殺人カメラ
2017年 01月 02日
なんだか直感的にルイス・ブニュエルの「昇天峠」を連想させるほどのオーラを放ったインパクトのある写真なのですが、映画のタイトルはといえば、それがなんとも軽々しい「殺人カメラ」というのです。
「なんだこりゃ」的なこのタイトル、古今東西のあらゆる映画の題名に精通していると自負していた自分でも、こんな脱力系のタイトルなんか、今のいままで聞いたことも見たこともありません。
いやいや、むしろ逆に、この手のタイトルなら、言葉の組み合わせを自在に入れ替えただけの幾通りもの紛らわしい題名のバリエーションがある分だけ、今までに接したかもしれないとしても、覚えていられるわけもなく、何が何やら、どれがどれやら、ぐちゃぐちゃに錯綜して、頭の中はカオス状態で最早判別など覚束ないというのが実情です。
そうそう、いま思い出しました、そういえば、むかし、「血を吸うカメラ」とかいう作品(確かカメラにナイフが括り付けてあって、アップしながらグサッと殺す、まさに死の瞬間をリアルに捉えようというカメラ狂の映画だったような記憶です)がありましたよね、これって、あの作品とちゃうのん?。
当時(たぶん、今でもそうかもしれませんが)あの作品は、マニアックな人たちが、盛んに持て囃していたという先入観があったので、急いでウィキで「血を吸うカメラ」を調べてみました。
しかし、そこでは、カルト・ムービーの評価どころか、惨憺たるフィルムの来歴にぶち当たることになりました。
1960年公開のイギリス映画で、監督は、なんと名作「赤い靴」や「ホフマン物語」で名高いあのマイケル・パウエルだそうです。
へぇ~、そうなんだ、ますますこの作品の「解説」を読まないわけにはいかなくなりました、さあ早く早く。
≪本作品はしばしば、ほぼ同時期に発表された映画『サイコ』と比較される。『サイコ』が「殺害される人間の恐怖」を表現しているのに対し、『血を吸うカメラ』では「殺戮を行う側の心理」を惜しげもなく表現している。また、この作品は人間の目から見たカメラ視点が特徴である。≫
ふむふむ、ここまでは、まあいいじゃないですか、ベタ褒めという感じではないにしろ、少なくとも貶したり腐したりしているわけではないし、むしろ、かの名作、ヒッチコックの『サイコ』と並び称された作品とあるくらいですから、一応は敬意を払われているとみてもよさそうですし、当時はそれなりのインパクトのあった作品だったのだろうなと思っていた矢先、このあとがいけません、驚嘆するような事実が書かれていました。
≪性的・暴力的な内容から、公開当時はメディアや評論家から酷評を浴び、イギリスを代表する映画作家の一人ともみられていたパウエルの名声は失墜した。パウエルはこの映画の後はほとんど映画を撮ることができないまま死去した。しかし後年になって再評価の声が高まり、本作は米国を代表する国際ニュース誌『TIME』が発表したホラー映画の歴代ベスト25に入っている。≫
なるほどなるほど、自分は、この「しかし後年になって再評価の声が高まり」と同じ時期にこの作品に遭遇したので、さほどの悪印象を持つことがなかったのだと分かりました。
おまけに、マイケル・パウエルが、この作品によって、名声を失墜させ、二度と映画が撮れなくなって、失意のなかで死んでいったという惨憺たる事実(いかにも、建前と本音の落差の激しいイギリスらしい「おもてなし方」じゃありませんか)も知らなかったくらいですから、多くのB級映画と同じように、呑気に「血を吸うカメラ」を鑑賞し、軽く軽侮の吐息をついたあと大した印象も抱くことなく、あっさり忘れてしまったのだと思います。
さて、呆けたような顔のオッサンの写真を掲げたこの動画が、かの「血を吸うカメラ」じゃないとすると、いったいこの「殺人カメラ」とは何なんだと、さらにクリックを進めると、なんとそこには、ロベルト・ロッセリーニが監督した1948年の作品と書いてあるではありませんか。
おいおい、あの「無防備都市」や「戦火のかなた」、「ドイツ零年」で知られた硬派なロッセリーニが「殺人カメラ」なんて軽々しいオチャラカ映画を撮ったのかよ、嘘だろう、いや、嘘だ嘘だ、そんなはずはない、大嘘にきまってる、自分の記憶の中には、ロッセリーニ作品として「殺人カメラ」なんてタイトルの映画はインプットされていません、そんなの全然知らない、聞いたこともない。
