ジョーン・フォンテーン
2005年 11月 19日
そういえば、このふたり、繊細なところが本当によく似ていると思います。
ところで、ヒッチコック作品の印象が強いあのジョーン・フォンテーンが、実は東京生まれで、聖心女学院に通っていたということを初めて知りました。
しかも、お姉さんが「風と共に去りぬ」でメラニーを演じたオリビア・デ・ハビランドです。
しかし、印象に反してこの姉妹、オリビア・デ・ハビランドとジョーン・フォンテーンの仲の悪さは伝説的です。
その象徴のように語り伝えられているのが1941年のアカデミー賞での授賞式のとき。
この1941年という年は、映画史上でも滅多にない豊作の年で、それは、作品賞にノミネートされた作品群をみればよく分かると思います。
ジョン・フォードの「わが谷は緑なりき」、オーソン・ウエルズの「市民ケーン」、ウィリアム・ワイラーの「偽りの花園」、アルフレッド・ヒッチコックの「断崖」、ハワード・ホークスの「ヨーク軍曹」、ジョン・ヒューストンの「マルタの鷹」、マービン・ルロイの「塵に咲く花」、アレクサンダー・ホールの「幽霊紐育を歩く」、アービング・ラバーの「わが道は遠けれど」、そして「Hold Back the Dawn」でした。
世界の映画人が選ぶいままで撮られた映画の中でベスト・ワンの評価を受けている「市民ケーン」ですが(しかし、後年のこの高い評価は、その当時政界の有力者などから様々な圧力があって無念にも作品賞を逃した事情も影響している判官びいきの部分もあるのではないかと、つい考えてしまいます)、僕としては「わが谷は緑なりき」がとても好きなので、この評価には異論ありません。
さて、そういう中で、主演女優賞をめぐって、この二人オリビア・デ・ハビランドとジョーン・フォンテーンの姉妹が名優たちに混じってそれぞれノミネートされ、まさに姉妹対決の様相を呈しました。
オリビア・デ・ハビランドは、「Hold Back the Dawn」、ジョーン・フォンテーンは「断崖」、そのほかには「偽りの花園」のベティ・デイビス、「塵に咲く花」のグリア・ガースン、「教授と美女」のバーバラ・スタンウィックという錚々たるメンバーです。
受賞したのは、「断崖」のジョーン・フォンテーン。
勝者となった妹ジョーン・フォンテーンが、敗者の姉オリビア・デ・ハビランドに握手を求めたのに、オリビアは不快さを隠そうともせずに顔を背けたと映画雑誌が書きたてたことで、さらに姉妹の確執を煽ったといわれています。
実は、フォンテーンは、前年の「レベッカ」で高い評価を受けたものの(ヒッチコックの「レベッカ」は、10部門にノミネートされながら、受賞したのは作品賞と撮影賞のたったふたつだけでした。)、あえてジンジャー・ロジャースに主演女優賞を送ったのは、このダンシング・スターの演技派への転向をアカデミーが祝福したことによるプレゼントだったというのが定説になっています。
ですので、その翌年にアカデミーは、フォンテーンに主演女優賞受賞を送ることによって、前年の「借り」を返したといわれています。
「断崖」と「レベッカ」のジョーン・フォンテーンの演技を比較してみれば、どちらのフォンテーンが主演女優賞にふさわしい演技だったか、一目瞭然だと思います。
そうでなければ、アカデミーも、「恋愛手帖」のジンジャー・ロジャースに情実によって主演女優賞を贈ったことを「借り」とは感じなかったでしょう。
こんなかたちで、いろいろな周辺事情によって素晴らしい演技を示した作品ではない別の(あるいは、次の年の)作品の凡庸な演技に贈られる場合のあることもあるという演技賞なので、その辺の事情というかなりゆきに精通していないと、ただ記録を眺めているだけでは首を傾げたくなるような演技賞の記録がたくさん残されています。
例えば、ジョーン・フォンテーンが「レベッカ」で最高の演技をしたのにもかかわらず主演女優賞を逸した1940年という年の主演男優賞は、「フィラデルフィア物語」(ジョージ・キューカー監督)のジェームス・スチュアートでした。
映画の一般常識として、「独裁者」のチャールズ・チャップリンや、「怒りの葡萄」のヘンリー・フォンダや、「レベッカ」のローレンス・オリビエの名演技を知らない人はいなくとも、「フィラデルフィア物語」とかいうジェームス・スチュアートの演技を記憶している人がどれ程いるかは疑問ですよね。
そもそも「フィラデルフィア物語」という作品自体どういう作品だったか、知っているという人は余程のマニアだと思います。
厳しい時の洗礼を受けて凡庸な作品は忘れ去られ、優れた作品だけが人々の記憶に残るのは当然にしても、それはとても残酷なことだと痛感します。
しかし、これが、ジェームス・スチュアートという俳優が凡庸な俳優だった証しかといえば、そうではありません。
彼にしても、この不可解な受賞は、前年1939年の「スミス都に行く」の最高の演技を評価されなかったことへの「お返し」だったといわれていますから。
そしてさらに面白いことに、この1939年、多くの主演男優賞候補の有力者たち(「風と共に去りぬ」のクラーク・ゲイブル、「嵐が丘」のローレンス・オリビエ、そしてジェームス・スチュアート)を抑えて受賞したロバート・ドーナッツという人は、前年の「城砦」によって高い評価を受けながらも僅差で賞を逸したことに対するアカデミーの遅ればせながらの「見返り」だったらしいことを考えれば、なんとも皮肉な「因縁話」のような感じがしてしまいます。
正当な演技が、同時代的に評価されにくい事情が、この辺にあるのかもしれませんね。
ジョーン・フォンテーンが主演女優賞を逸したのは、いってみれば「レベッカ」以外の他の有力作(怒りの葡萄、チャップリンの独裁者など)に対する時代的な「冷遇」の「生贄的な見返り」だったという説が有力です。
第2次世界大戦に参戦を決めたこの年、アメリカにとって独占資本と軍事力の強化を必要としていた時期に、資本主義・独占資本に鋭い批判のメスを入れた「怒りの葡萄」や、帝国主義・軍部独裁への警鐘を打ち鳴らした「チャップリンの独裁者」が決して好ましい作品ではなかったことで、無難な「レベッカ」に作品賞の票が流れ、いわばその疚しさみたいなものもあって、ジョーン・フォンテーンに主演女優賞を与えにくかったのではないか、と伝えられているからです。