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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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禁じられた遊び

最近、映画を立て続けに見ていてよく感じることがあります、そこそこ上手に作られている映画なのに、記憶に止まらずにすぐに忘れてしまうということが度々あって、なんだか戸惑っています、「オレも、そろそろアレかな」と。

しかし、実際に当の映画を見てみれば、見たか見ないかくらいはすぐに判断できるので、やっぱ自分がボケているわけじゃないんだなと安堵したり気を取り直したりしているわけですが、しかし、それにしても多くの作品の印象が薄いというのは事実なので、それって、そのまま、いまの作品に強烈なインパクトが欠けているからなのだとか、それに映画のタイトルからして、内容を象徴するような、すぐにも「あれだな」と連想させるだけの絶妙なタイトルというのが少なくなっていて(タイトルと内容のミスマッチ)、責任回避みたいな原タイトル流用という弊害からもたらされたものなのではないかなどと、ぐずぐずと自分のまだらボケをすっかり棚に上げて(やっぱ、そうじゃん!)、タイトルにまで八つ当たりしようというのですから、ほんとにもう我ながら「末期症状」の入り口に足を踏み入れているのかもしれません。


すこし前に、旧い友人と酒を酌み交わしながら、そのことについて話したことがありました。
しかし、すぐに「そりゃあ、むしろ受け手側の感性の鈍化が原因だわな」と即座にバッサリやられてしまいました。

いえいえ、もちろんそれは「ボケ」の話とかじゃなくて、我々の世代のもっている感性というやつが、現代の映画へコミットするだけの取っ掛かりを失ってしまって無力化しているうえに、映画のほうも「ある種の情感」を持った内容の作品がごく少なくなったということもあるかもしれません。

「映画」に対する思い入れも現代の感覚とは、少しずつズレが生じているからじゃないかなというのが彼の意見です。いわば「時代遅れ病」とでもいうのでしょうか。ホント、「ばっさり」です。

そして彼は、なんの脈絡もなしに突然、ルネ・クレマンの「禁じられた遊び」を語り始めました。

そりゃあ、自分だってあの「禁じられた遊び」が映画史に残るほどの重要で素晴らしい作品であるくらいは十分に承知しているつもりですし、そのことに関してはまったく異論もありません。彼と同じように1ミリもたがわず十分に名作だと思っています。

しかし、その「名作」の方はいいとしても、この「なんの脈絡もなしに突然に話しはじめた」がずいぶん唐突すぎて、どういう切っ掛けでそうなったかが不明なので、熱く語りはじめている彼には大変申し訳ないのですが、その話の腰を折り、あえて「なぜいま『禁じられた遊び』を?」とその理由を尋ねてみました。

しかし、あらたまって聞いてみると、その理由なんて、なんてことありません。

wowowのオンデマンドの配信リストの中に、たまたまこの「禁じられた遊び」があったので、だからそれを見たというだけのことでした。

そうそう、言い遅れましたが、彼は自分とは違い、いまだ現役で仕事を続けていますので、昼間はそれなりに多忙で映画などのんびり見ている場合じゃないと(彼に言わせると「なんたってこっちは、オタクみたいに遊んでいられる身分じゃないからね」というのが口癖です)、ですので仕事を終えて夕食も済み、そのあとの就寝までの時間を、ネット配信の映画を見るのを楽しみにしているということで、wowowのオンデマンド配信もそのうちのひとつのツールとして活用しているらしいのです、もっぱらパソコンでオンデマンド配信の映画を楽しむという生活スタイルをもっている御仁です。

その配信リストに最近「禁じられた遊び」がアップされていたので見たということでした。

まあ、いざ聞いてしまえばなんてこともありません。

しかし、自分にしてからも映画のテレビ放映を同時的に視聴するということは大変マレで、やはり映画鑑賞はもっぱらネット配信を利用している一人ですが、ただひとつ難を言わせてもらえば(wowowの場合です)、最新映画に比べてクラシックな名作映画の放送枠がとても少ないということがあって、とても残念な思いをしています。まあ、それがwowowの売りであることも十分に承知しているので、思わず彼に「へえ~、wowowで『禁じられた遊び』とは、そりゃまた珍しいね」と思わず彼に同調しました。

