世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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47RONIN

この映画を見て、「なんだ、こりゃ」などと松田優作みたいなことを言う人に、ひとこと言っておかなければなりません。

べつに自分は、この映画の関係者でもないし、ましてや利害関係とかもないので、なにも弁護とか弁解などする立場ではないのですが、この映画が継子いじめみたいにこうまで非難されると(自分の周りでは、この作品に対する冷笑で満ちています)なんだか弁護したい心持になってしまいました。

まあ、この作品が相当に奇妙奇天烈な映画であることは間違いありませんが、しかし、「奇妙ながらも、これはこれで結構誠実に作っているし、まあ、いいんでないの」くらいのことは言ってあげてもいいのではないかと思っています。

まず、最初の取っ掛かりとしては、やっぱりあの奇妙なキモノ・コスチュームについてでしょうか。

日本人としてマジに見てしまうと、そりゃあ「ありゃなんだ」とひとこと言いたくなるくらいに相当に奇妙ですが、しかし、なにも「マジ」に拘ることもないし、あるいは、「ファンタジーだから」などと逃げたりもせずに、ここは真正面から、素直に「ニッポン・分からない・サイン」の象徴として丸ごと受け入れてしまえば、結構、作り手の意向に沿うこともでき(だいたい、この映画、その辺のところを十分に意識して作っているわけですから)、そうすれば、だんだんに見えてくるものあるのではないかと悟りました。

むしろ「分からない」と開き直り、わざわざそれを表明するような映画を作るその大胆な商魂をこそ評価したいと思ったくらいです。

その「分からない」という表明は、不可解であると宣言しながら、違った切り口でジャポニズムにアプローチをはかった好奇心や興味津々の方法というか、モチベーションだけは保っている純真な意欲みたいなものは認められるのではないかと思いました。

むしろ、この「分からない」映画を誠実に成り立たせている「もの」の方が、なんだか重要な気がしてきました。

「分からない」ながらも、そのまま映画を成立させている強引な活力に、やっぱ、さすがハリウッドは違うなと驚嘆したり好感を持ったり、とにかくその中央突破の姿勢に感銘を受けた次第です。

しかし、感銘を受けたとはいうものの、それはあくまで「姿勢」についてであって、手放しで、この映画のストーリーの細部を許容しているわけではありません、というか、むしろ、外国の人たちに「忠臣蔵」をこんなふうにすんなり理解されてしまっていいのか、いいはずがないという懸念は確かにあります。

年末には必ず繰り返し作られ続けてきた日本人にとって定番の国民的物語「忠臣蔵」の精神性を除外して、(この映画のように)単に、主君の遺恨を晴らすための家臣たちの復讐物語だけのものとしてあら筋だけストレートに理解されてしまうとなると、やっぱりちょっと抵抗が残ります。

「忠臣蔵」の知識のまったくない外国の人たちが(現状、世界における「忠臣蔵」ストーリーの普及と理解の浸透からみれば、「それ」は考えにくいことかもしれませんが)、これだけで、これが丸ごと「ニッポンだ」みたいに納得され、「忠臣蔵」のスタンダードとして通用されてしまうことへの懸念があります。

ここはひとつ、この奇妙な「忠臣蔵」が、「スタンダード忠臣蔵」から、どの部分がどのくらい隔たっているかくらいの検証をしておくことは、映画収集狂たる者の務めかもしれないなと思い立ち、これを書き始めた次第です。

そういう意味で、最も気に掛かった場面として真っ先に思い当たる場面があります。

心ひそかに討入りを決意した内蔵助が、討入りの罪科が妻・りくにまで及ぶのを懸念して、心ならずも妻に離縁状を出す場面です。

この場面を、「47RONIN」では、内蔵助は、自分がいかに妻を愛し、彼女の身を案じているからこそ離縁するのだと、妻・りくに対して離別の理由を諄々と伝え、彼女も納得して離縁を承諾しています。

愛し合う夫婦の間に秘密や誤解などあってはならないという、いかにも公正な欧米の「愛こそすべて」なのですが、しかし、わが「忠臣蔵」においては、愛する妻に対してであろうと、また、亡き主君の未亡人(瑤泉院)に対してであろうと、内蔵助が自らの心のうちをすべて曝け出すことなど決してありませんし、その耐え忍ぶ精神性が、「忠臣蔵」を貫いている核心だといっても過言ではありません。

夫から離別を告げられた妻・りくは、瞬時のうち・暗黙のうちに夫・内蔵助の真情を察して、あえて理由を聞くこともなく離縁状を受け取っています。

妻・りくが、討ち入りという大望を果たそうとする夫のため・そのことを妻にも話せぬ苦衷を理解しているからこそ、武人の妻たる者のタシナミとして、身を犠牲にすることを十分すぎるほど心得ているからです。

夫に従い、つねに死を覚悟しているサムライの妻だからこそ、あえて「至らぬ妻」の不名誉を引き受け、薄く微笑みながら大きな仕事が控えている夫のために去っていくことなど、死を「覚悟」した武人の妻にとっては、なにほどのことでもなかったはずです。

そして、それもこれも、ただひたすら「討入り」を成功させるため、家族が引き受ける名誉な忍従のひとつであって、いわば、彼女が演じた「至らぬ妻」として夫の元を去ることも、女として「討入り」に参加する栄誉に等しい誇らしげなものだったに違いありません。

