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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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容疑者Xの献身

学生時代には、誰よりも突出して成績が良かったようなヤツが、社会に出てから思わぬ不遇をかこっている噂などを聞かされると、社会で生きることの厳しさを、つくづく思い知らされることがあります。

人それぞれに持って生まれた性格や、他人との付き合いのうえでの天性の気配りのセンスとか、世渡りの上手下手など、学生時代にブイブイいわせた「点取り技術」だけではどうにもならない部分での世間の評価は厳しく、学生当時、クラス一番の秀才だったヤツが、いまではウダツの上がらない万年外回りの営業マンなどにこき使われてうんざりした汗をかいているなんていう話は、自分も含めて結構ザラに聞く話だと思います。

「容疑者Xの献身」における湯川と石神の関係を眺めながら、なんだかそんなセチガライことを考えてしまいました。

見るからに御清潔感溢れる好青年・誰からも等しく好意をもたれる恵まれた天才・湯川と、見かけも貧相で、うまい世渡りもできず、世に入れられず失意を抱えながら社会に押し潰されるように息をひそめて俯いて生きる数学の高校教師・不遇な天才・石神との対比が、やはりこの映画を見るうえでのダイナミズムといえるかもしれません。

しかしこの二人、それにしても、どうしてこうも生きる方向性が違ってしまったのでしょうか。

大学時代、偶然に出会った彼らは、ともに学問を孤独に愛する共通の明晰さを理解しあい、そして深い絆で結ばれながらも、湯川は大学教授という社会的な地位を得たのに、石神は不遇のなかで絶望しながら生きるという不運にみまわれています。

この理不尽なギャップについて、僕たちが、極力妬みや反撥心などの雑念を抑えながら、もし、客観的に、「あいつと俺とは、いったい何が違うんだ」という純粋な疑問をつきつめていっても、きっと明確な答えを見つけ出せないまま、結局は、この映画で描かれているような破滅的な成り行きを辿らざるを得ないのだとしたら、それも随分疲れる運命論で決め付けられてしまうのだなあとイササカうんざりしてしまいました。

天才数学者でありながらウダツのあがらない高校教師にあまんじている石神哲哉のように、結局社会に対する怒り(この場合は、犯罪の加担というカタチになりますが)にしかつながらないとしたら、なんという絶望的なシチュエーションかと、胸がツカエ、息詰まるような遣り切れない気持ちだけが残ってしまいました。

多くの推理ものの映画から得られる独特のスカッとしたものが得られなかったのは、こうした重々しいテーマが挟み込まれていたからかもしれませんが、しかし、どうもそれだけでもなかったような気もします。

映画を見たあとで、いつも自分がよくやるのですが、感想をひねり出そうとして訳が分からなくなったときは、一歩さがってこんなふうにラディカルな問いを自分に課してみます、「この映画に本当に感動したか?」と。

自分が、果たして「容疑者Xの献身」という映画に本当に感動しただろうかと問われてみれば、改めて、それは多分「しなかった」と答えると思います。

権力に寄り添う「良き天才」が、「悪しき天才」の完全犯罪を頭脳によって突き崩すという頭脳ゲームをスポーツのように楽しむのなら、湯川の中途半端さを際立たせないような、どこまでも能天気なスポーツ感覚の向日性の描き方が必要だったのではないか、という気がします。

天才の作った難問を、もう一人の天才が解明すること(たぶんこれだけなら、「遊び感覚」の範疇で語られるべきものです)が、同時に相手を窮地に追い込むことを認識しながら「そう」せずにはいられないことに関して、当の湯川教授はどう考えているのか、あらゆる不正は解明されなければならないし、裁かれ、そして断罪されなければならないのだという正義感と倫理観に凝り固まった偏執に囚われているわけでもなさそうな湯川教授が、なぜ、偽りの罪に服そうとしている石神哲哉の「嘘」を更に暴き、もうひとつの殺人まで暴く必要が果たしてあったのかが理解できませんでした。

湯川のその「冷徹さ」は、石神哲哉が隣家の主婦・花岡靖子のアリバイ工作のために、名もなきホームレスを冷静に殺してしまう「冷酷さ」と同質のもののような気がします。

それでもシャーロック・ホームズみたいに、見過ごしても全然気にならないようなゲーム感覚で物語が語られるのならともかく、生々しい生活臭(虐げられた者の怨念みたいなものだと思います)が、この映画では、あまりにも前面に現れすぎてしまっていて、スポーツ感覚では済まされない遣り切れない思いにさせられるのが、ひとつの理由だったかもしれませんし、さらにもうひとつ、この映画でどうしてもひっかかるものがありました。

石神哲哉が命に掛けて守ろうとした隣家の主婦・花岡靖子です。

別れたDV亭主に付きまとわれ、相変わらずの暴力に苦しめられたすえに、思い余って主婦・花岡靖子は、暴力亭主の首をコタツのコードで絞め殺してしまいます。

この成り行きを偶然に知った石神哲哉は、以前から花岡靖子に思いを寄せていたこともあって、彼女の苦境を完璧なアリバイを創作することで救おうとしますが、最初のうちの花岡靖子は、石神哲哉のアドバイスのとおりに動くものの、次第に指図されることに苛立ちを募らせたすえに、こんなふうにキレてしまいます。

「これじゃあ、以前とちっとも変わってない、亭主が石神哲哉に代わっただけじゃないの」と。

しかし、このセリフは明らかに変です。

DV亭主が、彼女を理不尽な暴力によって苦しめ続けたのに対して、石神哲哉はただ彼女を助けようとしているだけなのです、石神の恋情を知ったために、それが彼女には同じように「重たいだけの拘束」としか感じられなかったとしたら、身に降りかかった状況というものを一切考慮しよしとしない身勝手な女の感情的な言葉にすぎず、ストーリーはこの一言によって完全にぶち壊されるという、これは随分絶望的な状況なのではないかという気がしました。

もしかしたら、彼女は最初から石神の救助など必要としなかったのかもしれない、この凶行から、娘の関与を外すことさえできれば(父親の腕には、抵抗を封じた娘の指の痕跡が痣としてくっきりと残っていました)、彼女だけなら最初から自首する積りだったのだろうか。彼女は、どこまで石神哲哉の思いを受け入れようとしたのか、結局なにひとつ分かりませんでした。

これは、石神哲哉の思いに対する花岡靖子の拒絶の物語なのかという袋小路にまで行き着いて、ついに「感想」は迷宮に迷い込んでしまいました。

(2008東宝)監督:西谷弘、製作:亀山千広、企画・大多亮、エグゼクティブプロデューサー・ 清水賢治、畠中達郎、細野義朗、プロデュース・鈴木吉弘、臼井裕詞、プロデューサー・牧野正、和田倉和利、プロデューサー補・大西洋志、菊地裕幸、脚本:福田靖、撮影:山本英夫、音楽:福山雅治、菅野祐悟、照明・小野晃、美術・部谷京子、整音・瀬川徹夫、録音・藤丸和徳、編集・山本正明
出演:福山雅治、柴咲コウ、北村一輝、松雪泰子、堤真一、ダンカン、長塚圭史、金澤美穂、益岡徹、林泰文、渡辺いっけい、品川祐、真矢みき、
by sentence2307 | 2009-08-30 10:00 | Comments(0)