ロッキー
2004年 11月 20日
だがチャンピオンの栄光を極めるために、自分に関わった人々の夥しい愛や誠実さをも利用し尽さねばならなかった彼に残されたものは、深い孤独感とチャンピオンという虚名の、ただの消耗品として使い棄てられるべき抜け殻の「青春」しかそこには残っていなかったのだ。
富と名声を求めて栄光の座にのし上がるために貧しさや忌まわしい境遇さえも売り物にして戦ったあのチャンピオンたちに比べると、この三流のセコハンボクサー・ロッキーの戦いは、結局は脇役のうらぶれ男でしかない人間の、だからこそ生きてゆく最期の自尊心を振り絞って賭けただけの慎ましい彼自身のための戦いだったのだと思う。
あるいは、自分に降りかかる不幸や絶望が、自らのその醜さのためだと頑なに信じきっているスラム街のペットショップで働くエイドリアンは、ロッキーのたどたどしい求愛にも、こんなにもみっともない自分が男に本心から愛される訳がないとでもいうように、おどおどと眼を伏せ、卑屈な微笑で顔を歪めたまま、いつもの孤独へと尻込みしてしまう。
だがやがて歯痒いまでに誠実なロッキーの求愛に励まされて恐る恐る心を開いてゆく少女が、自立した女として、いままで凭れ掛るようにして頼っていた兄から訣別する場面は、ラストの壮絶な試合よりも僕の心に沁みた。劣等感の自己嫌悪を脱して下積みの、どんなに惨めではあっても生きることへの誇りと自信をひとつの愛に、そして試合に賭けたうらぶれた人間たちのつつましい戦いの姿がそこにはあったからだ。
ラストのロッキーとエイドリアンがそっと寄り添い観客のざわめきに背を向けて立ち去ってゆく場面である。社会から一度は見捨てられ、社会の底辺にあって不遇と孤独の中で傷ついた屈辱と怒りの記憶をもつ者たちだけが通い合わせ温め合わせながら、ついに生きる自尊心と誇りを勝ち取った象徴的な場面であった。