世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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ヒューゴの不思議な発明

この映画を見たあと、ネットでこの映画の当時の惹句を探し回りました。

だいたいこんな感じだったでしょうか。

「1930年代のパリを舞台に、駅に住む孤独な少年ヒューゴが、過去の夢を捨てた映画の父ジョルジュ・メリエスと出会い、彼の頑なな心を開いてゆく、マーチン・スコセッシ監督が、黎明期の映画にオマージュをささげた愛と冒険のファンタジー。第84回アカデミー賞5部門を受賞。」

う~ん、なるほどなるほど、やっぱりそうですよね。

この作品で、スコセッシが、丹念に描いているのは、「孤独な少年ヒューゴ」の方で、時代に懲り残され、駅ナカの小さな玩具店で店番をしていたという映画の父メリエスの晩年の落胆ぶりの方ではなくて(相対的に、です)、単にヒューゴの物語を盛り上げるという「付け足し」みたいな感じになっている、というか、映画史を大学で教えていたというスコセッシのことですから、最晩年のメリエスの落胆の日々と「発見」のイキサツは十分に認識しての映画づくりだったのだと思います。

映画の黎明期を切り開いたメリエスの失意の物語を、十分に抑制をきかせながら、むしろ、「孤独な少年ヒューゴの物語」として描いたあたり、さすが、映画の通人スコセッシの真骨頂ですよね。

直接に「桶屋が儲かった」などと最初から声を張り上げて無粋な語り出しなどせず、「そもそも強い風が吹いてね」とやるあたり、実にみごとです。

実は自分も、晩年のメリエスが、駅ナカの小さな玩具店で店番をしていたという事実を知ったときは、あまりにも意外だったので物凄くショックを受けたことを覚えています。

きっと名声に包まれ、何不自由ない恵まれた晩年を送ったに違いないと思い込んでいたぼくたちの知っていたメリエスの晩年というのは、実は、小売店で店番をしていたところを「発見」され、「救済」されたのちに「庇護」された、そういう状態での晩年だったわけですよね。

その辺の事情(成功と挫折)は、先日WOWOWでこの作品と同時放映されていたセルジュ・ブロンベルグ、エリック・ランジュの「メリエスの素晴らしき映画魔術」(2011)で確認することができました。

実は、自分も、その辺の事情を始めて知ったのは、映画関係の本からではありませんでした、前川道介という人の書いた「アブラカダブラ 奇術の世界史」(白水社)という本によってでした。

この本は、そのタイトルどおり、世界のそれこそ、ギリシャ・ローマ時代から現在までの奇術師たちの逸話を集めた奇想天外なとても面白い本なのですが、このなかにメリエスの最盛と悲惨な晩年とが紹介されていました。

むろん、おもに「奇術師」のエピソードに焦点をあてた本なので、メリエスが映画と出会い、映画にかかわった全盛期を経て破産するまでの事情は、実にあっさりと記されているだけなのですが、むしろその「淡白さ」が、かえって自分にはショッキングだったのかもしれません。

ちょっと引用してみますね。

「彼は既に移動撮影を行い、ガラスの水槽を通して海底の様子を写したりしているが、クロースアップの技術はなぜか使わず、たとえば鍵の大写しが必要なときは巨大な鍵を作らせていたし、別々に撮影したシーンを編集せずに、あらかじめ作っておいた舞台で演じられる物語をそのまま撮影する方法をとった。
そのため競争者が雨後の筍のように現れると、とうてい製作が間に合わず、次第に左前になって、1914年には由緒あるロベール=ウーダン劇場を手放した。
そのうえ第一次世界大戦では全財産を失い、モンパルナスの駅でひっそりと小さな玩具屋を営んでいた。
だが1929年、映画記者がこの落魄した先駆者をたずね当てたおかげで、養老院に収容され、1932年、さびしくこの世を去った。
劇映画は、当時すでに大衆娯楽の王座につき、奇術ショーはさびれていく一方だった。
だが、その映画の創始者が、奇術の熱愛者だったのは、なんとも皮肉な話である。」

