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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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立ち去った女

「やっぱり映画は、劇場に行って大きなスクリーンで見なきゃだめだよ」と言われると、返す言葉もありません。

そりゃそうですよ、昔も今も、本来映画はスクリーンに投影して見ることを想定して作られてきたわけですから、反論の余地などあろうはずもありません。

自分もまったく同意見なのですが、しかし、このラヴ・ディアス監督の「立ち去った女」に限っては、あえて異を唱えさせて頂かなければならないかもしれません。

この「立ち去った女」を見終わったあと、久々に手ごたえのある作品を見たという満足感と快い疲労感を覚えました。

でも、これは凄い映画だという感銘は受けたのですが、「じゃあ、どこがどう凄かったのか説明しろ」と言われたら、具体的に言葉にして説明することができるかどうか自信がありません。

この3時間48分36秒の映画の中で語られる言葉はどれも重く、その量たるや夥しいものがあり、しかもそれが速射砲のように発せられるのですから、詰め込めるだけ詰め込んだ頭の中はすでにキャパ(許容量)を超えており、いまだ整理が追いつかないカオス状態で、ただトータルとして「凄いということは分かる」というくらいの感じでしょうか、残念ながら、今の状態では、自分のなかに滞った情報の仕分けがつかず、詳細な分析など思いもよりません、なので、いまは、まともなコメントひとつ発することができない状態です。

まだ、ビデオもDVDもないひとむかし前なら、劇場で映画を見て、その作品をトータルでどう感じたか、「見た印象」で自分なりの優劣を嗅ぎ分けたものでした、まさに「感性の一本勝負」みたいな感じです。

それはそれでよかったのかもしれませんが、それは単にどこまでも感情的な「好き嫌い」で作品を一面的に評価していたにすぎません。

逆に言えば、いままで見てきた映画が、そういう判断で十分に対応できた映画だったからだと思います。

しかし、この「立ち去った女」は、もっと深い理解を僕たちに求めてくるタイプの映画です。

もし、この映画が突き付けてくるものを受け止められず、自分なりの理解を持てなければ、あの理解放棄の捨てセリフ(つまらない・分からない・くだらない)を吐いて開き直るしかなく、結局は、それでオシマイの話で、3時間48分36秒という篩(ふるい)にかけられ、試されたすえに脱落していくしかありません。

「劇場鑑賞主義」の方には、まことに申し訳ありませんが、この「立ち去った女」に限っては、一過性の鑑賞だけでは、とうてい「理解」に至らず、不安で、繰り返しになりますが、ひとことも発することができないというのが、いまの自分の現状です。

録画したうえで、重要なシーンを何度も見直し、セリフやモノローグをメモし、時間差のある関連するシーンをつき合わせ、照合し、この東南アジアの映像作家の見た修羅を、冥府魔道を、自分も確かめてみたいと思いました。

まず一度通して見てから、大まかなストーリーを頭に入れたあと、主人公と接触する重要な登場人物との関係やそのセリフ・モノローグを詳細に記録し・検討しながら整理してみようと思います。そうでもしなければ、この難解な映画は、一度見ただけでは、見落とし・聞き逃し・錯覚さえ気づくことなくやり過し、とうてい真正な理解ができるとは思えません。

