世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


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書くことの重さ

あれはちょうど「海炭市叙景」が上映された少しあとの頃だったと思いますが、日本映画専門チャンネルで「海炭市叙景」放映に合わせて、作家・佐藤泰志のドキュメンタリーも併映していました。

タイトルは、たしか「書くことの重さ」だったでしょうか。

「海炭市叙景」の描く救いようのない人々の絶望と悲観、殺伐とした内容が、自分にはあまりにも重過ぎて、鑑賞後の不安と、振り切ってしまった動揺の持って行き所がなく、気持ちのおさまりのつかないまま、このドキュメンタリーになんらかの答えがあるのではないかと、すがりつくような思いで、この「書くことの重さ」をも見た気がします。

内容は、この若き作家・佐藤泰志が芥川賞の候補にあげられ、いままさにその受賞の連絡がくるかどうかという緊張の瞬間に立ち会う臨場感溢れるドキュメンタリーでした。

それまで幾度も芥川賞の選に漏れている佐藤泰志は、照れくさそうに苦笑しながら、そして弱々しく「今度もやっぱりダメですよ」と背をかがめて話していた映像が、いまでも強烈に残っています。

たぶん、そのドキュメンタリーの製作者の意図も、そこで「喜びの瞬間」を捉えようなどというつもりはさらさらなく、この不運の作家のさらなる「失意」を露骨に狙っている底意地の悪さがモロに透かし見える、なんだか見え見えの作品で(他人の「歓喜」よりも「失意」や「絶望」の方が、そりゃあ作品として見栄えがするし、玄人受けもいいというのは周知の事実なので、それなりに商売にもなるわけです)、その製作者の意図どおり、自分としても、佐藤泰志がそのように弱々しく卑屈に受け答える様子から、瞬時に、やがて自殺という「自己破産」に至る苦渋の瞬間まで、まっすぐに繋がる安直な失意の図式が連想され、まさに自分もまたこのドキュメンタリーの意図に易々と乗せられて共振するという、彼の「苦渋」を安直に「理解」してしまったことへの苦々しい自己嫌悪だけが残ってしまったような映像体験でした。

あきらかに、このドキュメンタリーは、ひとりの男の「自死」をあらかじめ織り込みながら、芥川賞落選の瞬間をも死の影に覆われたものとして描こうとしています。

やり過ごしてしまえばなんということもない、取るに足りない「落胆」を、より一層痛ましいものに無理やり関連付ける連続性のデコレーションに成功した作品だったかもしれません。

しかし、その自己嫌悪は、自分たちがすでに知っている彼の「自殺」という悲痛な出来事を時間軸を逆転させて作品に反映させ、弱々しい不運な作家をより一層マイナーに見せるという悪意に満ちた効果をいつの間にか自分たちも愉しんでしまっていることへの嫌悪という種類のものだったでしょう。しかし、今回この「そこのみにて光輝く」を見ていて、いつの間にか自分が抱いてきたその先入観(デコレーションへの嫌悪)にちょっと違和感をおぼえたシーンが幾つかありました。

それは、なによりもこの作品の持っている独自の力強さ(ストーリーはとことん絶望的であっても)です。

「海炭市叙景」が帯びていたあの弱々しい悲壮感(早世の作家の不運を利用して反映させた悲壮感)とはまったく違う、そして、佐藤泰志の卑屈で鬱屈した悲観(虚飾としてのデコレーションですが)に引きずられることなく、それらとはまったく異質な創意に満ちた力強さを感じました。

