土地、子供、配偶者、そして村を愛していた。
彼らは、例えば「空っぽの白い穂が最も高く頭をもたげる」といった、深遠な民衆の知恵を観客に語り聞かせる。
改訂版の脚本では、彼らの歌、踊り、そして物語の語りが映画の3分の1を占めている。
ゴールドウィンはまた、ヘルマンが当初予定していたクリンとハーデンの死闘を、映画の中央ではなく、第三幕のクライマックスの反撃に移すことを決定した。
ヘルマンは映画のラフカットを見た時、その出来栄えに愕然とした。
重要なセリフやシーンが大幅にカットされたり、完全に削除されたりして、彼女の関心事とは関係のないシーンのためのスペースが確保されていたのだ。
彼女は、クリンとハーデンの重要なシーンを再撮影し、映画のエンディングを書き直し、そして映画全体の構成を再構築して、対立する幕間の関係性をより合理的なものにする必要があると主張した。
ヘルマンによる脚本の書き直しにもかかわらず、クリンとハーデンの対立は映画の道徳的中心として具体化されることはなかった。
ゴールドウィンがクリンの人物像を特徴づけるシーンを脚本途中で削除したことで、映画の道徳的・思想的重みは薄れてしまった。
クリンとハーデンの対決を反撃の場面に置いたことで、彼らが体現しようとしていたイデオロギー的見解の鮮明な対比はさらに曖昧になってしまった。
より一般的に言えば、マイルストーンは『西部戦線異状なし』(1930年)などの監督として高く評価されていたものの、ヘルマンの主要人物に命を吹き込むという難題に応えられなかった。
二人の医師のやり取りは、真に対照的な人生哲学を情熱的に表現するというよりは、会話的な軽口に過ぎない。
彼らの最後の対決さえも、不完全なものとなっている。
クリンがハーデンのナチス系アシスタントを射殺するシーンは、あまりにも不適切でコメディの域に達しており、ハーデンが致命傷を与える銃弾を発射する前の医師たちのやり取りは、まるで学校の「挑戦状」ゲームのような雰囲気だ。
医師たちのシーンにわずかに残るエネルギーは、主にフォン・シュトロハイムのトレードマークであるいやらしい視線と威勢のよさによるものだ。
医師たちの葛藤は依然として善と悪の対立のままだが、脚本の書き直しによって、それは単純な「ホワイトハット」対「ブラックハット」の二分法へと縮小された。
マイルストーン社はまた、ウクライナ軍の反撃の扱いを誤り、ありきたりの西部劇における米軍騎兵隊の突撃のように撮影した。
軽武装のウクライナ軍が騎馬隊で、この種の攻撃であれば殲滅できたはずの機関銃、戦車、大砲を何故か効果的に使用できない熟練のナチス軍を、かくも容易に打ち負かすことができると信じるためには、相当の疑念を抱く必要がある。
約26万ドルの費用がかかったセット全体が破壊された焦土のシーンのほうがはるかに信憑性がある。
大量の爆薬が使用され、その結果、俳優数名が軽傷を負うほどの破壊力があった。
爆発の失敗でサウンドステージの屋根が焼け、周囲の多くの建物で火災が発生した。
燃えるノーススターのセットから噴き出す煙が数時間ハリウッド上空に漂った。
ヘルマンは、ゴールドウィンが脚本を貶めた責任を永遠に負い、マイルストーンが重要なシーンをひどく誤った演出をしたと非難し続けた。
彼女は『ライン河畔の監視』(1943年)と同等の高尚な目的と質の高い映画を作ろうとしていた。
ところが、実際には様々な部分がグロテスクなまでに不釣り合いな、奇妙なジャンルのサンドイッチに仕上がってしまったのだ。
しかし、ヘルマンは様々な記者会見でゴールドウィンとマイルストーンを激しく非難したが、映画そのものを全面的に否定していたわけではない。
彼女は、この映画はナチスについて真実を語っており、統一戦線の促進に役立ったと感じていると述べた。
脚本クレジットから自分の名前を削除するよう求めることもなかった。
また、アカデミー脚本賞ノミネートの辞退もしなかった。
ヘルマンとは異なり、サム・ゴールドウィンは『ノース・ スター』の完成版に大喜びしていた。
オスカー6部門ノミネートと興行収入の好調も、その喜びをさらに高めた。
彼は『ノース・スター』にはプロパガンダ要素が一切なかったと主張し、ニューヨーク・サン紙の記者にこう軽々しく語った。
