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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない

長いあいだ抱いてきた自分的な印象として、黒澤明が、自分の作品のためなら製作にまつわる関係者をボロ雑巾のように使い捨てるらしいという噂を聞いていて、それがもし本当なら、あの早坂文雄もまた、そのうちの一人だったのだろうかという単純な疑問から、前回のコラム「黒澤明は、早坂文雄を殺したか」を書いてみました。

いま、あらためて読み返してみると、なんだか最後などは強引な胴体着陸みたいな随分安直な結論だったかもしれないなと、思わず赤面してしまいます。

しかし、だからといって何の収穫もなかったというわけではありません。

結論的には、あらゆる映画人が、「映画への殉教者」だったに違いなく、結局、黒澤明も含めて「勝者」など、誰ひとりいなかったのだというそれなりの結論であったとしても、観念の果実のようなひとつの言葉が浮かびあがってきました。

「七人の侍」のラストで語られる有名なセリフ「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」というあの卓越したセリフとの近似性です。

前著「黒澤明と早坂文雄-風のように侍は」(筑摩書房)のなかで、西村雄一郎が、黒澤明本人に、この有名な台詞の意味を直接訊いたというクダリがあります(739頁)。

《黒澤本人に、聞いたことがある。
「七人の侍」のラストで、志村喬の勘兵衛が「勝ったのはあの百姓たちだ、儂たちではない」というが、あれはどんな意味だったのかと。
すると黒澤はこう答えた。
「百姓は、なかには藤原釜足のようにずるいのもいるし、土屋のような賢いのもいる。しかしどんな場合でも、大地と共に根強く生き続けていく。それに対して侍は、ただ旗のように翻っているだけだ。大地をさっと吹き過ぎていく風のようなものなのだ」
と答えた。》
のだそうです。

いざ分かってしまうと、な~んだ、それだけのことかと拍子抜けしてしまうくらい、「世界のクロサワ」の言葉にしては随分つまらないコメントですが、しかし、こちらが勝手に「世界のクロサワ」と祭り上げ、それらしい決め言葉を期待していたにすぎないだけなのであって、このシンプルで至極つまらない観念を、力強い映像に変えてしまう強引さこそ、黒澤明の偉大の証しなのかもしれないなと、すぐに思い返しました。

実は、自分も長い間、「勝ったのはあの百姓たちだ、儂たちではない」という言葉の意味を考え続けてきたひとりです。

勝ったのは、本当にあの百姓たちだったのか、野武士はもう二度とあの村を襲ってこないといえない状況の中でも「勝者」などと言い切ってしまっていいのだろうか、そして、ふたたび襲われる危機に直面したとき、あの途轍もなく善良だった「七人の侍」たちが残した「勝利」の記憶を手掛かりにしてしまっていいのか、むしろあの「成功事例」は、野武士たちより更に悪辣な侍たちを雇ってしまうリスクを生み出しやすくしていないだろうか、それによって百姓たちが皆殺しの憂き目に会うという悲惨を自ら招き寄せるようなことはないのだろうか、とそこまで考えてきたとき、ある思いに捉われ愕然としました。

「勝ったのは・・・儂たちではない」というひとことは、「勝ったのは・・・儂だ」までも、否定はしていないのではないか、という思いに捉われたからでした。

野武士との死闘によって、勇猛果敢な前衛としての4人の侍たちは、壮絶な死を遂げています。

それが痛切な討ち死にだったとしても、しかし、想定外の出来ごとだったというわけではない。

戦うべき兵士たちが、その能力を十全に出し切り、そのうえで戦死していったのですから、この乱世の世、イクサと手柄とを求めて諸国を彷徨っていた侍たちにとって、いつか戦闘にまみれて突然の死を得ることが、想像もつかないほどのことだったとは思えないのです。

あるいは、勘兵衛のもとに生き残ったのは、年端のいかない若者(木村功)と従者(加東大介)です。

戦闘能力のある手勢をすべて使い切り、目の前の敵をことごとく殲滅し、そして最後には、司令官と参謀と未来のある若き兵士が生き残ったという状況は、熾烈な戦闘における作戦の大いなる成功であり、幾人かの当然の犠牲を織り込んだうえで、これを「勝利」と宣言することに、なんの躊躇もなかったはずです。

むしろ、百姓たちにとって、この目先の戦いを切り抜けたからといって、それはただ今回だけのことにすぎず、百姓たちの置かれている危険な状況(野武士たちの襲撃)がすべて消えたわけではない、そういうことのすべてを知悉したうえで、勘兵衛がなぜ、あえて「勝ったのはあの百姓たちだ、儂たちではない」などと、ことさらに言わねばならなかったのか、という方が、かえって不自然なような気がしてきました。

例えば、生き残った若侍(木村功)と従者者(加東大介)に向けて、あえて言ったのではないかと考えてみました。

そこにあるのは、手柄と名聞と良き仕官とを求めて明日からもまた諸国を渡り歩こうという彼ら侍たちの「明日」に対してです。

衝撃されるリスクのある土地に縛りつけられ、留まるしかない百姓たちよりも、不安定であっても、もっと自由な「明日」へ踏み出そうとしている侍たちの方が、ずっと「勝者」に相応しいと感じました。

こんなふうにいうと、西村雄一郎の問い掛けに対して黒澤明が「大地と共に根強く生き続けていく」といった百姓観とは随分隔たってしまったみたいですが、ここに黒澤明の、天才ならではの「独特の御都合主義」と安易な理想主義とを感じざるを得ません。

