世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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Ikebana

先週の金曜日の夜、地区の定例自治会がありました。

いつもは、班長さんに委任状を渡してちゃっかり欠席を決め込んでいたのですが、今回はちょっと重要な案件があるということで、久しぶりに出席してみました。

懸案の問題は、やはり、隣り合う班同士に利害の対立があって、夜の9時過ぎまで喧々諤々の討議をしたのですが、その日の決議はできないまま、結局、翌月に継続して審議することに決まり解散となりました。

帰り際、公民館の玄関で靴をはいていると、近所のMさんから声を掛けられました、帰り道が一緒です。

最初のうちは、「やれやれ、お金の負担の話になると、なかなかまとまらないものですな」など短い言葉の遣り取りがあったのですが、すぐに話も尽きてしまい、気まずい沈黙が続きました。

これでなかなかご近所づきあいというのは難しく、自分の家のことをあれこれと近所の人に話すのを妻はとても嫌うので、こんなシュチエーションのときは、余計なことを言わないようにとても神経を使います。

まあ、同じ地区に住んでいれば、いつなんどき利害の対立する問題がシュッタイしてお互いに相反する立場に立たされる場合だってないとはいえませんから、妻のその辺の危惧とか配慮は当を得たものと自分も同意しています。

ですので、懇意している人といっても、なんでもかんでも仲良くべらべら話すというわけにはいきません。

こんなふうなら、むしろひとりで帰ってきてしまった方がよかったかもしれないな、などと考えていたとき、相手のMさんも同じように考えていたらしく、気まずい空気を打ち破るみたいな張りのある声で突然話し始めました。

「日本の『いけばな』を、英語でなんて言うかご存知ですか」

話題そのものは、なんだか唐突な感じがしないでもありませんが、しかし、その唐突さには救われもしました、人畜無害のこういう話題がいいのです。

「『いけばな』ですか。う~ん、Japanese flower arrangementとでも言うのでしょうか」

「いや、それが違うのだそうですよ。英語でもフランス語でも、『いけばな』は、『いけばな』なんですって」

「へ~え、それは意外ですね。flower arrangementではないのですか?」

「ええ、実はね・・・」

Mさんが、日本で暮らしている外国人のために日本語を教えている「日本語教室」でボランティアの講師のひとりとして参加しているのは知っていました。

大手の商社に長年勤め、海外の勤務が長かったMさんは、英語がとても堪能です。

数年前に定年退職して暇になったとき、なにか自分にできるボランティアはないかと探していたときに、市の主催する「日本語教室」で講師のボランティアを募集しているのを知って応募したのだそうです。

つい最近、Mさんから自分にも講師をしないかという勧誘を受けたことがあったのですが、即座にお断りしました。

英語の方は、まるで駄目です、自信がありません。

中学生の最初の英語の授業のとき、アメリカかぶれした英語教師が、wellの発音を自慢げに披露する浅ましい姿に遭遇し(大口を開け、汚い舌をむき出して、さらに大仰に丸めてみせてから、wellとやって見せられ衝撃を受けました)、あのとき以来、あんなカメレオンみたいな真似をしなければ英語が喋れないというのなら、なにも英語なんか話せなくても一向に構わないと決意しました、thでは舌の先を噛まなければならないなどという奇妙な風習も到底受け入れがたく、人前であのような奇妙に表情を作らねばならないということに対して誇りある日本男子としては決して容認することのできないものがあり、その奇妙な異文化を、攘夷の立場でひそかに拒否し続けてきたというわけです。

しかし、拒否といっても、授業で繰り返される最小限度のフレーズなどはどうしても耳に入ってきて、結構身についてしまうもので、オトナになってから不意にポロリとそれが出てしまったりすることがありました(例えば、教師が生徒の注意を促す定番のフレーズlook at meなど)。

数年前のあるとき、朝の通勤電車に乗っていたときのことです、イラン人の家族とおぼしき集団(5人くらいで小さな子供もいました)が、わさわさと乗り込んできました。

そして自分のすぐそばで、なにか盛んに言葉を交わしています、たぶんアラビア語だと思いますが、降りる駅を間違わないようにとでも言っているのか、とても不安な感じでお互いに確認し合っている様子です。

「幾つ目だからよく数えておけとか、あそこに次の停車駅が出るから見逃すなとか、車内アナウンスに気をつけろ」とか、長老(だと思います)が家族に支持していることが雰囲気で分かりました。

そのうちに、その中の背の低い奥さんらしい女性が話しかけてきました、「そらきた」という感じで、言葉はさっぱり分からないものの、駅らしき名前だけを聞き取ろうと集中して身構えていたのが良かったのだと思います、「浜松町」という言葉が幾度も発音されたのを聞き取ることができました。

な~んだ、という感じです。

もちろん「そなたが降りるべき浜松町は、どこそこである」などと話すのは自分には到底無理ですが、ちょうどドアの上に関東近県の停車駅を示す広域地図が掲示されています。

あれを指で示せば、一目瞭然、なんてことはありません。

そこで、ドアのうえに掲示されている広域地図を指で示して「look at me」とやらかしました。

イラン人家族は、少し驚いた様子で私をじっと見つめています。

いやいや違うんだ、この場合の「look at me」は、「あの地図を見よ」という意味なのね、そのあたりの言葉の機微を、このイラン人家族は、まるで理解できていない様子でした。