「最初のリールは明るく楽しい。村人たちの暮らしが描かれており、彼らは音楽好きでダンスが好きな人々だ。(中略)この物語の多くはパントマイムでも語れただろう。西部劇にも劣らないアクションだ。大人向けの作品なのに、子供たちに人気の理由なのかもしれない」[NTA の変更は、ニューヨーク公共図書館の舞台芸術図書館のリリアン・ヘルマンのファイルに収められている 1957 年 10 月 29 日の AP 通信のプレスリリースに概説されています。]
批評家の反応もおおむね好意的だった。
集団農場が理想化されすぎているという苦情はあったものの、ほとんどの批評家はこの映画を面白く、かつ啓発的だと評価した。
ニューヨーク・ポスト紙の批評家アーチャー・ウィンストンの意見に同調する者が多く、「この批評家は『ノース・スター』にプロパガンダがまったく見出せなかったことを認めるのは恥ずかしいが、それは見ていなかったからではない」と書いた。[ニューヨーク・サン、 1943年10月25日、娯楽面]
ダラス・モーニング・ニュースなど一部の新聞は、この種の映画の上映が遅いとしてハリウッドを実際に非難した。[ニューヨーク・ポスト、 1943年11月8日、46ページ]
約30年後、リバイバル劇場での『ノース・スター』の上映について書いた著名な批評家アンドリュー・サリスは、同様の感想を述べている。
「今日見ると、『 ノース・スター』は比較的ありきたりなレジスタンス映画の例として見られるが、他の映画より少し血に飢えている」[ジョン・ローゼンフェルド、「ハリウッドが発見したロシア人の戦争への関与」、ダラス・モーニング・ニュース、 1944年1月23日、第4部、1ページ。]
主な反対意見はハースト系の新聞で、記者たちはハースト自身から映画を酷評するよう指示されていた。
この指示がニューヨークの新聞に届いたのは少し遅れたため、朝刊の読者は好意的な批評を得たが、午後刊の読者にはこの映画は「赤化プロパガンダ」であると伝えられた。
ソ連は『北極星』に大変満足し、1944年に自国国内で上映するために購入した5本の映画のうちの1本に選んだ。
『ロシアの歌』とヘルマン監督の『小さなきつねたち』も選ばれた。
前年に購入した5本の映画には、『モスクワへの密命』とフランク・キャプラ監督のドキュメンタリー『ロシアの戦い』が含まれていた。[アンドリュー・サリス、「リバイバル」、ヴィレッジ・ヴォイス、 1976年2月2日、119ページ。この遅い時期にも、ウクライナ飢饉の問題は取り上げられていないが、おそらくまだ広く一般に知られていなかったためだろう。]
結局のところ、『北極星』のメッセージは他の戦時映画と大差ない。
「我々」側は英雄的で民主的であり、「彼ら」側は残忍で独裁的だ。
特にウクライナにおける幸福なロシア農民の歪曲描写は不条理だが、『東京上空三十秒』(1944年)のような映画で、それほど民主的ではない蒋介石に忠誠を誓う幸福な中国人の描写ほど不条理ではない。
ゴールドウィンは映画の細部に至るまで、最初から最後まで精通しており、製作方法もゴールドウィン傘下の他の映画と同様だった。
『北極星』はハリウッドへの共産主義の浸透というよりも、戦時下においてハリウッドのスタジオがアメリカ政府の差し迫ったニーズだと考えていたものにいかに応えたかを示す例である。
ヘルマンは、ソビエトの現実を単純化した見方をしていた点で批判されるべきだろう。
1938年の悪名高い粛清裁判以前から、責任ある知識人によるソビエト政権への批判について、彼女が知らなかったはずはない。
一方で、アメリカ国民にファシスト的な思考様式への洞察を与えようとしたヘルマンの試みは称賛に値する。
彼女は、無知な権威主義的暴君を口では軽蔑する社会の特権階級が、しばしばイデオロギーに忠実な人々と同じくらい効果的に彼らに仕えていることを、劇的に示そうとしたのだ。
戦後のナチス時代の分析は、悪の陳腐さと「命令に従うだけ」症候群を強調してきた。
ヘルマンは、悪に対して何もしないことは、悪が勝利しやすくなることを意味すると示唆していたのだ。
ロシアの歌
ルイス・メイヤーは、他の映画の製作チームを選ぶのと同じ方法で『ロシアの歌』の製作チームを選んだ。