最後の「なんとも皮肉な話である」を受けているのは、リュミエールからシネマトグラフの特許を買おうとしたときに、映画の無限の可能性に気がついていなかったリュミエールから言われた言葉をもまた受けています。

「お若いの、わしにお礼を言ってもらわんといかんよ。この発明は売り物じゃない。こんなものに手を出したら身の破滅だ。しばらくは、科学的な娯楽としてちやほやされるかもしれんが、じきに飽きられる、ただそれだけのことさ。商業的な将来性なんか、まったくないからね」

それにしても、1861年生まれのメリエスがモンパルナスの駅の小売店でひっそりと生きていたのを「発見」されたのが68歳、そして、養老院に「収容」され、その3年後に「さびしく」この世を去ったというこの突き放した書き振りが、自分にはずいぶんとショックでした。

そこでつい自分の性分から、このメリエスの晩年の「落魄と失意」「発見」そして「死」に至るまでの経緯をウィキ情報をベースにしながらいろいろな書籍からの記述によって肉付けしながら自分なりにまとめてみました。

まあ、「悪趣味」といえば「悪趣味」には違いありませんが、そこはスコセッシ先生だって、同じような所に心惹かれたからこそ、この「ヒューゴの不思議な発明」を撮ったんじゃないんでしょうか。

しかしなんですねえ、この「不思議な発明」とはずいぶんと軽々しくも余計なタイトルを付けたものですね。こんな罪なシロモノ、いったい誰が考え出したんでしょうかね。えっ、原作のタイトルどおりなの? 

それにしてもねえ、作品の格が一段落ちた感じがします。

《全てを失いモントルーユを追われたメリエスは、ラファイエット通り107番地のアパルトマンに住み、公の場には姿を見せなくなった。

ジョアンヌ・ダルシ、いまは本名に返ったシャルロット・ファエスは、しばしばこのアパルトマンを訪ね、やがて1925年12月10日に結婚した。

メリエス64歳、シャルロット60歳。

シャルロットは、モンパルナス駅で子供相手の駄菓子と玩具を売る小さな店を持っていて、メリエスはここの店番をした。

白い立派な髭、ベル・エポック時代の外套は、駄菓子屋の店番にはいささか奇異だったが、メリエスは10時に出勤し、シャルロットが運んでくる昼食を二人で食べ、午後は一緒に店番をし、駅の乗降客に絵葉書や駄菓子を売っていた。

1928年、週刊誌「シネ・ジュルナル」の社長レオン・ドリュオが、世間から忘れられていたこのメリエスを見つけ出し大騒ぎになり、彼に新たな関心が集まるとともに、業績が再評価された。

1929年12月、パリのプレイエル・ホールで映画人による盛大な回顧展が開催された。メリエスはその回想録で「人生の最高の瞬間を経験した」と記した。

1931年10月、レジョン・ドヌール勲章を授けられた。プレゼンターはルイ・リュミエールが務めた。リュミエールはメリエスを「映画的スペクタクルの創造者」と評した。しかしどんなに賞賛を受けても、生活は楽にはならなかった。Eugène Lauste という映画製作者に宛てた手紙でメリエスは、「運よく、健康状態はよい。しかし毎日14時間休み無く、冬の寒さの中や夏の暑さの中で働き続けることは難しい」と記している。

1932年9月、映画界はメリエスと孫娘マドレーヌと妻ジョアンヌ・ダルシに La Maison du Retrait du Cinéma(パリ南郊オルリーに映画人共済組合によって建設された映画人老人ホーム)の部屋を提供した。メリエスはこれに感激し、あるジャーナリストに「これでパンと住処を心配しなくて済むのは、最高の満足だ」と手紙を書いた。オルリーでは若い映画監督と共同で脚本を書いたりしたが、どれも実際の作品にはならなかったが、ハンス・リスターとミュンヒハウゼン男爵の新たな脚本を書き、アンリ・ラングロワ、ジョルジュ・フランジュ、マルセル・カルネ、ジャック・プレヴェールと共に Le Fantôme du métro と題した作品を構想した。晩年にはラジオに出演したり、プレヴェールと共に広告の仕事を行た。

