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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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碧川道夫

碧川道夫(1903.2.26-1998)

北海道小樽市生まれ、上智大学予科を経て、1919年松竹キネマに入社した碧川が、当時セシル・B・デミルの推挙でハリウッドから松竹に招聘されたヘンリー小谷の助手を務めるようになったイキサツには、ちょっとした逸話があります。

ヘンリー小谷は、松竹蒲田第1回作品「島の女」20のキャメラを担当し、それまでの日本映画には見られなかった巧みな光線処理や編集のリズムで日本の映画関係者を驚嘆させましたが、つづく松竹蒲田第2回作品・村田実が監督した「光に立つ女」20でキャメラを担当した水谷文二郎の助手についた碧川道夫は、ヘンリー小谷の前作と較べ、あまりの画調の違いに驚きハリウッドの洗練された撮影技術を習得するため、即刻師水谷のもとを離れヘンリー小谷に弟子入りしたと言われています。

そして1925年碧川が松竹を退社するまでの間、修行時代の小津安二郎にハリウッド流の画面作りを指導したことは、つとに知られています。

その辺の事情は、蓮實重彦によってこんなふうに語られています。

「やがて日活に移って内田吐夢監督のキャメラを担当する碧川道夫は、ヘンリー小谷の系譜につらなるハリウッド流の撮影技法を追求することになる。
小津が松竹蒲田の撮影部に入ったとき、先輩として彼を指導した一人がこの碧川にほかならず、それを通じて、彼は無意識のうちにハリウッド流の画面作りを体得することになるだろう。
それは、1917年にトマス・H・インス監督の『シヴィリゼーション』1916を見て映画監督になる決意をかため、1924年に見たエルンスト・ルビッチ監督の『結婚哲学』1924でショットと編集の何たるかを体得し、1927年にジョージ・フィッツモリス監督の『文明の破壊』1922の翻案によって処女作の『懴悔の刃』1927を撮りあげようとしてた小津安二郎にいかにもふさわしい事態だといえよう。」(蓮實重彦・ある日常化された奇跡について)

松竹から、特作映画社、日活に移籍した前後に、宮川一夫が入社しています。

それは、大将軍撮影所がもうすぐ太秦へ移転しようかという大将軍最後の時期で、宮川一夫は、その時期に撮影所にいたキャメラマンたちを回想しています。

まず、現代劇部には碧川を始め横田達之、青島順一郎、町井春美、伊佐山三郎、中山デンプシー、時代劇部には、川谷庄平(拓三の父)、谷本精史、度会六蔵、竹村康和がいました。

現代劇部と時代劇部は、お互いに対抗意識を燃やし、競って傑出した作品を生み出しています。現代劇では、米国帰りの阿部豊が「母校の為に」25、「陸の人魚」26、「足にさはった女」26を撮り、欧州帰りの村田実が大作「日輪」26を撮り、そして溝口健二が「大地は微笑む 第1編」25、「狂恋の女師匠」26を撮りました。

そして時代劇部では、26年に入社した伊藤大輔と大河内傳次郎、キャメラマンも円谷英二や酒井健三、そして所長池永浩久にスカウトされた唐沢弘光などの強力なスタッフによる「長恨」26や「忠治旅日記」などサンレントの映像美をに満ちた作品を次々に完成させ興隆期を迎えようとしている、まさにそういう時期の大将軍撮影所でした。

その後、日活多摩川へ移籍した碧川は、多摩川撮影所で「限りなき前進」37、「土」39など、リアリズム路線の確立に貢献しますが、しかし、この時期に、碧川道夫が劇映画撮影と平行して、京大医学部で「肺結核手術」などの記録映画を製作したことを忘れてはならないかもしれません。

そのかっちりとした緻密なリアリズムの視点が、やがて、日本映画史上最高の収穫と称される農民映画の傑作「土」39(監督内田吐夢)の撮影につながっていくこととなります。

現在、碧川道夫の名前を、彼が撮った作品名からではなく、むしろ撮影技術の開拓と卓越した指導者という「予備知識」によって僕たちが想い出すのは、例えば、被写体の手前に人物や小道具を写し込んで距離感や状況を強調して画面を引き締める手法(いわゆる「舐める」とか「肩なめ」というやつで、京都では「入れ込み」といっていました。)を「ミド・ポジ」と呼び慣わしている程の用語化された撮影技術の理論家という先入観があるからでしょう。

日本映画の草創期にいち早く外国から得た撮影技術を科学的・体系的に理論化した功績や、戦後大映の技術顧問としてカラーの導入や、ワイドスクリーン化に尽力した仕事の数々は、国際的にも評価を得て、まさに、草創期から戦後の日本の映画界を一貫して引っ張ってきた指導者的なキャメラマンとして内外ともに(正当に)評価された幸運な人という印象があります。

53年日本で初めて「イーストマン・カラー」のフィルムを使用し、華麗な色彩で平安朝の王朝絵巻「地獄門」(衣笠貞之助監督)を撮影した成果は、カンヌ映画祭グランプリ、アカデミー賞外国語映画賞を受賞するなど国際的な評価を得ていまし、65年には市川崑監督の「東京オリンピック」を、103台のカメラを統括して指導するという技術総監督の重責も果たしています。

63年には、内田吐夢監督や宮島義勇とともに「碧川映画科学研究室」を開設したり、日大芸術学部で後進の指導にあたり、日本の映画界に寄与した功績をはじめ、ご母堂の碧川かたが、市川房枝などとともに婦人参政権獲得運動に活躍された人(前夫との子・詩人三木露風の母を恋ふる数々の歌とともに)だったという予備知識などが、さらに僕の中では、そうした印象を一層強くさせていて、寝食を忘れて生涯を映画に捧げたような、いわゆる映画バカというような他のキャメラマンと印象を異にしているのかもしれませんね。

98年3月13日、95歳の天寿を全うされました。

内田吐夢監督は、義理の弟にあたります。

「山谷堀・第1回」22、「散りにし花」22、「蕎麦屋の娘」24、「足にさわった女」26、「限りなき前進」37、「路傍の石」37、「土」39、
Commented by 発育中のおマンコをパックリ開く at 2011-09-14 01:39 x
qIwlZrQ_, roli.ex-navi.biz, 発育中のおマンコをパックリ開く, http://roli.ex-navi.biz/anime/165.html
by sentence2307 | 2004-12-18 08:00 | 映画 | Comments(1)