それは、「自殺作家」の悲観や叙情性を作品上で上手に利用したり、マイナーな雰囲気に寄り掛かろうとはしていない独自な自立した表現といえるものだったかもしれません。

オリジナルから距離をとり、自立した「自由」を確保しながら創造するということは、途轍もなくエネルギーを必要とする行為だと思いました。

「ここのみにて光輝く」には、全編を通して兄を気遣う「妹」からの手紙という形でナレーションが語られています。

それは逆に、貧しく苦しい生い立ちを、ともに過ごし育ってきた妹への深い愛情が感じられることでもあったのかもしれません。

下に掲げた佐藤泰志の年譜によれば、佐藤泰志が自殺する前年に、妹さんが急死されたと記されています。

「海炭市叙景」の最初のエピソードでは、谷村美月演じる妹が、絶望する兄がいつか死んでしまうのではないかという不安に駆られ、怯えながら絶えず兄をうかがっている繊細な姿が描かれていました。

(2013)監督・稲塚秀孝、プロデュース・稲塚秀孝、撮影・進藤清史 、作佐部一哉、美術・庄司薫 、嶋村崇、主題曲/主題歌・ロベルト・シューマン、ミキサー・永田恭紀、音響効果・塚田大、照明・男澤克幸 、川島孝夫、編集・油谷岩夫、EED・金井猛 、佐藤幸、音声・内田丈也 、斎藤泉 、武田脩平、助監督・岩田大生 、池田春花 、新見圭太 、中野沙羅、題字/タイトル・西本直代、ナレーション・松崎謙二、語り・仲代達矢
出演・佐藤泰志、村上新悟(佐藤泰志)、加藤登紀子(佐藤幸子)、杉本凌ニ、坪内守、大塩ゴウ、平田康之、鎌倉太郎、鈴木豊、神林茂典、本郷弦、樋口泰子、





佐藤泰志 年譜

昭和24年(1949)
4月26日、函館市高砂町(現 若松町)に佐藤省三・幸子の長男として生まれる。

昭和31年(1956) 7歳
函館市立松風小学校に入学。4年生頃から大人びた言動が目立ち始める。

昭和37年(1962) 13歳
函館市立旭中学校入学。 読書クラブに所属し、3年生の時、部長になる。「『赤蛙』を読んで」が第10回北海道青少年読書感想文コンクールに入選し、受賞式出席のため札幌へ行く。

昭和40年(1965) 16歳
函館西高等学校に入学。文芸部に入る。 学習雑誌の投稿欄に随筆・詩などを投稿する。

昭和41年(1966) 17歳
小説「青春の記憶」で第4回有島青少年文芸賞優秀賞を受賞。この頃、文芸読書サークル「青い実の会」結成を学友に呼びかける。

昭和42年(1967) 18歳
函館西高等学校で防衛大学校入学説明会阻止闘争が起こる。この事件を素材にした小説「市街戦の中のジャズメン」で第5回有島青少年文芸賞優秀賞を受賞。しかし、この作品は、高校生の書いたものとしては内容的に問題があるとされ、北海道新聞への掲載を拒否される。

昭和43年(1968) 19歳
3月、函館西高等学校卒業。函館で浪人生活を始める。 20枚の作品だった「市街戦の中のジャズメン」を30枚に書きなおし、「市街戦のジャズメン」と改題して『北方文芸』に発表。卒業前から北海道大学水産学部、北海道教育大学函館分校の政治的学生グループと接触。そのあたりから数年、大江健三郎・カミュ・ニザンなどを熱中して読む。 小説「市街戦のジャズメン」(『北方文芸』第1巻第3号)詩「ニューレフト」(『函館西高新聞』、3月)

昭和44年(1969) 20歳
浪人生活2年目。井田幸子・磯野新一・藤川巌・平智則ら年下の高校生と出逢う。

昭和45年(1970) 21歳
上京。中野区上高田に住む。 4月、國學院大学文学部哲学科に入学する。 高校時代の学友らと同人誌『黙示』を創刊に参加する。第6号まで詩や随筆数編を発表。

昭和46年(1971) 22歳
4月、大学の同級生漆畑喜美子と中野区上薬師で暮らしはじめる。 7月、『黙示』を脱会し、藤川巌、茜堵志哉、岩崎理らと同人誌『立待』を創刊。小説「贋の父親」(『立待』創刊号、7月) 小説「追悼」(『立待』2号、8月)小説「留学生」(『立待』3号、12月)

