世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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山中貞雄と小津安二郎

山中貞雄は、「人情紙風船」の封切りの日(昭和12年8月25日)に召集を受けたので、自分の撮った作品を見ずに戦地に行ったという一文を、以前、繰り返しどこかで読んだ記憶があります。

しかし、そんなことが本当にあり得るだろうかとずっと疑わしく思ってきました。

もし、自分の作品を見ないまま戦地に赴いたのだとしたら、その後、山中貞雄が戦地から送ってきた葉書に記されていたという「遺言」(それが本当に深刻な絶望から書かれたものか、それとも一種の照れからそう書かずにいられなかったのかは、手元に資料がないので軽々には結論づけることができませんが)の一節

「『人情紙風船』が自分の遺作ではチトサビシイ。負け惜しみに非ず」

のあの痛切な言葉の整合性が揺らいでしまうのではないかとずっと考えてきました。

素人考えでも、クランク・アップから封切りまでには、それ相応の時間があるわけですから、その間に、たとえ大雑把なものでも、試写だとか、少なくともラッシュ等で自分の撮った作品がどういうものかくらいの確認は十分にできたのではないか、そして、その作品の出来ばえや手応えを認識したうえでの、あの「チトサビシイ」という言葉が発せられたのだとしたら、と違和感のようなものを覚えたのでした。

また、その当時、この言葉を伝え聞いた友人たちが、それをどのように受けとめ、そして、どう感じたのかも、ずっと自分にとっての一番の関心事でした。

それはそうでしょう、誰もが認めるあれだけの傑作に対して、また、本人もそのことを十分に認識していたとして、なお、あえて「遺作ではチトサビシイ」といったとしたなら、それは随分と傲慢で不遜な響きのもつ言葉だったのではないかと解されても、あるいは仕方ないことだったのではないかという危惧がずっと自分のなかでわだかまっていました。

しかし、あるとき、自分が、いつの間にか山中貞雄という人物を、勝手に川島雄三のような人物だったのではないか、と無理やりにこじつけて理解しようとしているのではないかと気がつきました。

もちろん、そうでもしなければ、明治生まれの山中貞雄という人物の純粋性を現代の僕たちがいくら理解しようとしても、到底適わないことだという絶望的な気持ちがあったからだと思います。

それは、そのあまりにも長大な時間の経過によって、すっかり変質してしまった日本人の感性を、「現代の感覚」しか持ち合わせていない僕たちが、「敗戦」という壁を越えて正当に読み解くことができるのかという絶望でもありました。

ともに人生の限られた時間に追い立てられ、そして脅かされながら、焦燥感のなかで命を燃焼させたという意味では、このふたりには共通するものがあり(その思いはいまでも変わりませんが)、山中貞雄という人を理解するうえで、どうしてもイメージの重なる「川島雄三の生き様と焦燥感」を借りて無理やりな理解で捻じ伏せることでしか、山中貞雄の純粋性にアプローチする方法がなかったということは、たぶん大いにあり得たことだったと思います。

つまり、当初自分が、山中貞雄のあの遺言の一文のなかに「照れ」とか「不遜」とかという一種の韜晦の感情を仮に織り込んでみようとしたのは、それは結局、川島雄三の生き方を便宜的に投影させてみようとした何の根拠もない試みにすぎず、単なる当てずっぽうの無謀な仮定にすぎませんでした。

戦後の日本が、ある程度の経済発展を遂げて豊かになり、もはや食う心配も死ぬ心配からも解放されて、徐々に平和ボケしていった弛緩の時代の只中にあって、虚栄に翻弄され蝕まれた頽廃の人々に囲まれながら、自らの純粋性を守ろう、誰からも傷つけられまいと見構えれば、その「一種の照れ」や「不遜」は、当然川島雄三こそが必要とした固有の武器だったはずで、しかし、それは戦後の糜爛期に精いっぱい強がって生きなければならなかったどこまでも川島雄三限りのものでしかないのは当然なことで、それをそのまま山中貞雄にあてはめようとしたことは、所詮、根拠のない無謀な発想だったのであり、強引なこじつけでしかなかったのだと気がつきました。

