エイジ・オブ・イノセンス 汚れなき情事
2005年 03月 26日
スコセッシが監督したこの作品の驚くべき人気の無さです。
とっさに出た僕の言葉は、もちろん、嘘!でした。
彼の知る限り、あの映画をまともに評価する人に今まで逢ったことがない、などと、なんだか、仮面うつ病の淀長さんみたいなことを言うのです。
それはもう絶賛とか酷評とかのレベルではなく、まとまったコメントそのものが「ない」という状態だそうです。
さらに加えて、ビデオ・レンタル屋のおやじまでが、ツマランと断言していた、などと余計なダメまで押しました。
「あんなオヤジに、映画の何がわかる!」と喉元まで出掛かった言葉を自制した瞬間に、思い出しました。
すっかり忘れていたのですが、以前、僕が、彼にこの作品を褒めたことがあったのです。
人が褒めると、必ず、けなすヤツっていますよね。
そうなんだ、という訳です。
しかし、それは兎も角、そのヘンな噂は、聞き捨てなりません。
この作品、まあ、ヴィスコンティの「山猫」という訳にはいきませんが、決していい加減な作品ではありません。
細部にまでちゃんとした時代考証の目配りの効いた豪華で緻密なしっかりとした作品です。
出演は、もはや名優と言ってもいいダニエル・デイ・ルイス、そして、ぞくぞくっとするほど妖艶なミシェル・ファイファーと、今まさに美しさの絶頂にあるウィノナ・ライダーという物凄い顔合わせです。
彼らの熱演に酔わされっぱなしだった僕にとって、この作品の評判の悪さ(もし、ホントならばの話ですが)は意外というほかありませんが、それにしても、いったいどうして「ウケ」なかったのか、この作品の名誉のためにも考えない訳にはいきません。
描かれている時代は1870年代、世間体ばかり気にする閉ざされた上流社会で、既にメイという婚約者がいる若き弁護士ニューランドと、不幸な結婚から逃れて欧州から帰って来た幼なじみのエレンとの間に交わされる不倫の恋の顛末が、物語の中心に据えられています。
正義感に燃える繊細な青年をダニエル・デイ・ルイスが演じ、イワクありげな過去とその奔放な性格のためにニューヨークの社交界から拒まれて孤立している女性をミシェル・ファイファーが、ともに熱っぽく演じています。
このシュチエイションのどこに観客の共感を拒むものがあるのか、ひとつには、それぞれの役柄のキャラクターが、上流階級の人物と言うこともあり、あまりに現実離れしたリアルさを欠いた設定ということが挙げられると思います。
ここに登場する誰もが、現代から見れば、優柔不断で世間知らずで身勝手な人物ばかりです。
世間体とか、あるいは富や名声や社会の評判を失うことを極度に恐れる男女の不倫の恋が、なし崩し的に中途半端な壊れ方をするという煮え切らなさとか、そして、なによりもニューランドの不甲斐なさとともに、彼自身、この恋のために何ひとつ犠牲にすることもなく、ただ周囲の圧力に流されているばかりの弱々しい生き方への失望にあったからだと思います。
どこまでも純粋な恋を貫いてほしいと願う僕たち観客の期待を裏切って、周囲から阻まれたとは言え、エレンをあっさりと諦めてしまうニューランドに、ドラマチックな愛の物語を望んでいた観客は肩透かしをくらい、そして「引いて」しまったことが、もしこの作品が不人気だというのなら、この映画から観客の気持ちを大きく引き離してしまった原因になったのだろうと思います。
しかも、この不倫の禁じられた関係を決して許さなかった社交界の冷たく厳しい掟に引き裂かれ排除されていくという物語ですから、その辺にも共感しにくいものがあったのかもしれませんね。
この作品の不人気をわざわざ僕に教えてくれた友人が、頼んでもいないのに、さらなる親切ついでに、その人気のなさの理由というのも読み解いてくれました。
まずは、メイを演じたウィノナ・ライダーの扱いが実にひどすぎる、というのです。
「あれじゃあ、お前。まるっきりの悪役じゃねえか。だろ」と、多くのライダー・ファンを代表すると自認する彼は、憤懣やるかたないという、抑えきれない激昂で、言葉を荒げて言い募ります。