昭和47年(1972) 23歳
国分寺市戸倉に転居。喜美子は大学を中退。国分寺のジャズ喫茶に勤める。 小説「防空壕にて」(『立待』4号、7月) 小説「奢りの夏」(『北方文芸』第5巻10号)

昭和48年(1973) 24歳
国分寺市東元町に転居。さらに国分寺市本多に。短期間のうちに市内を転々とする。小説「孔雀」(『立待』5号、1月) 小説「兎」(『立待』7号、7月) 小説「犬」(『立待』9号、8月)小説「遠き避暑地」(『北方文芸』第6巻12号)

昭和49年(1974) 25歳
3月、国学院大学を卒業。卒業論文は「神なきあとの倫理の問題」。4月、喜美子就職。国分寺市戸倉に戻る。市役所を15か所受けるが全部落ちる。大学推薦の予備校事務員の職も自分で蹴る。服装メーカーの製品値札付けのアルバイトを皮切りに、その後職を転々とする。10月、同人誌『贋エスキモー』を藤川巌、酒井俊郎とガリ版刷りで創刊。 小説「颱風」が第39回文学界新人賞候補となる。小説「少年譜」(『立待』9号、4月) 小説「朝の微笑」(『北方文芸』第7巻11号)小説「休暇」(『贋エスキモー』創刊号、10月)

昭和50年(1975) 26歳
あかつき印刷に勤める。

昭和51年(1976) 27歳
10月、八王子市長房の都営団地に転居。喜美子、転職。 小説「深い夜から」(『北方文芸』第9巻8号)が第1回北方文芸賞佳作となる。授賞式のため札幌に行く。

昭和52年(1977) 28歳
精神の不調に悩み、3月、上目黒診療所で自律神経失調症の診断を受け、通院をはじめる。以後、没するまでずっと精神安定剤を服用。療法としてのエアロビクス体操とランニングをはじめる。1日、10キロ以上走る。9月、国立市の一橋大学生協に調理員として勤める。一橋の学生寮に出入りし、三里塚の援農にかかわる。 小説「移動動物園」(『新潮』6月号)が第9回新潮新人賞候補作となる。

昭和53年(1978) 29歳
5月、長女・朝海(あさみ)誕生。 10月、『贋エスキモー』をタイプ印刷であらためて1号から発行。 小説「光の樹」(『贋エスキモー』1号、10月) 小詩集「愛あらば一枚の皮膚」(『贋エスキモー』1号、10月)

昭和54年(1979) 30歳
梱包会社に正式に就職。 12月9日、睡眠薬による自殺未遂で入院。 小説「もうひとつの朝」(『北方文芸』第12巻3号)小説「颱風伝説」(『北方文芸』第12巻6号) 小説「草の響き」(『文藝』七月号)小説「ディトリッヒの夜」(『幽幻』2号、8月) 小説「画家ティハニー」(『贋エスキモー』2号、10月)随筆「私信・今もまだ贋エスキモーである藤川巌に」(『贋エスキモー』2号、10月)

昭和55年(1980) 31歳
1月13日、長男・綱男誕生。1月23日退院。 小説「もうひとつの朝」(『北方文芸』第12巻3号)で第16回作家賞を受賞。2月、その受賞式のために名古屋へ。「もうひとつの朝」は文芸誌『作家』3号に転載された。小説「七月溺愛」(『北方文芸』第13巻3号)

昭和56年(1981) 32歳
3月、郷里の函館市に転居。 職業安定所に通いながら、就職先を探す。 5月、職業訓練校の建築科に入り、大工になるための訓練を受ける。 小説「撃つ夏」(『北方文芸』第14巻第2号) 童話「チエホフの夏」(『贋エスキモー』3号、8月) 小説「きみの鳥はうたえる」(『文藝』9月号)が第86回芥川賞候補作となる。