ジョー・パステルナークはちょうど、MGMで商業的に成功した戦時中のミュージカル『千人の歓声』(1943年)を製作したばかりだった。
ポール・ジャリコとリチャード・コリンズが脚本を書いた。[ソ連が1943年と1944年に国内観客向けに選んだ他の映画は、『バンビ』、『太陽の総統』、『古い水車』、『ハリケーン』、『チャーリーのおばさん』だった。最終的に脚本の大部分を執筆したのはジャリコだった。彼はソ連が宗教を軽蔑し、多くのキリスト教会を世俗化あるいは破壊していたことをよく知っていたはずだ。]
メイヤーは、この3人組がロシアを舞台にしたミュージカル・ロマンスの創作にぴったりだと考えた。
コリンズとジャリコの左翼的な傾向はメイヤーがよく知っていたが、ゴールドウィンがヘルマンの政治思想から『北極星』に最適だと考えたのと同じように、メイヤーは彼らがプロジェクトに一層熱心になるだろうと考えた。
さらに、グレゴリー・ラトフ監督とパステルナークはどちらも急進派ではないので、映画を不要なイデオロギー的発言から自由にすることができるだろうと考えた。
『ロシアの歌』のストーリーはシンプルだ。
チャイコフスキーの音楽を専門とするアメリカ人指揮者ジョン・メレディス(ロバート・テイラー[HUACにとって友好的な証人であり、非常に保守的な見解を持っていたテイラーは、明らかに、左翼的な芸術作品だと考えていた映画で主役を演じることはなかっただろう。)は、第二次世界大戦前夜のソ連で演奏旅行に出かける。
彼は間もなく、小さな村出身の健全な若い女性ピアニスト、ナージャ・ステパノワ(スーザン・ピーターズ)と出会う。
豊かで幸福なロシアの価値観は、アメリカのメインストリートとほとんど区別がつかないほどだが、二人は恋に落ちる。
二人の恋人は、両国の真の類似点を絶えず観察する。
一見政治的ではないこれらの場面にも、ソ連の日常生活の歪みが数多く描かれている。[ロバート・メイヒューは、「MGMの『ロシアの歌』におけるポチョムキン教会の宗教」というタイトルで、アメリカ共産主義史第1巻第1号、2002年6月、91-103ページで、この映画がソ連の宗教について誤ったイメージを描いていると簡潔に批判している。ロバート・メイヒュー著『アイン・ランドと『ロシアの歌』:ハリウッドにおける共産主義と反共産主義』 (メリーランド州ランハム、 スケアクロウ・プレス、2005年)は、この映画の制作過程、歴史的誤り、そしてその評価について包括的に解説している。アイン・ランドのこの映画批判は特に詳細かつ具体的ではないが、彼女の反ソ連的見解を強く反映している。]
ジョンとナージャはやがて彼女の村へ行くが、そこは信じられないほど豊かで近代的で楽しい場所だった。
異なる文化を持ち、価値観が似ていても二人は幸せになれるのだろうかという表面的な懸念の後、二人は結婚を決意する。
この結婚には、『北極星』や『モスクワへの密命』には見られない、ソ連に関する重大な誤解が含まれている。
つまり、結婚式は民事婚ではなく、二つのドームを持つロシア正教会での伝統的な儀式である。
豪華な正教会の儀式の後には、チョコレートケーキまで出る祝宴が開かれる。
視聴者は、ロシア正教会がアメリカの教会と同じくらい自由に機能しているという印象を受ける。
ソ連の国教が無神論であったことや、1930年代に多くの宗教指導者に対する激しい迫害や教会の全面的な破壊、教会の建物の世俗的な用途への転用を含む、活発な無神論運動があったことについては触れられていない。
愛し合う夫婦の幸せな結婚生活は、ドイツ軍のソ連侵攻によって短く幕を閉じます。
ナージャは村に残って戦うことを決意し、ジョンはコンサートツアーを終えるために村を去ります。
この悲惨な時代においても、ロシア人の音楽への愛は育まれなければならないと確信しているからです。
ナチスがロシアを急速に進軍するにつれ、ジョンと観客は戦争がロシア国民にもたらす恐ろしい苦しみを実感します。
やがてジョンはナージャの村へと戻りますが、そこは瓦礫と化していました。
多くの人が亡くなりましたが、ナージャは生き残りました。
ジョンとナージャが抱き合っているまさにその時、ナチス機の機銃掃射により、またしても少年が命を落とします。
