世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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漱石と八雲

先週、とても興味深い記事を読みました。

旧制五高教授だった漱石(英国留学を間近にしていました)が、友人から借金の返済を受け、その予期せぬ入金にとても喜んでシタタメタ受領報告の自筆の手紙(明治33.6.26付)が東京の古書市場で発見され、熊本県立熊本近代文学館がそれを買い取って公開しているという記事です。

ひそかに喜ぶというのならまだしも、いよいよ渡英が迫っているときに金銭上の用意がまったくなく苦慮していたところへ、思わぬ返済を受けて「幸ひに御送金被下少々くつろぎて候」と予期せぬ入金を素直に喜び、わざわざ礼状を出すというあたりが、文豪らしからぬ実にこまごまとした人のよさを感じましたが、それにしても、漱石の生活がそれほど不安定だったことは意外でした。

もっともその友人というのは、漱石が帝国大学に学んだ頃からの親友(菅虎雄1864-1943、久留米市出身のドイツ語学者)で、「坊ちゃん」の舞台となった松山や旧制五高(現・熊本大学)の英語講師の職を紹介した人物であったことを考えれば、人一倍人見知りが強く他人には過剰な警戒心を持っていた漱石でも、最初から胸襟を開いた親密な間柄だったことが、そうした気安い礼状を書かせたのでしょう。

この記事を読みながら、以前読んだもうひとつの記事のことを思い出しました。

それが今年だったのか去年の記事だったのかは判然としませんが、小泉八雲の講義(の板書き)を筆記した五高生の講義ノートが見つかったという記事でした。

内容は、日本人の生徒に英語の語彙を根本から理解させようという精緻に工夫された講義ということが窺われるノートだったそうで、ネットで紹介されていたものを再録しますね。

《congratulate(祝う)は、ラテン語のcon(一緒に)とgratulate(喜ぶ)に由来します。人を祝う言葉であり、物には使いません。
bodyは、日本語の「体」のような使い方はせず、会話で「my body」とは言いません。通常、bodyという語を使うのは死体を意味するときです。》

しかし、漱石の手紙の記事を読んで、八雲のこの講義案の記事のことを連想したのは、なにも偶然でも唐突だったわけでもありません。

明治29年、親友・菅虎雄の紹介で漱石が英語の講師として赴任した熊本県第五高等学校の職は、その2年前に退任した小泉八雲の後任ということでした。

いままでも時折「漱石と八雲」の奇縁の話に触れるたびに興味深く感じていたので、漱石の手紙の記事を呼んだとき、すぐに八雲の講義案を連想したのだと思います。

そこで、ふたりの年譜を重ね合わせたらどうだろうと思い立ちました。なにかが分かるかもしれません。

《▲=ラフカディオ・ハーン、★=夏目漱石》

【1890年(明治23年)】
▲女性ジャーナリスト・エリザベス・ビスランド(アメリカでのハーンの公式伝記の著者)から日本の素晴らしさを聞いたラフカディオ・ハーンは、日本渡航を決意する。通信員として4月4日横浜港着。7月、文部省普通学務局長の斡旋で、島根県松江尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に任じられる。8月30日、松江着。

【1891年(明治24年)】
▲1月松江の士族小泉湊の娘・小泉セツと結婚。11月、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師となる。

【1893年(明治26年)】
★7月帝国大学卒業、大学院に入学。10月高等師範学校(後の東京高等師範学校)の英語教師となる。

【1894年(明治27年)】
▲神戸市のジャパンクロニクル社に論説記者として就職、神戸に転居。執筆に専念する。「知られざる日本の面影 (Glimpses of Unfamiliar Japan)」「鳥取のふとんの話」、「日本人の微笑」、ほか

【1895年(明治28年)】
▲「東の国より (Out of the East)」
★4月松山中学(愛媛県尋常中学校)(愛媛県立松山東高等学校の前身)に菅虎雄の口添えで赴任。12月貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と見合いし、婚約。

【1896年(明治29年)】
▲東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職。日本に帰化し「小泉八雲」と名乗る。「心 (Kokoro)」
★4月熊本県の第五高等学校講師となる。6月中根鏡子と結婚。7月教授となる。

【1897年(明治30年)】
▲「仏陀の国の落穂 (Gleanings in Buddha-Fields)」「人形の墓」、「勝五郎の転生」、ほか

【1898年(明治31年)】
▲「異国風物と回想 (Exotics and Retrospectives)」

【1899年(明治32年)】
▲「霊の日本にて (In Ghostly Japan)」

【1900年(明治33年)】
▲「影 (Shadowings)」「和解」、「死骸にまたがる男」、ほか
★5月イギリスに留学。
【1901年(明治34年)】
▲「日本雑録 (A Japanese Miscellany)」 「守られた約束」、「破られた約束」、「果心居士のはなし」、「梅津忠兵衛」、「漂流」、ほか
【1902年(明治35年)】
▲「骨董 (Kotto)」幽霊滝の伝説、茶碗の中、ほか
【1903年(明治36年)】
▲東京帝国大学英文学講師解雇(後任・夏目漱石)。
★4月第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。