メモを取りながら2度目の鑑賞に入るまえに、ざっくりとしたアラスジをおさえておこうと思います。


≪30年服役した女性(元小学校教師のホラシア)に、彼女の罪が「冤罪だった、あなたは釈放だ」とある日、突然、刑務所長から告げられます。
同じ監獄に収容されているペトラ(これまで同じ監獄で過ごしてきた親友です)が、ホラシアの犯行とされていたものは、実は自分がやったものだと自供したからでした。
その自供によって、あくどいこの企みの黒幕も分かります。
ホラシアが別の男と結婚したことを逆恨みした元カレ・ロドリゴが、ペトラを使って彼女に罪をかぶせたのです。
そして、ホラシアが釈放されるところからこの物語、自分に罪を被せ陥れた男ロドリゴへの復讐と息子探しの旅が始まります。
自分を罪に陥れた男への憎悪と殺意を抱いて復讐の旅にでたホラシアは、ロドリゴ(いまではその土地の名士になっています)のいる町に棲みつき、拳銃まで用意して、ロドリゴを殺そうと日夜つけ狙い、復讐の機会をうかがっているとき、そうした暮らしの中で社会の底辺で生きる貧しく悲惨な人たちとの出会いがあって、貧しさに耐える彼ら悲惨な生活へ寄せる深い同情と慈悲を注ぎながら、ときにはその窮地を善意と金(貧乏人にとっては、「善意と金」は一体のものです)とによって助力してあげることで、皮肉にもこの「慈悲」が「復讐」(資力のない彼らにとってのせめてもの「感謝」の気持ちを実現できる行為でした)を呼応し遂げさせてしまうという不意の結末を迎えます、そして彼女の憎悪も殺意も突如終結し、この地に留まる理由を失い、消息を絶った自分の息子を探すために、別の地へ旅立ちます、最後に息子の姿を見かけたという噂話を頼りにマニラにむけて。
疲れ切り絶望にうちひしがれながらも、それでも自分に鞭打つように「尋ね人のチラシ」をまきつづけるホラシアの姿が、そこにはありました≫という物語です。


まず、最初に通して見て気が付いたことがあります、最初のシーンで語られ、また、最後のシーンでも語られる「漆黒の塔」という詩(?)の奇妙な符合です。作者は「南の虹」とあります。

もし、これが固有名詞(日本名でいうと「西川さん」が、さしずめ「ミスター・ウエストリバー」とでも訳されてしまうような感じでしょうか)、それなら、なにも訳さなくたってよさそうなものですが、もしかしたら本当に「南の虹」氏なのかもしれません。単なるハンドルネームみたいな?

映画の冒頭で、監獄で元小学校教師ホラシアが、女囚たちを集めて言葉の学習をしているシーンがあります。

過去形や未来形について皆に教えたあとで、ホラシアは一冊の本を取り出し、この本を読める者はいるかと問いかけ、手を挙げたペトラを指名します。

それが「漆黒の塔」という詩で、ペトラは静かに読み始めます。


≪私は鏡のない部屋に住んでいる。窓は小さく、入る風もほとんどない。部屋の窓はブラインド式の3枚ガラスだが、汚れた空気や蚊が入るから開けられない。網戸は破れている。部屋の隅々にネズミの通り道があって、壁の裂け目から、次々と放たれるのは、誇り高き無礼なゴキブリども。エアコンが取り付けてあった壁の小さな穴は、段ボールを粘着テープで貼り付けて塞いであった。この部屋の隅々で、思いをめぐらせてもがく苦しむ魂たちが、息もできずに汚れて湿った死にかけの大地から逃れようとする。≫


真に迫って読み続けるペトラの朗読に(あるいは、異様に緊張したそのペトラの姿に)周りの女囚たちが恐れて「何だか怖い」「おとぎ話は?」という囁き声を、ホラシアが「黙って」と制し、ペトラは再び朗読を続けます。


≪彼の意識にある焔は、鉛色をした夢の続きか、狂気の沙汰なのか、彼の意識は自由なる世界を捨てたのか。もし彼が正気でないなら、来るべき自由よりも、いまを永遠に望むだろう。だが、どうする。許しを請う日を待っていたのでは? 真実を暴かれるのを求め続けたのでは? 彼の魂を浄化するには、それしかない、それだけが・・・彼の・・・≫