やがて徐々に、ショックというよりも、無知だった自分が、なんだか小馬鹿にされて辱められているような感じがします。
こりゃあ、「紅白歌合戦」どころじゃないぞと(この時間には、そろそろ公共放送で全国民的必見番組「紅白歌合戦」が始まろうとしています)さっそく、最近はとんと開いたことのないジョルジュ・サドゥールの「世界映画史」(1964.12.30発行、みすず書房刊)を書棚から引っ張り出して、ロッセリーニのフィルモグラフィ1948年のページを開きました。
なるほど、なるほど、ありますね、1948年の項に、イタリアの原題で「LA_MACCHINA_AMMAZZACATTIVI」とあり、英語では「THE MACHINE TO KILL BAD PEOPLE」と題された作品が撮られたことが書かれていました。なるほど、これですか、つまり、直訳的には、「悪人を殺すための機械」ということですね。「フムフム、そういうことか」という気持ちです、このふたつのタイトルの違いについては、微妙ですが(「機械」を「カメラ」と意訳したのでしょうが、そういう姿勢が、この場合、ほんとうに正しい姿勢といえるのか、ということについてです)、まずは、とにかく、動画を見ることにしました。実際に見てみなければ、なにひとつ始まりませんしね。
しかし、ここだけの話ですが、こういう歴史的な作品をクリックひとつで手軽に見られてしまうなんて、すごい時代だと思います、しかもロハで。
さて、さっそく、映画「殺人カメラ」を見てみました。以下に、メモ程度にストーリーを書いておきますが、当ブログは、あくまで個人的な心覚えの場所なので、「ネタバレ」などといわれるのは心外です。だいたい「あらすじ」が分かったくらいで、どうこうしてしまうような映画なら、最初から大した映画なんかじゃありません、心配しないでください。
さて「あらすじ」です。
≪舞台は第二次世界大戦後のイタリア南部の小さな漁村、大聖堂の祝祭日に、人の良い写真家チェレスチーノは、多くの人でにぎわう祭りの様子を写真に撮ろうとしたところ、暴君の警察署長に邪魔されてしまいます。その夜、彼のところに、旅の老人が一夜の宿を求めて尋ねてきます。
聖アンドレアと名乗るその老人は、写真の被写体をカメラで撮影するだけで写真の人物(悪人)を殺すことのできるという大変な能力をチェレスティーノに授けます。
この老人を、聖人とすっかり信じている写真屋チェレスティーノは、その驚くべき力に驚きながらも、試しに警察署長の写真を撮ってみたところ、その直後、本当に署長は突然死してしまいます。
常日頃、自分さえよければ他人などどうなっても構わないという強欲な村の人間たちに怒りを覚えていたチェレスティーノは、次第に自分の不思議な力に取り憑かれたようになって「写真」を撮影し、強欲な村人(もちろん欲深い悪人たちです)を次々に殺していきます。
村を牛耳る警察署長の次には、高利貸しの老婆マリアも殺しますが、遺書に遺産の相続人を村で最も貧しい3人に与えると書かれていることを知り、チェレスティーノは動揺し混乱し、さらに事態は紛糾するのですが、そこにアメリカ人によるホテル建設計画も加わって、欲に溺れた村人たちが織りなす騒動はさらに大きくなっていきます。
チェレスティーノはカメラで悪人を次々と消してゆきますが、事態は一向に改善しません。
村で最も貧しいという3人も、善人というわけではないということが分かってきます。
そんな中、彼に力を与えた例の老人が現われ、実は自分は悪魔なのだと告白し、チェレスティーノは彼に十字の切り方を教え、悪魔も改心し、ただの人間になってしまうのでした。
めでたたし、めでたし。≫
というわけなのですが、自分は、この「貧乏人が、必ずしも善人なわけじゃない」という部分に強く惹かれました。このことをロッセリーニは、言いたかったのではないかと思いました。
これは、現代にも通ずる(ヒューマニストとかいう人たちが決して認めたがらない)社会保障の根幹を問う辛辣な指摘です。
生活保護費を全部パチンコにつぎ込むとか、働けば保護を打ち切られるので働かないとか、いまでもこういうのってよく言われているじゃないですか。
人を救うのがヒューマニズムなら、人を堕落させるのもまた、ヒューマニズムだということでしょうか。
ジョルジュ・サドゥールの「世界映画史」で、ロッセリーニのフィルモグラフィを見たとき、あることに気が付きました。
