世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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花芯

この「花芯」という作品が、もの凄く優れた作品なのか、それとも単に奇をてらっただけの愚劣な作品にすぎないのか、ずっと考え続けているのですが、もうかなりの期間、考えをまとめられないまま煩悶の日々を過ごしています。

そして、いまでは、この「花芯」は、自分にとって「躓きの石」というか「死の棘」というか、そういう作品になっていて、まるでそれは黒々とした癌細胞のように自分の内部を侵蝕しつづけています、たぶん、こういうのを「脅迫観念」とでもいうのだろうななどと、まさに恐慌状態にあります。

しかし、そんなふうに共感はおろか理解のできない映画というなら、なにもこれが最初の遭遇ってわけでもないので、この作品もそのうちの一作とみなしてさっさと思考放棄してしまえば、それはそれで済むことなのですが、しかし、それがなかなかできません。

それに、たとえ、自分の第一印象が「嫌悪」や「理解不能」であったとしても、また、この作品自体のチカラ不足のために見る側に十分な理解を届けられない卑力な映画なのだからと「負い目」に感じる必要はないと思う一方で、そういう作品にだって(「だからこそ」というべきか)なんらかの「伝えたいもの」があるはずで、たとえそれが自分にとって「負の部分」に位置するものであっても、そのことを理由として、つまり自分の「負の部分」を占めるものは一切考えないし書くことも放棄するのかという部分で引っ掛り、自分は「躊躇」し「煩悶」もしてきたのだと思います。

それに、自分の反応として、せいぜい「嫌悪感」くらいしかなかったのですが、やはりそれが「反応」のひとつであるなら、そのことをもって「思考停止」につなげるのはなんだか違うかなという思いもあり(むしろ、そちらの方が大きいかも)、たぶんそんなふうにこの作品を放棄したら、いままでの経験から、きっとあとあとまで後悔するに違いないと思いました。

思考停止して、過去に置き去りにしてきた「書けなかった作品」というのが、自分の中ではまるで「水子」か「喉につかえた魚の骨」みたいに、記憶の底深くに淀み沈殿しつづけ、ときおり疼き出して、その存在を痛みとして意識することに辟易しているので、いま目の前にあるこの映画「花芯」までミスミスそのうちのひとつとすることに戸惑うものがあるからかもしれません。

ですので、書けないのなら書けないなりに、そこに確かに存在しているものだけを頼りにしてでも、つまり「花芯」という作品に対して持った、たとえ「苛立ちと嫌悪感」だけを手掛かりにしてでも、ということですが、考えを少しでも前へすすめてみようかと思い立ちました、そして、足掻きついでに、この映画の感想をサイトでざっとオサライしてみました。

「この女性(主人公の園子です)は、誰も幸せにできないし、自分も幸せになれない感じで切ない。男性からすると、どう扱っていいものやら、どうしようもないって感じですかね。」とか、

「全く理解できないふしだらな女の話で、当時なら青線や赤線ででも働けば、きっと天職だっただろうにという感想しか思い浮かばなかった。」とか、オオムネこんな感じでしょうか。

しかし、この感想の背後に、自分が感じたのと同じ「嫌悪感」が見え隠れしているところからすると、このコメント氏もきっと男性に違いありません。

この「誰も幸せにできない」とか「青線や赤線ででも働けば、きっと天職だ」という、本質論とはまるで無縁の感情的な感想は、逆にいえば「自分のことを幸せにしてくれない女は駄目だ」とか「フシダラな女は、自分の伴侶にしたくない」と読み替えもでき(そこに男性の側の身勝手な願いや一方的な危惧が込められているだけなら)、当然、女性の側にだってそれなりの言いたいことも在り得るわけで、そこのところを是非とも知りたいと思いました。

たぶん、検索するまえの自分は、「男の所有物になって、経済的にも性的にも支配下に置かれることに反発する」という「男におもねらないで生きる時代を先取りした女性讃歌」みたいなコメントを想定していて(その延長線上で「寂聴先生バンザイ」なんていうのもあるかもしれません)、検索前に自分がどういう方向で論を進めていこうとしているのか、すでに無意識下で組み立てていたと思います。たぶん、ジェンダーギャップみたいな方向からのアプローチとか、ですが。

しかし、意外なことに、自分の安易な予想は、悉く裏切られました。

多くのコメントは、この作品を「理解」しようと務めてはいるものの、手放しの「好意的」なコメントはまったく見当たらない、「性差」を論ずる以前に「なんだか嫌な感じ」みたいなものがほとんどで、いわば「シャットダウン」的な拒否反応という印象を受けました。

「そうか、分かった!」思わず自分は膝を叩きました。

つまり、これってこういうことですよね。

「それが、どういう世界のことかは不明だけれども、とにかくフツーの人間の理解を阻む『いかがわしさや嫌悪感』だけなら、それは確かに『ここ』にある」みたいな。

つまり、(「つまり」だかどうだか分かりませんが)「それでも地球はやっぱ回っている」だったのです、自分の「嫌悪感」だけは確かに正しかった、のです。

自分は、この「花芯」という作品を、いつの間にかトッド・ヘインズ監督作品「キャロル」2015と同じタイプの誠実な作品と思い込み、必死になってその次元で理解しようと努めていたために、なおさら「理解」できずに(最初からそこには「出口」なんかなかったのですから当然だったのです)、拒否反応のような「嫌悪感」だけが、まるでサーモスタットか安全装置のように反応・機能して、思考がシャットダウンしたのだと始めて気がつきました。