間もなく、正教会の司祭が遺体の上で十字を切る姿が映し出されます。
ジョンは村に留まり、妻と共に戦いたいと願うが、村の長老は彼に告げる。
「祖国へ帰り、自分が見たことを人々に伝えなければならない。…それが君にできる最も偉大なことだ」。
長老はナージャに、夫と共にアメリカ軍にドイツ軍がロシアを征服することは決してないと伝えるよう告げる。
その後、ジョンとナージャがニューヨークのコンサートホールでチャイコフスキーの演奏会に出演しようとしていた時、再び長老のナレーションが聞こえる。
「君たちが私たちと共に戦っているのを感じる。同じ軍隊の兵士として、子供たちに新たな光をもたらすために戦っている。世界中が自由の新たな歌で鳴り響く偉大な日のために。君たちは全人類のために戦う中で、私たちの国々を結びつけるだろう。」
『ロシアの歌』のこれらの最後のシーンは、この映画の目的がソ連を称賛することではなく、苦境に立たされた同盟国へのアメリカの援助を集めることにあったことを強調している。
ソ連への援助への支持獲得が国家の最優先事項となった時、物語の選択肢は限られていた。
製作者たちは、相違点ではなく共通点を強調する必要があると感じた。
どんなに正当な批判であっても、不安定な同盟関係に悪影響を及ぼす可能性があるため、避けなければならなかった。
これは、戦時中に作られるあらゆる映画、特に戦争の帰趨が不透明な時期に作られる映画の性質である。
モスクワへのミッション
レッド・トリロジーの3作品の中で、 『モスクワへのミッション』は当然のことながら最も悪名高く、最も問題の多い作品である。
前述の2作品とは異なり、『モスクワへのミッション』はスターリンの犯罪に目をつぶるどころか、それを正当化したのだ!
さらに、称賛されている犯罪の一つである1938年の粛清裁判は、ソ連の統治の根幹にまで踏み込んだ。
ソ連との同盟が戦争勝利に不可欠だと信じていたとしても、長編映画で粛清に焦点を当てる必要はなく、ましてや粛清されたボルシェビキが実際にはドイツ政府と日本政府から雇われたエージェントだったという不条理な非難を支持する必要などなかった。[政府の「なぜ我々は戦うのか」シリーズのために制作されたドキュメンタリー『バトル・オブ・ロシア』の中で、フランク・キャプラは、自らが非難した粛清やその他の行為について言及していなかった。彼は、この「省略の罪」は、戦争の必要性とロシア国民の並外れた勇敢さゆえに許されると考えていた。]
『モスクワへのミッション』の中でこれらの非難が真実であると断言するシーンは、共産党と関係のある映画製作者たちが大手スタジオの映画に露骨なスターリン主義的プロパガンダを挿入することに成功したというHUACの疑惑を裏付けているように思える。
しかし、この映画の制作過程を振り返ると、それは妥当な結論ではないことがわかる。
『モスクワへの使節』は、 1936年から1938年までソ連駐在の米国大使を務めたジョセフ・デイヴィスが書いた同名の書籍に基づいています。
デイヴィスは、その著書の中で、ナチスドイツとの避けられないと思われた戦争には、ソ連との同盟が不可欠であると主張しました。
この本から抜粋された記事は、真珠湾攻撃のわずか1週間後にニューヨーク・タイムズ・マガジンの主要記事として掲載されました。
書籍は2週間後に店頭に並びました。
638ページという大部にもかかわらず、 『モスクワへの使節』はハードカバーで約70万部を売り上げ、すぐに1冊25セントの新しいペーパーバック形式で発行された最初の書籍の1つとなり、一般の人々にとって非常に手頃な価格になりました。
『モスクワへの使節』は最終的に、2か国語の点字版を含む13の外国語に翻訳されました。
ジャック・ワーナーは、この本の映画化はワーナー・ブラザースの戦争遂行への貢献となり、かなりの利益を生む可能性があると判断した。
彼は、ルーズベルト政権が本の感情を強く支持していると確信し、1941年7月にデイヴィスと契約を結んだ。
当時としては非常に異例だったのは、契約書にデイヴィスが脚本の最終承認権を持つという条項があったことだ。
