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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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折鶴お千

映画を漫然と見ているうちに、それがいつしか惰性におちいり、次第に緊張感を欠いてしまい、ただ「流されて」しまうだけの状態になることを常に恐れています、それだけは避けなければと、注意しているつもりです。

不幸にして、たまたま、そういう「期間」に見てしまった映画が、たとえそれが、いわゆる「名作」と呼ばれる作品だとしても、ほかの多くの駄作に巻き込まれるかたちで、十把ひとからげ的に無感動に(正確にいえば、むしろ「無感覚」という感じかもしれません)スルーし、忘却という「ゴミ箱」に直行して、まったく印象に残っていないという苦い経験をかつて幾度も経験しました。

でも、また新たに意識を整えて再度見ればいいじゃん、とか言われてしまいそうですが、最初の出会いをこんな怠惰なかたちで損なってしまうと、あとはどうやっても「建て直し」ができない感じが以後ずっと付きまとってしまいます(そこは、ホラ、男女の出会いと一緒かもしれません)。

つまり、自分的には、その作品の存在を「見失ってしまった」ことと同じで、あとは他人の価値観や認識を借りて映画をなぞるだけという、自分の価値観や認識でスキャンすることに失敗したわけで、やはり、初めての作品に対する接し方はとても大切だと思うので、努めてそこは慎重に準備しなければと考えていますし、たとえば、自分なりの「基準」なども設けて鑑賞しています。

具体的にいえば、その映像作家の最良の作品を常に念頭に置くという方法なのですが、たとえば、溝口健二作品でいうと、やはりそれは「残菊物語」ということになるでしょうか。

晩年に海外で大いに評価された「西鶴一代女」や「雨月物語」や「山椒大夫」などは、たしかに優れた作品なのかもしれませんが、それは溝口健二の溢れ出る才気や優れた技術を誇示した作品というだけで、しかし、はたしてそれらが、溝口が本当に撮りたかった作品だったかといえば、それはまた別なハナシという感じがして仕方ありません。

やはり、「基準」という観点からすれば、献身と忍従によって自我を貫いた一途な明治の女を凄絶に描いた「残菊物語」が、やはり一頭地を抜いた作品ではないかと考えています。

この作品を筆頭に、ほか一連の「女性像」を描いた作品の系譜があるからこそ、「西鶴一代女」や「雨月物語」や「山椒大夫」が成立したに違いないと思っています。

しかし、こんなふうにして見た「折鶴お千」ですが、実は、そんな「基準」を設定してしまったことに、すぐに後悔した作品でもありました。

この「折鶴お千」には、あの「残菊物語」の衝撃も感激も残念ながらありませんでした、ただ、納まりどころのつかない苛立ちだけが自分の中にワダカマッテしまった感じです。

その「苛立ち」のひとつは、お千(山田五十鈴が演じています)の苦労・苦衷を最後まで理解することのなかった宗吉(夏川大二郎が演じています)の鈍感さが気になりました。

そこに溝口健二らしからぬリアリズムの欠如を感じたからかもしれません。

お千は、最初から脅かされるままに嫌々悪党の手先にさせられて、ときには騙す相手への餌として、その美貌や肉体を提供させられ、ずるずると悪事の加担を強いられてきただけの哀れな女です。

彼女自身に、悪事に対する才覚もその覚悟もあったわけではなく、ただ地獄のような屈辱的な生活から逃れたいという一心があって、やがて、同じように悪党たちから虐待される薄幸の孤児・宗吉への同情が次第に共感となって膨張・共振し、爆発してこの苦界から逃れることができるのですが、やがて、ふたりが居を共にし、お千が宗吉の学業を援助するという後半へつながっていくことを思えば、お千の気持ちのなかに憐れな宗吉に対する「ほどこし」の気持ちだけで居を共にしたわけではないことは十分に認識できます。

