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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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千姫御殿

いわゆる「芸術映画」好みのマニアの中には、最初からプログラム・ピクチャーを心底毛嫌いする人がいて、そういう人の前では映画について、たとえ雑談的なものであっても、会話をするときには、相当神経を遣いました、遠い学生時代のこと、いま思えば独特な雰囲気でした(いまの言い方でいえば空気感とでもいえばいいのでしょうか)。

そもそも、大衆向けに量産されたプログラム・ピクチャーなど、あんなもの、映画のうちに入るものかと考えているらしく(まさか、軽蔑まではしていないでしょうけれども、会話が佳境に入るにつれて、大衆は「愚衆」のことであり、プログラム・ピクチャーは「おしなべて駄作」と言い換えられることが、薄々分かってきます)、そういう人たちと溝口健二や小津安二郎、それに成瀬巳喜男や黒澤明、くわえてブニュエルやゴダールやアラン・レネの話をしたことはありましたが、松田定次や三隅研次の作品について話をした記憶がありません。

それこそ、口に出したりしたら軽蔑でもされそうな(やっぱり「軽蔑」でしたね)雰囲気です。

しかし、そうは言うものの、それらの人たちが、そうした「駄作」を実際に見たうえで、そう判断したのかといえば、どうもそうではないらしい。

それらプログラム・ピクチャーなるものを、いままで一度として見たことがないのに、「芸術作品」じゃないということだけで(単に、超有名大学の高邁な大先生の書かれた映画芸術の解説本に、タイトルが出てこないという理由だけで)、最初から問題にしないのだという姿勢というのが分かってきます。

その「ナーバスな毛嫌い」を突き詰めていけば、自分の「知らないこと」は、むしろ最初から排除してしまえという「怯え」であることがだんだん分かってくると、「な~んだ」という感じでたちまち気が抜けてしまいました。

彼らこそ逆に、映画を見ることの楽しさと素晴らしさから、選ばれて排除されている者たちなのだろうなと思い当たり、なんだか気が晴れた気分になりました。

たぶん、彼らの「見る」ことのできないものはプログラム・ピクチャーだけでなく、あれほど愛し、そして「見た」積もりになっている小津安二郎や溝口健二の作品こそ、本質をはずして、随分と歪んだ側面しか見ることが出来ないでいるのではないかと、根源的な資質の歪みと限界を感じて次第です。

長い歳月にわたって、民衆の中で繰り返し演じられることで淘汰され研ぎ澄まされてきた民衆文化としてのストーリーを、安定し、手馴れた技巧で描くダイナミズムを味わうというプログラム・ピクチャーの楽しみが、小津や溝口や黒澤が描こうとしたものと無縁であるという認識に誤りがあるのであって、小津や溝口や黒澤作品が、エンターテインメントから隔絶され孤高に屹立したもの(そうあって欲しい)というマニアたちの誤った思い込みが、むしろ彼らの偏狭な資質と限界と脆弱さを晒す結果となってしまっていることを痛感します。

小津や溝口や黒澤作品でさえも、日本映画のプログラム・ピクチャーと同じ幹を持つ一本の枝として派生したものであったろうし、その進化したひとつの作品として認識を持つことが日本映画という大河を理解するうえで是非とも必要なことではなかいと、幼い頃からプログラム・ピクチャーをごく身近にしながら育ってきた僕としては考えています。

前置きが長くなりましたが、しかし、これだけのエネルギーを投入しなければ、プログラム・ピクチャーを見もしないで、ただ排除しようとする悪しきマニアたちに対する、僕の「抵抗感の大きさ」を証明できないと思ったことを理解していただきたかったのですが。