ワーナーは、これは単なる形式的な手続きであり、デイヴィスは他の作家と同様、ワーナー組織が作成した本格的な脚本に署名するだけだと誤解した。
しかし実際はそうではなかった。
まず第一に、デイヴィスは、『タバコ・ロード』などの小説を書いた左派の作家、アースキン・コールドウェルに脚本を依頼するよう主張したが、コールドウェルには脚本家としての経験がほとんどなかった。
原作に忠実に作られた脚本はあまりにも酷かったため、デイヴィスは1年後、後にブラックリスト入りすることになるハワード・コックにプロジェクトを引き継ぐことに同意した。
コックはまもなく『カサブランカ』(1943年)の共同脚本家としてアカデミー賞を受賞することになる。
コックは1942年8月下旬に脚本の書き直しに取り掛かった。
映画の大筋は、デイヴィスがソ連での任務に就く様子を描いており、彼はロシアの工業的潜在力に大きな敬意を払う。
スターリン本人と会談する場面もある。
その後、アメリカに戻り、孤立主義者と激しく議論し、ソ連との同盟を熱烈に訴える。
映画の大部分は、デイヴィスが様々な役人と会話する場面と、ソ連の産業、そして後に戦争状態にあるソ連の場面が交互に映し出される。[最後の瞬間にスターリングラード攻防戦の映像が挿入されたが、これは戦争の情勢が急速に変化したからこそ可能になった台本なしの挿入だった。]
コールドウェルと同様に、コックも原作を忠実に再現した。
彼はより優れた台詞を書き、物語を映画の形式に落とし込む術を知っていた。
粛清裁判に関するシーンは、ソ連への援助支持を募るというこの映画の目的にとって中核を成すものではなかった。
プロデューサーのロバート・バックナーは裁判を映画に盛り込むことに全く反対であり、そもそも被告人を真に有罪と描くのは大きな誤りだと考えていた。[デイヴィッド・カルバート著『モスクワへのミッション』、ウィスコンシン大学出版局、マディソン、1980年、252-256ページ。本書には、『モスクワへのミッション』の脚本、カルバートによる優れた解説、そしてHUAC公聴会の抜粋が収録されている。本書の特徴は、カルバートが映画の様々な側面の責任者を特定するために開始した書簡にある。最も重要なのは、プロデューサーのロバート・バックナーのコメントである。]
バックナーの報告によると、裁判の描写と判決の支持を主張したのはデイヴィスだったという。[デイヴィスは著書『モスクワへの使命』の中で、被告の有罪について複雑な思いを表明していた。映画では異なる路線を主張したのも、ソ連の不興を買うことへの過度の恐怖の表れであるように思われる。]
今日では不条理に思える判断にも、確かな論理があった。
デイヴィスは、アメリカがスターリンを全面的に支援しなければ、第二のヒトラー・スターリン協定、あるいは少なくともアメリカを軍事的に大きく不利にする何らかの妥協が生まれるかもしれないと懸念していた。
スターリンによって粛清されたボルシェビキが国内の政治的反対勢力であることは十分に理解していたが、スターリンの指導力に不満を抱くこれらのベテランのボルシェビキが、ドイツとの協力こそがスターリン打倒の唯一の手段だと考える可能性を彼は十分に理解していた。
このような状況下では、レーニンが第一次世界大戦からロシアを撤退させたのと同じように、ソ連を戦争から撤退させることに同意する可能性もあった。
もしスターリンが政治的敵対者を外国勢力の雇われたエージェントとして描き出そうとするなら、デイヴィスは喜んでそれに応じるだろう。
一方、ワーナー社は契約上、デイヴィスの意向に沿うよう義務付けられていた。
トロツキーとヒトラーの会談を描いたと思われるシーンは、土壇場で削除されたと伝えられている。[『モスクワへの使命』29ページ]
スターリンの肯定的な描写も同様の論理に基づいている。
やや誇大妄想的なデイヴィスは、スターリンと一度会っただけで心から感銘を受けたようだ。
しかし、映画の中で、パイプを吸う賢明な老ジョーおじさんとしてスターリンを聖人のように描くのは、同作におけるチャーチルの聖人描写や、ルーズベルトを声だけで描いた描写と似ていないわけではない。
このような政治指導者への敬意ある扱いは、ハリウッド伝記映画の伝統において常套手段だった。