国民的ストーリーとして長い間、日本の国民に愛され続けた「忠臣蔵」の魅力の理由は、実はここにあります。

「討入り」を実現させるために、ご政道に楯突くひそかな企みが進められ、それが現れぬよう、それまでの間、忠臣ばかりでなく、その家族さえもあらゆる屈辱的な忍従に耐え続けるということ、そして、その意思の伝達が直接的な言葉の遣り取りなどではなく、目と目を見交わすことによる暗黙の意思疎通・以心伝心(こう言葉にすると、随分矛盾した意思疎通方法ですが)によるという、独特のエピソード・パターンが繰り返されるところにあることに気づかされます。

たとえ心底では(矛盾を感じながらも)犠牲を強いられる理不尽を充分に認識し了解できるのは、すべて「討入り」の企みを秘さねばならない大義があるからであって、そのうえで、真情とは異なる痛切な離別の場面が展開されるという一連のエピソードが「忠臣蔵」においては、とても重要な要素になっていて、例えばこの妻・りくとの無情な離縁の愁嘆場には、実は、同時進行的に演じられている、互いに眼差しを交差させ暗黙の了解の中で交わされる夫婦の濃密な「交情」の遣り取りでもあることを理解できないとなると、わが「忠臣蔵」の理解も覚束ないものがあると言わざるを得ません。

そうそう、その「互いに眼差しを交差させ暗黙の了解」(俗にいう「腹芸」とでもいうのでしょうか)の極めつけともいうべき場面を見たことがあります。

たしか市川右太衛門と片岡千恵蔵の顔合わせでしたから、東映の作品ですね。

大石内蔵助(市川右太衛門)一行が、「見回り奉行・立花左近」と名を偽って江戸に向かう東クダリの場面、宿泊している宿の前をたまたま本物の立花左近(片岡千恵蔵)が通りかかってこれを見咎め、奉行じきじきの吟味がはじまります。

ここでコトが発覚してしまえば、討入りの企みがすべて露見し、御用になるかもしれない大石一行にとっては、すこぶる危機的な場面です。

互いの家臣たちは次の間で、息を飲みながら、中の様子を窺っています。

成り行き次第では、いつでも抜刀して斬り込めるよう刀に手をかけて、斬り死に覚悟の緊張感に満ちた場面です。

しかし、中では「われこそが本物の立花左近なり」と互いに譲らぬ押し問答が延々と繰り返されているばかりなのですが、実は、その居丈高な詰問の応酬のなかで、千恵蔵の立花左近は、部屋に置かれている品々から次第に目の前に座っている人物が赤穂の浪士であり、大石内蔵助であることに気がつきます。

さらに示した通行手形は、実は討入りをする浪士の連判状なのを知ったそのとき、一瞬揺らぐ千恵蔵の強い尋問口調の微妙な変化で、主君を討たれ、公儀の理不尽な処置と御家再興も断たれた大石の苦衷と怒りとをすべて理解するという、「腹芸」の極致のような素晴らしい場面でした。

右太衛門の大石も言葉づかいは依然として居丈高ながら、「かたじけない」というウラ演技を見事に演じていました。

どうも記憶が定かでなく、うろ覚えなので、念のために「立花左近(片岡千恵蔵)、大石内蔵助(市川右太衛門)」の線を手掛かりにして、ネットで検索してみました。

検索の結果、該当する作品は、どうも、昭和31年1月15日封切りの東映作品、松田定次監督の「赤穂浪士」のようでした。

しかし、考えてみれば、大石内蔵助の妻・りく役は、ドラマの中での格というか位置づけはともかく、役者としての面白みには幾分欠けた役という印象が強く、終始一貫、激しい演技を禁じられたとても物足りない役のような気がします。

彼女は、いわば強いられた別離に対しても、べつに夫にすがりついて泣き叫ぶわけでもなく、自分の真情を吐露できる見せ場も用意されているわけでもありません。

むしろ逆に、気持ちの動揺を悟られまいとする自己抑制の強い冷ややかで冷静な、しいて言えば何を考えているのか分からない取り澄ました魅力のない女性とさえいえるかもしれません。

大役ではあるけれども、とりわけて演技の工夫が必要とされるような役というわけではありません。

盛りを過ぎた大物俳優が、敬意を表して与えられる名誉職みたいなものという感じでしょうか。

極端に言えば、いままで第一線で演技に拘ってきたベテラン俳優は、この役を与えられることによって大きなショッリを受け、「敬して遠ざけられた」と感じてしまうのではないかと思いました。

1962年11月3日封切りの東宝作品「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」において、りく役を演じた原節子は、この映画出演を最後にスクリーンから去り、その後彼女の端正な容姿をスクリーンのうえでは見られなくなります。

(2013アメリカ)監督・カール・リンシュ、製作・パメラ・アブディ、エリック・マクレオド、製作総指揮・スコット・ステューバー、クリス・フェントン、ウォルター・ハマダ、原案・クリス・モーガン、ウォルター・ハマダ、脚本・クリス・モーガン、ホセイン・アミニ、撮影・ジョン・マシソン、プロダクションデザイン・ヤン・ロールフス、衣装デザイン・ペニー・ローズ、編集・スチュアート・ベアード、音楽・イラン・エシュケリ
主演・キアヌ・リーヴス、真田広之、浅野忠信、菊池凛子、柴咲コウ、赤西仁、田中泯、ケイリー=ヒロユキ・タガワ
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by sentence2307 | 2014-12-14 12:10 | 忠臣蔵 | Comments(0)