世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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杏っ子

この成瀬作品「杏っ子」を見るたびに感じることがあります、もし、予備知識なしにこの作品を見たとしたら、自分的に、はたして、別のもっと好意的な見方の選択肢もあり得たのだろうかと。

とにかく、成瀬巳喜男作品です、映画ファンを自認するなら「好意的に見る」という立場にはどこまでも固執すべきで、ある程度「まず評価する」という立場の拘りをもって作品に対してもいいのではないかと常日頃考えている自分です。

例えば、あの戦後民主主義映画の珍品「浦島太郎の後裔」1946でさえ、自分はどうにか評価しようと最後まで格闘したくらいの、どこまでも誠実な「成瀬の味方」のつもりでした。

確かに「浦島太郎の後裔」には、好意的な評価の余地は有り得たと思うし、「全否定」というのもなかったと思います。

しかし、この「杏っ子」に限っては、どのような資料を読んでも、この映画の評価の低さには驚くべきものがあります、その有無を言わせぬ断定的否定は、まさに「一蹴する」という言い方が相応しいくらいです。

自分が接した決定的な「一蹴」批評は、田中純一郎の「日本映画発達史Ⅳ・史上最高の映画時代」(中公文庫 昭和51.3.10刊)303頁に書かれていた僅か一行の
「出来栄えは薄汚い」
でした。

なんだよこれは、あの「浦島太郎の後裔」でさえ、結論的に結局は否定だったとしても、そこに至るまでの「やんわり」という節度くらいは一応保たれていたではないか、という憤りに似た思いは当然ありましたが、それでも全否定と改めて念押しされてみれば確かにそうかもしれないなという思いもあります。

「浦島太郎の後裔」は、作品自体なにが言いたいのかさっぱり分からない(世評もそう一致していました)からこそ、「やんわり」程度の仄めかしで十分「否定の意志」は通じたのであって、せいぜいのところ「スミス氏都へ行く」と「ターザン」あたりが合わさった「民主主義バンザイ」映画らしいということがなんとなく通じれば批評としてはそれで十分合格点だったのですが、しかし、この「杏っ子」に限っては、そうはいきません。

作品の言いたいことはよく分かる、「よく分かりすぎる」分だけ、その欠陥は決定的・断定的に徹底して否定されなければならなかったのだと思います。

この作品が言いたいことは、「才能のないやつは、小説なんか書くなよ。せいぜい金でも稼いでろ、まぬけ」です。

小説家になることを夢見て小説を書き続けるそういう夫(そのどこが悪いわけ、と言いたい)を妻・杏子は励ますどころか、彼の「金を稼げない」ことだけを理由に軽蔑の眼で見下し、最初から「あんたなんかね、うちらの父親に比べたらさあ、ただのクズなのよね」などとほざき倒し、あまつさえ夫の人格までをも否定しくさり、なにかというと大作家の父親の名声を持ち出してはひけらかすという実にどうもその鼻持ちならない高慢さといったら、単に大人=妻になりきれない未熟なうすらバカの娘がいるというだけのことなのです。

その背景には常に大作家・平山平四郎が大きく立ちはだかり、自分の取り巻き(大作家ですから当然いるわけですネ)を総動員して婿をいたぶり、さらに追い詰めて、八方ふさがりにおちいった失意の婿に、薄ら笑いを浮かべて「ざまあみろ」と罵倒しているようなグロテスクさです。

そりゃあね、大作家だかなんだか知らないけども、毎日毎日「無能野郎」呼ばわりされて締め上げられれば、誰だって素直になんかなれません、しかも嫌味っぽく「お父さんのおみやげヨ」などといわれたって、思わずカッとくるのがせいぜいで、恐る恐るでもそんな禍々しいもの、蹴りつけずにはいられよかてなものですよね(映画の場面でもそんな感じの情けなさがよく表現されていました)。

この物語のすべてが、大作家の視点から歪められて一方的に描かれているので、「娘には同情的、婿には否定的」な偏見に阻まれた、そのまた向こう側に隠されてある「真実」を見透すことは、たとえ最終的にはこの成瀬作品を否定しなければならないとしても、成瀬巳喜男ファンとしては、きわめて必要で重要な責任ある作業だろうという認識でこの考察を進めました。

だいたい、この娘・杏子が、結婚相手を決めるまでの過程に、幾つか不自然な点のあることを指摘しないわけにはいきません。

高名な小説家・平山平四郎(山村聰が演じています)一家が、東京の戦火を避けて高原の町に疎開してくるところから、この物語は始まっています。

しかし、疎開先でもやはり物資不足で、なにかと不自由する平山一家に、近所に住むラジオ修理業の青年・漆山亮吉(木村功が演じています)は、日用品の買い付けなど、なにくれとなく世話をみてくれます。

一方、婚期にある平四郎の娘・杏子(香川京子が演じています)には、世話する人があって、その紹介で東京から見合いの相手がひっきりなしに訪ねてくるという日常が続いていますが、杏子はどの見合い相手も物足りなく、イマイチ結婚相手を決めかねているという状態です。

あるとき、東京から、法務省の役人で伊島という見合い相手がやってきて、彼の女扱いに馴れた柔らかな物腰にとてもリラックスできた杏子は、伊島にすこし気持ちを動かされます。