ペトラは不意に絶句します、「続けて、ペトラ」とホラシアから促され、そして、女囚たちからも「聞きたい」との声にはげまされて、ふたたび


≪それが彼の魂を救う。それのみが・・・≫


どうにか読もうとするのですが、すぐにまた言葉を途切らせて、もうそれ以上は読むことが出来ません。異常な緊張感が支配するシーンです。

ホラシアの「どうしたの?」という問い掛けを振り切るように、ペトラは本を閉じ、苦しそうに表情を歪めながら、その場を立ち去ります。

最初にこのシーンを見たとき、この場面が何を意味しているのか、まったく分からず、考えることもなく見過ごしてしまいましたが、このシーンは、ペトラが自ら犯した犯行をホラシアになすりつけ、そして秘め続けながらホラシアの善意のまえでは、素知らぬ顔で平然と「親友」として振舞い通してきたことへの自責の念に苦しめられているという重要なシーンであることが、2度目に見たとき、やっと分かりました、ずいぶん迂闊な話ですが。

あの「漆黒の塔」を読み上げるペトラは、その言葉(例えば、この部分「もし彼が正気でないなら、来るべき自由よりも、いまを永遠に望むだろう。だが、どうする。許しを請う日を待っていたのでは? 真実を暴かれるのを求め続けたのでは? 彼の魂を浄化するには、それしかない、それだけが・・・」のクダリ)の一語一語を読み上げるとき、その一語一語がペトラの虚偽と欺瞞の心にぐさりぐさりと突き刺さり、贖罪の気持ちを高め、自供する心境に至らしめたのだと分かりました。

次のシーンは、農作業の手を止めて木陰で女囚たちが小休止している姿を遠景で捉えた場面に変わります。

監獄での生活を紹介風に描いた冒頭で、銃を構えた看守に見張られながら、女囚たちは畑を耕し、種をまいていました。

すぐ前のシーンで僕たちは、ペトラの動揺と贖罪の思いを既に知っているので、こちらを向いて座っているホラシアの姿と、ずっと離れた場所に背中を見せて座っているペトラの姿と動きを同時に観察することができます。実をいうと、1度目に見たとき、ホラシアの姿ばかりに気を取られて、奥にいるペトラの姿には気づかず、その落ち着きのない「挙動不審」ともいえる動きを、まったく見逃してしまいました。

ホラシアから離れて座っているペトラは、ホラシアの姿を気にしながら幾度もチラ見し、逡巡のすえに、ついに意を決してホラシアに近づいてきて、こう言うのです。

「あなたに贈り物がある」と。

「わたしに?」訝し気に、ペトラの思いつめたような悲痛な顔を見て、ホラシアは驚き「ペトラ、どうしたのよ」と語り掛けます。

「あなたは母のように優しいのね、私とは大違いだわ」と泣きながらペトラは走り去ります。


長い間、ペトラは、ホラシアを偽計を用いて欺き罪に陥れたことを悔いていて、彼女の善意溢れる思いと行いに接するたびに心を痛めていた負い目が、あの詩の朗読(言葉)によって彼女の気負いが一挙に崩され「自供」(この自供で、この事件の黒幕がロドリゴであることが判明します)にまで至ったことが、この一連のシーンでよく理解できました。

ペトラの「贈り物」とは、自分が真犯人だと告白する「自供」のことだったのです。

もし、この映画を改めて2度見なければ、こうした経緯や登場人物の心の在り様の詳細など到底理解できなかったと思います。

この調子で、さらに「3度目」の鑑賞を試みるとすれば、また新たな発見があるかもしれません、その可能性は大いにあります。


さて、ペトラの自供を直接的に促したこの「漆黒の塔」という詩が、この映画の最後に再び登場します。

ゲイのホランダが、まるでホラシアから受けた恩を返すようにロドリゴを殺して、この映画の主な部分、「復讐」が果たされ、ホラシアがこの地に留まる理由も消え、噂を頼りに行方不明の息子を探しにマニラへと旅立つ前夜、子だくさんのくず拾いの女のもとに別れを告げに行く場面です。かつて、このくず拾いの女が子供たちに暴力をふるって虐待している現場に遭遇したホラシアが怒りのあまり徹底的に殴りつけ足蹴にして、同行していたバロット売りに「それ以上やったら死んでしまうぞ」と制止されるくらい逆上して怒りをぶつけたあのくず拾いの女です。冤罪とはいえ30年服役していたあいだに子供を失い、家族をばらばらにされてしまった母親ホラシアの悲痛な怒りと悲しみの「逆上」であることを僕たちはすでに知っています。