そんな感じで、その夜の酒宴は、彼が久しぶりに見た「禁じられた遊び」の感銘を熱く語る独壇場となりましたが、しかし、彼のその話、よくよく聞いてみると、「懐かしさ」という部分での感銘の再現(思い起こし)というだけで、なにもリアルな感銘とか、リアルな「賛辞」とかというのとは、またひとつ違うみたいなのです、その微妙な温度差が少し気になったので、彼がひととおり語り終えたタイミングをつかまえて「それで、今回の場合はどう感じたわけ?」とあえて突っ込んで聞いてみました。

「それがさ、久しぶりに見てね、変なところばかりが気になって仕方がなかったんだよ」と彼は、意外にも少々うんざりしたような醒めた真顔で話し始めました。

まず冒頭、パリの戦火を逃れて避難する群衆(そこにはポーレット一家も含まれています)にドイツ軍の戦闘機が襲い掛かってきて機銃掃射でポーレットの両親が撃たれて死ぬという場面、自分の飼犬のことばかりに気を取られているポーレットは、制止する両親の手を振り切って逃げた犬を追い橋の中央に飛び出していきます、あわてて娘を追った両親は、その場で戦闘機の機銃掃射の狙い撃ちにあって射殺されてしまいます。

犬を抱き締めながら、ポーレットは、すでに死んでいる母親の顔を撫ぜながら「ママ、ママ」と問いかけますが、すでに死んでいるので反応などありません。

その場面で彼は、「むかしだったらさ、きっとこの場面で泣いたんだろうなと思ったね。死の意味も分からないくらい幼いポーレットがとても哀れでさ」と言い、「でも今回はね」とさらに続けて語りました。

この過酷な時代に、いくら幼いからとはいえ、ああした迂闊な行為は家族すべての死につながる危険で切実な重要事なわけなのだから、その戦時下、両親は子供に「死」がどんなものか常日頃しっかりと説いて聞かせておかなくちゃダメだったんじゃないのかな、厳しく叱りつけるくらいにね。それに、あの時代、いくら子どもとはいえ「死」がどういうものか、ドイツ軍が迫ってくるフランス市街の緊張感とか、もしかしたら身近にもリアルな「死」があったかもしれない、そういう状況下で、あのポーレットの無知で無邪気すぎる設定がずいぶん無理があって、作為に満ちた「カマトト」みたいに見えてしまって仕方なかったよ。なんだか「小綺麗でいたいけな可哀そうな少女の視点」をあえて作り上げるために、まわりを、虚偽のリアリズムで飾り立てたみたいな気がしてね。

オレたちはいままでテレビ報道なんかで子供を巻き込んだ多くの戦争と、その悲惨な戦禍(無差別爆撃によって手足を失った血まみれになった子供たち)を嫌というほど見せつけられてきて、そのうえでこの「ポーレットの無邪気さ」をあらためて考えると、なんだか机上の空論というか、巧みに組み上げられた「悲劇」のためだけの「設定」に見えてしまって、今回はずいぶんと「苛立たしく腹立たしい」ものを感じてしまったんだよね。

そうそう、あの場面で唯一「リアリズム」を感じさせたシーンは、両親を失い一人で道端にたたずんでいたポーレットを、可哀そうに思った行きずりの一家が彼女を荷車に抱え上げたとき、その中年女がポーレットの抱えている犬を見て「それ、もう死んでるよ」とか言って取り上げ、無造作に川に投げ捨てる場面だね。

少なくともあれが、いつどこで自分だって死ぬかも分からない極限の戦時下に、人間が当然持つに違いない「ありふれた死」に対して、反射神経を弛緩させ麻痺させてみずからを防御する感覚を鈍化させる庶民の生活の知恵というか、認識のかたちだと、あの部分だけは妙に納得できたくらいかな。
シビアな現実に直面したとき、人間は生き延びるために感性を必要なだけ鈍化させて適応してしまえる逞しさを持っている生き物だと。そうやって人間は、あらゆる極限状態を耐えてやり過ごし生き延びてこられたんだと。