それよりもはるかに深刻なのは、映画の最後でフィンランドはソ連に侵略されていなかったという記述である。
このような否定は物語にとって決定的なものではないが、デイヴィスは必要だと主張した。[『モスクワへの使命』]
こうした問題に関してアメリカ共産党員の影響を受けるどころか、デイヴィスは自ら脚本をソ連大使マクシム・リトヴィノフに見せるという異例の自由を行使した。
デイヴィスが脚本をいかに支配的になっていたかを示す例として、公開予定のわずか2週間前に、妻とモロトフ夫人が化粧品店で一緒に買い物をするシーンの追加を要求したことが挙げられます。
また、チャーチルの台詞の一部もデイヴィスが口述しました。
デイヴィスが脚本に対して拒否権を持っていたことを考えると、ハワード・コッホとマイケル・カーティス監督の貢献は脚本の内容にほとんど影響を与えなかった。
『レッド・スター・オーバー・ハリウッド』の著者であるロナルドとアリス・ラドッシュは、この映画に隠された大きな影響を与えたのは左翼のジェイ・レイダであり、レイダは映画の技術顧問としてクレジットされていると主張している。[ロナルド・ラドッシュ、アリス・ラドッシュ著『Red Star Over Hollywood: The Film Colony's Long Romance with the Left』サンフランシスコ、エンカウンター・ブックス、2005年。レイダの『ミッション・トゥ・モスクワ』における役割については98~107ページで論じられている。]
映画脚本に対する綿密な研究で知られるトム・アンダーソンは、レイダの功績だと彼らが挙げている3つの変更点は最終版には含まれていないと指摘している。[「あとがき」フランク・クルトニック他編著『非アメリカ的ハリウッド:ブラックリスト時代の政治と映画』ニューブランズウィック、ニュージャージー:ラトガース大学出版、2007年、271頁]
彼はさらに、ラドッシュ夫妻の細部へのこだわりは物足りないと指摘している。
彼らは、映画の主演である有名なウォルター・ヒューストンがスターリンを演じていると思っていたのだ!
ヒューストンはデイヴィスを演じており、セリフのあるシーンのほとんどに出演している。[ラドッシュ著『レッド・スター』 96ページは、「著名な俳優ウォルター・ヒューストン」がスターリンを演じたと主張している。100ページでは、著者らはさらに、デイヴィスがヒューストンがスターリンのキャラクターを身体的に表現するのに適切なメイクをしなかったことに腹を立てていたと主張している。この種の誤りの一つは編集のまずさに起因するかもしれないが、ほぼ半数のシーンで特定の人物について強い主張が二つあることから、ラドッシュ夫妻は映画の実際の構成、内容、制作過程よりも、その政治的側面に関心を持っていることが窺える。]
コッホとバックナーは、レイダが脚本の内容に影響を与えたことを否定している。
彼の主な仕事は、物語に組み込むソ連のニュース映画の映像を選定することだった。
しかし、この貢献は絶対的なものとは程遠く、監督、プロデューサー、編集者による通常の共同作業によって行われる最終的な編集作業にはレイダは関与していなかった。
レイダが裁判やスターリンの描写に関する決定に関与していたという点にさらなる疑問を投げかけるのは、レイダがレフ・トロツキーの見解に共感的だったと一般的に考えられていたことである。
レイダは1930年代にソ連で制作された映画でセルゲイ・エイゼンシュテインと共演していたが、エイゼンシュテインをスターリン支持者とみなすことは到底できない。
『モスクワ大使』は公開直後から、ジョン・デューイ、アルフレッド・カジン、エドマンド・ウィルソン、ドワイト・マクドナルド、A・フィリップ・ランドルフ、ノーマン・トーマス、ジェームズ・T・ファレルといった著名な知識人らが起こした声明の中で、現実を大きく歪曲した作品として激しく非難された[Culbert, Mission、 257-60 ページに、声明の全文と声明の発起者全員の名前が記載されています]。
政治に関心のない批評家たちも同様に否定的だった。
彼らの総評は、演技がぎこちなく、個々のシーンが退屈な語り手で詰め込まれすぎており、ドキュメンタリー風のスタイルが説得力に欠けるというものだった。