そのホラシアが、別れのいま、今度は「漆黒の塔」を暗唱します。

ペトラが語ったあのときの「漆黒の塔」と、どこが違うのだろうか、と思いながらメモに写し取ったあのときの詩と照合しながら聞き入りました。


≪私は鏡のない部屋に住んでいる。窓は小さく、入る風も~≫

と、あのときのペトラと同じように詩は語り出され、ペトラが言葉を途切らせた同じ個所

≪それが彼の魂を救う。それのみが・・・≫

までホラシアは語り継ぎ、そして、さらに暗唱を続けます。


≪その瞬間、残された唯一の機会だと彼は気づいた。心を解き放ち、束縛を振りほどけ。自由になるときはいま。そして彼は、淵に沈む魂の力を残らず拾い集めた。疲れ切った手でドアを開けたとき、きらめいた光の音に驚き目を閉じた。彼を倒そうとして風が吹きはじめる。彼は力を振り絞り心に残された希望にしがみつく。そして、ふたたび彼は目を閉じた。≫


かつて、ペトラに「罪を告白して、許しを請え」と諭した同じ詩が、ホラシアには、「心を解き放ち束縛を振りほどいて自由になれ」と諭しています。しかし、その自由は「嵐のようにお前を打ちのめすぞ、お前が希望を抱く限り・・・」と告げています。ここで語られている「希望」とは、行方不明になっている息子との、おそらくはあり得ない邂逅→絶望を示唆しており、その「希望」にしがみつく限り、ホラシアにとっては、同時に「死の棘」でもあることを意味していると感じました。


この映画「立ち去った女」の始まりの部分と、くず拾いの女の一家に、ホラシアが「さようなら、もう会えない」と別れを告げて立ち去るこの復讐が遂げられた最後のシーンまで見てきて、この作品のふたつの重要なシーンが浮かび上がってきました。


ひとつは、ロドリゴが、自分をつけ狙うホラシアの姿を一瞬見かけて恐慌を来し、かつて犯した自分の罪を思い出して、どうにも制御できないみずからの根源的な邪悪さと向き合ったとき、教会で神父に「神はいると思うか」とその屈折した思いを問いかける場面、

もうひとつは、ゲイのホランダと酒を飲みながら深く酩酊して、心を許したホラシアが、つい30年も監獄に入っていたことを、前科者の証である腕の入れ墨を示しながら告白してしまう場面です。


ロドリゴは、ある日、教会で自分を密かに付け狙うホラシアの存在に気づき、驚愕します。かつて自分を裏切って別の男と結婚したことの復讐として、ロドリゴが罠にはめ、監獄に追いやったはずの元愛人、そのホラシアです。

そして、同時に、いまでは穏やかな街の名士として振舞っているロドリゴも、不意の彼女の出現によって動揺し、かつて自分が犯してきた悪行の数々を思い出し、そのみずからの邪悪さについて(後悔しているとか、思い悩んでいるとかではなく、ただ「思い出した」という程度の即物的な感じにみえます)教会の片隅で神父と話す場面です。

ロドリゴは語り出します。

「神父の知るロドリゴという男は、私ではない。それは作り物だ。表の顔だよ。多くの者を傷つけたし、多くの人生も壊した。いったい自分がなにをしたか、自分の行いくらいは分かっているつもりだ。だが、なぜ自分は善人にはなれないのかと、いつも思うよ。なぜ心に棲む悪魔と戦えないのかとね。なぜか魂は、いつも悪魔に負けてしまう。次々と憎悪と怒りが湧きあがり、怒りを鎮められない。邪悪な心と分かってはいても、どうしても勝てない。おれの心にはケダモノがいるんだ」