1948年にこの「殺人カメラ」を撮った翌年、「ドイツ零年」に続いて撮ったのが「神の道化師・フランチェスコ」でした。(自分も2004. 11.6に小文をアップした記録がありました)極貧の中で信仰を貫いた聖人を描いた映画です。たしかゼフィレッリも「フランチェスコもの」を撮っていたと記憶しています。
戦争という極限状態の中で撮った「無防備都市」や「戦火のかなた」が、高く評価されればされるほど、やがて平和な時代が訪れたとき、自分の撮るべきものを見いだせないまま、焦燥感のなかで模索し、やがて失意の中で沈黙におちいったロッセリーニの「迷い」の姿を示すような2作だったのかもしれません、ロッセリーニにとって、戦争が過酷だったように、平和な時代もまた同じように過酷だったのかしれないなと思えてきました。
(1948イタリア)監督脚本製作・ロベルト・ロッセリーニ、脚本・セルジオ・アミディ、ジャンカルロ・ヴィゴレルリ、フランコ・ブルザーティ、リアーナ・フェルリ、原案・エドゥアルド・デ・フィリッポ、原作・ファブリチオ・サラツァーニ、製作・ルイジ・ロヴェーレ、撮影・ティーノ・サントニ、エンリーコ・ベッティ・ベルット、音楽・レンツォ・ロッセリーニ、原題・LA_MACCHINA_AMMAZZACATTIVI (THE MACHINE TO KILL BAD PEOPLE)
出演・ジェンナーノ・ピサノ(Celestino esposito)、マリリン・ビュファード、ウィリアム・タブス(Il Padre della Ragazza)、ヘレン・タッブス(La Madre della Ragazza)、マリリン・ビュフェル(La Ragazza Americana)、ジョヴァンニ・アマート、ジョ・ファルレッタ、ジアコモ・フリア、クララ・ビンディ、ピエロ・カルローニ
モノクロ音声 上映時間 83分
【参考】
「神の道化師、フランチェスコ」
すごい映画だと聞いていました。
まぼろしの名作と紹介している本もあります。
なにせ「無防備都市」や「戦火の彼方」を撮ったロッセリーニの作品です。
それらの作品が映画史に与えた影響の大きさを思えば、この映画を見る前の期待と緊張は当然だと思います。
それに、イタリア人にとって聖フランチェスコは、特別な意味があるらしいのです。
その証拠に僕たちが知っているだけでもフランコ・ゼフレッリの「ブラザー・サン シスター・ムーン」、リリアーナ・カヴァーニの「フランチェスコ」とそれ以前に「アッシジのフランチェスコ」という作品も撮っているそうです。
話は、中世の修道士たち(聖フランチェスコと仲間たち)の布教活動と、その質素極まる生活をリアルに描いたものです。
荒涼とした原野に廃墟のような小さな教会を建て、粗末なボロ服に裸足という驚くべき徹底した極貧のなかで、彼らは寄り添いながら教化活動に携わります。
俗世の欲望を捨て去り、貧しさの極限で自己犠牲の歓びを見出すという被虐的なまでの修道士たちの様々なエピソードが綴られます。
それはこの世で持てる総ての財産を失い尽くすことが、精神世界の豊かさを得、ひいては神の身元へ近付きうる唯一の方法ででもあるかのような感じです。
「奪い合えば足りず、譲り合えば余る」という逆説的な精神世界が描かれてゆきます。
所有欲から解放されれば、気高い精神世界が獲得できると信じて疑わない単純極まる率直さには、そのあまりの無邪気さに、ときに失笑を誘いますが、しかし、このリアリズムに徹した優れた作品が、「無防備都市」や「戦火の彼方」と、どうつながってゆくのか理解できずに戸惑いました。
作品それ自体が優れて自立していれば、それだけでいいのだとも思いますが、一方ではやはり納得するだけの理屈も欲しい気がします。
パゾリーニの「奇跡の丘」なら分かるのです。
パゾリーニのイエスは、荒涼とした原野をせかせかと足早やに歩き回り、言葉がまるで人を打ち砕くことのできる武器ででもあるかのように人々に、そして権力者に恫喝を投げかけ挑発する、まさに全存在を賭けた戦闘的な布教活動を展開します。
為政者を怯えさせ危機感に追い込んで処刑を決意させた程のイエスとは、多分こうだったんだろうな、とパゾリーニの姿勢とともに十分納得できたのです。
しかし、ロッセリーニのこの作品の異常なまでの被虐的な謙虚さは、いったい何を示唆しているのか、見当もつきません。
これからの宿題です。