刺青 ⑧
2004年 11月 22日
もしそうなら、条件付きの否定文を急いで書いておく必要があります。
もとより、わずかな鑑賞作品から無謀にも断定する愚をあえて覚悟の上でということになりますが、増村作品においてストーリーの中で描かれる「性交」が、楽観と歓喜の中で行われたことがかつてあったかどうか。
例えば、性の謳歌を歌い上げたかに見える「好色一代男」1961で執拗に描かれている世之助の女好きと濡れ事は、リアリティが欠落している分だけ殊更にデフォルメされた政治に背を向けた反権力姿勢の隠喩と見た方が、すんなりと受け入れ易い気がします。
現実の男と女に当て嵌めて考えてみれば、性交というものが肉体的にも気持的にも、あんなにも後腐れなくアッケラカンとしていられるものなのかどうか。
心情的な打撃なしに、次々と反復運動のように取っ替え引っ換え違う相手とSEXが、機械的にこなせるものなのか。
「好色一代男」におけるラスト、世之助が女護ケ島へと船出するシーンに示されている限りない楽観が、あまりに明るすぎて今までどうしても納得することができないでいた理由は、そのリアリティを欠いた部分にあったのだと思いました。
むしろフェリーニの「カサノバ」のあの喪失・あの暗さ・あの絶望こそが、漁色に明け暮れた放蕩者の末路には相応しいものと思い込んでいました。
しかし、ちょっと待ってください。
暗さを明るく描いてしまう絶望の表現のカタチだって別にあったっていい、増村保造の映画文法に慣れるに従って、最近そんな気がしてきました。
世之助の雷蔵は、色浸りの呆けた微笑を終始たたえ続けていたけれども、あれは彼の深い絶望を諦念のカタチで表そうとしたそういう演技だったのであり、それが増村の性に対する考え方なのだと思えてきました。
例えば、SEXのないふたりの間に存在していた不安や猜疑が、たとえ肉体の関係を持ったからといって、ただそれだけで夢のようにすべての不安が拭われたり解決したりする訳ではありません。
むしろ、多くの場合、このような関係にあっても拭えない不安や、そして更に湧き起こる新たな猜疑心に囚われ、ときには破滅に至る直接的な契機となる場合さえある、と増村監督はあの作品で言おうとしていたのではないでしょうか。
肉欲でつながる「愛の行為」が、必ずしも互いの気持ちを通い合わせることにはならないし、性交は互いを理解することとは何の関係もない。
性交とは、ただ肉と肉との摩擦運動にすぎないものであり、互いの愛を確認するための心の通い合いとは何の関係もないのだと。
愛する相手に語り伝えたい気持ちを持ちながら、愛撫に負けて愛欲に溺れ込んでいくという性交に、確認すべき愛情は、時を失い、やがてエゴイズムとSEXの中で解体し、限りない快楽の追及のなかに埋もれ消え失せてしまうとでもいいたかったのでしょうか。
あるいは、現代にあっては、SEXというものが、単に、誰にも気持ちを開くことができないまま孤独のうちに生きていくしかない人間の宿命の絶望的な象徴としての、孤独な自慰の複数形とでもいいたかったのかもしれませんね。