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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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最愛の大地

アンジェリーナ・ジョリーが主演した多くのアクション映画と同じように、彼女のこの初監督作品「最愛の大地」を、それらのアクション映画と同じようなつもりでリラックスして気軽に見始めたりしたなら、きっととんでもない目(男性なら叱責・罵倒に等しい衝撃です)に見舞われるかもしれません。

確かにこの映画が、とても真摯な態度で深刻な事態を真正面から受け止め、果敢に描こうとした勇気のある真剣な作品であることは十分に理解できますし、その誠実さには打たれました。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の激しい民族対立と「民族浄化」という異常な殺戮の応酬の惨状を、一組の恋人たちの関係が崩壊していく過程をとおして、殺しあいの空しさと無意味、愚かしさや理不尽を、きわめて冷徹に、そして象徴的に描いたとても優れた作品です。

平和時なら愛を囁きあい、気持ちをかよわせることのできた恋人たちが、民族対立の憎悪に満ちた戦争にまきこまれ、その熾烈な状況下で引き裂かれ、やがて痛切な破綻へと至る異常な結末が、女性の視点から、しかし、どこまでも驚くべき冷静さを保ちながら描き切ろうとした傑出した作品だと思いました。

いままで作られてきた多くの戦争映画が、果たして、その「戦争」のために女性たちが如何に不当に貶められ、卑しめられ、辱められたか(見せしめ的な暴力、侮辱、家屋侵入や略奪と幼児の虐殺、強制追放・強制収容・大量虐殺、そして繰り返される強姦)、こんなふうに、そしてこれほどまでに憤りを込めて愚劣な戦争を緻密に描かれようとしたことなどあっただろうか、この映画が曝け出した衝撃の場面のひとつひとつは、男たちだけが作り上げてきた戦争映画の独善的な英雄気取りと思い込みを糾弾し、その歴史観の迂闊さを厳しく指摘するという、そういう種類の衝撃だったと思います。

おそらく、それだけでも、この作品の作られた意味は大きいと感じました。

しかし、その一方で、見たあとの感動が、時間の経過とともに自分の中で少しずつ変質しながら急速に薄れ、衰えていくのも事実でした。

これほどの「秀作」なのに、なぜ自分の心のなかに爪を立てて、記憶にとどまろうとしないのか、むしろ「そう」できずに、このままだと、やがては印象の薄い多くの無力な作品と同じように「忘却」の淵に滑り落ちて、あっさり忘れてしまいそうなのです。

アンジェリーナ・ジョリーが主演した多くのアクション映画の数々が、強烈な印象のもとに、彼女の妖艶な姿の多くの場面をいつでも、そして幾らでも思い出せるというのに、この映画史に残るのではないかと思わせた真摯な映画「最愛の大地」が、いともあっさりと忘れてしまいそうな危惧に捉われるのは、戸惑うというよりも、なんだか不思議な感覚です。

考えてみれば、たぶん、あの「感動」の内実が、最愛の人だったはずの恋人を射殺するという極めてショッキングなラストの強烈な残像だけが「印象」を大きく覆い隠し、しばらくは「感動」の在り処を見えにくくしてしまったからかもしれません。

確かに、あのラストで、「男が銃で最愛の恋人の頭を打ち抜く」という、ただそのことだけが純粋に自立し得ていたなら、そのラストシーンの観客に与える「衝撃」は、「廃馬を撃て」や「俺たちに明日はない」などが獲得したラストシーンの永遠性を、同じように獲得できたかもしれません。

しかし、この「最愛の大地」にあっては、単に「セルビア人の将校が、自分だけの愛人として囲っていたムスリム人女性の密告を知って射殺した」と描くにとどまり、それ以上の「抽象」にまでは至ることができずに終わったのだと感じました。

たぶん、「射殺」というあの痛切なラストに至るまでの惨劇を支える状況を説明しすぎたこと(まさにそこが、「分かれ目」だったのですが)によって、痛切なラストシーンから純粋性と抽象性を剥落させ、「廃馬を撃て」や「俺たちに明日はない」が映画史において獲得したような栄誉を獲得できずに終わったのではないかという気がして仕方ありません。

たぶん、ラストシーンに至るまでの少しずつの後退と凋落は、父ブコエビッチ将軍が、息子ダニエルがムスリム人女性の画家を愛人として囲っていることを知り、ダニエルの留守に彼女・アイラを訪ねる場面あたりから始まっています。

熾烈な戦争のさなかにあって女々しく煮え切らない息子への戒めとして、また将軍として将校を罰する立場から父親が息子に厳然とした態度を示す重要な場面です。

アイラを訪ねたブコエビッチ将軍は、彼女に自分を描かせながら、自分を含めた親たちの世代のセルビア人が、いかにムスリム人に酷い仕打ち(虐殺)を受けてきたかを話します。話し終えると、若い兵士に命じてアイラをレイプさせます。

このことを知ったダニエルは激怒し、アイラをレイプした兵士を射殺して、そのままの勢いで父親に会います。

このとき観客は、ダニエルは父親=将軍を射殺して、愛する彼女とともに国外に逃れるだろうと一瞬イメージしたかもしれません。

しかしこの安易な連想はあっさりと裏切られるにしても、しかし、それは平和ボケした日本人の極めて甘々な楽観とばかりは言えません、「映画」の記憶に生きる者なら、当然の妄想だったと思います。

父を訪ねたダニエルは、逆に、ブコエビッチ将軍から「ムスリム人の女を信用するな」と激しく叱責され、結局屈服し、息子は父に「アイラの処遇は自分に任せて欲しい」と引き下がります。