そんなおり、杏子と伊島の二人の姿を見かけた亮吉が、あとで杏子に「自分は戦地で伊島と会ったことがある、そのとき彼の不潔な面を見た」と伝えます。

どういう「不潔」なのかは、杏子にも観客にも、はっきりとは知らされずに、その事実は隠されたまま、一方的に想像を掻き立てられ、妄想の中でだけ「卑猥さ」は増幅されて、実際以上の得体の知れない妄想の怪物に膨れ上がってしまったかもしれません。

さらに亮吉は平四郎に、「あんな男が求婚できるのだから、自分にも求婚する資格がある。杏子さんを自分にくれ」と杏子と結婚したい旨の希望を伝えます。

現実問題として他人から「彼の不潔な面を見た」などといわれたら、それがどのような「不潔」なのか、さらに問いたださずにはいられないはずです、それが人情であり道理というものでしょう。

問いただせば、なんだそんなもの「不潔」でもなんでもないじゃないか、問題にもならないと、あるいは、当人だけが「不潔」と感じる程度の主観的な感想に留まる、取るに足りないことと判明するかもしれません。

いや、むしろ、それを「不潔」と感じてしまうこと自体に、彼の異常な潔癖さ、道徳的限界の危うさを示している、彼自身の異常さの証明になってしまうものなのかもしれないのです。

それに、「(不潔な)あんな男が求婚できるのだから」という不潔をひとつの尺度とする考え方こそ、とても奇妙な歪んだ発想といえます。

しかし、ここでは、なによりも、そういうこと一切を追求しようとしない杏子の無関心さこそ、とても奇妙で、いちばんに疑問としなければならないことかもしれません。

そして、父・平四郎が、亮吉と結婚する意志はあるのかと杏子に尋ねる少し前のシーンに、杏子が、平四郎に読んでもらうために亮吉が託した原稿を、ひそかに見るという場面が挿入されていました。

しかし、なぜ、ここにこのような場面を挟む必要があったのかが、どうしても解せないのです。

「亮吉の原稿を読む」→「亮吉との結婚を承諾する」と続くならば、彼女は、当然亮吉の才能をある程度認めたと解さなければこのストーリーはとても不自然になってしまいます。

そして、ひとたび彼の才能を認めたのならば、父親がなんといおうと自分の直感を信じて、愛する人=伴侶に自分の人生のすべてを賭けるべきだと考えるのがフツーの人の考え方です。

たぶん、ここでいう「貧乏」というのは、別の次元の問題なのであって、「貧乏」だから「不幸」だとするのは筋違いの逸脱の論理でしかない。

あるいは、物語の中で杏子が言っていた「父親の書いたものは一切読んだことがない」という言を信じるのであれば(敷衍して「彼女には小説の巧拙が分からない」としても)、彼の才能を信じる、という彼女の思いをいっそう妨げないものと考えられます。

過保護親父が未熟なドラ娘をあたかも自立した良識ある女性であるかのように「えこひいき」して無理やり描こうとしたことに、この物語の破綻のすべての原因があるように思えて仕方ありません。

この小文の締め括りに、室生犀星の娘・朝子と結婚し、そして別れた「青木和夫」なる人物の劇的な「その後」をインターネットで検索し、大向こうをアッと言わせるような事実を探してみようとしたのですが、残念ながら興味をそそるようなネタなどなにひとつネットには転がっていませんでした。

しかし、負け惜しみではありませんが、その荒涼とした空白は、才能なきひとりの青年が、絶望の果てについには口を噤まねばならなくなった虚の深さをそのまま表しているように思えてなりませんでした。

あるいはまた、観客からは決して共感を得られることのない不毛な役・杏子を懸命に演じた香川京子にしても、泥沼のような役に必死に取り組むことで「現実」の深みに嵌り込み、リアルかもしれないが「女優」である必要性も同時に失ってしまうような演技の荒廃ぶりには、ただ暗然とするばかりでした。

これがあの「東京物語」において背筋を伸ばして気高く高潔な娘役を演じた香川京子と同じ人物なのかと眼を疑いたくなり、暗澹たる欝に見舞われたことをひとこと申し述べておかなければなりません。

(1958東宝)監督・成瀬巳喜男、脚本・田中澄江、成瀬巳喜男、原作・室生犀星、企画・森岩雄、製作・田中友幸、音楽・斎藤一郎、撮影・玉井正夫、美術・中古智、録音・藤好昌生、宮崎正信、照明・石井長四郎、編集・大井英史、チーフ助監督・川西正純、製作担当・島田武治、整音・宮崎正信、現像・東宝現像所、
出演・香川京子(平山杏子)、山村聰(平山平四郎)、夏川静江(平山りえ子)、太刀川洋一(平山平之助)、木村功(漆山亮吉)、中北千枝子(漆山すみ子)、三井美奈(山本りさ子)、中村伸郎(八木原俊雄)、小林桂樹(田山茂)、加東大介(菅猛雄)、賀原夏子(村井えん子)、沢村貞子(鳩井夫人)、佐原健二(鳩井息子)、林寛(佐藤博士)、千秋実(吉田三郎)、三田照子(吉田さち子)、藤木悠(岡田)、土屋嘉男(伊島)、河美智子(杏子の友人)、佐田豊、馬野都留子、森啓子、林幹、北野八代子、江幡秀子、河辺昌義、三浦常男、草間璋夫
11巻 2,991m 白黒
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Commented by cheapoakleys at 2014-09-07 09:17 x
If any one wishes to be a successful blogger, afterward he/she must read this post, because it carries al} methods related to that.
by sentence2307 | 2014-08-16 20:26 | 成瀬巳喜男 | Comments(1)