水谷文二郎
2004年 12月 18日
東京生まれ、1915年日活向島撮影所に入社、1920年には松竹キネマの創立に参加し第一線で活躍しました。
帰山教正の「生の輝き」とともに画期的記念碑的作品とされている松竹キネマ第一回作品・村田実監督の「路上の霊魂」21の撮影者として、まずはその名を記憶されています。
ふたつの対照的な話が併行して描かれていくこの「路上の霊魂」には、グリフィスの「イントレランス」の影響がうかがわれるとされています。
水谷文二郎は、日本映画の革新者ヘンリー小谷に学び、蒲田撮影所をリードする名キャメラマンとして技量を発揮し、日本初の本格的トーキー作品「マダムと女房」30にも研究の段階から関わったということですから、日本の映画史を語る上では忘れられないひとりであることは確かなのですが、しかし、そのフィルムグラフィを見ると、1920年から30年まで78本の作品を文二郎の名前で撮ってから、1930年から36年までは至宏と名を変えて21本の作品を撮り、そのあと映画活動の線がプッツリと途切れてしまいます。
資料によれば、晩年は映画界を退いて、御岳で料亭の経営をしたといわれています。
こと映画に関しては、生涯バカ正直な活動屋のままでいて欲しいと勝手に願う僕の思い込みからは遥かに遠い、その計算高い処世術には、やや失望を禁じ得ませんが、しかし、また、どんなにスサンダ生活をしても活動写真にしがみついていることの幸福を勝手に思い描いてしまう僕の思い込みこそ、部外者の身勝手というものかもしれません。
もう二度と映画の仕事には戻りたくないという失意か絶望かは分りませんが、その夢見ることを辞めた「不意の退場」の深いところに、映画への過剰な思いと深刻な喪失の何か純粋な葛藤があったのかもしれないなどと、つい余計なことを妄想してしまいます。
年譜に記されている「没年不詳」という冷たい無表情な文字からは、映画から見捨てられてしまったような寒々しい空虚を感じてしまいます。
言うまでもなく、これもまた余計なことではありますが。