世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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ノルウェイの森

この村上春樹作品「ノルウェイの森」には、僕自身の原作への愛着もあり、大いに期待して見たのですが、その分だけ、実際以上の失望感の相乗効果に見舞われて、おそらく実態以上に、さらに低く見てしまったかもしれません。

正直、これは僕が読んだ「ノルウェイの森」なんかではないという苛立ちを強く感じました。

そして、もし、村上春樹の小説が、この映画に撮られたように、こんなにも暗く陰鬱なだけのものだったなら、きっと僕は、いままで村上春樹の愛読者でいつづけることはなかっただろうという気がします。

いや、むしろ、この映画を見てはじめて「ノルウェイの森」という小説が、こんなにも深刻で絶望的な「あらすじ」を持っていることを「発見」したといってもいいくらいです。

しかし、小説は、決して「あらすじ」なんかではありません。

そして、小説を読むということが、ただ「あらすじ」を追うことであってはならないと同じように、その映画化となれば、映像表現を駆使して映画独自の表現の高みを目指すべきものという、アカラサマに結果を問われるなら、この作品は、僕にとっては、もう二度と見返す必要などない作品という気がします。

いくらセリフを忠実になぞっても、そこに「時代」が描かれていなければ、ただ無残な空回りを見せ付けられるだけの話です。

そして、映画「ノルウェイの森」において、もっとも忌避すべき点は、小説において作品全体を覆う「陰鬱さ」を凌駕してしまうように書き込まれた村上作品独特な「奇妙で醒めた軽さ」の欠如です。

若さの陰鬱と苦渋を強烈に打ち消して、まるでバランスをとるかのように描き込まれているその「奇妙な軽さ」の輝きをつかみ損ねたこの映画は、バランス感覚を欠いて一層の貧弱さを見る者に強く印象づけたのではないかと感じました。

それは、1960年代末から1970年代初頭にかけて、あの過酷な「時代」と否応なしに青春を併走させなければならなかった世代が、身につけねばならなかった他人に対する距離のとり方、状況への絶望を回避するために必要な「バランス感覚」の生きる姿勢の認識がなければ、この映画は、きっと見るに耐えない身勝手なエゴイストたちの裏切りの物語にすぎない愚劣な作品に堕してしまうに違いないと思いました。

当時の切迫した時代性を描き込むこと(しかし、実際に描かれていることといえば、せいぜいチマチマした学内デモ風景程度です)に失敗したこの程度の映画では、新しい世代に、例えば、他人を愛することが同時に傷つけてしまうことの「生きることの不全感」みたいなものを理解させることは、当然ながら難しかったに違いありません。

多くの若い観客が、この映画の「性」の描き方に対して生理的な拒絶をあらわにしたコメントをいままで数多く読んできました。

あるいは、この物語が、なぜ、これほどまでに「性交」にコダワルのかが、その観念的な「性」に対する考え方がどうしても理解できないしつまらない、「馬鹿みたい」という趣旨でした。

考えてみれば、僕たちを取り巻いていた当時の映画状況といえば、健さんが怒りを炸裂させて斬りまくる「仁侠映画」と、異性・同性はおろか犬・馬・羊とさえ交わるという歯止めを失った「ポルノ映画」の暴走と氾濫でした(それこそ、観念の暴走にすぎなかったのですが)。

そして、これらの状況が僕たちに示唆し・強いたものは、当然のことながら、「暴力による解放」と「自由な性(交)」であり、そうした「時代」に囚われ、あと押しされながら、旧態依然の観念を抱いたままの僕たちは、必死に「時代」に合わせるために稚拙な恋を無理やりに背伸びさせたり(性交までしなければ今風な恋愛ではないみたいな思い込みのもとで)、大切な人間関係を悉く壊し、失ってしまった苦い経験を積み重ねてきました、シチュエーションはどうあれ、それは「ノルウェイの森」に描かれたとおり、「観念」に引きずり回されたあげくに、しかし、結局はそのようになど生きれるわけもなく蹉跌し傷つき諦念のはてに、ある者は精神の均衡を崩して沈黙し、また、ある者は早すぎる老成の準備をはじめた世代といえるかもしれません。

この映画においても、最後に語られる直子の述懐が胸を打つのは、女として愛する人の性器を受け入れることができない体の不全を嘆きながらも、しかし同時に、「不全」のまま生きる選択も有り得たかもしれない途を、みずから断たねばならないという「その時代」の要請から逃れられない者たちの限界と絶望をも語っているからかもしれません。。


【参考】
直子の告白(抜粋)

「彼のが入ってきたとき、私痛くて痛くてもうどうしていいかよくわかんないくらいだったの」って直子が言ったわ。「私初めてだったし。濡れてたからするっと入ったことは入ったんだけど、とにかく痛いのよ。頭がぼおっとしちゃうくらい。彼はずっと奥の方まで入れてもうこれくらいかなと思ったところで私の脚を少し上げさせて、もっと奥まで入れちゃったの。するとね、体中がひゃっと冷たくなったの。まるで氷水につけられたみたいに。手と脚がじんとしびれて寒気がするの。いったいどうなるんだろう、私このまま死んじゃうのかしら、それならそれでまあかまわないやって思ったわ。でも彼は私が痛がっていることを知って、奥の方に入れたままもうそれ以上動かさないで、私の体をやさしく抱いて髪とか首とか胸とかにずっとキスしてくれたの、長いあいだ。するとね、だんだん体にあたたかみが戻ってきたの。そして彼がゆっくりと動かし始めて・・・ねえ、レイコさん、それが本当に素晴しいのよ。頭の中がとろけちゃいそうなくらい。このまま、この人に抱かれたまま、一生これやってたいと思ったくらいよ。本当にそう思ったのよ。」
「そんなに良かったんならワタナベ君と一緒になって毎日やってればよかったんじゃないの?」って私言ったの。「でも駄目なのよ、レイコさん」って直子は言ったわ。「私にはそれがわかるの。それはやって来て、もう去っていってしまったものなの。それは二度と戻ってこないのよ。何かの加減で一生に一度だけ起こったことなの。そのあとも前も、私何も感じないのよ。やりたいと思ったこともないし、濡れたこともないのよ」

(2010東宝)監督脚本・トラン・アン・ユン、原作・村上春樹、エグゼクティブプロデューサー・豊島雅郎、亀山千広、Co.エグゼクティブプロデューサー・マイケル・J・ワーナー、バウター・バレンドレクト、製作統括・寺嶋博礼、石原隆、プロデューサー・小川真司、共同プロデューサー・福島聡司、撮影・リー・ピンビン、美術・イェンケ・リュゲルヌ、安宅紀史、音楽・ジョニー・グリーンウッド、音楽プロデューサー・安井輝、主題曲主題歌・ザ・ビートルズ、録音・浦田和治、照明・中村裕樹、編集・マリオ・バティステル、キャスティング・杉野剛、アソシエイト・プロデューサー・松崎薫、池田穣、ライン・プロデューサー・宿崎惠造、製作担当・田口雄介、アシスタントプロデューサー・小川未央子、助監督・片岡章三
出演・松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子、高良健吾、霧島れいか、初音映莉子、玉山鉄二、柄本時生、糸井重里、細野晴臣、高橋幸宏、
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by sentence2307 | 2012-01-22 18:30 | 映画 | Comments(0)