だけど、「死」を理解できないポーレットは、川に流れ去っていく犬の死骸を追って、このストーリーを展開させ、やがて、死を弄ぶ「墓遊び」にまでストーリーを広げながら、巧みに「駅の雑踏に迷子として呑み込まれる痛切なラスト」にまで引っ張っていくわけだけど、ひとむかし前なら気にも留めなかったその巧みさが、つまり、この「可哀そうなポーレットちゃん」のお話の「組み立て方」がどうにも鼻について仕方なかったんだよ。

さらに続けて、彼は、ここに描かれているフランス農民の愚かな狡さとか、事務的にすぎる官憲や意地の悪そうな修道女の冷ややかさとか、「可哀そうな」な迷子のポーレットを呑み込む駅の雑踏が象徴する酷薄な民衆の不自然な描き方などについても語ったのですが、それらはすべて「可哀そうな孤児の物語」を誇張するために人間を歪めて描く必要からそうしたまでのことで、リアリズムとは何の関係もない作為と悪意に満ちた誇張にすぎないと、いささか憤慨気味(そう見えました)に彼は語っていました。

あの設定がもし仮に、ポーレットを可哀そうに思う愛情深い善意の農民だったり、温情溢れる官憲だったり、愛情深い修道女だったりしたなら、この物語はもっと違う物語になっていたかもしれないよね、でもそれじゃあ観客を感銘させることはできない・悲しませることはできない、そのために巧みに「脚本」をこねくり回しているうちに、「名作」には仕上がったかもしれないにしても、その無理がたたって随所にほころびができているのが気になって仕方なかったんだよな。

ポーレットが「ミシェル! ミシェル!」と泣き叫びながら雑踏の中に消えていくあのラストを盛り上げるためだけに、あきらかり無茶ぶりとしか思えないこの観念の倒錯の必要から、信仰心のあつい敬虔な信者・少年ミシェルを、まるでポーレットに隷従する「墓標盗人」に豹変させる奇妙で強引なストーリーが作られていったのだなと。

この倒錯したミシェル像が矛盾して描かれる切っ掛けとなっているシーンは、ポーレット自身が、もはや用無しになった犬の死骸をまるでゴミのように無造作に投げ捨てる場面に込められていると言いました。前半の犬への執拗なこだわりを、後半の死を弄ぶ「墓遊び」につなげるにはとんでもない飛躍がどうしても必要になってしまって、その矛盾した乖離を収束する辻褄合わせのために、ポーレットに、あれほど執着し、取り戻すことにこだわっていた「犬の死骸」をいとも無造作に捨て去るという奇妙な行為をとらさなければならなかったのだと。
「悲劇」をでっちあげるために、この現実に悪意ある作為をほどこすこの「捻じ曲げ感」は、ちょうど不自然なまでにいじめ抜かれる「おしんストーリー」(あの冨樫森作品も顕著に「それ」は感じました)のヘドが出るような悪質な嘘(映画の堕落)と同じタイプのものだと。

これはつまらない蛇足ですが、今回、自分もかなり冷静にこの作品を改めて見直してみたのですが、ラストのポーレットが駅の雑踏に呑み込まれる場面は、その少し前に修道女がポーレットの首に名札を掛けているシーンがあるので、一時は迷子になったとしてもすぐに連れ戻される可能性もあったことに気が付いたことも付け加えておきますね。

まあ、こんな感じで、自分はただ彼の話にほぼ相槌を打つということに終始しただけだったのですが、しかし、この「ただ相槌を打つだけ」という態勢からイメージするような消極的で受け身だったわけではありませんでした。

彼の話を聞きながら、自分にもいささか思い当たるフシがあったので、帰宅してさっそく書棚から、まずトリュフォーの「映画の夢 夢の批評」(山田宏一・蓮實重彦訳、たざわ書房1979.401.2刷、276頁、1600円)を取り出しました。

