「七人の侍」 七郎次の檄
2010年 10月 30日
むかしはよく、映画好きが集まると、酒を酌み交わしながら、七人の侍の中で誰がいちばん好きかなんて、侃々諤々、夜が更けるまで論じ合ったものでした。
いくら喋っても喋りつくせないほど、彼らの個性は奥行き深く描かれており、あの山間の寒村にたどりつくまでの侍たちそれぞれの人生がどんなふうだったのか、描かれていない部分までも想像することが可能で、何時間話し続けても、語るに堪えるものだったというところからいっても、「七人の侍」という作品の完璧性はうかがわれると実感しました。
そんなふうに仲間たちと黒澤作品を語らって過ごした夜も、いまでは懐かしい思い出となってしまいました。
しかし、改めていま、自分が、はたして7人の侍のうちで、いったい誰が好きだったのかと思いをめぐらせてみると、その好みは年齢とともにどんどん変わってきたことに気づかされます。
そうですね、若いときは、やっぱり、なんといっても宮口精二演じる孤高の剣客・久蔵が大好きでした。
そういえばあの頃、友達の誰もが、僕と同じように、圧倒的に久蔵に人気が集中していたと思います。
なにしろニヒルで、やたら格好がいい。
俗世の欲望とは一切無縁で、ただ剣一本で世の中を生きていく潔さ、いつも苦虫を噛み殺したような仏頂面で、寡黙に部屋の片隅に蹲っている。
喜怒哀楽などには到底関心なく、あの顔が、どう歪めば、笑う顔に変化するのかなんて想像だにできない。
ペラペラ話すことなど大の苦手で、他人とのコミュニケーションをうまくとれないまま、これからいったい俺たちはこの人生をどう生きていけばいいのか、人生のトバグチにあって戸惑いと不安しかなかった迷いの只中で、むしろ孤独へと逃げることしかできなかった自分たちにとって、久蔵の生き方は堪らないシンパシーを与えてくれました。
人を斬ること、ひたすら人を殺す技を磨き、突き詰めていったストイックな異常な剣客・久蔵という側面より、社会からはじき出され行き場を失った崇高な孤独者としての久蔵に対して、僕たちは、ある種の理想像を見ていたのかもしれません。
そこには、まかり間違えば、紙一重で自分のほうが落命するかもしれない命のやりとりに身を晒す者の、死を決した切迫と諦観の静謐さ、俗世の何もかもを失い絶望のなかで、死を見据えた者だけが得られる静謐が描かれていたと思います。
もちろん、その諦念からくる物静かさが、彼を随分と魅力的に魅せていたのでしょうが、実はそれは、ほかの侍たちが彼に注ぐ畏敬と親愛の情をしっかりと描き支えていたことによって完成された人物像であったことも見逃してはいけないかもしれません。
そして、なによりも僕たちの先入観を形作るうえで大きな影響を与えたものは、やはり勘兵衛が久蔵について語る印象的なひとことだったと思います。
廃寺の庭先で、真剣での果し合いのすえ、久蔵が精密にして絶妙な間合いでいち早く剣先を相手に浴びせ、斬り伏せる瞬間をジカに見た勘兵衛が、そのときの壮絶な久蔵の印象を、興奮気味に五郎兵衛に語る場面です。
「腕はまず上の部。いまこの目で人一人斬るのを見てきた。凄い。自分を叩き上げる、それだけに凝り固まった奴での。」
人格高潔、剣の使い手としても超のつく凄腕であることを観客は既に知らされている勘兵衛の口から、これだけの賛辞が惜しげもなく吐かれるというのですから、当の久蔵がいかに物凄い人物かを、思い描かないわけにはいかないといった具合です。
そして、さらに久蔵を描くエビソードにも特別な配慮がなされていたと思います。
野武士たちとの戦闘のさなか、敵陣深くに潜入して「種子島」を冷静に奪い取ってくる久蔵を、映画は勇敢な活劇シーンを描くことなく、むしろ勝四郎と同じ目線で、久蔵の帰りを一晩中まんじりともせずに不安と期待でジリジリと待ち続ける立場から描いています。
久蔵がどのようにして種子島を奪ったのか、一切の具体的な戦闘の様子は見る者には説明されず、ただ想像力に頼るしかない勝四郎や観客の前に、久蔵は不意に種子島を携えて朝霧の彼方から平然と姿を現します。
その久蔵を勝四郎が畏敬と憧憬の眼差しで見つめながら「あなたは素晴らしい人だ」と強く語り掛けるつぶやきを、観客もまた勝四郎と同じ口調でつぶやかされてしまう陶酔の場面です。
考えてみれば、黒澤明があれだけ入念に八方手を尽くして描き込んだ久蔵に対して、好意を禁ずることの方が、むしろ困難だったというべきでしょう。
そして、あれだけ思い入れを込めて描き上げた久蔵が、最期、皮肉にもその種子島によってあっけなく倒されてしまうという痛切な場面が、いつまでも残像となって観客の心に残り、「七人の侍」という作品をことさらに痛恨きわまる悲痛な余韻の残る作品として印象づけています。
考えてみれば、この「七人の侍」において、勝四郎の無垢な眼差しが基点となって随所にそそがれ、物語の進行するうえで重要な役割を演じて、まさに「語り部」の役割を演じていることが分かります。