これには、かつてダニエルがアイラに「セルビア人が受けた迫害を分かっていない」と激怒する伏線がありますが、やがて、この選択が、自分をも死地に晒すような密告をした裏切りの恋人を射殺するという惨たらしいラストに直結していくことは、この映画が描いているとおりです。

しかし、この長たらしい説明こそ、「時間の経過とともにまたたく間に感動を変質させ薄れ」させてしまった元凶だったのではないか、と思えて仕方がないのです。

僕たちは、親の庇護から離れ自立するために、父との血みどろの葛藤を描いた誠実な息子たちを描いた、優れた多くの映画の記憶を持っています(ジェームズ・ディーンがそうでしたよね)。

人種や身分や貧富など差別の壁を、「愛する」を選択することによって、それら愚劣な障碍をことごとく一蹴し否定する爽快な映画でした。

この作品においても観客が、映画の途中で、たとえ「愛する彼女とともにダニエルは国外に逃れる」と妄想したとしても、それは映画史を正しく生きている者の当然で幸福な逸脱です。

父親だけには屈服したくない、権威にだけは屈服したくないと、軟弱で弱々しい僕たちは、それらの映画に同意し、賛辞をおくってきました。

だからといって、目の前にある「現実」から目を逸らしてきたわけじゃない、本来の「映画」の本質や魅力や機能が、そういう逸脱にこそあると信じていたからにすぎません(自分的には「チャップリンの独裁者」が嚆矢かと)。

父も超えられず、どうでもいいような民族の囚われにも為すスベもなく雁字搦めにされ、愚劣な権威に屈服し、もっとも失ってはならない最愛の人を射殺してしまうようなこの程度の映画なら、たとえ数ヶ月先に忘れてしまっていたとしても、まあ仕方ないかなと思い始めています。

追伸
本来なら、司法は、どのような権力にも屈することなく独立自立して、権力の不正と逸脱を叱責しなければならない立場にあるのに、その栄誉ある立場を放棄し、ひたすら政府に迎合追随し、あまつさえ権力の意のままに動く走狗と堕した愚劣な韓国司法の「うんざり報道」に接しながら、この短文を書きました。そして、これでよく分かりました、韓国という国が、民主主義とか法治国とはまったく無縁の、北朝鮮となんら変わることのない未熟で野蛮な閉ざされた後進国だということを。

(2011アメリカ)製作監督脚本・アンジェリーナ・ジョリー、製作・グレアム・キング、ティム・ヘディントン、ティム・ムーア、製作総指揮・ホリー・ゴライン=サドウスキ、マイケル・ヴィエイラ、撮影・ディーン・セムラー、美術・ジョン・ハットマン、衣装・ガブリエレ・ビンダー、編集・パトリシア・ロメル、音楽・ガブリエル・ヤレド、プロダクションデザイン・ジョン・ハットマン、衣装デザイン・ガブリエル・ビンダー、
出演・ザーナ・マリアノヴィッチ(アイラ・エクメチッチ、ムスリム人の画家)、ゴラン・コスティッチ(ダニエル・ブコエビッチ、セルビア人の警官。後に将校)、ラデ・セルベッジア(ネボイシャ・ブコエビッチ、ダニエルの父・民族主義の将軍)、ヴァネッサ・グロッジョ(レイラ、アイラの姉)、ニコラ・ジュリコ(ダルコ、ダニエルの親友)、ブランコ・ジュリッチ(アレクサンダー、ダニエルの部下)、アルマ・テルジック、ボリス・レー(タリク・パホ、ムスリム人青年アイラらの友人)
127分 カラー シネマスコープ 原題:IN THE LAND OF BLOOD AND HONEY
受賞とノミネート・全米製作者組合賞・スタンリー・クレイマー賞受賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞ノミネート、NAACPイメージ・アワード外国映画賞受賞、映画監督賞ノミネート、サラエヴォ映画祭選外佳作受賞、


*以下は、ネットで拾った「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」を題材とした作品です。

「たたえられよ、サラエヴォ」(1993)監督・ジャン=リュック・ゴダール
「フォーエヴァー・モーツァルト」(1996)監督・ジャン=リュック・ゴダール
「ボスニア」(1996)監督・スルジャン・ドラゴエヴィッチ
「ウェルカム・トゥ・サラエボ」(1997)監督・マイケル・ウィンターボトム
「パーフェクト・サークル」(1997)監督・アデミル・ケノヴィッチ
「セイヴィア」(1998)監督・ピーター・アントニエヴィッチ
「ノー・マンズ・ランド」(2001)監督・ダニス・タノヴィッチ
「エネミー・ライン」(2002)監督・ジョン・ムーア
「アワーミュージック」(2004)監督・ジャン=リュック・ゴダール
「サラエボの花」(2005)監督・ヤスミラ・ジュバニッチ
「あなたになら言える秘密のこと」(2005)監督・イザベル・コイシェ
「セイビング・フロム・エネミーライン」(2005)監督・マイケル・トーマス、ニック・トーマス
「ハンティング・パーティ」(2008)監督・リチャード・シェパード
「U.N.エージェント」(2008)監督・ジャコモ・バティアート
「サラエボ、希望の街角」(2010)監督・ヤスミラ・ジュバニッチ
「トゥルース 闇の告発」(2010)ラリーサ・コンドラキ
「ある愛へと続く旅」(2012)監督・セルジオ・カステリット
by sentence2307 | 2014-10-13 10:46 | 映画 | Comments(0)