1935年、ラングロワとフランジュはルネ・クレールを伴ってメリエスと会い、翌年にはオルリーの老人ホーム内の使われていない建物を映画フィルムのコレクションの保管所として借りた。そして、その保管所の鍵をメリエスに預けており、メリエスは後にシネマテーク・フランセーズの一部となるコレクションの最初の管理人となった。結局1913年以降新たな映画は製作できなかったし、1923年以降は舞台に立つこともなかったが、亡くなるまで絵や脚本を書き続け、若い映画製作者らに助言し続けた。

1937年末に重い病気にかかり、ラングロワがパリのレオポルド・ヴェラン病院への入院を手配した。ラングロワが手厚く看護し、死の直前にはフランジュが見舞いに訪れた。彼らが病床を訪れると、メリエスは最後のシャンパンボトルのコルクがはじけて泡があふれている絵を見せた。そして「友よ笑え、私と笑ってくれ。私はあなた方の夢を見たのだから」と言った。

1938年1月21日、パリ市16区のレオポル=ベラン病院で癌により死去した。享年76歳。その数時間前にはもう1人の映画の先駆者エミール・コールも亡くなっている。パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。

なお、メリエスは、約4000本の映画を作ったという説もあるが、これは誤りで、タイトルの変更された同一作品が何度も数えられているためにこの膨大な数字になったのであり、実際には約450本だと言われている。そのうち長さが108メートルを超えるものが100本ぐらいで、残りは20メートル前後の作品である。

シャルロット、かつてのジョアンヌ・ダルシは、1956年まで生き、92歳の長寿をまっとうした。》

(2011パラマウント)監督マーティン・スコセッシ、脚本ジョン・ローガン、原作ブライアン・ セルズニック『ユゴーの不思議な発明』、製作グレアム・キング、ティム・ヘディントン、マーティン・スコセッシ、ジョニー・デップ、製作総指揮エマ・ティリンガー・コスコフ、デイヴィッド・クロケット、ジョージア・カカンデス、クリスティ・デムロウスキ、バーバラ・デフィーナ、音楽ハワード・ショア、撮影ロバート・リチャードソン、編集セルマ・スクーンメイカー、
出演ベン・キングズレー(ジョルジュ・メリエス)、エイサ・バターフィールド(ヒューゴ・カブレ)、クロエ・グレース・モレッツ(イザベル)、サシャ・バロン・コーエン(鉄道公安官)、レイ・ウィンストン(クロードおじさん)、エミリー・モーティマー(リゼット)、ヘレン・マックロリー(ママ・ジャンヌ)、クリストファー・リー(ムッシュ・ラビス)、マイケル・スタールバーグ(ルネ・タバール)、フランシス・デ・ラ・トゥーア(エミーユ夫人)、リチャード・グリフィス(ムッシュ・フリック)、ジュード・ロウ(ヒューゴの父)、ケヴィン•エルドン(フーツ警官)、ショーン・アイルウォード(浮浪児)、アンガス・バーネット(映画館の支配人)、マックス・ロッテスリー(機関士①)、エミル・ラジェ(ジャンゴ・ラインハルト)、エドマンド・キングズレー(撮影技師)、ダグラス・フェアバンクス(バグダッドの盗賊(映像)・ノンクレジット)、チャールズ・チャップリン(トランプ(映像)ノンクレジット)、バスター・キートン(ジョニー・グレイ(映像)・ノンクレジット)、ハロルド・ロイド(ボーイ(映像)・ノンクレジット)、マーティン・スコセッシ(カメラマン・ノンクレジット)
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Commented by longchampoutlet at 2013-06-25 09:50 x
ヒューゴの不思議な発明 : 映画収集狂 <a href="http://www.discoverseagrove.com/membership.asp" title="longchamp outlet">longchamp outlet</a>
by sentence2307 | 2013-03-09 21:55 | マーティン・スコセッシ | Comments(1)