さて、この三隅研次監督の「千姫御殿」です、いままでは運命に翻弄されるだけの悲劇のヒロイン、政略結婚の犠牲者・哀れな姫君として描かれることの多かった人形のような千姫を、一歩進めて、自分を政治戦略の道具として利用した祖父・家康や父親・二代将軍秀忠に対する恨みと反撥とで自暴自棄になり、不貞腐れて非行を重ねるという、はっきりとした意思を持った女(意思とはいっても、祖父や親を散々困らせて気を引こうとした幼稚で身勝手な「意思」程度のものにすぎないので、高らかに断定するのには、やや気が引けますが)として描いていて、「豪華絢爛」という言葉が些かも大仰でない大映美術部の完璧な仕事を堪能できたことと共に、大変面白く鑑賞しました。

父親や肉親の愛情にカツエテいるために、近づいて来て好意を寄せる男たちの誰彼なしに、すぐ同衾してしまうかのように描かれている千姫の人物像(孤独な女性→すぐにOK《このパターンが繰り返されれば「誰でもOK」ということになり》淫蕩というイメージが形作られます)という安易な連想は、現在でも健在でしょうが、しかし、千姫が将軍家の息女ということで、言い寄ってくる男たちの真意が計りがたく(彼女への愛情ではなく地位が目的かもしれないという疑惑が、だいたいにおいて当たってしまうので、更に彼女は孤独感を増幅させねばなりません)という疑心暗鬼から千姫は常に自由になれない。

ここには、同じ年に撮られた大映作品「忠直卿行状記」(森一生監督)に通じる、身分ある者の孤独というテーマに加えて、最愛の人を幾たびも失い続ける封建時代の高貴な女性の悲惨が重層的に描かれています。

なにしろ権謀術数が渦巻く戦国時代を引きずっている物語ですから、親の都合で無理やり嫁がされ、その相手が誰であろうと、どうにかうまくやらなければ生きていくことができない当時の女性に課された・そして許された唯一の生きる技術でもあったと思います。

ここまで書いてきて、千姫が「悲劇のヒロイン」と呼ばれる理由が、ちょっと分からなくなってしまいました。

そりゃあ、あなた、可哀想に政略結婚させられた最愛の人を幾たびも失い続けたからでしょう。

「最愛の人」というのが、そう何人もいるものでしょうか。

そもそも「政略結婚」という言葉と「最愛の人」という言葉を並べると変な取り合わせであることが分かります。

それに、いたとしても一向におかしくはありませんが、最愛の人が幾人もいるというのも、言葉の矛盾であるなら、幾人もの愛する人と言ってもいいじゃないですか。

もっと正確にいえば、状況に迫られて愛そうと努力した人、ですかね。

つまり、時代に翻弄された千姫が、相手が変わるたびに、新たに愛そうという「努力」をし直さねばならなかったことになりますが、それで、どこまで相手を本当に好きになれたかは、ちょっと疑問です。

新たな相手を新たに愛するために、たびたびリセットしなければならなかったその努力のことを、この作品は、ちゃんと描いているように感じました。

ここに描かれている千姫の男狩り伝説の淫蕩さが、たとえば事実だったとしても、それは、絶望感によるアグレッシブな自暴自棄から自滅的な淫蕩へと突っ走ったというよりも、度重なる「努力」に疲れ、むなしい徒労感から「どうにでもなれ」と思ったか、さらに進んで生きながら既に死んでいる状態だったために、側近が元気付けようとした程度のことだったという辺りくらいの方が、なんだか説得力があるような気がしてきました。

(1960大映京都撮影所)製作・三浦信夫、企画・税田武生、監督・三隅研次、助監督・西沢宣匠、脚本・八尋不二、撮影・竹村康和、音楽・斎藤一郎、美術・内藤昭、録音・大角正夫、照明・中岡源権、編集・西田重雄
出演・山本富士子、本郷功次郎、山田五十鈴、中村鴈治郎、志村喬、滝沢修、中村玉緒
1960.01.14 7巻 2,653m 97分 イーストマン・コダック&アグファカラー 大映スコープ
Commented by Bruttcace at 2012-03-31 12:37 x
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by sentence2307 | 2008-12-28 08:20 | 映画 | Comments(1)