言葉の裏に隠された人間の複雑な心理の襞など、いささかも意に介さず、眼に見えるものだけをまともに受けて善悪の二極で判断を下し、なにもかも実にスンナリと理解してしまう彼の、メイの役柄を「悪役」と嗅ぎ分けたその臭覚こそ、あるいは、この作品の本筋を理解するうえで最も相応しいアイテムだったかもしれません。
確かに、不倫の恋人たちを中心にして描かれているこの物語では、夫に浮気されて散々のメイが、あらゆる手段を用いて、不倫の恋仲にある夫と従姉の引き離しを画策するというその一連の行為の一方的な描き方から見ると、メイという役柄はどうしても「悪役」という典型的なタイプにしか見えないのは当然かもしれません。
しかし、妻メイのとった行為は、夫を失いたくないと思う妻としては当然の行いですから、何故それが観客の思い入れを拒むことに繋がってしまうのかというあたりに、どうもこの作品の不人気の秘密が隠されているような気がします。
それは、つまり、夫に浮気され、無視される妻が、本来なら観客の同情を受けて当然という立場にあるはずなのに、ライダーの演技は、不自然なくらいに実に堂々と演じられていて、それは憎々しげでさえあることに、なにか「ちぐはぐ」な違和感に満ちた印象を僕たちに与えてしまうということと、無関係ではないようなのです。
そして、それは、なぜニューランドがエレンへの恋を諦めたのかという部分に深く関連しているだけに、そのメイの役柄についての説明不足が、この作品を理解するうえでの大きな障碍となっており、それは、そのまま、ラストシーンで老いたニューランドが、欧州のエレンの家まで訪れながら、結局逢わずに立ち去っていくという重要な場面を一層分かりづらくさせ、観客の(僕も、ですが)理解を十分に得られなかったという不可解な結果を残すこととなったのだろうと思います。
ナルホド、前節②で、僕は、メイの役柄について、スコセッシが説明不足だったとかなんとか、結構はっきりと書いていますね。
送信を焦ったわけではなかったのですが、思わず筆が先走って、ついつい、というところだったのかもしれません。
演出と言うものが、何から何まで「作為」の行為を役者に求めるものだという僕の思い込みが、そこには無残にも露呈しています。
不作為を演技指導する演出というものだって、当然あり得る訳ですから。
というのは、ここに、まるで僕の軽率な断定を冷笑するかのようなウィノナ・ライダーの、この作品におけるスコセッシ演出についてのコメントなるものがあるのです。
「私、演技らしい演技は、ほとんどしなかったの、ホントよ。
それでもマーティは、もっともっと抑えて演ずるようにと言い続けてたわ。
私は、まるで、自分が人形か何かになってしまったかと思ったくらいなの。
でも、この映画では、これまでのどの映画よりも、とても多くのことを学ぶことが出来たと思うわ。
マーティは、早口なだけじゃなく、こっちの心を穏やかに、気持ちよくしてくれたの。
彼のお陰で、ありのままの自分を出せれば、それでいいんだという、なんか演技と言うものに自信が持てるようになったと思うの。
とにかく、最高の気分で仕事ができたわ。
朝の6時に衣装合わせに出るのが、毎日楽しくてしょうがなかったもの。」(ウィノナ・ライダー・スクラップブック、1997年)
撮影中のもうひとつのエピソードは、更にスコセッシ演出の方向性を明確に示しています。
ミンゴット夫人が発作で倒れたというシーンのあと、ニューランドが、エレンを駅に迎えに行こうとするために、別の出張(これもエレンに逢いに行くための口実でした)があると言っていた手前、その言い訳に、彼がシドロモドロになるという場面です。
エレンとの仲を既に勘づき、夫の裏切りの何もかもを察しているくせに、そのことはオクビにも出さず、また夫の不実に動じることもなく、ニューランドの言い訳の矛盾を、眉ひとつ動かさずに、あどけない少女のようにその嘘を、実に静かにじわじわと問い詰め追求していくという、考えてみれば空恐ろしい場面です。