昭和57年(1982) 33歳
3月、東京に戻る。国分寺市日吉町4丁目に住む。 『きみの鳥はうたえる』(3月、河出書房新社刊、表題作のほかに「草の響き」を所収)随筆「函館の朝市」(朝日新聞社北海道支社発行〈旅のメモ〉4月号) 小説「光る道」(『文藝』10月号)小説「空の青み」(『新潮』10月号)が第88回芥川賞候補作となる。

昭和58年(1983) 34歳
『きみの鳥はうたえる』の表紙を担当した画家・高専寺赫と親しくなる。 このころから文芸誌の新人賞の下読みと新聞の書評の仕事が入るようになる。 小説「鳩」(『性教育研究』2月号) 小説「水晶の腕」(『新潮』6月号)が第89回芥川賞候補作となる。 小説「黄金の服」(『文學界』9月号)が第90回芥川賞候補作となる。

昭和59年(1984) 35歳
5月から『日刊アルバイトニュース』の連載エッセイ「迷いは禁物」がはじまる。週に1本、1985年7月まで全部で56回書く。5月、国分寺市日吉町3丁目に転居し、以後、没するまでここに住む。次女・佳乃子誕生。小説「防空壕のある庭」(『新潮』3月号) 随筆「夢みる力」(『北海道新聞』2月22日付)随筆「八百五十キログラムの詩集」(『オーバー・フェンス』6号、3月) 小説「美しい夏」(『文藝』六月号)小詩集「僕は書きはじめるんだ」(『オーバー・フェンス』7号、9月)

昭和60年(1985) 36歳
小説「鬼ガ島」(『文藝』3月号) 小説「オーバー・フェンス」(『文學界』5月号)が第93回芥川賞候補作となる。随筆「書斎」(『北海道新聞』7月30日付) 小説「野栗鼠」(『文藝』9月号)小説「風が洗う」(『文學界』11月号) 小説「そこのみにて光輝く」(『文藝』11月号)詩「そこのみにて光輝く」(『オーバー・フェンス』9号、11月)

昭和61年(1986) 37歳
「もうひとつの朝」の再発表をめぐって波紋。事実上、文芸ジャーナリズムからほされる。 アルコール中毒ひどくなる。 小説「もうひとつの朝」(『文學界』6月号)

昭和62年(1987) 38歳
随筆「十年目の故郷」(『北海道新聞』1月20日付) 随筆「『北方文芸』と私」(『北海道新聞』4月25日付)小説「大きなハードルと小さなハードル」(『文藝』12月号)

昭和63年(1988) 39歳
4月よりテレビドラマの時評を月1回書く。(共同通信系で全国より地方紙に「放送時評」あるいは「テレビ時評」として、1989年3月まで連載される)。 加藤健次編集の雑誌『防虫ダンス』に連載していた「海炭市叙景」の連作を途中で打切り、文芸誌『昴(すばる)』で、11月号より新たに最初から断続的に掲載を始める(1990年の4月号まで6回にわたり発表する。なお、この連作は当初の構想では、全体を4章(36編)とし、第1章「物語のはじまった崖」と第2章「物語は何も語らず」の18編が『昴』誌上に発表された。しかし、1990年の自裁により第3章以降は中断となる)。 小説「海炭市叙景/1まだ若い廃墟 2青い空の下」(『防虫ダンス』4号、1月) 随筆「青函連絡船のこと」(『中國新聞』ほか、3月10日付) 小説「海炭市叙景/3冬を裸足で」(『防虫ダンス』5号、5月) 随筆「もうひとつの屋上」(『昴』7月号) 小説「海炭市叙景」(『昴』11月号) 小説「納屋のように広い心」(『文藝』季刊冬季号)