あの作品において、中年女キャロルがテレーズを求めたのは、なにもレスビアンとして彼女の若い肉体をムサボリたかったからではありません。そもそもキャロル自身が真にレスビアンだったかどうかさえきわめて疑問と考えているくらいです。

もはや嫌悪感しか抱けない夫との冷え切った夫婦関係を修復できないまま、娘の親権さえ失おうとしているなかでキャロルはテレーズと出会います、上辺だけの人間関係に上手に適応できずに疲れ切り、世間の悪意ある偏見をうまく捌けないまま社会の片隅に追いやられようとしている孤独を抱え込んだ彼女にとって、その「孤独」を理解し合えるその一点で寄り添う誰かが必要だったというだけで、たとえその関係を成立させるものが、仮に「レスビアン」だったとしても一向に構わない、それは単にひとつの関係を築く手段にすぎないというだけで、孤独な人間同士が結びつくことができれば、その理由づけなんて実は「なんでもよかった」のだというのが、自分の印象でした。

しかし、映画「花芯」は、そういう世界のことが描かれているわけではありません。

親が決めた「いいなずけ」と結婚した園子は、夫との無味乾燥な夫婦関係を惰性的に続けていくうちに、逆に「無味乾燥でないsex」があることを徐々に肉体的に自覚します。

そして彼女は、「大恋愛」と思い込みながら夫の上役・越智と肉体関係をもちますが、実はそれは「無味乾燥でないsex」の歓びを自己証明するためのほんの最初の試みにすぎなかったということが、第二の自己証明としてなされる画学生・正田との性交のあとの「な~んだ、こんなことだったのか」というヒステリックな不意の高笑いによって彼女の「性の気づき」は的確に描かれています。

性交における肉体の歓びの前では、「親子関係」や「夫婦関係」と同じように、真実らしくみえる「恋愛関係」(じつは不倫です)でさえも空々しく、ただの取り繕ったマヤカシにすぎないことを、このとき園子は見抜きます(あるいは、「見抜いた」と錯覚します)。

しかし、彼女が、本当に「見抜いたのか」どうか、僕たちの抱いた「嫌悪感」は、まさに「そのこと」を正しく感覚的に否定していたのだと思います。

そのとき彼女の感じた性の歓びは、小学生や中学生が発見するのと同質の、極めて素朴な、単なる「自慰」の切っ掛け程度の「訪れ」でしかなかったはずなのに、園子にとっては、親が決めた許婚に唯々諾々と従ったように同じ無能な無抵抗さで、襲いかかる「快楽」にも唯々諾々と蹂躙・従属しただけのことにすぎなかったのであって、そのダラシナサや、「きみという女は、からだじゅうのホックが外れている感じだ」というセリフの演出者の解釈間違い(だらしない歩き方や阿部定のような着崩れでしか表現できない演出者の底知れない無能)が、僕たちに堪らない嫌悪感を抱かせたのだと思います。

フツーの人間ならやり過ごせるその性との遭遇を「事大」にしか認識できない意志薄弱な園子は、驚き戸惑い、自分の中で上手に処理できないまま(中学生がオナニーにふける他動的な熱心さで)性の快楽にのめり込んでいったにすぎません。

それは、少なくとも僕たちの世界のものではないし、映画「キャロル」が描こうとしたものでもありません。

むしろそれは、「わが秘密の生涯」や「O嬢の物語」や「悪徳の栄え」で描かれるべきものであって、そうである以上、同時に社会の見え透いた価値観に敢然と立ち向かい、みずからの全存在と命を懸けて戦いつづけ、ついには早世を余儀なくされた誠実な文人たちと同じような誠実さが不可欠だったのに、しかし、瀬戸内晴美こと寂聴は、よりにもよって、仏門などといういかがわしい見当違いな場所に逃れ込み身を隠してのうのうと小銭稼ぎに精を出しているという偽善者以外のなにものでもないことに心底あきれかえり、その「あきれ返り」の直感として、僕たちのあの「嫌悪感」があったのだと思い当たりました。

ラストシーン、久しぶりに逢った実の子供に手を差し伸べたとき、母親として・人間としての存在そのものを全否定されるような子供からの拒否にあったとき、園子はただぶざまな薄笑いを浮かべることしかできませんし、そこにはいささかの演出の工夫もありません。

そこにはただ、どうしていいか分からないでいる単なる定見なき淫乱女の惨憺たる戸惑いが描かれているにすぎませんでした。


(2016日本)監督・安藤尋、原作・瀬戸内寂聴『花芯』(講談社文庫刊)、脚本・黒沢久子、製作・間宮登良松、藤本款、エグゼクティブプロデューサー・加藤和夫、根上哲、プロデューサー・佐藤現、成田尚哉、尾西要一郎、キャスティングディレクター・杉野剛、ラインプロデューサー・熊谷悠、撮影・鈴木一博、照明・中西克之、録音・小川武、美術・小坂健太郎、編集・蛭田智子、助監督・石井晋一、
出演・村川絵梨(古川園子)、林遣都(雨宮清彦)、安藤政信(越智泰範)、藤本泉(古川蓉子)、落合モトキ(正田)、奥野瑛太(畑中)、毬谷友子(北林未亡人)、



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by sentence2307 | 2017-05-28 10:32 | 映画 | Comments(0)