朝のラッシュ時の混雑した通勤電車のなかで、日本人のおっさんが、まるで自由の女神のごとく、片腕を高々とむなしく差し上げたまま、じっとイラン人家族に見つめられて泣き顔になっているナントモ失笑の構図を思い出すたびに、いまでも顔から火を噴き出しています。おのれは、ゴジラか。

つい話が横道に反れてしまいましたが、Mさんの話に戻りますね。

いくらMさんが「英語が堪能」だからといって、できるだけ英語は使わず日本語で話し通して外国の人に慣れてもらおうというのが「日本語教室」の理想ですから、「英語堪能」というのは、なんだか話がちょっとずれているような気もしますが、案の定、外国人が理解できなくなると、つい英語で助け舟を出してしまうMさんのやり方は、さっそく教室側から注意され、講師仲間からも顰蹙をかったと聞いたことがありました。

「いけばな」の話というのは、最近、その日本語教室に遊びにきた若いアメリカ人のお嬢さんから聴いた話だということです。

彼女、アメリカの大学の日本語学科に籍を置いているだけに、話す方は、もうなんの支障もなく、難解な哲学用語さえも時折織り込みながら自由自在に日本語を操りますが、書く方がまるっきり駄目で、それで「日本語教室」をのぞきに来たのだそうです。

その彼女、来日直後に、学校で(たぶん大学だと思います)日本人の級友と雑談しているとき、数名に「いけばな」を英語で何というかと聞いてみたとき、全員の答えが「Japanese flower arrangement」だったので、大変に驚いたという話でした。

彼女いわく、「いけばな」は、英語でも「Ikebana」、フランス語でも「Ikebana」です。

もちろん、フラワーアレンジメントとは言いません。

たとえば、フラワーアレンジメントでは,花を「飾る」と言うけれども、いけばなでは,花は「生ける」と言います。

その言葉ひとつ取ってみても,この両者には、根本的に美に対するまったく異なる価値観があり、そして、世界でも、すでに日本独自のそうした文化を「Ikebana」として認知しているというのに、当の日本人は、いけばなを「Japanese flower arrangement」などと抵抗なく欧米の文化に言い換えしまって違和を感じない、それは、その国の文化の独自性を認識していないばかりか、みずから放棄・否定しているのではないかという意味でショックを受けたというのです。

フラワーアレンジメントは、いわば花の美の瞬間(いちばん美しいとき)を捉えて、その美しさを最大限に表すものだとすれば,いけばなは,花の美しさの移ろいを愛で、その時間の経過を大切にする芸術だといえます。

たとえば,結婚式で花嫁が手にするブーケは,満開の花に彩られ,花嫁が手にする幸福の最高の瞬間を見事に表しています。

一方で,いけばなは,つぼみの状態の花を生けて,その花びらが少しずつ開いていく様子を楽しむこともあれば,枯れたひまわりを花材にすることだってある。

いけばなのこうした感性は,桜のつぼみを見て心躍らせ,満開の桜を楽しみ,そして散り行く花びらを見て美とはかなさを感じる,そんな日本人が持っている固有の感性に根ざしているひと続きのものだというのです。

いけばなの基本の花型は,長さが異なる3点を中心に,美しい形を追求するもので、日本で数百あるとされる流派においても、基本の花型はほぼ共通していて,例えば,この3点を,草月流では,長い順に「真・副・控」と呼んでいると教わりました。

一般的に,主役になるのは、当然「真」ですが、しかし,大切なのは「真」よりもむしろ「控」です。

「控」がしっかりしていると,「真」の良さをさらに引き出し,あるいは「真」が「控」の美しさを際立たせることにもなる、そこで調和のとれた作品が完成するということです。

これも、フラワーアレンジメントにはない、とても日本的な考え方だと思いませんか。

「それを全部、そのアメリカ人のお嬢さんが日本語で話したのですか、信じられないな」

「そうですヨ、こんなふうに言われたら、自分の国の文化にあまりにも無頓着だったくらいの反省では納まりませんから、ボクだって。驚くよりも、なんだか恥ずかしくなりました」

「そうでしょうね」

この話にとても感心したMさんは、そこで思わずアメリカ人のお嬢さんに、こう尋ねたのだそうです。

「この話は、日本人みずからの文化に対する認識のあり方を否定的に示す象徴的なエピソードとして理解したらよろしいのか」と。

自分「それを日本語で?」

Mさん「いいえ、英語です、自分、英語堪能なので」

やれやれ、なんだかそのとき、そのお嬢さんが、少しいやな顔をしたそうなのです。

当然でしょう、トウモロコシを買い付ける商談じゃあるまいし。

それは、「あんた、いままで私の話をどう聞いていたんだ」という表情にも見えたということですが、そこまで分かっていて、どうしてそういうことを言うかな、と。

しかしまあ、こういうことってありがちなことかもしれませんね。

う~ん、あるある。きっとあるね。

そうですね。じゃ、おやすみなさい。

じゃ。
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by sentence2307 | 2013-05-04 11:55 | 徒然草 | Comments(0)