世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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晩春

先週、ある新書判に遭遇しました。

書名は、「原節子、号泣す」(末延芳晴著、集英社新書、2014.6.22刊)です。

なにしろ、書名があまりにも刺激的・挑発的なので、思わず手にとって、一気に読んでしまいました。

要するに、この本のテーマは、小津作品、特に「晩春」「麦秋」「東京物語」に出演した原節子の泣くシーン(それこそ号泣する場面です)を取り上げて個々の作品の分析を試みたものですが、一気に読み通した感想としては、はたして、ただの生理現象にすぎない「泣く」という行為の分析が、作品を読み解くうえでそれほど重大なことなのだろうか、それがどこまで意味あることなのかと、まずは疑問に捉われてしまいました。

それについて著作中で筆者もちょっと言及しています。

映画の中で女性の「泣く」という姿は、それ自体、見た目がド派手なので、どうにか「絵」にはなるかもしれませんし、「クライマックス」に相応しい盛り上がりだって一瞬はもたらすかのように見えてしまうかもしれませんが、しかし、ただそれだけでは、結局「孤立した絵」にしかならず、どこにも繋がらなくなる虞がある、要するに、その先のストーリーの流れに、どう繋げていくのかが問題なのであって、そこに精密な計算がないと、かえって、ただ作品展開を滞らせてしまうだけの(悪く言えば)障害にもなりかねないダメージの部分もあるのではないかと述べています。

目の前で、突然女性に泣かれてしまい、途方にくれてしまったことなら実体験として結構あります。

じっくりと話さなければならない大切な話を、突然泣き出されて中断せざるを得ず、話を中途で折られたまま、ついにお互いの意思を確認できずに苦い終わり方をしなければならなかった経験からしても、映画の中の「号泣」だって、同じように諸刃の剣的な「効果と障害」があるに違いないと思いました。

しかし、個々の内容はともかく、「小津安二郎」の世界に真正面から取り組もうとした真摯な姿勢に、正直感銘を受けたことは確かです。

そして、この本を読みながら、自分がいままで映画評論という分野になぜ興味を持ち、惹きつけられてきたのか、気づかされた思いがしました。

これは常日頃感じていることですが、日本における「映画評論」という分野の歴史がまだまだ底浅く、スタンダードな著述が少なすぎて質的に十分に成熟していないのではないか、確固たる本質論が不在のなかで、奇を衒い論点をはずした稚拙・無謀な傍論だりが幅を利かせ氾濫して、僕たちはそんなものばかりを読まされてきたような気がします。

スタンダードを欠いたこうした現状への飢え感と苛立ちが、「映画評論」に近づけた理由だったのかもしれないと、この本を読みながら感じた次第です。

総合芸術といわれるくらいの「映画」なのに、それを評するライターといえば、ごく偏った知識だけを駆使してサッと「あらすじ」をなぞる程度か、「偏っ」てるくらいならまだマシなほうで、それこそ映画など興味も関心もない原稿料狙い「小金稼ぎのヤカラ」が我がもの顔で跳梁し、もっともらしく斜にかまえるスタイルだけは一応イッチョマエ、せいぜい世の中を歪めて見ることくらいしかできない拗ね者・捻くれ者の論法だけで、映画の基盤となっている文学=ストーリーを真正面から読み解こうとすることもなく、せいぜい「あらすじ」か周辺情報を紹介する程度で、本質論を語れないまま論点をはずし、狭い偏見を駆使しただけの傍論が堂々と幅を利かしている、そういう稚拙な世界(業界)なのだということが、自分をずっと苛立たせてきたのだと思います。

そのひとつの現われが、さんざん読まされてきた「晩春」における、あのなんとも下品でオゾマシイ「父娘・近親相姦論」でしょう。

小津安二郎が生きていたら、こんないかがわしい解釈(ここまでくると、これはもう解釈以前の妄想でしかなく、せいぜいアダルトビデオの発想程度です)をされること、そういう侮辱的な評価が堂々とまかり通っている異常な事態に対して激怒するのではないかと思うくらいの暴論です。

もう本当に正直うんざりなのです。

たぶん批評家ご本人は、有り余る知識をひけらかしたくて、こんなふうに奇を衒ったことでも書き散らせば(それ自体、もはや甚だしい時代錯誤の発想にすぎませんが)、大向こうを唸らせられるとでも勘違いしたのでしょうが、しかし、それこそが猿の浅知恵というもので、ただ長生きして生き残り、先輩が死に絶えて自分に発言の順番が回ってきただけの「ご仁」の薄っぺらな世迷言を拝聴しなければならないという災厄をこうむるのは、いつの時代でも、同時代に生きる者たちの避けがたい呪われた宿命なのかもしれませんが、スタンダードの存在しない世界で、いくら奇を衒った傍論(もちろんあの「父娘・近親相姦論」です)をぶち上げても、それは所詮ただの駱駝のゲップ程度の影響しか世の中に与えることしかできません。

しかし、「晩春」という作品が、いまだに正確な読み取りは為されていないながらも、あの作品が描いた「スタンダード」な理念は、厳然として、やはりその作品のなかに存在しているわけなのですから、いつの日にか、そして誰かが、明晰によって「スタンダード」を読み取ってくれるに違いないと信じています。