平成元年(1989) 40歳
1月19日、北海道浦河町に住む妹・由美が急死する。小説「闇と渇き(海炭市叙景2)」(『昴』3月号)『そこのみにて光輝く』(3月、河出書房新社刊、既発表の「そこのみにて光輝く」を第1部として、書き下ろしの第2部「滴る陽のしずくにも」を合わせたもの)が第2回三島由起夫賞候補作となる。小説「裸者の夏」(『群像』5月号)小説「新しい試練(海炭市叙景3)」(『昴』5月号)随筆「浦河の映画館」(『北海道新聞』6月2日付)小説「春(海炭市叙景4)」(『昴』9月号)『黄金の服』(9月、河出書房新社刊、表題作の他に既発表の「撃つ夏」「オーバー・フェンス」を所収)随筆「背中ばかりなのです」(『新刊ニュース』11月号)小説「夜、鳥たちが啼く」(『文藝』季刊冬季号)

平成2年(1990) 41歳
10月9日夜、ロープをもって家を出る。10日朝、自宅近くの植木畑で死体となって発見された。11日、通夜。12日、告別式。小説「青い田舎(海炭市叙景5)」(『昴』1月号) 随筆「武蔵野雑感」(『北海道新聞』1月23日付)随筆「アメリカの叫び」(映画『ブルックリン最終出口』パンフ、3月) 小説「楽園(海炭市叙景6)」(『昴』4月号)随筆「川の力」(『毎日新聞』5月29日付) 随筆「失われた水を求めて」(『東京人』7月号)随筆「卒業式の思い出」(国学院大学広報誌『滴』、10月) 小説「星と蜜」(『文藝』文藝賞特別号)小説「虹」(『文學界』12月号)

平成3年(1991)
『移動動物園』(2月、新潮社刊、表題作のほかに既発表の「空の青み」「水晶の腕」を所収) 『大きなハードルと小さなハードル』(3月、河出書房新社刊、表題作のほかに既発表の「美しい夏」「野栗鼠」「納屋のように広い心」「裸者の夏」「鬼ガ島」「夜、鳥たちが啼く」を所収) 『海炭市叙景』(12月、集英社刊) 3月、福間健二発行による文芸同人誌『ジライヤ』第6号が佐藤泰志追悼特集を組む。

平成4年(1992)
4月、佐藤喜美子より函館市文学館へ遺品が寄贈される。7月、辻仁成・荒木元発行の文芸同人誌「ガギュー」(創刊号)が佐藤泰志特集を組む。10月、「佐藤泰志をしのぶ会」(三回忌)が国分寺市内で営まれる。発起人は木村和史・佐藤喜美子・福間健二・藤川巌。

平成5年(1993)
3月、函館市文学館が開館し、佐藤泰志の展示コーナーが設置される。中高時代の学友などによる「函館文学館の佐藤泰志コーナーに絵を飾る会」から、高専寺赫作品「叙景」(『海炭市叙景』の表紙絵)が函館市文学館へ寄贈される。4月、「絵を飾る会の夕べ」が開催される。6月、文芸同人誌『ガギュー』第2号が再度、佐藤泰志を特集する。

平成8年(1996)
8月、藤田節子(元函館文学学校事務局長)から函館市文学館へ、佐藤泰志からの書簡などが寄贈される。

平成9年(1997)
5月、坂本幸四郎(文筆家)から函館市文学館へ、佐藤泰志からの書簡などが寄贈される。
平成11年(1999)
9月、函館市文学館で「佐藤泰志 途絶した青春」展が開催される(9/17~10/20)。同文学館主催により、日本近代文学会会員北村巌による講演会「佐藤泰志、その眼底に焼き付けしもの」が開催される。中高時代の学友らの手により、佐藤泰志追想集「きみの鳥はうたえる」(佐藤泰志追想集を発行する会発行)が刊行される。
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by sentence2307 | 2015-05-04 20:49 | ドキュメンタリー映画 | Comments(0)