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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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「風の中の牝雞」とその時代


手元に十分な資料がないので、不確かな部分は、頼りない記憶と推測で補いながら「風の中の牝雞」と、それが撮られた時代的な位置づけを書いてから、懸案の「本当の夫婦」について検討したいと思っています。

小津監督が戦後第1作として「長屋紳士録」を発表したとき、映画批評家を始め大方の世論は、新しい民主主義の時代へと世の中が大きく転換しようとしているこうした激動のときに、巨匠(きっと、嘲笑を込めたカッコつきで書かれたことでしょう。)小津安二郎は、相も変らずこんな呑気な「喜八もの」を撮り続けるのかという批判を浴びたという記事を以前どこかで読んだ記憶がありました。

ときあたかも、日本映画界の名匠・巨匠たちが衝撃的な問題作を次々に世に問うていた時期です。

木下恵介が「大曽根家の朝」を撮り、黒澤明が「わが青春に悔なし」を撮り、今井正が「民衆の敵」を撮り、吉村公三郎が「安城家の舞踏会」を撮り、山本薩夫と亀井文夫が「戦争と平和」を撮っていたというそういった時期です。

このような熾烈な状況にあっても、相も変わらず、かつて撮った作品のリメイクめいた気の抜けた作品(この作品「長屋紳士録」を見たとき、そのストーリーの組み立てが、僕にさえ「出来ごころ」33との連関性を直感させました。そして「気の抜けた」というふうな言い回しも、そうした記事の揶揄的な文意を反映して使われていたように記憶しているので、一応「原文ママ」)を、堂々と発表するというアナクロニズムを、マスコミは嘲笑をこめて書き立てたという記事を幾度か読んだ記憶があります。

しかし、こうして列挙された壮絶な作品群を俯瞰して共通して受ける印象、「民主主義」を一応に謳歌するという不自然な大合唱は、かつて日本の映画人が、戦前、「軍国主義」の精神を巧みに作品中に織り込むことを強いられた踏絵的な時代を生きた状況と、奇妙に符合してしまうのではないかという印象を禁じ得ません。

まるで、「あの暗黒時代」を改めて生き直させられているかのような、強いられた窮屈な感じを受けてしまうのは、僕だけでしょうか。

まさに、新たかもしれないけれども、結局「○○主義」というもうひとつの踏絵の時代が到来したにすぎない、いわば一種の時代的ヒステリーを忠実に反映している作品群に見えてしまうのです。

そして、それにひきかえ、東京下町の貧民窟で起こったささやかな庶民の日常のなんということもないささやかな事件を温かく精密に描いた「長屋紳士録」こそが、つまり小津安二郎がどこまでも「反時代的」であったということこそが、むしろ物凄いことなのだということに気付くまで、僕たち日本人は、この作品が作られてからはるかな時間を費やし=経済的な成熟を経て閉ざされた価値観の意識の固陋から解放されるまでの50年という時間をいたずらに費やさねばなりませんでした。

しかも、その解明には、残念ながら海外の権威ある映画人の評価によって、やっと気が付いたというなんとも遣り切れない無惨な事実も見過ごしにするわけにはいきません。

あの「羅生門」から晩年の諸作品に至るまでの黒澤明の評価をめぐる一連の事象を見るまでもなく、日本人の閉塞的な固陋さと価値の迷妄を打開するのに、みずからの「欧米に対する根深いコンプレックス」によって始めて耳を傾けさせたというなんとも皮肉な顛末が、「無」の一文字の下で安らかに眠り続ける小津監督を苦笑させているかもしれませんね。

さて、戦後の激動期に際して、小津安二郎は、相変らずこんな呑気な「喜八もの」を撮り続けるのかという世の批判に対する答えとして「風の中の牝雞」が撮られたのだとしたら、この作品は小津作品中、稀有ともいえる生臭い「時代」感覚を意識して反映させようとした特別な作品といえるかもしれませんね。
by sentence2307 | 2005-09-18 21:21 | 小津安二郎 | Comments(0)