続くメイがその場から立ち去るシーンでのスコセッシ演出は、メイの仕草や視線など何も強調することなく、表情を作らないままに、ただ視線を右方向に流す、というものでした。
ウィノナ・ライダーは、スコセッシに提案します。
「もう一度、ニューランドをチラッと見やりたいんだけど、いいかしら。」
彼女の意図は、ニューランドに向けて「なにもかも知ってるのよ。」という暗黙の演技を目線で示したかったのかもしれませんが、スコセッシは、断固言い渡します。
「絶対にだめだ。メイは、そんなことは、しないんだ。」
この言葉には、すべてを知りながらメイがニューランドに何を求めていて、何を求めていなかったのかが、恕実に言い表されています。
社交界という後ろ盾を持つ彼女は、社交界でしか生きることが出来ないニューランドが、結局は追い詰められて自分の元に返ってくるしかないことを十分に分っているからこそ、彼女は何もせず、堂々と、ただ待っていたのです。
僕が書いた「メイの役柄についてのスコセッシの説明不足」という部分は、こう書き直さなければならないかもしれません。
「スコセッシの演出意図を理解できなかった僕の不分明」と。
何事においても熟慮を欠いた軽率な断定は、つとに慎まなければなりません。
閉ざされた社交界でしか生きられないということなら、ニューランドもメイも立場は同じだったはずです。
しかし、ニューランドが、堅苦しい慣習やマナーに敢然と背く自由な雰囲気を持つエレナに強く魅かれていったことを見ても分かるように、彼の気持ちはニューヨークの社交界から既に離れており、外の世界に向っていました。
遠くを見たいと願うその眼差しが、実際には、毎夜催されるパーティで声を潜めて交わされる噂話や同情の意匠をまとった皮肉や冷笑など、閉鎖的なニューヨーク社交界の耐え難い現実を見せつけられているだけなのです。
嫌悪に満ちたうんざりするような旧態依然の閉ざされた社交界を脱して自由の地へ逃れたいという、その止むに止まれぬニューランドの旅立ちの願望は、ラストでメイによって完膚なきまでに叩き潰されることになりますが、この彼の気持ちを作品の根底に据えて考えていけば、ストーリーの大きな流れであるエレナとの成就されない恋も、メイとの暗闘とも言える確執も、そしてメイという娘がどういう女性かも、はっきりと見えてくると思います。
社交界から庇護され、育まれ、そして、自分もまた慎重に選ばれたひとりの構成員として公認されているメイにとって、社交界こそが彼女の素晴らしい才能を花開かせることのできる、また、認められもする唯一の場であるということは、同時に彼女が、ここ以外の他のどこに生きていく場所を探す必要があるだろうか、と考える至極当然な理由のように思われます。
そして、おそらく、それらの慣習や規律やマナーに公然と背くことは、同時にこの社交界から締め出されることを意味していることを、彼女は十分に認識していたことは、そのことを悟られない優雅な嗜みをマナーとして備えているとはいえ、例えば、ニューランドと淡々と交わされる会話の折り目正しさとか、パーティの出口ですれ違うエレナをチラと見る眼差しなど、いささかも動揺することなく対していることによって察することができます。
心は、石のように冷え切っているのに、煮えたぎるような気持ちを抑えて優雅に振舞い社交に努める残酷な姿は、衝撃的と言うしかありません。
メイは、礼儀正しい優雅な微笑で目礼を返しながら、社交界の戒律によって、いままさにエレナから引き裂かれようとしている夫と、そして追放される夫の愛人エレナを、どんな気持ちで見ていたのかと想像すると、ぞっとする思いがします。
ラストで、エレナを追い、ニューヨークを離れようとする「切れた」夫に、メイは、「残念だけど、お医者さまが旅行を許してくれないわ。」と妊娠を告げます。
この一言によって、ニューランドが、狭い社交界でしか生きていけないことをメイに思い知らされる静かで壮絶なラストシーンでした。
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