黒澤明「乱」
2004年 12月 18日
話は、飛びますが、1959年のロンドンでの「日本映画週間」での評価のことをが、ずっと気になっていました。
確かに、あの記事の中の黒澤監督の作品の評価(「生きる」が第3位でしたよね)は、ナンカ不等に低いランクのような感じがしていたのです。
しかし、「東京物語」、「雨月物語」、「生きる」は、この卓越した日本の三監督が残した最良の作品ですし、また、撮られて以後の半世紀のあいだに世界の映画人に与えた多大な影響と実績を考えれば、これらの作品に順位をつけること自体、現在では何の意味もないことは誰でもが知っています。
きっと、黒澤作品「生きる」が3位という評価に、なにかイマイチ割り切れないものを感じたとすれば、それはきっと自立した「古典」に優劣をつけるという行為に戸惑いを感じられたからだと思います。
ただ、「乱」について書かれている部分、戦場が死体で覆い尽くされているようなシーンを、手放しで美しいとは僕にはどうしても思えませんでした。
黒澤作品を誰よりもこよなく愛してきた積りの僕ですが、あの場面だけは、はっきりと「これは違うな」と感じました。
小津監督が描く人間像の魅力をひとことで言えば、「軽さの哀しみ」だとすれば、黒澤監督の描くテーマは、命の重さ、「人間の尊厳」です。
ひとりの人間の生きることの意味を極限まで問い詰めていく姿勢が、登場人物たちの死を更に衝撃的なものとして映像体験させ得たのだと思います。
例えば「七人の侍」において、名誉や栄達とは何の関係もない野武士との死闘で、犬死のように落命していく不運な侍たちのひとつひとつの死の描写が、いかに痛切に重かったか、あの感動を、残念ながら「乱」からは何ひとつ感じ取ることができませんでした。
小津安二郎と黒澤明と溝口健二といえば、やはり、この3人をつなぐ日本映画界を代表する名キャメラマン、1999年に91歳で惜しくも他界した宮川一夫を挙げないわけにはいきません。
「影武者」では、白内障と胆のう悪化のために、致し方なく撮影担当を途中降板し、あの勝新が黒澤監督との確執で降板した事件よりも、むしろ業界では、宮川一夫の目の具合の方が話題になったというくらいの重鎮です。
その生涯に撮られたという134本の作品のうちから幾つかの代表作を挙げろと言われても、それぞれに多彩な試みにチャレンジしたこの人の映像に寄せる霊感の鋭さに畏怖のようなものを感じ、たった数本を選択することでその他の多くの作品を選ばない結果を来たすということにどうしても抵抗を感じてしまい、僕にとって、その選択はとても不可能な行為というしかありません。
溝口作品でいえば「雨月物語」、「山椒大夫」、「近松物語」のどれを選べばいいのか。
また、「羅生門」と「用心棒」では、どちらが優れているのかとか、「炎上」と「おとうと」では、どちらが劣っているのかとか、これは不可能というより乱暴で無意味な行為というしかありません。
しかし、幸か不幸か小津作品では、浮世の義理を果たすために大映で撮った「浮草」たった1本で組んだだけでした。
しかし、どちらも譲らない天才対天才の仕事ですから、随分とむずかしいところもあったみたいですね。
黒澤監督作品の『乱』の凄惨な戦闘の美しさと、おびただしい死体で埋め尽くされたあの陰惨な戦場の絢爛たる圧倒的な美しさに「言葉を失うほど感動した」というある人の感想を読んで、その「凄惨」と「圧倒的な美しさ」という、言葉としても印象としても互いに相容れないようなそのチグハグなイメージにちょっと引っ掛かって、そこに僕は黒澤監督の「失速」を見、晩年の黒澤監督が失ってしまった初期のテーマ「人間の尊厳」などをついて考えたのかもしれません。
それは、リアルタイムで「乱」をみたときの僕の印象そのものでもあったわけですが、しかし、その一文を改めて読み返してみて、本当に「乱」が黒澤明の「失速」と断言できるのか少し不安になってきました。
というのは、同じような印象を、実はずっと以前、増村保造監督作品「刺青」にいだいたことを思い出したからです。
それは、はっきり言って「違和感」と呼ぶべき種類のものです。
絢爛たる映像のあまりの素晴らしさが、物語本来の内容を少しずつ越えてしまっていることから受ける、つまり物語の方向性と、映像が示す世界観とが微妙なズレを見せてしまっている「違和感」ですね。
それが何なのか、そして自分の印象を具体的な言葉にするまで、その意味に気がつかないでいたのでした。
そう、あの「違和感」こそが、増村保造という個性が宮川一夫という個性とぶつかり合って互いを主張した、まさに「部分」だったのだと思い当ったのです。
もちろん、物語と絵とがぴったりと調和した幸福な関係で作られた完璧な映画というものも、きっとあるでしょう。
しかし、多分そんな映画を見たら、おそらくつまらないと思うかもしれませんね。
卓越した個性が互いの主張をゆずることなく、その軋轢と違和に満ちた映画にこそ、映画をこよなく愛した人間たちが作り上げた息吹きみたいなものが感じられて、だから僕はそのような映画に魅かれて続けてきた自分をいまやっと分ってあげたようなそんな気分です。
小津だと「晩春」
トーキーになってからの小津さんの唯一良い作品。
溝口だと「西鶴一代女」
これぞ「芸術」。自分なんて足元にも及ばない。
「東京物語」も「雨月物語」も黒澤が好まないのと
「乱」に違和感をあなたが感じられるのと関係ないのかも知れませんが。
参考までに。
監督には、それぞれ得意分野があって、
入口は、各々その場所からアプローチするにしても、
着地点がそれほど異ならないものだとすれば、
黒澤明の大きく振れた振幅の軌跡は、
大いに興味があります。
示唆に富むコメント、ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。