小津安二郎関連図書及び記事一覧 ⑩
2004年 12月 05日
保坂和志・日常そのままが普遍へ・小津安二郎の鎌倉の山、
川本三郎・小津映画にはなぜ銀座がよく出てくるのか?、
大林宣彦・尾道を駅馬車に乗って~小津さんの映画的冒険と東京物語の世界、
竹中直人・小津の映画は変だよね(立風書房03)
*田中眞澄「小津安二郎周游」(文藝春秋03) 17のテーマによって掘り起こされた巨匠の実像とその時代。
モダニズムから「喜八もの」へ、
ガス戦の体験、
戦後五社協定との対峙ボクシングのお話、
蒲田行進曲の目撃者、
修業と遍歴のカットバック、
モダン都市の光と影、
それはヨーヨーではじまった、
碌々でもない三六年、
『一人息子』の東京学、
異国の戦野で、
伏字の戦争、
還って来た男、
「大東亜共栄圏」大概記、
占領下というアイロニー、
古都遍歴、
東京(複数の)物語、
もうひとつの才能、
いろのみち、
いろいろ、
メメント・モリ、など
これまで「小津安二郎全発言」や「全日記 小津安二郎」など地道に雑誌「映画往来」などの古い資料から小津の足跡を多角的にたどることで定評がある小津研究の第一人者が放つ初の本格評伝。
文中、若き日の小津が「映画往来」に執筆したボクシングについての文章に、荻野貞行という日本初の認定チャンピオンが昭和初期アメリカに武者修行に出かけた様子が描かれていて、若き日のモダンボーイ小津の知られざる一面が、ボクシングを通して例証される。
小津の身長を「毎日グラフ」の51年8月10日号の記事から、身長5尺6寸、つまり169.68cmであることを調べる。
また、松竹に入社した小津が撮影助手から助監督に転じた正確な時期の特定を、現存する小津の遺品の中から、松竹の6通の辞令や、証言から、1925年12月から翌年の3月までの間だろうと推測する。
サイレント時代の代表作「生れてはみたけれど」には、子供の背中の張り紙「オナカヲコワシテヰマスカラ ナニモヤラナイデ下サイ」のギャグの出所を「都新聞」1930年6月3日に、城戸四郎所長の秘書の子供が、撮影所で背中に「この子、生来胃弱、御親切ならば一切菓子類を与へぬ様願ひます」と紙が張られていたという記事に見つけ出す。
日中戦争を一兵士として体験した小津監督が、戦線で毒ガスを使った部隊に所属していた事実を、様々な資料によって明らかにしてゆく。
この事実は、小津自身、日記にさりげなく書いていることで従来知られていたが、本書は綿密にそれを跡づけている。