前著、西村雄一郎の「黒澤明と早坂文雄-風のように侍は」(筑摩書房)に「七人の侍」の構想を練っている部分にこんな箇所があります。

《次に江戸時代にできた剣豪列伝をもとに、強い侍ばかりが登場するエピソードをつなぎ合わせてみた。
そうして剣客の生活を調べて行くうちに、武者修行の侍たちは野武士の襲撃を防ぐために農民に雇われていたという事実が浮かび上がってきた。
「それだ!」橋本の言葉を聞いて、黒澤は叫んだ。
そのことをモチーフに、小国英雄と橋本と黒澤は、脚本を三稿まで練り直した。
ソビエトの作家ファジェーフの記録文学「壊滅」が下敷きにあったという。
当初は「武士道時代」と題されていた。(697頁)》

ここで突然出てくる「ソビエトの作家ファジェーフの記録文学「壊滅」が下敷きにあった」の1行が、ずいぶん奇異に感じました。

不意に出てきて、2度と触れられていない最初で最後の奇妙な1行です。

「下敷き」にしたほどなら、もう少し露出があってもよさそうなものではないですか。

例えば「検討されたけれども、採用するに至らず、結局諦めた」となれば、少なくとも3か所には出てこなければならず、このくらいが読書人として納得できるすれすれの最低条件だとすれば、こんな思わせぶりの不意の登場と消滅ではかえって気にかかって、「ソビエトの作家ファジェーエフの記録文学『壊滅』」なるものがいかなるものなのか、ここはどうしても調べないわけにはいきません。

手元にある「新潮・世界文学小辞典」の「ファジェーエフ」の項には、こんな解説がありました。

《【ファジェーエフ】1901~1956ソヴェトの作家。
教師の家に生まれ、少年時代から極東の革命運動に参加、1923年にその体験に基づいた中編「氾濫」と短編「流れに抗して」で文壇にデビュー、続いて長編「壊滅」1927によって一躍プロレタリア文学系作家の中心的存在となった。
極東の白軍、干渉軍との困難な戦いの中でついに全軍離散の運命をたどる一パルチザン部隊の悲劇を語りながら、作者はこの長編で雑多な過去と性格をもつ隊員たちの群像をトルストイばりの心理主義的リアリズムの手法で描き分け、隊長レヴィンソンの人間像に生きた共産主義者の風貌を示し、悲劇を越えて前進する革命思想のたくましさを訴えることができた。
この作品が初期ソヴェト文学に新紀元を開いた傑作とされるのは偶然でない。
彼にはこのほか、極東の少数民族の運命を描いて、エンゲルスの「家族、私有財産、国家の起源」を小説化しようとした野心的な未完の長編「ウデゲ族の最後のもの」1929~36、第二次大戦中の対独抵抗運動の実話に基づいた長編「若き親衛隊」1945があり、特に後者はスターリン賞を受けたのち、党の批判を受けて改作するなど話題をまいた。
しかし、ファジェーエフはショーロホフなどと異なって、作家である以上に文学運動の組織者、理論家であり、この面へのあまりの深入りによって作家としての体制を阻まれた。
すでにラップの時代から目立った論客であった彼は、34年にソ連作家同盟が設立されると、まずその党グループの責任者、ゴーリキー死後は同盟の第一の実力者となり、折からの大粛清の恐怖のもとで、ソヴェト文学をスターリン体制に組み入れるうえで最も顕著な役割を果たした。
39年には文学者代表として党中央委員にも選ばれている。
戦後は作家同盟書記長となり、社会主義リアリズム論の公式スポークスマン、文学統制の元締めとして活躍した。
ただこの間にも、彼自身の中に作家と文学官僚の矛盾に苦しめられていたことは確かで、それがスターリン批判後、彼を自殺に追いやったことが理解できる。
こうした彼の苦悩は、ラップ時代からの文学上の発言に彼が自ら手を入れ、死後に刊行された論文集「30年間」1957にもよく現われている。》

小説「壊滅」に描かれていた主たるテーマは、革命にとってはただの毒でしかない「知識人への嫌悪」であり、小説「壊滅」が党中央・スターリン体制に対するひたすら奉仕しようとした作品だったことが推察できます。

それは、そのままあの紅衛兵による知識人階層への弾圧とか、ポル・ポト政権下における知識人を虐殺した精神につながる同質の何かであることも感じます。

年譜によれば、1953年のスターリン死後、ほんの数年で自らの生き場所がなくしたファジェーエフは、1956年に自殺しています。

1954年4月26日に公開された「七人の侍」が、その動揺の影響を受けていないはずがないと見るのは、あるいは穿ち過ぎなのかもしれませんが、あれほどソヴェトに傾倒し、ロシア文学を愛した黒澤明の、たった一行の奇妙な露出と不意の消滅(沈黙)に、スターリン批判のなかで、「下敷き」にした元ネタを秘匿せざるを得なかった黒澤明の一瞬の苦渋を感じたのかもしれません。

そして、その「苦渋」さえも、踏み台にして映画を撮ったというなら、黒澤明にまつわるあの「自分の作品のためなら製作にまつわる関係者(や思想)さえもボロ雑巾のように使い捨てるらしい」という黒い噂は、やはり信じるべきなのか迷い始めているところです。
Commented by Escort girls at 2014-12-10 15:50 x
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Commented by ぺけ at 2019-05-21 15:36 x
しょうもねぇなお前の解釈
Commented at 2020-12-19 11:57 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2020-12-19 21:09
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
by sentence2307 | 2014-12-06 22:46 | 黒澤明 | Comments(4)