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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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リリーのすべて

いままで、男優が女装する映画というのを何本か見ています。

タイトルの方が、すぐにはちょっと出てこないのですが、ジョン・ローンが女装した作品とか、そうそう、ウィリアム・ハートが演じた「蜘蛛女のキス」などという名作もありましたよね。

いずれの作品も、まさに「女装」というグロテスクさそのものを強調する作品だったのでしょうから、たとえそれが「いかにも男」というのがミエミエで薄気味悪さだけを感じさせたものだったとしても、そこがまた作品の狙いでもあったわけで、まあ、あれはあれで良かったのかなともいえますが、しかし、今回、トム・フーパー監督作品「リリーのすべて」を見ていて、その部分についてちょっとした違和感というか衝撃を受けたので、その辺のところを少し書いてみたいと思いました。

元ネタというのが「実話」ということらしいので、この違和感というのが、あるいはそのあたりにあるのかもしれないなと思いながら書き進めていこうと思います。

というのは、いままでの自分の狭い経験からして、計算し尽くされたストーリー展開を自由にいじくり回すことのできるフィクションに比べて、実話に基づく物語というのによくあるパターンの、結末の「肩透かし」感や脱力系の終わり方の「尻切れトンボ感」みたいな起伏に欠いたストーリーが、なんだかやたら多いように感じるのは、きっとそこには現実の人間の行動というものが、それほど素直で潔くもなく、また、ドラマチックでもなく、(観客の期待に反して)ウジウジと逡巡する「臆病さ」や「恐怖感」、「狡猾さ」や「躊躇」、そして「捨て鉢」などの負の感情によって期待するようなストーリー展開は歪められ、予測に反した低劣なものに流れていく(それこそが生の人間の「現実」というものでしょうから)という印象が自分にはあるので、この作品にもそういう違和を感じてしまった部分で、この作品についての感想を書いてみようと思い立った次第です。

画家アイナー(エディ・レッドメイン)が、妻ゲルダ(アリシア・ヴィキャンデル)からモデルの代役(女性です)を頼まれるところから、この映画は始まっています。

妻ゲルダも同じ画家ですが、この時点では夫の名声に比べれば、まだまだという感じで、むしろ、「画家志望」の段階といった方が相応しいのかもしれません。

女性モデルの代役とはいえ妻ゲルダにとっては「足の部分」のデッサンだけなので、彼女は「女性らしさ」を演出するために、夫にドレスを胸に当てさせ、ストッキングを履くことを要求します。

夫アイナーも戯れ気分でストッキングを履いたその瞬間、そのストッキングの滑らかな感触に思わずぞくっとするような官能を刺激されて、柔らかいドレスを胸に抱き締めながら一瞬恍惚となる密かな性的動揺(妻に気取られないような)に囚われたことが描かれています。

彼がそのストッキングの滑らかさに陶酔し、ストッキングに包まれた自らの足を撫でまわして密かな快感を楽しんでいるうちに、その手の感触から自分の肉体の奥底に「女性」性が潜んでいることを探り当ててしまう、つまり、自分の中の「男性」が揺らぎ、不意に「女性」に覚醒するというナルシックな場面が精密に描かれているこの場面は、いわばこの作品全体を象徴する重要なシーンとなっています。

アイナーは懊悩のすえに、自分の肉体から「偽りの性」を抹殺することを決意し、心身を一致させるための自己否定を具体的な除去手術という形で肉体を破損し、やがて術後の感染症によって生命までも失うという痛切で悲惨な彼の生涯の結末に至るその発端を描いている重要な場面でした。

夫アイナーの痛切な願いとその挫折に振り回されながら、妻ゲルダは終始「夫」への愛を貫こうとしているからこそ、夫アイナーのなかの女性「リリー」の人格だけはどうしても認めることも受け入れることができないでいたそのラストで、死の床にある瀕死の夫アイナーを、はじめて「リリー」と呼びかけ、生涯の最後で彼を女性と認めます。

夫アイナーは、心身ともにひたすら「女性」になることを求め、その彼を支える妻ゲルダは、彼の願いが叶った瞬間に最愛の「夫」を失うという夫婦の悲痛で皮肉な愛の物語というふうに自分的には一応は解釈し、当初はこれで自分なりに納得できるような気がしたのですが、しかし、考えてみれば、妻を気遣い、妻への思慕を強く表明しながらも、夫アイナーは、それとは裏腹に「女性」になるためのいかなる手続きや「性転換手術」へとのめり込んでいくという頑なさの前では、妻への気遣いや愛情でさえも異常なほどに無力であることの違和感が、自分にはどうしても払拭できませんでした。

もし、それほどまでに妻を愛し気遣うというのなら、彼には手術を放棄することだって選択肢のひとつでもあり得たはずなのに、「妻への思慕」を理由に手術を躊躇し思い悩む場面などこの作品にはいささかも用意されてはいませんでした。