その夜、彼が話していることを聞いているうちに、それって、もしかしたらトリュフォーの「受け売りじゃん」という気がしてきたからです。

だって、ほら、ヌーヴェル・ヴァーグの初期っていうのは、フランス映画界の大御所にトリュフォーが噛みついたってところから始まったっていうじゃないですか。ただし、その大御所たちが誰々で、彼らのなにが悪くってトリュフォーがあんなにもむきになって噛みついたのかまでは、すっかり忘れているので、ここはいい機会です、パラパラと走り読みしながら、久しぶりにフランス映画史でも勉強してみますか。酔って帰った真夜中に、よりにもよって始めるようなことじゃありませんが。

しかし、残念ながら、この本からは該当の記事を発見することはできませんでした。ただ、トリュフォーの書いた「あとがき」には、ヤマダと話し合い、パリで出版した自分の映画評論集「わが人生の映画たち」(1975、フラマリオン社刊)のなかの全5章を三つに分割して逐次日本で刊行しようという計画が合意されたと書いてありました。

具体的にいうと、

【第1段階】(いま読んでいるこの本です)
第1章 大いなる秘密+「批評家は何を夢みるか」(書下ろし)

【第2段階】
第4章 異邦人たち
第5章 ヌーヴェルヴァーグの仲間たち+<日本映画賛歌>「溝口健二、木下恵介、市川崑、中平康」

【第3段階】
第2章 トーキー時代の映画作家(1)アメリカ映画の監督たち
第3章 トーキー時代の映画作家(2)フランス映画の監督たち

ということで、目指す記事はどうも
【第3段階】第3章 トーキー時代の映画作家(2)フランス映画の監督たち
のようです。

そこには、錚々たる監督名が列記されていて、トリュフォーがこのうちの誰をけなし、誰を持ち上げたのかまでは分かりませんが、そのリストのなかに、確かにルネ・クレマンの名前がありました。

それらの監督名は、以下のとおりです。

クロード・オータン=ララ、ジャック・ベッケル、ロベール・ブレッソン、ルネ・クレマン、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、ジャン・コクトー、サッシャ・ギトリ、アルベール・ラモリス、ジャン=ピエール・メルヴィル、マックス・オフュルス、ジャック・タチ、


このあとに、さらにこうも書かれていました。

「・・・というところまでヤマダと話し合ったのだが、もちろん、これは、まず本書が出版されて成功したらの話である。そのためにも、ぜひ本書が成功してくれることを祈りたい。」

なるほど、この本が、はたして「成功」したのか否か(つまり条件を満たして次段階の出版が叶ったのかどうか)までは、調べている時間はもうありません、そんな悠長なことをしていたら、そのうち夜が明けてしまいます。

もうこれ以上、この本につきあっている暇はありません、時間切れです。次に、やはりヤマダつながりで「トリュフォーの手紙」平凡社(山田宏一)2012.7.25.1刷、493頁、2400円、を引っ張り出しました。

この本、時系列で書かれているので、たいへん探しやすく、ありました、ありました、

「・・・と、のっけから総括的、断定的、攻撃的な喧嘩口調だ。『これでいいのか』と体制に、既存の支配勢力に、一気に食って掛かるような勢いだ。」(123頁)

という、実に嬉しくなるような牙をむきだした一文が燦然と輝いて、向こうからこちらの目のなかに飛び込んできたじゃないですか。これですよ、これ、不良少年にして怒れる狂犬トリュフォーなら、こうでなくっちゃいけません。噛みつけ噛みつけ、コノヤロー、片っ端からぶっころしちまえってんだよ。

いやいや、勝手に興奮している場合じゃありません。その先の一節を読んでみますね、キイワードを見つけて、その前後をこうして広げていくという読み方は、邪道であっても結構有効で合理的な方法です、「早わかり」のためには最適です。

「フランス映画の進歩とは、要するに脚本家と脚本の進歩、すなわち文学の名作(アンドレ・ジッドの小説「田園交響楽」、レイモン・ラディゲの小説「肉体の悪魔」等々)を映画化するための大胆な脚色法(それは文学と「等価」の映画的表現形式があるという傲慢な確信に基づいて「原作を裏切らずに、その文学的精神に基づいて創造する」というものである)、そして、ふつう難解とみなされる主題(とくに宗教的な問題にかかわる)にきわめて積極的に敏感に対応し、その(みせかけの)真摯さゆえに大衆が簡単に受け入れてくれることへの絶対的な確信にもとづくものなのである。」