【1904年(明治37年)】
▲3月早稲田大学の講師を勤め、9月26日に狭心症により東京の自宅にて死去、満54歳没。「怪談 (kwaidan)」耳なし芳一のはなし、むじな、ろくろ首、雪女ほか、「日本 ひとつの解明 (Japan: An Attempt at Interpretation)」
★4月明治大学講師を兼任。

【1905年(明治38年)】
▲「天の河綺譚その他 (The Romance of the Milky Way and other studies and stories) 」
★1月「吾輩は猫である」を『ホトトギス』に発表。

【1906年(明治39年)】★4月「坊っちゃん」を『ホトトギス』に発表。
【1907年(明治40年)】★4月一切の教職を辞し、朝日新聞社に入社。職業作家としての道を歩み始める。6月「虞美人草」を朝日新聞に連載
【1909年(明治42年)】★3月養父から金を無心され、そのようなことが11月まで続いた。
【1910年(明治43年)】★6月胃潰瘍のため内幸町長与胃腸病院に入院。8月療養のため修善寺温泉に転地。同月24日夜大吐血があり、一時危篤状態に陥る。10月長与病院に入院。
【1911年(明治44年)】★2月文学博士号を辞退。

【1913年(大正2年)】★1月ノイローゼ再発。3月胃潰瘍再発。5月下旬まで自宅で病臥した。
【1914年(大正3年)】★4月「こゝろ」を朝日新聞に連載
【1915年(大正4年)】★6月「道草」を朝日新聞に連載
【1916年(大正5年)】★5月「明暗」を朝日新聞に連載、12月9日死去。


ラフカディオ・ハーンが熊本の第五高等学校で英語教師を務めたその後に漱石が同じ英語教師を務めています。

そして2年間の英国留学から帰国した漱石は、1903年、ふたたびハーンと入れ替わりに東京帝国大学の英文学の教授の職につくことになります。

1896年に招聘され1903年まで東京帝国大学で英文学史などを平易な英語表現を駆使したハーンの講義の評判は相当高く、学生に親しまれていたので、大学から解雇されたとき、ハーンを慕う学生たちは留任運動を起こしたくらいだったと伝えられています。たぶんそれは、大学側の外国人教師に対する理不尽な扱いへの怒りが込められていたのかもしれません。

そういう空気のなかで(すぐれた教育者だったハーンと比較されることになる)後任の漱石の立場は相当厳しいものがあったに違いありませんし、事実学生たちの評判もすこぶる悪かったといわれています。ハーンを慕う学生たちからの反感もあったかもしれない。

漱石の妻・鏡子の聞き書き「漱石の思い出」(松岡譲筆録)によればその辺の事情はこんなふうに語られています。

「小泉先生は英文学の泰斗でもあり、また文豪として世界に響いたえらい方であるのに、自分のような駆け出しの書生上がりのものが、その後釜にすわったところで、とうてい立派な講義ができるわけのものでもない。また学生が満足してくれる道理もない」と。

察するに、明晰だったにしろ漱石の教え方は、学生たちの理解をのんびり待っているほど辛抱強いものではなかったことは、容易に想像ができます、それはちょうど「坊ちゃん」で描いていたあの通りの短気なものだったと考えられます。

英国から持ち帰った「科学的・体系的な文学研究」をなかなか理解しない学生たちに苛々し、ときには癇癪を起こして、理解の遅さに怒りを露わにすることもあったかもしれません。

少なくともそれは決して辛抱強さを求められる「優れた教育者」のものではなかったとだけは断言できます。

しかも、そのことごとくを、学生に寄り添い、学生たちの理解のためには様々な工夫をこらすことに労を惜しまなかった優れた教育者・ハーンと常に比較されてしまう苦痛は、並大抵のことではなかったと想像されます。

しかし、文豪の名に相応しからぬその度量の狭さもまた、漱石の魅力でもあるのですが。

やがて神経衰弱を悪化させて教職から退くこととなる漱石は、日本文学の新たな地平を切り開くべく旺盛な執筆生活に入っていきました。
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Commented by mbt shoes at 2013-12-06 17:16 x
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by sentence2307 | 2013-07-09 21:29 | 映画 | Comments(2)