「晩春」は、早くに妻を亡くした父とその娘の、孤独な親子の日常の物語です。

愛する妻を失った夫と、母を失った孤独な娘が、寄り添うようにひっそりと生きる日常が淡々と語られており、その穏やかな日常の底には、あえて劇中で語られることはないにしても、つねに「妻=母」への切ない思いで満ちています。

この物語から、この父娘をとおして亡き母へのつきせぬ情愛の思いを見失わなければ、きっと「父娘・近親相姦論」などという、とんでもない妄想も、いかがわしい世界への連想にも迷い込まずに済んだかもしれません。

娘は、亡き母のかわりに、ずっと父親の世話をし続けています。

母の面影を背負い、母の眼差しに見守られながら父の世話をする作業は、娘にとって大きな喜びであり誇りでもあったはずです。

人が生きていくうえで「喜び」と「誇り」とが満たされた自足の生活をすでに得ているとしたら、いったい他になにを求める必要があっただろうかと考えるとき、紀子が、この穏やかな日常をいつまでも失いたくないと考えるのは至極当然なことで、そこでは、自分が婚期を逸しかけている「行き遅れ」などという異次元の下世話な発想さえ入る余地のない濁りのない純粋な境地にあり、娘にとってこの「3人だけの生活」が、まさに完璧なものだったからこそ、いまさら他人を介在させる必要も意味も見出せなかったに違いない、これが紀子の置かれていた状況だったと思います(「喜び」も「誇り」にも縁遠い蓮実センセイには、この辺のところが、もうひとつ解せなかったのかもしれませんが)。

しかし、父親にとって、身を犠牲にすることなど厭わない娘の心優しさを思うにつけ、父親はひそかに胸を痛めています。

自分の亡き後、ひとりぼっちになってしまう娘の境遇は、すぐ間近に迫っている熾烈な現実としてあり、そのことを思えば、いっそう健気な娘への不憫と焦りは募っています。

ひとり残される娘の行く末を案じる危惧から「いつまでも、こうしてはいられない」と、見合い話を容認する父親の責任感と、いまの現状を決して変えたくないという娘の気持ちとが激しく衝突し、軋轢を生じさせるというストーリーが展開します。

しかし、結婚に逡巡する娘の背中を押すための父親の苦しい嘘=見合い話、娘の嫉妬と決断へと進むこの物語をどう辿り、自分的にどう飛躍させても、「父娘・近親相姦論」などという「性」的妄想には、どうしても繋がっていかないのです。

いやいや、「晩春」だけじゃない、「麦秋」にしても「東京物語」にしても、どう間違えれば、近親相姦に辿り着けるのか、そのいかがわしい発想の端緒を見つけることがどうしてもできませんでした。

無理にでも辻褄合わせができないか、しばらく考えたあと、馬鹿らしくなってやめました。

アダルトビデオの安直な筋立てじゃあるまいし、義父と嫁が同衾したり乱交したりなど、小津作品には最初から有り得ないことだったのです。

むしろ、逆に「性」によってしか関係を結べなくなった人間不信の「現状」こそが、むしろ異常事であって、後世の人たちから見たら、人間関係を結ぶうえで、これほど「性」にこだわり重きを成した現代の異常な幼児性を奇異に思うかもしれません。

時代になんか媚びる必要なんかない、と教えてくれたのは、小津作品の普遍性です。

あえて探さなくって、スタンダードなら目の前にありました。

スタンダードがそこに厳然として存在しているなら、解釈なんて所詮無力なものにすぎません。

(1949松竹)監督・小津安二郎、原作・: 廣津和郎「父と娘」より、脚本・野田高梧、小津安二郎、撮影・厚田雄春、製作・山本武、美術・浜田辰雄、調音・妹尾芳三郎、録音・佐々木秀孝、照明・磯野春雄、編集・浜村義康、音楽・伊藤宣二、装置・山本金太郎、装飾・小牧基胤、衣裳・鈴木文次郎、現像・林龍次、焼付・中村興一、進行担当・渡辺大、監督助手・山本浩三、塚本粧吉、田代幸蔵、斎藤武市、撮影助手・井上晴二、川又昂、老川元薫、舎川芳次、松田武生、美術助手・熊谷正男、調音助手・堀義臣、末松光次郎、佐藤廣文、大藤亮、照明助手・鈴木茂男、青松明、装置助手・佐須角三、結髪・佐久間とく、装飾助手・山崎鉄治、相原誠、床山・吉沢金太郎、柿沢久栄、工作・三井定義、擬音・斎藤六三郎、編集助手・羽太みきよ、演技事務・八木政雄、撮影事務・田尻丈夫
出演・笠智衆(曾宮周吉)、原節子(紀子)、月丘夢路(北川アヤ)、杉村春子(文学座)(田口まさ)、青木放屁(勝義)、宇佐美淳(服部昌一)、三宅邦子(三輪秋子)、三島雅夫(小野寺譲)、坪内美子(小野寺きく)、桂木洋子(小野寺美佐子)、清水一郎(多喜川の亭主)、谷崎純(林清造)、高橋豊子(林しげ)、紅沢葉子(茶湯の先生)
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by sentence2307 | 2014-09-15 15:53 | 小津安二郎 | Comments(0)