なんだ、なんだ、こんな括弧ばかりあちこち挿入した文章なんて、読みにくくって意味が掴めないじゃないか、これじゃあまるでオレの書いたものと同じだっての、いったいお前は、なにを言いたいんだ(それに加えて、どういうヘタレな訳なんだこりゃ)などと鼻白んでいる場合じゃありません。

要するに「原作の主題を忠実に生かすようにすれば、失敗ない」といっているのだと思います。原作(の主題)を忠実・完全に脚本に写し取って再現できれば、原作のチカラ(主題)に守られて、映画も大過なく大衆に受け入れてもらえ、成功できるに違いないと、いままで名作といわれた映画は、そういうふうに作られてきたわけだけれども、はたして「それでいいのか」とトリュフォーは言っているのだと思います。「そんなもんは、映画なんかじゃねえや、バーロー」と。(誰彼構わず「噛みつく」トリュフォーだったら、これくらいの言い方がふさわしいかもしれません)

そして、そのあとには、こうも書かれています。

「そして、これらの大御所の脚本家たちの大胆で真摯な脚本の欺瞞に満ちた美徳を告発し、なで斬りにしてよくできた脚本によるよくできた映画を、ということは戦前からのフランス映画の良質の伝統を受け継ぐ、つまりはフランス映画の主流を、徹底的に批判し、過激に、まさに急進的に作家主義を主張しつつ、ヌーヴェル・ヴァーグを予告する、いわば革命前夜の論文であった。」

つまり、脚本をなぞるだけのものではない「映画のための映画」を作るべきだと言いたいわけなのでしょうね。なんだか、こうして文脈を追っていくだけでは、なんだかわけが分からなくなってしまいました。

そもそも、「禁じられた遊び」よりも「大人は判ってくれない」が決して優れている作品とは、どうしても思えない「信仰心」を欠いた自分などには、この気負った幼稚な文章の数々が見え透いてしまい、どこまでも「嘘っぽい」ものとしか感じられないから、もうひとつ分からないのかもしれませんが。

また旧友と会うことがあったら、今度は言い返してやろうと心に決めました、かれ、きっと逆上すると思います、なにしろヌーヴェル・ヴァーグ大好きの敬虔な信者ですから、カレ。やれやれ

(1952)監督・ルネ・クレマン、脚本・ジャン・オーランシュ、ピエール・ボスト、ルネ・クレマン、原作・フランソワ・ボワイエ『Les Jeux inconnus』、製作・ポール・ジョリ、音楽・ナルシソ・イエペス、撮影・ロベール・ジュイヤール、編集・ロジャー・ドワイア、
出演・ブリジット・フォッセー(ポーレット)、ジョルジュ・プージュリー(ミシェル・ドレ)、リュシアン・ユベール(ミシェルの父ジョゼフ・ドレ)、シュザンヌ・クールタル(ミシェルの母)、ジャック・マラン(ミシェルの長兄ジョルジュ・ドレ)、ロランス・バディ(ミシェルの姉ベルト・ドレ)、アメデ(ベルトの恋人フランシス・グアール)、ルイ・サンテヴェ(司祭)、ピエール・メロヴェ(ミシェルの次兄レイモン・ドレ)、アンドレ・ワスリー(フランシスの父グアール)、





☆☆ ☆

この小文を少しずつ書いていたここ1週間にさまざまな事件が起こりました。

そのもっとも大きな事件といえば、やはりパリの世界遺産「ノートルダム大聖堂」の消失でしょうか。

屋根の部分が大きく炎上し、猛烈な炎に煽られた尖塔が、またたくまに崩れ落ちるというリアルな光景は、あのツインタワービルの崩壊の瞬間を思い出させるほどの惨状を連想させて大きなショックを受けました。

記事によると、ノートルダム大聖堂が今の形になるまでには1163年の着工から、さらに200年を要したというのですから、内部の装飾の贅の凝らし方がいかに壮大で華麗なものだったかは、この「かかった時間」からでも想像できると思います、今年が何年であり、引き算が正確にできさえすれば、その加減乗除の法則によって、建築年数などすぐにも算出できるというものです。(できないのかい!?)

