ショー・ミー・ラヴ
2004年 11月 18日
予備知識をもって映画を見るということは、その作品を見る前から、自分自身に、この映画はこの程度のものという一定の括りを課してしまい、その予断によって作品自体が持っている本来の力量を見失うことになりかねないと、この未知の監督の撮った作品を見て痛感したからでした。
スウェーデン映画「ショー・ミー・ラヴ」は、それだけのことを考えさせてしまう力のある作品です。
ただ、僕が接することのできた多くの人たちの感想が、自分のそれとかすかに食い違う部分もあるので、そのことを少し書いて置こうかと思います。
人気者のエリンは、いつも女友だちに取り囲まれ、そして男友だちからはチヤホヤされている毎日を送りながら、どこか満たされない気持ちを持て余して、常に苛だっているような少女です。
そして、一方アグネスは、厳格で過干渉気味の父母の窮屈な家庭のなかで育てられたために、自分の気持ちを抑制することしか知らない優等生の少女です。
そういう自分に嫌悪感を募らせているアグネスに、友だちのできない彼女を心配した父母は、パーティを開いて彼女に友だち(さえも)を世話してあげようとして、更に彼女の気持ちを逆撫でしています。
物語は、このふたりの少女の苛立ちが微妙に交錯するこのパーティのエピソードから始まりました。
孤独なアグネスは、快活で愛らしい人気者のエリンに好意以上の気持ちを抱いており、自分のパソコンにそのひそかな思いを書き込んでいます。
そのアグネスの誕生パーティに、気まぐれに突然やって来たエリンと姉は、勝手に入ったアグネスの部屋のパソコンでエリンへの想いを読んでしまいます。
エリンは、アグネスの自分への気持ちを知って、戸惑い、困惑し、警戒します。
彼女がアグネスから懸命になって距離を採ろうとした行為の中には、「レズビアン」という言葉が持つイメージへの恐れと反撥が、例えば、何とも思っていない男友達に処女を許してしまう性急な行為に端的に描かれています。
それは、「自分は正常な女だ」という社会の踏絵を踏むような行為なのかもしれません。
僕たちは、人を好きになることに「性差」というものが、いささかも障碍になるものではないと頭では「理解できる」時代的雰囲気の中にいます。
しかし、それが、ただの観念にすぎないことは、例えば、この作品で言えば、アグネスのロッカーの扉にヌード写真を貼り「どうだ、感じるだろ」みたいな男たちの好奇の眼差しで、僕自身も「レズビアン」を露骨な差別の対象と見ていないと言い切れるかどうか、確信がもてないでいることに示唆されているのかもしれません。
この映画のクライマックスは、レズビアンの噂を立てられたアグネスとエリンが、クラスメイトたちに興味本位にからかわれた躊躇から、なんとなく疎遠になりそうになった時、お互いの本当の気持ちを確かめ合うため、意を決してトイレの個室に籠もり真剣に話し合う場面でしょうか。
しかし、この映画で描かれているアグネスとエリンという少女の描かれ方が、「白けるほどに個性の欠けたステレオタイプ」と言った友人がいましたが、その感想は、この作品の重要な一面を言い表していると思います。
この年頃のコドモたちは、他人と同じ顔のままで集団に埋もれてしまうことを極力恐れます。
自分は他人とは違うのだ、という自分だけのオリジナルな個性を表現しようと必死です。
ファッションであれ、恋であれ、その行動も、それらのすべては、他人とは全然違う自分独自のものを持って表現することに最も重きを起き、それが意のままにならなくて、更に苛立ちを募らせます。
その苛立ちが怒りの結晶となり、時には暴走し、「犯罪」の境界線を軽々と越えてしまうという少年たちの姿を、僕たちは多くの映画で見てきました。
しかし、残念ながら、その「個性的」だと信じて選択されたファッションであれ、恋であれ、行動のことごとくが、結局は、そのどれを選択しても、「与えられた」ものである以上、誰もが選択可能な没個性的な「選択」でしかないということも、また事実です。