神父は問います。「懺悔の気持ちはあるのか?」

「ある、そして、ない。後悔するときもあるが、正しかったと思うときもある。恨む相手の人生を壊すと心底楽しかった。」

困惑した神父は口ごもり、躊躇し、逃げ腰になってこう言います。

「こうしよう・・・日を改めて懺悔室で話を聞こう。もっと詳しく、なにもかも、いつどこで、相手の名前と何が起きたのか、包み隠さずすべてを話してくれ。罪の赦しを」

ロドリゴは、神父のその言葉を聞いて、思わず哄笑の発作に捉われます。

〔こいつは、なにひと分かっちゃいない。こんなやつに話すんじゃなかった〕という自嘲に身を震わせながら、立ち去ろうとする神父に、ロドリゴは、さらに「神父」と語り掛けます。

身を固くしてロドリゴの次の言葉を待つ神父の表情は、緊張でひきつっています。

「神は、いると思うか」

「そう信じている。誰にでも神は存在する。赤ん坊にも。迷い人や犯罪者、そして貧者たちにも」

そんなことじゃない、というあからさまな侮蔑と微かな怒りのきざした険しい顔でロドリドは、さらに神父に畳みかけるように問い詰めます。

「その神は、どこにいる? 」

「探すのだ、君ならできる。私は導くだけだ」

〔だめな男だ、こいつは。なにも分かっちゃいない、なにひとつ分かってないただの俗物だ〕

ロドリゴは、失望と蔑みの微笑をたたえて、やがて、体を震わせて哄笑すると、神父は憮然として立ち去ります。

〔神を探せだと。馬鹿々々しい〕

しかし、ロドリゴの顔から蔑みの哄笑はすぐに消え、自己嫌悪の苦々しい影に覆われます。


シナリオに文字化すれば、せいぜい1頁弱にしかならないこのシーンをラヴ・ディアスは、固定カメラで6分強という時間をかけて、長回しでじっくりと濃密にとらえています。


教会におけるロドリゴと神父とのこの一連のやりとりを簡潔にまとめてみようと苦慮しながら、しばらく考えてみたのですが、どうもいいアイデアが浮かびません。

聖職にある男に、あえて「神はいると思うか」と問うのですから、無茶ぶりにはちがいありませんが、邪悪のなかで生きてきたロドリゴが、あえてそう「問う」というその行為自体が問題なのではないか、いままで悪の限りを尽くし好き勝手に生きてきたこの男にとって「神の存在と不在」などなにほどの問題でもないはずです、そんなことは心に留めたことすらなかった無価値のものだったはずです。

ポーズとして敬虔な信者の振りをして「日曜日のミサ」にせっせと通って、それらしくやりすごしてしまえば、彼はいつまでも町の名士でいられました。かげでは自分の利益のために、多くの人々を欺き、元恋人まで罠にかけ、他人を操って邪魔者は殺してきた悪事を我がものとして親しんできたはずの彼には、神父に、いまさら「神はいると思うか」と問う必要などまったくなかったはずです。

そんな彼にそのような問い掛けをさせた鬱屈や焦燥を呼び起こさせたもの、みずからの「邪悪」を完全に制御して弄んでいると思い込んでいたものが、逆に、「邪悪」に支配され、いまや持て余していることに気がついたのは、ホラシアの突然の出現が契機となったに違いありません。この映画において、この二人ロドリゴとホラシアが、かつてどのような恋愛関係を持ったのか、までは描かれていませんが、自分的には、そこに、ほんの微かでもロドリゴの失意があったに違いないと彼の側に身を置いて考えてみたいと思っていたので、「解釈するための苦慮の時間」を必要としたのだと思います。