しかし、世界遺産に指定されたこれほどの建築物をいとも簡単に焼失させてしまうなんて、「いったい管理体制は、どうなってんだ」という怒りと苛立ちにまず最初に捉われたとき、現場に駆け付けたというマクロン・フランス大統領が記者の質問に答えている姿が、テレビの画面に大写しになりました。

彼は言いました「世界に呼びかけて大聖堂を再建する」と。

えっ~!?と、思わず拍子抜けし、つづいて、「このバカ、アホちゃうんか」と、思わず口走ってしまいました。条件反射的に「不意」に発してしまった生理的嫌悪の雄叫びだったので、もし仮にこの失礼な言葉を不快に思われる方がいらっしゃったとしたらどうぞお許しくを願いたく存じます。ついつい本音が・・・。

だって、そうですよね、重要文化財のこれだけの大火災です。まずは「けが人は?」と気遣い、テロの可能性も含めたうえでの故意の放火だったのか(厳戒態勢の緊急手配)、それとも不慮の失火だったのか(捜査)の両面から、それらを想定した防火体制の管理に不備はなかったか(他の文化財の防火管理体制は大丈夫かの緊急確認手配)、それとも人為的なミスだったのか、いや、そもそも最初から「管理」などという金のかかる余計なものなんてやってなかったのではないか(例の仕分け、あの大衆迎合・人民裁判の大いなる恥さらし、日本でもありました。その大罪を犯した仕掛け人がいまでもしゃあしゃあと政治家としてのさばっているのが理解できません)、工事規則なんてものは最初からなくて業者のやりたい放題に任せていて、燃えやすい木製の危険極まりないチープな足場を組んだその近くで、意識の低い工事関係者がタバコか煙の出るものをスパスパやらかして火のついている燃えかすをそのままポイ捨てしたとか、芋でも焼いたりしていなかったかなど工事人のモラルも含めたセキュリティの両面で調査・究明していくと、まずは言明するのが、一国の元首たる者のタシナミだと思うのに(なにも緊急性のない「再建」の話など、誰が考えてもずっとあとでいい話です)、金に取り憑かれた頭の回転も鈍そうなこの呑気な大統領は、言うに事欠いて、開口一番「世界から金を集めて再建しま~す」とかなんとか寄付金を募っている始末ですから、もうなにをかいわんやです。

こんなテアイしか一国の元首として据えられないような国民は、まったくもって不運というしかありません。だいたい発想自体が、植民地経営の大国気分が抜けきらない、どこまでも東洋人から富をかすめ取ることしか考えていない「ゴーン」的発想なんだよな。自分の財布と他人の財布の区別がつかず、ショーグンだかシャチョーだか知らないが、日本をナメタ勝手な名前をちゃっかり盗品に付けて澄ましているあのコソ泥のいかさまヤローを最初のうちは庇い立てていたこと(献金の鼻薬が効いていて首を横に振ることがどうしてもできなかったという事情もあったのでしょうが)を極東の島国のわれわれ東洋人はいまだ忘れていませんから。まったくあきれ返ってものが言えません。とにかくサイテーだよ、お前ら。一発そのドタマを張り倒して「ゴ~ン」とでもうたわしたろかい、オンドレ。除夜の鐘じゃねえや、ばかやろー。

わたしは言いたい、日本企業からネコババした金でこそこそ買った豪華クルーザー「社長号」に、えげつないリストラで失業に追いやられ、いまも苦しい生活を余儀なくされている元・社員たちの家族を、どうか・どうかその「社長号」とかに招待して乗せてあげてくださいませな。お願いしますよ、拘置所のゴ~ンさん!!

もし、ルイ=フェルディナン・セリーヌが生きていたら、「まあ、いずれにしても今回の大聖堂消失は、ずさんな安全管理の欠如か、それとも堕落したフランス社会に神がくだした鉄槌だな」とでも、きっと爽やかな毒を吐くに違いありません。(最初は、「天罰だな」と書いてみたのですが、そこまで言うなよと言われそうなので「鉄槌」に書き直しました。)



by sentence2307 | 2019-04-19 15:16 | ルネ・クレマン | Comments(0)