この映画の語り始めの部分、勘兵衛にそそがれる勝四郎の畏敬の眼差しによって、まずはこの物語の地平が大きく展望され、やがて、まるで必然のような波乱の展開に導かれていきます。
言い換えれば、観客はつねに、勝四郎の「憧憬や驚異の眼差し」を借りて、この物語の怒涛の展開を憧憬と驚異の眼差しで見つめ、この映画が描くあらゆる場面の炸裂するような輝きを無垢な感性で見ることができたのだと気がつきました。
勘兵衛から指示を受けて、侍の腕前を試すために、物陰から木刀で打ち込む役を勝四郎は担わされます。
勝四郎が身構える気配をいち早く察知して、打たれる前に「ご冗談を」と厳しく大笑して応ずる余裕の五郎兵衛に対して、あっけなく打ち倒されてしまう菊千代の対比の滑稽さは、武士と百姓の対比を勝四郎の視点から捉えたおかしみとして描かれていることでも明らかでが、こう書いてみると、なんだか「七人の侍」を理解した自分なりの筋道と順序みたいなものが解き明かされる感じです。
勝四郎が勘兵衛と出会い、五郎兵衛が合流して、久兵衛を見出し、菊千代に至る。平八は五郎兵衛とのつながりで参入し、七郎次は勘兵衛とのつながりで合流する。
ここで、身分的に侍格でないのが、どうやら菊千代と七郎次ということろですが、百姓の代弁者としてつねに表立って絶叫するような派手な場面が随所に用意され、明確な役割を振られている強烈な印象の菊千代に比べて、ややもすると寡黙で控えめな印象の七郎次のキャラクターの設定そのものが、なんだか弱々しいように、ずっと感じ続けてきました。
しかし、考えてみれば、七郎次のこころざしは立派に侍のものであることに間違いはありません。
勘兵衛との久しぶりの邂逅の場面で、七郎次は、負け戦で敗走したときの様子を語ります。
「堀の中で水草をかぶりながら夜になるのを待っていましたが、二の丸が焼け落ちて頭の上に崩れ落ちてきたときには、これまでかと思いました」と平然と勘兵衛に話します。
勘兵衛から、「そのときは、どんな気持ちがした」と問いかけられても「別に」とそっけなく答え、また、今度こそ死ぬかもしれない野武士との無益な戦いへ誘いかけられても、薄ら笑いで応ずる豪胆さが描かれているだけです。
姿は物売りの風体を装っていても、明らかに、戦に加わる機をうかがいながら諸国をさまよい、あわよくば手柄を立てて一国一城の主になることを夢見る侍のこころざしは、足軽の身の七郎次といえどもしっかりと描き込まれています。
百姓でいることの苦渋や憎悪を憤激として戦いのバネにして戦う菊千代とは、明らかに異なるものが、そこには存在します。
そんなふうに七郎次の印象が、自分の中で少しずつ改まりかけていたときのことでした、ここのところ小康状態を保ってきた腰痛がにわかに悪化して、まともに歩けないほど猛烈な痛みに襲われました。
数年の間隔で悪化したり収まったりを繰り返しているので、今回の痛みも時間が経てばどうにか収まることは十分にわかっていても、いくら痛むからといっても、その間、会社を休むわけにはいきませんが、駅から会社までの距離を歩く通すことさえ困難を感じるくらいなので、午前中にすませる外回りをキャンセルしながら一週間ほど時間稼ぎをして、ひたすら机にしがみついて誤魔化していました。
しかし、そんなふうにいつまでもお得意さんをほったらかしておいて、下手をすると商機を逸する事態を招かないとも限りません、そこはサラリーマンの悲しさ、恐る恐る外回りを再開しました。
歩を運びながら、いつ腰に激痛が走るかと、びくびくものです。
しかし、不思議なことに、なんだか痛みの気配がありません。
腰のあたりを確かめるように手を添えながら少しずつ力を込めて踏み出しても、痛みの反応は、まったくありませんでした。
な~んだという感じです。
いままでびくびくしながら駅までさえもゆっくりと慎重に歩を運んでいたのが嘘みたいです。
会社から一歩出るのも怖くて、机にしがみついていたのは、あれはなんだったのかという肩透かしの感じです。
あのときでも、勇気をもって一歩を踏み出していたら、あるいは歩けていたのではないかという思いさえ湧いてきました。
そのとき、不意に七郎次の言葉が甦ってきたのでした。
村の周囲に野武士からの襲撃を防ぐ防備柵を作るため、百姓とともに材木を運ぶシーンで七郎次が、こう言います。
「いいか! 戦ほど走るものはないぞ! 攻めるときも、引くときも走る! 戦に出て走れなくなったときは死ぬときだ!」
そうなんだよな、戦に出て走れなくなったときは死ぬときなのだ、痛みが出るか出ないか確かめもせずに、びくびくして意気消沈し、机にへたり込んでいた自分が、情けなくなりました。
「どうした、しっかりしろ!」
腰に手などを当てて、よたよた歩いていたりしたなら、すかさず七郎次にどやされそうです。
さ、今日も営業、しっかりやろーっと。戦に出て走れなくなったときは死ぬときだもんな。
最近、体がしんどいときや、意気が萎えたときなど、七郎次のあのセリフが脳裏をよぎり、励まされています。
「どうした、しっかりしろ!」