しかし、結論から言えば、まとまった考えを得るまでには至りませんでした。

でも、ロドリゴの心境を代弁するに適当な引用なら、することはできます。

それは、アルベール・カミュの「異邦人」、ちょっと貼っておきますね、好きなので。


《そのとき、私の中で何かが裂けた。
私は大口を開けて怒鳴り、彼らを罵り、祈りなどするなといい、消えてなくならなければ焼き殺すぞと叫んだ。
私は法衣の襟首をつかみ、私のなかに沸き立つ喜びと怒りとにおののきながらも、彼に向かって、心の底をぶちまけた。
君はまさに自信満々じゃないか。そうだろう。
しかし、その信念のどれをとっても、女の髪の毛一本の重さにも値しないことが分からないのか。
君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ自信がない。
私はどうだ、このとおり両手は空っぽだが、しかし、私には自信がある。自分について、すべてについて、君なんかよりはよほどに強く。
また、私の人生について、来るべきあの死についても。
そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私をとらえているのと同じだけ、私はこの真理をしっかりと捉えている。
私はかつて正しかったし、いまもなお正しい。いつも私は正しかったのだ。
私はこのように生きたが、また別なふうにも生きられるだろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。そして、そのあとは? 
私はまるで、あの瞬間、自分の正当さを証明されるあの夜明けを、ずうっと待ち続けていたように思う。なにものも、なにものといえども重要なものはなにひとつなかったといえる。そのわけを私は知っているし、君もまた知っているはずだ。
これまでのあの虚妄な人生の営みのあいだじゅう、私の未来の底から、まだやってこない年月を通じて、ひとつの暗い息吹が私のほうへ立ち上がってきた。
その暗い息吹がその道筋において、私の生きる日々ほどには現実的とはいえない年月のうちに、私に差し出されるすべてのものを、等しなみにしたのだ。
他人の死、母の愛-そんなものがいったいなんだろう。いわゆる神、人々の選び取る生活、人々の選ぶ宿命-そんなものに何の意味があるだろう。
ただひとつの宿命がこの私を選びとり、そして、君のように、私を兄弟とよぶ、その無数の特権ある人々を、私とともに、選ばなければならないのだから。
君は分かっているのか? いったい君は分かっているのか? 
誰でもが特権を持っているのだ。特権者しか、この世にいはしないのだ。他の人たちもまたいつか処刑されるだろう。君もまた処刑されるだろう。
そのなかでたまたま人殺しとして告発されたその男が、母の埋葬に際してただ涙を流さなかったという理由のために処刑されたとしても、そんなことに何の意味がある? 
サラマノの犬には、その女房と同じ値打ちがあったのだ。機械人形みたいな小柄な女もマソンが結婚したパリ女と等しく、また、私が結婚したかったマリイと等しくすべて罪人だったのだ。セレストはレエモンよりすぐれてはいるが、そのセレストと等しく、レエモンが私の仲間であろうと、それがなんだ? マリイが今日、もう一人のムルソーに接吻を与えたとしても、それがなんだろう? 
この死刑囚め、君はいったい分かっているのか? 
私の未来の底から・・・

すべてをこのように叫びながら、私は息が詰まった。
すでに司祭は私の手から引き離され、看守たちは私を脅しつけていた。しかし、司祭は彼らをなだめ、そして一瞬黙って私を見た。不可解だったが、その目には、たしかに涙が溢れていた。彼はきびすを返して、消えていった。

