村上春樹の映画評「スペシャリスト―自覚なき殺戮者」
2005年 04月 02日
それと同じように、読む小説を選ぶ際にも、なんとなく話題作を追っかけて読んでいるうちに、それらの作品が感覚的にあまりに「最先端」すぎてついていけなくなるくらいに疲れてしまい、読み継いでいくのが堪らなく辛くなり、こんな気持ちになってまで小説を読む意味なんて果たしてあるのかみたいな「読むスランプ」状態に追い込まれて、かなりの間、生理的に拒否反応を起こして小説離れをしてしまうほどのダメージをこうむることってありませんか。
その辺が、小説と映画との違うところでしょうか。
他人の言葉に導かれて自分の中に深く降りていかなければならない小説の場合、余程自分の好みというものをはっきり持っていないと、その作家の過激な活力(話題作というものが、往々にしてその作家が全力を傾注し、そしてそれゆえに評価を受けて話題になるという場合が多いと思います)によって強引に引きずり回されるままに終わってしまう結果を幾度か経験しています。
それは、当然の結果として、ただ不快なだけの読後感とダメージしか自分に残すことがなく、しかし、どうしてそれが読書の愉しみといえるのか、最近そんな疑問を感じることが、しばしばあるのです。
つまり、小説が、ただ心地よいというだけのものでは何故いけないのか、という素朴な疑問です。
しかし、僕にとって例外がひとつだけあります。
村上春樹作品を読んでいるときの安らぎに満ちた時間です。
これほど安らげる贅沢な時間に浸り切ることができていいのかと思うくらいです。
村上作品を読んでいる間中、常に感じていることは、こうして夢中になって作品を読み進めていくことで、この自分にとっての至福の時間をどんどん自分から減らしてしまっているのだという矛盾した思いに苦しめられる、つまり夢中になってむさぼるように読む自分を、一方でそうさせまじとスローダウンさせようとする力にあがらいながら過ごす鬩ぎ合いの時間とでも言えばいいのでしょうか。
こういう蜜月的な幸福な思いは、僕たちがとっくの昔に失ってしまった子供のときにしか持ち得なかった感情のひとつだろうと思います。
村上作品は、その気持ちを、そしてその失われた時間を僕たちに思い出させてくれる貴重な世界観です。
さて、本当のところを言うと、小説を読むといっても、いままではただ漫然と読み飛ばしているにすぎませんでした。
感動した箇所とか気に入った言葉などに遭遇しても、特に抜書きしたり傍線を引くなどというようなこともしていません。
しかし、僕が映画の感想をなんとなく書き始めたときに、小説の本文中に、タイトルだけつければ立派に映画批評として自立する部分があることに気が付き、これは面白いなと思いました。
例えば、「海辺のカフカ」の中のこんな部分です。
《僕はそこからアドルフ・アイヒマンの裁判について書かれた本を選ぶ。
アイヒマンという名前はナチの戦犯としてぼんやりと記憶していたが、とくに興味があったわけじゃない。
たまたまその本が目をひいたから手にとっただけだ。
僕はそこでその金属縁の眼鏡をかけた髪の薄い親衛隊中佐がどれくらいすぐれた実務家であったかという事実を知ることになる。
彼は戦争が始まって間もなく、ナチの幹部たちからユダヤ人の最終処理―要するに大量殺戮―という課題を与えられ、それをどのようにおこなえばいいかを具体的に検討する。
そしてプランをつくる。
そのおこないが正しいか正しくないかという疑問は、彼の意識にはほとんど浮かばない。
彼の頭にあるのは、短期間にどれだけローコストでユダヤ人を「処理できるか」ということだけだ。
彼の計算によれば、ヨーロッパ地域で処理するユダヤ人の数は全部で1100万人ということになった。
何両連結の貨車を用意し、ひとつの貨車に何人のユダヤ人を詰めこめばいいか。
そのうちの何パーセントが輸送中に「自然に」命を落とすことになるか。
どうすればもっとも少ない人数でその作業をこなすことができるか。
死体はどうすればいちばん安あがりに始末できるか-焼くか、埋めるか、溶かすか。
彼は机に向かってせっせと計算する。
計画は実行に移され、ほぼ計算通りの効果を発揮する。
戦争が終わるまでおおよそ600万(目標の半分を超えたあたり)のユダヤ人が彼のプランに沿ったかたちで「処理」される。
しかし彼が罪悪感を感じることはない。
テルアビブの法廷の防弾ガラス張りの被告席にあって、自分がどうしてこんな大がかりな裁判にかけられ、世界の注目を浴びることになったのか、アイヒマンは首をひねっているように見える。
自分は、ひとりの技術者として、与えられた課題にたいしてもっとも適切な回答を提出しただけなのだ。
世界中のすべての良心的な官僚がやっているのとまったく同じことじゃないか。
どうして自分だけがこのように責められなくちゃならないのか。
静かな朝の森の中で鳥たちの声を聞きながら、僕はその「実務家」の物語を読む。
本の後ろの見開きに、大島さんが鉛筆でメモを残している。
僕はそれが大島さんの筆跡であることを知っている。
特徴的な字なのだ。
「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力から始まる。イエーツが書いている。in dreams begin the responsibilities-まさにそのとおり。逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例に見られるように」》「海辺のカフカ」上巻226頁~227頁
この傑出した衝撃のドキュメンタリー映画「スペシャリスト―自覚なき殺戮者」に対して、これほど的確な批評を読んだ記憶がなかったため、自分としては初めて「抜書きしたい」という衝動を感じました。
こんなふうな抜書きなら、読書する励みにもなるし、われながらイケテル思いつきだと自画自賛です。
未熟なためのタイプミスはご容赦ください。