時よ止まれ 君は美しい
2016年 09月 17日
それはまさに、「嫌というほど」という形容詞をつけたくなるくらいのものだったと思います。
そこではたまに、古典と呼ばれる「名作映画」が上映されるので、それをとても楽しみにしていました。
その名作映画群が、幾館でもプログラムされたときは、まる一日掛けてあちこちの名画座を渡り歩いたものでした、いわば、名画座のハシゴですよね。
そこでは、ジュリアン・デュヴィヴィエの「望郷」1936だとか、「舞踏会の手帖」1937なども掛かっていて、もちろん、ヌーヴェルバーグの映像作家や批評家たちからは、デュヴィヴィエの作品が手酷い批判を浴びていたことは知っていましたが、しかし、自分は、むしろ彼のミエミエの通俗さをこそこよなく愛していたので、当時の進歩的な「映研」のトレンドには同調できず、授業を抜け出してはひとり、デュヴィヴィエ作品を見に行ったものでした。
その若きヌーヴェルバーグの作家たちのデュヴィヴィエ対する嫌悪感を知ったとき、日本人とフランス人とでは、「通俗」というものに対する考え方がずいぶんと違うのだなということを強烈に感じました。
ちょっと古いフランスの小説なんかを読んでいると、「プチブル」という中途半端な階級の日和見性を徹底的に嫌悪する、滑稽なくらい潔癖な共産党びいきの親爺というのが、たまに登場したりするじゃないですか。
そういえば、フランス映画の喜劇のつまらないことといったらありません、ルイドフュネスの生真面目すぎて崩れきれないところが、自分にはどうしても笑えませんでしたし、あの感覚は日本人には絶対理解できないと思う。
あれと同じだなという感じで、しかし、いい年こいたその幼児性には、苦笑でちょっと頬が緩んでしまう反面、嫉妬めいたものもないではありません。
自分の友人にも、「オレは純文学しか読まない、探偵小説やミステリー小説などという、あんなくだらないものは絶対嫌だ」というのがいますが、(探偵小説やミステリー小説にしたっていい作品なら山ほどあるのにモッタイナイ)そんなに頑なにならなくてもいいのではないか、ひとつのジャンルを偏見で、そんなふうにマルゴト拒否すると、結局損をするのは自分なのにな、という憐れみの感情がある一方で、そのような乱暴な思い込みだけで世界を理解しようとする強引な決然さには、憧れみたいなものも正直のところ、あるにはあります。
さて、「望郷」や「舞踏会の手帖」ですが、もちろん、それらの作品は当時としても、こてこての古典映画とみられていたし、自分としてもヌーヴェルバーグや、アメリカン・ニューシネマの諸作品とは明らかに異なるもの、いわば古色蒼然たる作品として位置づけて見ていたわけですが、そのことについて、最近、よく考えることがあります。
例えば、それらの作品を見ていた当時の「その頃」を仮に「1970年」と設定した場合、かの「望郷」や「舞踏会の手帖」なんか、せいぜい三十数年前の映画にすぎなかったわけですよね。
なにが言いたいかというと、いま現在の「2016年」という年を基準として考えた場合、その「三十数年前」は、「1970年」どころじゃない、もっと現在に近づいたところに位置するわけで、自分が「望郷」や「舞踏会の手帖」を見ていた状況と、いまの人が「イージー・ライダー」や「真夜中のカーボーイ」や「明日に向かって撃て!」を見ることと「同じ」なのかと考えたとき、デュヴィヴィエ作品も含めたあれらの作品は、(見る人が見れば)実は決して「古色蒼然」なんかじゃなかったのだということに気がついたのです。
つまり、「古典映画」なんてものは、最初からなかったのだと。そうした括り方をすること自体、単なる思い込みや偏見にすぎなくて、「見る」ときこそが、常に「いま」だったのであって、なぜ「あの時」もっとヌーヴェルバーグやアメリカン・ニューシネマをトレンドにのってつきつめて、もっと徹底的に見ておかなかったのかと悔いる気持ちが湧いてきました。
結局、それもこれも自分の「へそ曲がり」がもたらした天邪鬼からきたものなのだろうなということで一応の結論に達した次第です。
とはいっても、いったい何が言いたかったのか、自分でももうひとつ分からないような・・・。