世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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ロシア・ソビエト無声映画理論

インターネットを見ていたら、9月4日(火)~9日(日)に、京橋のフィルムセンターで「ロシア・ソビエト無声映画」を特集するという記事をみつけました。

仕事があるので、残念ながら、ほとんど見に行けそうもないのですが、なんだか懐かしくて、心覚えになにか書いておきたくなりました。

まだ自分の学生時代には、「ソ連」という体制が立派に(というのも変ですが)存在していた時代でしたので、プドフキンだとか、ヴェルトフだとか、エイゼンシュテインの作品が、どこかの公民館などで上映されるときなど、特別な思いを持って見に行ったものでした。

そこには、チャップリンやキートン特集などとは違うある種の緊張感がありました、それがどのように「特別」なものだったかというと、たぶん剥き出しの生々しい「権力」の一方的な主張をドラマとして堪能できたからだったと思います。

その「堪能」は「辟易」の間違いではないのか、と思う方がいるかもしれませんが、幼稚ともいえるその一方的な主張に身を委ねる緊張の快感というか居心地の良さというものは、たしかに「あった」と思います。

見ていて気恥ずかしくなるほどの映像の力強さは、当時の(相当広い意味でですが)西側の映画には、すでに失われたものだったかもしれません。

そこで、今回の上映作品リストをあげておきますね。

①スペードの女王1916・監督プロタザーノフ(63分・16fps・35mm・無声・白黒)
②人生には人生を1916・監督バウエル(60分・18fps・35mm・無声・白黒)
③セルギー神父1918・監督プロタザーノフ(106分・18fps・35mm・無声・白黒)
④プライト技師の計画1918・監督クレショフ(22分・18fps・35mm・無声・白黒・不完全)
⑤ポリクーシカ1919・監督サーニン(59分・18fps・35mm・無声・白黒)
⑥ズヴェニーゴラ1928・監督ドブジェンコ(94分・18fps・35mm・無声・白黒)
⑦新バビロン1929・監督トラウベルグ(102分・18fps・35mm・無声・白黒)
⑧帝国の破片1929・監督エルムレル(75分・24fps・35mm・無声・白黒)

以下は、学生の頃に読んだ教科書の受け売りです。

ただ、その頃は、まだ「ソ連」が健在だったわけですから、この手の解説書からは、特殊な臭みを取り除いたり、過剰宣伝に対しては引き算や割り算を駆使したりして、相当痛烈に罵倒される対象については慈愛をもって庇ってあげながら、ひたすら核心だけをつかみ出す独特のテクニックが必要になろうかと思いますが。

無声映画期のソビエト映画においては、幾つかの映画人グループが、さまざまな実験を積み重ね、新しい映画芸術の在りようを模索したといわれています。

たぶん、そういうことは、どこの国でも多かれ少なかれあったと思うのですが、利潤追求から自由であるべきだとしたソビエト映画においては、「それ」が特に顕著だったと書かれていたと思います。

利潤追求というか、つまり「大衆の支持」という「当たるか当たらないか」のバロメーターに左右されないで、ある程度自由な映画作りが許されるとしたら、そりゃあ、純粋培養的な映画ができるかもしれません。

それがソビエト映画の独特の生真面目さと退屈さの基盤は、その身勝手さだったのかも。

さて、その「グループ」は、大きくいって、4つあったといわれています。

その内のグループのひとつが、上記④「プライト技師の計画」1918を監督したクレショフ率いる「クレショフ工房」でした。

1919年に発足した国立映画学校の教授となったレフ・クレショフは、フセヴォロード・プドフキン、アレクサンドラ・ホフーロワ、レオニード・オボレンスキー、ボリス・バルネト、セルゲイ・コマーロフら、同校第一期生で「クレショフ工房」をつくります(1920)。

彼らは、アメリカの西部劇や冒険映画を徹底的に分析・研究して、画面の多様でスピーディな変化と無駄のない合理的な構成を学び取ります。

そして、同じ俳優の同じ表情に、別々のショットをつないだだけで、その表情の意味が変わるいわゆる「クレショフ効果」、別々の場所で撮影したショットを組み合わせて同一場所の出来事のように見せる「創造的地理」の実験も行います。

画面の組み合わせの創造的可能性を追求して、いわゆる「モンタージュ論」への道を切り開きました。

「クレショフ工房」の一員プドフキンは、その経験から、世界最初の体系的な映画の演出原論ともいえる「映画監督と映画材料」1926をまとめあげ、そのモンタージュ論を自作の「母」1926「聖ペテルブルグの最後」1927「アジアの嵐」1928などで実践し、その有効性を証し立てました。

師のクレシェフもまた、「映画芸術―私の経験」1929を書きました。

例えば、あらゆる映画的手法を追求したヴェルトフや、あるいは、モンタージュを駆使してスペクタクルの視聴覚的刺激をいかに効果的に組み立てるかを追求したエイゼンシュテインや、あるいはまた、舞台装置、扮装、俳優演技などの表現派的、構成主義的な追求で映像にエキセントリックな効果を盛り込もうとしたコージンツェフやユトケーヴィチらに比して、この「クレショフ工房」のグループは、ショットの合理的な編集、俳優演技の映画への適用、映画的なストーリー構成の追求に重点を置き、いわば劇映画の創作理論の確立をめざしたという特徴を持っていたと位置づけられました。
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Commented by DiscountOakleyS at 2013-06-24 04:14 x
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Commented by http://124 at 2013-09-08 10:44 x
ロシア・ソビエト無声映画理論 : 映画収集狂
by sentence2307 | 2012-08-30 00:00 | ロシア映画 | Comments(2)