ワーナー・ブラザースはこの映画の宣伝に50万ドルという途方もない金額を費やしたにもかかわらず、興行的には大失敗に終わり、その費用を回収することはできなかった。
数年後、HUACにおいて彼は証言で、「この映像は、我が国がロシアを同盟国として存亡をかけて戦っていた時に撮影されたものです。…モスクワへのミッションが破壊活動であったならば、ロシアの拠点に食料や銃器を運んだアメリカのリバティー船や、それらを輸送したアメリカの船舶も同様に破壊活動に従事していたことになります」と述べた。[Culbertの付録、266ページ。]
無罪
赤い三部作の映画に対する主な非難は、アメリカの娯楽産業を転覆させようとする共産主義者の陰謀の証拠であるというものでした。
しかし、これらの映画の制作過程は、これが真実ではないことを示しています。
共産主義者はこれらのプロジェクトを一切開始しておらず、また、どの映画の最終的な内容も共産主義者が支配していませんでした。
これらの映画は、ソ連への軍事支援を支持する世論形成を求めるアメリカ政府の要請に応えて、ハリウッドのスタジオ経営者によって制作されました。
これらの映画の内容を推進し、独特の緊迫感を与えたのは、これらの映画がナチスが戦争に勝利しつつあった時期に構想されたという点です。
ドイツ軍の師団はモスクワとレニングラード郊外に展開しており、決定的なスターリングラードの戦いはまだ起こっていませんでした。
これらの映画は、アメリカ政府の戦争政策に反対するものではなく、むしろそれを推進するものでした。
スタジオの最高責任者たちは、3本の映画製作の主要人物を選ぶ際に、共産主義運動に関わりのある脚本家を意識的に選んだ。
脚本家たちはスタジオのあらゆる作品に適用される組織の中で働くことになるため、イデオロギー的な懸念を抱くことなくそうすることができた。
スタジオの最高責任者たちは、赤軍がファシズムの断固たる反対者であり、ソ連における戦争の甚大な人的・物的犠牲を痛感していることを知っていた。
さらに、赤軍は、計画経済の長所が明らかになったソ連に対して、肯定的な見解を表明することに全く抵抗がなかった。
彼らの政治的見解をさらに後押ししたのは、共同戦線が米ソ間の戦後関係の調和につながるという信念だった。
同僚たちと同様に、赤軍は、この極めて重要な歴史的瞬間にソ連を支持することが様々な問題を無視することを意味するのであれば、そうすべきだと考えた。
彼らは、これは、この特定の歴史的瞬間に、米国における人種差別や、英国、フランス、ベルギー、オランダなどの同盟国によって運営された植民地帝国の悪行に映画でスポットライトを当てることを控えることと何ら変わらないと感じた。
赤い三部作が提起する真の政治的問題は、転覆工作の問題ではなく、問題のある同盟国のために意図的にプロパガンダとして制作された映画の本質である。
平時であれば批判されるような行為が、戦時中においてどれほど看過されるべきだろうか。
信教の自由、ウクライナ飢饉、強制的な集団化、粛清裁判、そしてソ連の日常生活の実態に関して行われたように、現実を歪曲することが、関係者全員にとって長期的などのような結果をもたらすだろうか。
これらは、マスメディアに関わる者すべてにとって基本的な問題である。
真の芸術は、時と場所がいかに不都合であろうとも、常に権力に真実を訴える。
プロパガンダは常に既存の権力に奉仕する。1940年代半ばのプロパガンダ的な親ソ連映画を制作した同じスタジオの責任者が、1950年代のプロパガンダ的な反共産主義映画も制作したのは、偶然ではない。
彼らは常に、国家政策に奉仕していると感じていたのだ。
そのように自らの政治的視点を全面的に変えることを望まない、あるいはできない映画製作者は、新たな政治的風が吹くまでハリウッドで働くことを禁じられるだろう。
2013年夏 (新政治誌第14巻第3号、全55号)
著者のダン・ゲオルガカスは、季刊映画雑誌『Cineaste』の編集委員を務めており、ニューヨーク大学、コロンビア大学、クイーンズ・カレッジ、マサチューセッツ大学アマースト校で映画講座を教えている。