つまり、山中貞雄という人物を理解するうえにおいて「一種の照れ」や「不遜」などという観念は、まったく無縁のものだったということに思い至りました。

厳しい時代状況のなかで将来の見通しが断たれ、生きる希望を奪われた絶望のなか、山中貞雄は、ただ単に、もっと映画が撮りたいと、それでも遠慮がちに、悲痛な叫びを上げていただけだったのです。

今回、「人情紙風船」について書かれた多田道太郎の「ある時代映画のイロニー」という論評を読みました。

この短文を読みながら、いままで自分が長い間認識違いをしていた部分を発見したので、ちょっと驚きました。

それは、酔いつぶれて寝入っている夫の又十郎を、妻のおたきが懐剣で刺し殺して、夫婦心中をはかろうという凄惨な場面についての解釈です。

妻のおたきが、夫・又十郎を殺害した理由というのが、町娘をかどわかすという悪事に加担した夫が次第に武士の誇りを失っていくことに妻は失望し、武家の面目を保つために殺害→心中に及んだのだと書かれている部分です。

そうか、そのように理解すれば、すべての辻褄が合うと、はじめて納得したのですが、しかし、そうだとすると、このおたきという妻は、なんと冷たい女なのだ、そして、その冷え切った夫婦関係というぞっとするような設定を平然と据えることのできる山中貞雄の冷厳な人間不信の視点にも呆然とさせられました。

それまで、自分は、この夫婦が死に至る理由を、以下のように勝手に思い込んでいたのでした。

冷たい世間から理不尽な辱めを受けて苦しんでいる不器用な夫を妻は憐れみ、もはやこれ以上耐えさせるのはムゴイことと悲観した妻のおたきは、夫を世間からの辱めと苦しみから解放させるためには、いっそのこと夫を殺し自分も死ぬしかないと思いつめて夫の殺害に及んだのだと思い込んでいました。

その先入観の根底にあったものは、「妻は夫を慕いつつ」みたいな、あまりにも世俗的な軟弱な楽観です。

しかし、山中貞雄が、妻というもの、夫婦というものをそんなふうに甘々に捉えてはいなかったことを知り、「人情紙風船」という作品がそうした映画だったのかと始めて気づき、人間に対する見方の自分の幼さを叩き潰されたようなショックを受けたのです。

同時に、この男女関係に対する観念の冷ややかな感覚は、この山中貞雄で始めて感じたものではないという思いは、自分の中のどこかにありました。

しかし、その感覚にどこで接したのかまでは、しばらくはどうしても思い出すことがではきませんでしたが、じきに思い出しました。

小津安二郎の女性に対する距離の取り方、その視点の冷徹さに相通じるものなのではないかと。

そして、多田道太郎の「ある時代映画のイロニー」を読んでいたら、不意に稲垣浩の山中貞雄への追悼文なるものに遭遇しました。

それが以下の文章です。

「『彼は、外貌天真爛漫な顔をしてゐますが、本当は淋しい男でした。彼の生涯は母と友人の他に何物もなかったと云へませう』と稲垣浩は山中を追悼している」

この文章の文末にはその出展として「前掲書、374頁」とだけ記されていますが、「前掲」とおぼしき箇所にはふたつの書名が掲げられていて、はたして初出の「キネマ旬報1938.10.11号」か、後出の「山中貞雄作品集3巻391頁」かのどちらを指しているのか迷ったのですが、まあ、いずれかの374頁であることには違いなく、という納得をとりあえずしておきました。

この一文からすると、知人友人が少なかったというクダリはたぶん小津監督には当てはまらないにしても、同居をしつづけた母親を生涯大切にしたという部分、そしてその一方で、女性を遠ざけ伴侶を持たなかったということなら共通すると思います。