彼が出て行くと、私は平静を取り戻した。
私は精根尽きて寝台に身を投げた。
私は眠ったらしい、顔の上に星々の光を感じて目を覚ましたのだから。
田園のざわめきが私のところまで届いた。夜と大地と塩の匂いが、こめかみをさわやかにした。この眠れる夏の素晴らしい平和が、潮のように、私を浸した。
このとき、夜のはずれで、サイレンが鳴った。
それは、いまや私とは永遠に無関係になったひとつの世界との決別を告げているかのようだった。
そして、ほんとうに久しぶりで、私はママンのことを思った。
ひとつの生涯のおわりに、なぜママンが「許婚者」を持ったのか、そして生涯をやり直す振りをしたのだろうか、それがいまなら分かるような気がする。
いくつもの命が消えていくあの養老院のまわりでも、夕暮れは憂愁にみちた休息のひとときをもたらす。死に近づいて、ママンはあそこで解放を感じ、あらためて生きることを実感したに違いない。なんびとも、なんびとといえども、ママンのことを泣く権利などない。
そして私もまた、いまこそ生きていることを実感できる。
私をとらえたあの大きな憤怒が、私の罪を洗い浄め、愚劣な「希望」などすべてを空にしてしまったおかげで、星々にみちた静かな夜につつまれて、私ははじめて世界の優しい無関心に心を開くことができた。
自分を世界の一部と感じる安らぎのなかで、私は、いままで自分が幸福だったことと、いまもなお幸福であることをつよく悟った。
一切がはたされ、わたしがより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといえば、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えるであろうという思いにとらわれたとき、これほど世界を自分に近いものと感じたことはなかった。》



そして、もうひとつの重要なシーン、

ゲイのホランダと酒を飲みながら、いつしか深く酩酊して、つい心を許したホラシアが、30年も監獄に入っていたことを告白してしまいます、思い切って前科者の証である腕の入れ墨を示しながら。

そのシーン。

「あなたに伝えたいことがあるの、ホランダ。感謝の気持ちをね」

「感謝するのは、私の方よ」

「あなたは私を知らない、本当の私を知れば、きっと怖くなるわ。ほら、よく見て。刑務所にいたの、あそこよ、あの呪われた場所に30年入っていた。刑務所に30年よ」

目の前に突き出されたホラシアの腕の入れ墨に驚いて、そこから目が離せなくなったホランダは、それでもこう言います。

「知っていたわ」

「なんだって!?」驚いてホラシアは、ホランダの顔を見つめます。

「書類を読んだの」

「読んだって?」突如、激昂するホラシア「この野郎、よくも勝手に。読んだのか、言え! このバカが。余計なことを。読んだのか、なめてるのか!」

さらに酔っているホラシアの「泥酔」が、時間の経過を観客に教えています、そして、先ほどの激昂をホランダに詫びます。

「さっきはごめん。突然言われたから」

「いいの、知りたがりの私が悪い。ごめんなさい、恥ずべき行為だわ」

「もういい、私も気にしてないから。あの書類はペトラの供述書。刑務所にいたときの友人よ。まさか彼女が私の冤罪事件の犯人だったとはね。黒幕はロドリゴ・トリニダッド。私の元恋人よ。まだ子供たちは幼くて。知ってる? あなたが家に来なければ、あの夜、私は教会に行き、ロドリゴを殺すつもりだった。あなたが来なけりゃ、あいつは死んでいた。お礼を言うわ。よく来てくれた、ありがとう。殺人犯になっていたわ。殺さずに済んだ」

もうすっかり泥酔しているホラシアに、ホランダは訊きます。

「まだ、ロドリゴは、この島にいるの?」

しかし、ホラシアは、酔いつぶれて眠っています。


翌日、ゲイのホランダが、ロドリゴを殺したことが明らかになります。

思わぬ形で復讐が完結してしまったホラシアは、行方不明の息子を探すために、マニラへ旅立ちます。


そして、ラストのナレーションが、流れます。


≪遠い昔のこと、願いがあった。願いは、夢の中にすんでいて、夢は秘めた世界に住んでいた。その世界は砦にあって、砦はけっして崩れなかった。砦の扉を開けることは、永遠にできない。
遠い昔のこと、彼女は願いを創った。その願いは、夢となり、夢は天に奪い去られた。遠い昔のこと≫


