野村昊
2004年 12月 18日
日本映画データベースで見ると、野村昊キャメラマンが戦前の松竹撮影所一筋で仕事をした人だということがよく分かります。
1921年から1936年頃まで松竹蒲田で80本以上の作品を撮り、その後松竹大船で1942年まで40本弱の映画を撮っています。
当然小津監督と同時期に松竹に在籍していたわけですからシンクロする部分もあったわけで、例えば「突貫小僧」の撮影者に野村キャメラマンの名前を見つけることもできました。
しかし、野村昊といえば、なんといっても大ブレイクした歌謡映画(当時はそういっていたそうです)「純情二重奏」39のキャメラマンとして記憶されていますが、仕事的に専任といってもいい程コンビを組んだのが佐々木康監督だったと知ったとき、少しですが違和感もありました。
僕たちの知っている佐々木康といえば、松田定次などと並んで東映を代表する根っからの時代劇映画の監督と思い込んでいたので、あの佐々木監督が松竹の家庭劇を撮っていたなどとはどうしても考えられませんでした。
フィルムグラフィによれば、スタートが清水宏のツテで小津組の助監督を2年したとか、その後メロドラマ「悲恋華」36で本監督に昇進したとか、あるいは、その「悲恋華」のキャメラを担当したのが野村昊だったとか、大ヒット作「純情二重奏」にまつわる小津監督や佐々木監督との深い関わりが次々と分って、僕の知らなかった小津監督のもうひとつの人脈譜みたいなものが見えてきて結構スリリングな時間を過ごせました。
しかし、戦後に受け継がれていく佐々木監督・高峰三枝子・万城目正とで次々にヒットを飛ばしていく歌謡映画のゴールデン・トリオのなかには、野村昊キャメラマンの名前は見つけることができません。
1946年、野村キャメラマンは既に大船を去り、映画界からも退いています。
そしてまた、佐々木康監督も、1952年マキノ満男の招きで東映京都へ移籍しました。