宗吉を支えることが彼女の生きる励みともなったその思いが強すぎて、一方で、彼らの生活を支えなければならないお千に、最初から生活の経済的基盤を確保するだけの生活能力が欠如していたこと(そのために、ふたりの生活の破綻はすぐにやってきます)を、当のお千自身が、当初はそれほど深刻には考えていなかった(認識すること自体ができなかったとも考えられますが)ことは理解できるとしても、それは、あくまでも「お千」なら「そう」かもしれないというだけのことで、将来は医学博士にでもなろうかという優秀な青年・宗吉もまた、ごく近い将来に自分たちの生活が破綻をきたすという予想や認識をできなかったとは、どうしても考えられないのです。

ましてや、かつて悪党たちの屈辱的な支配に甘んじていた頃の弱々しい(誰かに寄生しなければ生きていけない生活無能力者といってもいい)お千をつねに身近に見てきて、彼女の卑弱さを十分に知っていた宗吉が、やがて彼らのうえに襲い掛かる生活苦を、そのようなお千が支えきることができるなどと考えたとは、どうしても思えないのです。

ここまで書いてきて、ひとつの仮説が浮かび上がってきました。

悪党たちが、お千の美貌と肉体を散々食い物にしたように、宗吉もまた、お千の好意に寄りかかって、この都合がいい生活をできるだけ長引かせてやろうとしたのではないか。

宗吉の計画は、お千の不注意によって(客が財布を忘れ、届け出る前に彼女は捕縛されてしまいます)この都合のいい生活の破綻は意外に早くやってきてしまいますが、宗吉には、お千以上に世慣れた才覚があり(もともと優秀なのですから、当然の成り行きです)、すぐに次のパトロンを探し当て、将来への途を開きます。

この最後の部分、腹のなかで「舌」を出してほくそえむ宗吉を辛らつに描いたとしても、溝口作品らしさという意味でいえば、それこそ可能性の範囲なのではないかと考えました。

男たちから散々に食い物にされた哀れな女たちを描きつづけ、多くの優れた作品を残した溝口健二への共感が、自分にここまで妄想させたのだなと思いましたが、はたして本当に「妄想」だったのか、この作品が「回想」によって大きく括られていることが、始終気になっていました。

あの「回想」が、どういう意味だったのかといえば、それは、宗吉が、その栄達の間中、「お千のことをまったく忘れていた時間」のことだと思い当たりました。

最後の場面、宗吉が、たとえ取ってつけたように泣き崩れたとしても、「忘却」というその残酷な事実は、消しようがありません。

そのとき、不意に、むかし、加川良が歌っていた歌を思い出しました。

題名はたしか「忘れられた女」だったかとうろ覚えながらネットで検索したら、これは、マリー・ローランサンが作った「鎮静剤」という詩なのだそうですね。

you tubeで確認したところ、高田渡の歌っているものもありましたが、やはり加川良の歌のほうが、メロディの感じなんかがよくつかめるような気がしました。

自分も加川良の歌を聞いて覚えていました。

まさに映画「折鶴お千」のための詩なのではないかと思えるくらい、ぴったりした詩だと思いました。


「鎮静剤」
退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。
悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
捨てられた女より もっと哀れなのは 寄る辺ない女です。
寄る辺ない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。


(1935製作=第一映画社 配給=松竹キネマ)監督・溝口健二、監督補・寺内静吉、 高木孝一、 伊地知正、 坂根田鶴子、脚色・高島達之助、原作・泉鏡花 『売食鴨南蛮』、撮影・三木稔、撮影補・竹野治夫、岡田積、選曲・松井翠聲、装置・西七郎、美術・小栗美二、録音・佐谷戸常雄、録音補・室戸順一、三倉英一、照明・中西増一、普通写真・香山武雄、衣裳・小笹庄治郎、技髪・高木石太郎、結髪・石井重子、衣裳調達・松坂屋、解説・松井翠声、
出演・山田五十鈴(お千)、夏川大二郎(秦宗吉)、羅門光三郎・芳沢一郎(浮木)、芝田新(熊沢)、鳥井正(甘谷)、藤井源市(松田)、北村純一(盃の平四郎)、滝沢静子(お袖)、中野英治(宗吉の恩師・教授)、伊藤すゑ(宗吉の祖母)、
1935.01.20 帝国館 10巻 2,634m 96分 モノクロ/スタンダード シネマ・スコープ(1:2.35) 解説版
by sentence2307 | 2016-08-22 13:13 | 溝口健二 | Comments(0)