(2016フィリピン)監督・原案・脚本・撮影・編集ラヴ・ディアス
出演・チャロ・サントス(ホラシア/レナータ/レティシア)、ジョン・ロイド・クルーズ(ホランダ)、マイケル・デ・メッサ(ロドリゴ)、 シャマイン・センテネラ=ブエンカミーノ(ペトラ)、ノニー・ブエンカミーノ(バロット売り)
ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞



【参考】 wiki

ラヴ・ディアス(Lav Diaz, 1958年12月30日 - )は、フィリピンの映画監督。フィリピン映画界の怪物的映画作家と呼ばれる。

来歴
1998年、長編『Serafin Geronimo: Kriminal ng Barrio Concepcion』で映画監督としてデビュー。2001年に発表した4作目の『Batang West Side』は上映時間が5時間15分に及ぶ大作であり、ガワッド・ウリアン賞で作品賞・監督賞を含む10部門で受賞を果たす。2005年にはフィリピンのある一家の1971年から87年までを描いた10時間43分に及ぶ『Ebolusyon ng Isang Pamilyang Pilipino』を発表。その後もともに上映時間が9時間に及ぶ『Heremias: Unang aklat - Ang alamat ng prinsesang bayawak』(2006年)や『Kagadanan sa banwaan ning mga Engkanto』(2007年)といった大作を矢継ぎ早に発表。2008年には上映時間が7時間30分に及ぶ『Melancholia』が第65回ヴェネツィア国際映画祭のオリゾンティ部門でグランプリを受賞。翌2009年にはオムニバスの一篇として製作した短編『蝶は記憶を持たない』が第22回東京国際映画祭で上映され、初めてディアスの作品が日本で紹介された。
2010年代に入り、2011年には3本の長編を、2012年には劇映画とドキュメンタリーを1本ずつ製作した。2013年、ドストエフスキーの『罪と罰』をモチーフにした『北(ノルテ) ― 歴史の終わり』を発表。第66回カンヌ国際映画祭のある視点部門で上映され、無冠に終わったものの概して高い評価を得た。2014年、1970年代のマルコス政権下のフィリピンの農村を舞台にした『昔のはじまり』を発表。第67回ロカルノ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、金豹賞を受賞した。

作品
Serafin Geronimo: Kriminal ng Barrio Concepcion (1998年)
Burger Boys (1999年)
Hubad sa Ilalim ng Buwan (1999年)
Batang West Side (2001年)
Hesus, rebolusyunaryo (2002年)
Ebolusyon ng Isang Pamilyang Pilipino (2005年)
Heremias: Unang aklat - Ang alamat ng prinsesang bayawak (2006年)
Kagadanan sa banwaan ning mga Engkanto (2007年)
Melancholia (2008年)
Purgatorio (2009年) 短編
蝶は記憶を持たない Walang alaala ang mga paru-paro (2009年) 短編
Elehiya sa dumalaw mula sa himagsikan (2011年)
Siglo ng pagluluwal (2011年)
Babae ng hangin (2011年)
Florentina Hubaldo, CTE (2012年)
Pagsisiyasat sa gabing ayaw lumimot (2012年) ドキュメンタリー
北 (ノルテ) ― 歴史の終わり Norte, hangganan ng kasaysayan (2013年)
Prologo sa ang dakilang desaparacido (2013年) 短編
Ang alitaptap (2013年) 短編
Alamat ni China Doll (2013年) 脚本のみ
昔のはじまり Mula sa kung ano ang noon (2014年)
Mga anak ng unos (2014年) ドキュメンタリー
痛ましき謎への子守唄 Hele sa Hiwagang Hapis (2016年)
立ち去った女 Ang Babaeng Humayo (2016年)



by sentence2307 | 2018-09-15 13:03 | ラヴ・ディアス | Comments(0)