どんなに個性的なファッションをしようと、それは誰もが買いにいくブティックに並べられているモノを、ただ身につけるという限られた範囲の行為にすぎず、それは「個性」でもなんでもありません。
象徴的な意味をも含めて、ただのお仕着せの物(大きな意味での制服)を身につけて満足している限り、友人が言ったように、彼らはどこまでいっても個性を欠いたステレオタイプからは到底抜け出ることができないのです。
その作られた個性に何となく気がついているエリンは、いけてる容貌を持っている自分が男たちからチヤホヤされても、それが「本当の自分」に対してでないことを本能的に見抜いていて、「何も持っていない自分」に苛立っています。
たとえ、男友達とSEXしても、苛立ちは募るばかりで彼女の鬱屈した思いは癒されることはありません。
その「本当の自分」を見て欲しい・分かって欲しいと願いながら満たされなかった不安と孤独な気持ちを、アグネスが夢を抱くことで立ち向かっていることを知り、エリンは彼女に急接近していったのだと思います。
この映画の中で、たびたびレズビアンという言葉が出てくるので、こちらもつい抵抗なく同じように使ってしまいましたが、しかし、これは迂闊でした。
僕が書こうとしている根幹にかかわる問題です。
アグネスがエリンに好意を持っているという噂がまたたく間に学校中や狭い街中に知れ渡り、世間は、ふたりのその好意の交流を「レズビアン」と決め付け、彼女たちを怖気づかせて苦しめることになりました。
同性に好意を寄せるということを、短絡的に「レズビアン」としか言い表せない世間の想像力の欠如した貧弱さを揶揄するこのラスト・シーンに、監督ムーディソンのはっきりとしたメッセージを感じます。
世間の好奇の視線を無視して軽やかに一歩踏み出す彼女たちの爽やかなすがすがしさの、そのどこが「レズビアン」だとでも抗議しているように思えてなりません。
だいたい、この作品の「レズビアン」という言葉の使われ所をたどっていけば、それが蔑視する側の差別の言葉としてのみ使われていることに気付くと思いますし、それはまた、蔑むという行為そのものが、新たな価値観に適合できない者たちの恐れから発せられている自己保身のための脅迫にすぎないことは明らかです。
アグネスとエリンの関係が、よくある女の子同士の単なる友情以上の、大袈裟に構えた「レズの関係」と呼ぶようなものとは、どうしても思えないのに反して、逆に、彼女たちを最後まで呪縛している周囲の執念深い蔑みは、新たな価値観をどうしても受け入れることのできない世間の肥大化した恐怖感を表しているのかもしれません。
もしかしたら、彼女たちが苦しんだのは、性急に大人になろうとして、まだ未成熟の少女が無理矢理に背伸びをした結果だったとも思えます。
男とのSEXに快感も充実感も感ずることなく、再びアグネスに近づいていくことにそれが示されているのかもしれません。
異性と対等に接するためには、ある程度の成熟に達していなければならず、その前段階で同性と接するのは、少女たちが成熟するための準備と訓練の期間なのだろうと思います。
この作品のクローズアップを多用したざらついた独特の映像は、ドキュメタリータッチの緊迫感を出すために、カサヴェテス作品を撮影監督のウルフ・ブラントオースと徹底的に研究した成果だと知りました。
しかし、これだけのテーマを描くにしては、違和感を伴う程の重々しさを感じてしまったのは僕だけだったでしょうか。
この作品は、スウェーデンでは、85万人の観客を動員して、観客動員数で記録を作ったほどの評価を受けた作品だそうですね。
1999年のベルリン映画祭ではパノラマ部門国際芸術映画連盟賞、テディ賞をはじめ、同年のスウェーデン映画祭では最優秀作品賞、最優秀監督賞、最優秀脚本賞、最優秀主演女優賞を「総なめ」にし、その他、カルロヴィヴァリ国際映画祭観客賞、審査員賞、ドン・キホーテ賞受賞、ノルウェー国際映画祭最優秀外国映画賞受賞、バレンシア国際ヤング映画祭最優秀作品賞など多くの賞に輝いた作品であることを後で知りました。
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