二十四の瞳
2013年 04月 03日
高峰秀子演ずる大石先生は、子供たちの先頭を駆けながら、軽く振り向いて笑顔で子供たちを見守っています。
縄をしっかりと握った子供たちは、連なって満面の笑顔で先生のあとを追っています。
この映画「二十四の瞳」を最初に見たときは(今ではすっかり忘れてしまっているのですが)、きっと最後のシーンの、教え子から自転車を贈られる感動的な場面で泣いてしまったのだろうなという気がします。
しかし、幾度も繰り返して見るうちに、逆に、この冒頭の場面のあまりにも美しく、それだけに一層悲しい追憶の残酷さが僕の胸を締め付けずにはおかなくなりました。
その子供たちの幾人かは戦場で命を落とし、あるいは病没し、あるいは行方知れずとなることを既に知っている僕たちには、楽しそうに遊び興じる子供たちの笑顔の無邪気さを、一層哀切なものとして感じずにはおられないのでしょう。
人が生きていくうえで、何が大切で、何が愚劣なことか。
優れた映画は、本質的なことを一瞬のうちに分からせてくれます。
この映画には、大声で叫ぶようなアジテーションも、激昂した怒りの主張もありません。
辺境の孤島の小さな分教場で、女教師と子供たちとの間に交わされた日々の小さな喜びと悲しみ、その何気ない日常の描写のひとつひとつを、すぐ背後に迫り来る戦争の暗い影を怯えのように感じ取りながら、まるで残された一瞬一瞬を惜しむかのように大石先生との平穏な日々の永遠を切実に願う幼い子供たちのささやかな、そしてあまりにも儚い祈りのように思えました。
心に残る二つの場面があります。
ひとつは、2里の道を歩いて見舞いに来てくれた子供たちに、大石先生がバスの中から気づく場面です。
自分たちが仕掛けた悪戯のために先生に怪我を負わせた罪悪感に泣いている子供たちへ、大石先生は「あなたたちのせいではないのよ」と言いながら抱き締めます。
もうひとつは、貧しさのために、学校を諦めて家のために働いているかつての教え子に逢いに行く場面です。
大石先生は、ただ「がんばってね」と励ますことしか出来ません。
否応なく大人たちの世界に呑み込まれていく幼い子供たちへ、何もしてあげられない自分の無力を大石先生は、悲しむことしかできません。
しかし、何も出来ないと嘆く彼女の深い悲しみにこそ、心から子供を思う人間の本質的な愛情の姿を感じます。
この映画は、これからも鋭い刃のように僕たちの胸を刺し、幼い者たち、力ない無力な者たちへの愛を忘れ掛けた時にはいつでも、人を愛する力の在り場所を教えてくれる作品であり続けるに違いありません。
(1954松竹大船)製作・桑田良太郎、監督脚本・木下恵介、原作・壺井栄、撮影・楠田浩之・音楽・木下忠司
出演・高峰秀子、月丘夢路、田村高広、小林トシ子、笠智衆
1954.09.15 16巻 4,237m 白黒