つまり、俗っぽく下世話に言ってしまえば、自分だけの性欲を満たすことよりも、まず母親を大切にすることをなによりも優先したということでした。

多くの小津作品には生活の困窮のために(そこに積極的な意図はなくとも)、あるいは配偶者からの異論に板ばさみになりながら、仕方なく老いた親をないがしろにしなければならない立場に追い込まれる成人した多くの「子供たち」が登場します。

そういうシュチエーションなら、あらゆる小津作品の随所に仕掛けられているかもしれません。

生活に追われ困窮しきっているその成人した「息子や娘たち」は、貧しいため親をおろそかに扱わねばならないことに、それなりに苦しみながらも、結局なにも為しえないままに、成り行きにまかせるしかありません。

その「成り行き」ということを、小津安二郎は、その辛辣な映像の連なりをもって「親を見捨てる」ことと同じではないかと、抑制された静かな怒りを込めて痛烈に看破しています。

数年前、近所でこんな話を耳にしたことがありました。

長年、独身の息子さんとふたりだけの暮らしを続けてきた母親が、高齢のために体の自由が利かなくなり、息子に負担をかけまいと、息子の定年を機会に自分からすすんで「特養老人ホーム」に入所することを希望したそうです。

しばらく空きを待っていたようですが、ようやく少し離れたホームの小奇麗なひとり部屋に入所することができました。

当初、その息子さんは、「やっと自分も定年になったのだから、これからは付きっ切りで母親の面倒をみてあげられるのに、なんとも皮肉なものですね」と苦笑されていたということですが、入所してから一年も経たないうちに、母親は物忘れが激しくなり、息子と他人との区別がつかなくなっているらしいことが、だんだん分かってきました。

「らしい」というのは、「分かっている」ことを懸命に装っているので、「らしい」なのですが、そういう母親のことを気遣って話すときの息子さんの淋しそうな顔を見るのがとても辛いと、妻は話していました。

この前もこんなふうに言っていたそうです。

「このさき記憶をなくしてしまったら、自分を支えてくれるのが誰なのか分からなくなってしまう、本当のひとりぼっちになってしまうと母は不安なんです。だから見捨てられまいと誰に対してもとても愛想がいい、介護の誰にもまるで『息子』のように接します。もちろん私に対してもまるで『息子』のように愛想よく接してくれますよ」

苦笑しながら話すその息子さんの表情は、とても辛そうだったそうです。

その息子さんには、他県に住んでいるやはり独身の弟がいて、たまに顔をみせていたようですが、母親が自分の子供が認識できなくなっていると分かると、ぷっつり姿を見せなくなってしまったそうです。

「なんで母に会いに行ってあげない」と兄は、はげしく弟をなじったところ、弟はこう言いました。

「もう子供の顔が分からないのだから、会いに行っても無意味じゃないか」

記憶も失い、自分の子供も分からなくなってしまった母親を、弟は、あれはもう自分の母親じゃないと否定します。

この話を聞いて、「なるほど。人は、こうやって親を見捨てるのか」(見捨てることを納得するのか)と感じました。

《小津安二郎は、その辛辣な映像の連なりをもって、それでは「親を見捨てる」ことと同じではないかと、抑制された静かな怒りを込めて痛烈に看破しています。》と書きながら、老いた母親と同居し、生涯あたたかく見守り続けた小津安二郎の生きる姿勢に打たれました。

小津安二郎の目の前で共に暮らし続けた母親は、どのように老い、どのように変わり果てようと、いつまでも常に幼い自分を愛し続けてくれた同じ母親のままであり、その姿を見失うことのなかった希有な人だったのだと思います。

昭和37年2月4日、母あさゑ死去。
昭和38年12月12日、12時40分、小津安二郎死去。
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by sentence2307 | 2013-05-06 11:17 | 山中貞雄 | Comments(0)