以上のことをまとめるとすれば、こんな感じになるでしょうか。

つまり、妻ゲルダが「夫の浮気」に対して異常な嫉妬と苛立ちを示したようにして、果たして、夫が強く望んでいる男性器の除去手術に対しても同じように示しただろうか、「夫の愛を失う」という意味においては、後者の方がよほど深刻であるはずなのに、施術に対する妻のこの異常な無関心は、不自然で理解できないものがあります。

そして、このことと前述した夫アイナーが「妻への思慕を理由に手術を躊躇し思い悩む場面などこの作品にはいささかも用意されてはいませんでした」との一文が奇妙な対を成していることにはじめて気が付きました。

この夫婦の互いに対する気持ちのカクノゴトキ微妙な行き違いやズレがあるのは、いったい何を意味しているのかと思い始めたとき、実際にはこのときアイナーとゲルダは「夫婦」でなかったからではないかという思いが募り、しばし「実話」を手掛かりにあれこれと検索してみたところ「LUCKY NOW」というタイトルのブログでこんな一文に遭遇しましたので、一部を引用させていただきますね。


「1930年、アイナーは世界初の性別適合手術を受ける。性別適合手術への理解が乏しいこの時代に手術にアイナーが手術を決断するのは容易なことではなかった。

性に寛容なパリでは、リリーとして自由に生きられたアイナーだったが、やはりその時間は夫婦に危機感を与え始めた。

二人はパリの医者のもとに相談に行くが、医者からは服装倒錯(異性の服装を身に着けることで、性的満足を得ること)と診断され、具体的な処方はされなかった。「女の格好をするのを我慢しろ」ということだ。

その後しばらくして、リリーの体から奇妙な出血が見られるようになる。それは月に1回、まるで女性の生理の様に起こった。

それは、リリーにとって戸惑い以上に女性の人格をより強く意識するきっかけとなり、さらに苛烈に“女性”を求めるようになっていく。そして二人は、当時ジェンダー研究の最先端だったドイツに向かい、そこで驚くべき診断を下されることになる。

リリーの体内に未発達の卵巣があり、それが女性の人格を生み出しているというのだ。

そうして初めて、アイナーには服装だけでなく身体もリリーに作り変えるという選択肢が与えられたのだ。性別適合手術を目の前に戸惑うアイナーの背中を押したのは、他ならぬゲルダだった。

そうしてアイナーは睾丸摘出、陰茎除去、卵巣移植、子宮移植と、1年間かけて計5回の手術を受けた。中でも卵巣移植には拒絶反応を起こし、数度の手術を経て再摘出された。

しかし理解を示していたゲルダも、夫の身を案じて引っ切りなしに繰り返される手術には反対していたようだ。

こうしてアイナーは法的にもリリーとして生きることを認められ、リリー・エルベの名前でパスポートも手に入れている。しかし、手術のことを知った当時のデンマーク国王に婚姻を無効にされ、その後二人は別々の人生を歩むことになった。

別れてすぐにリリーはフランス人画家のクロード・ルジュンと恋に落ちた。女性に目覚めて初めて恋をしたリリーは、次第に母性を求めるようになる。そして5回目となる子宮移植の手術を受け、リリーはその数ヵ月後に心臓発作でこの世を去った。

当時は移植免疫拒絶反応について解明されておらず、そもそも臓器移植という考え方そのものが議論されていない時代だった。そんな時代に、リリーは命をかけてでも母親になることを求めた。

それは内から湧き出る性への渇望だったのか、あるいは恋人に対しての引け目だったのかは知る由も無い……」

(2015英米独)監督・トム・フーパー、脚本・ルシンダ・コクソン、原作・デヴィッド・エバーショフ『世界で初めて女性に変身した男と、その妻の愛の物語』、製作・ゲイル・マトラックス、アン・ハリソン、ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー、トム・フーパー、製作総指揮・リンダ・レイズマン、ウルフ・イスラエル、キャシー・モーガン、ライザ・チェイシン、音楽・アレクサンドル・デスプラ、撮影・ダニー・コーエン、編集・メラニー・アン・オリヴァー、製作会社・ワーキング・タイトル・フィルムズ、プリティー・ピクチャーズ、アルテミス・プロダクションズ、リヴィジョン・ピクチャーズ、セネター・グローバル・プロダクションズ
出演・エディ・レッドメイン(アイナー・ヴェイナー、リリー・エルベ)、アリシア・ヴィキャンデル(ゲルダ・ヴェイナー)、マティアス・スーナールツ(ハンス・アクスギル)、ベン・ウィショー(ヘンリク・サンダール)、セバスチャン・コッホ(ヴァルネクロス)、アンバー・ハード(ウラ)、エメラルド・フェネル(エルサ)、エイドリアン・シラー(ラスムッセン)



by sentence2307 | 2018-02-26 22:25 | トム・フーパー | Comments(0)