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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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田中絹代

新藤兼人監督の著作に「小説・田中絹代」(読売新聞社刊)という本があります。

通して読んだことも幾度かありますし、折に触れて読みたい部分だけを拾い読みしています。

じつは僕は、読書に関してひとつの固定観念を持っています。

あらゆる著者は、ただひとつの文章を書きたいために、何万語を費やして本を書くものだ、と。

ですので、僕は、著者が書きたかったというそのただひとつの文章を探し出すために本に向かい読書しているのだと思っています。

その意味では、読書は僕にとって「旅」なのかもしれません。

かつてその一文にめぐり合えた幸運な旅もありましたし、ついに見つけられずに終わった不運な読書もきっとあったのだと思います。

さて、この新藤兼人の本は、女優・田中絹代の生涯を、関係者や映画人とのエピソードを連ねて書かれている、いわば伝記小説のたぐいなのですが(珠玉の名編「ある映画監督の生涯」が重要なベースになっています)、内容からいえば、むしろ「実録・田中絹代と溝口健二」とでも付けた方が相応しいくらい溝口監督との関係をおもなタテ軸として書かれたノンフィクションです。

昭和31年、溝口監督が骨髄白血病で死去したとき、田中絹代は46歳、そして彼女が亡くなったのが67歳ですから、彼女にとって残された21年間という時間は、普通に考えれば決して短い時間ではなかったはずという気がしていました。

しかし、溝口健二を失った女優・田中絹代にとって、その21年という時間が、まさに「余生」に過ぎなかったと思われるくらい、新藤兼人のこの本は、それほどのページをさくわけでもなく、この大女優の最後の21年間をあっけなく無残に終らせてしまっています。

溝口監督の死を記した章「映画監督の死」から、田中絹代の死を描いた最終章「女優の死」に至るまで、その間に置かれている章はたったの3つ、それは、「それでも生きなければ」、「たった一人になった」、「栄光と孤独」と、なんとも遣り切れないくらいのさびしいタイトルです。

そんなとき、僕は改めてこの本の冒頭に戻ってみます。

新藤兼人は、この本をこんなふうに始めています。

「女優田中絹代の死を知ったとき、死を悼む悲しみはなく、静かに幕が下りた瞬間の喝采を聞いた。『お見事』声を張り上げて、その死を讃え、拍手をおくりたかった。」

この一見お座成りな社交辞令のように読める一文が、しかし、本当は「女優」であるために何もかもを棄てて、「女優」であることを業のように生きた一人の女の壮絶な生涯が描かれているとともに、可愛らしい「女」を演じることで「田中絹代」という人間がどれほど歪み傷つかねばならなかったか、僕たちはこの本を読んで知ることになるかもしれません。

さて、この小文の冒頭に書いた「あらゆる著者は、何万語を費やして、最も書きたかった一文を書き残す」というこの読書によって見つけた成果をご報告しなければなりませんよね。

その前に、その一文が生きたものであるかどうか、少し長文にわたるのですが、前置きの部分を書き写します。

「役者は、親の死に目にも演技の涙を流すと言われている。
また、それほどの役者でないと真の演技はできないかもしれない。
このとき見せた田中絹代の涙は、演技かマコトか、それは本人でも分かりかねるものだろうが、私は、田中絹代の女としての本心をちらりと垣間見たと思っている。
それだから、横須賀線での殊勝な一言『先生にいいお土産ができました(「サンダカン八番娼館・望郷」でベルリン映画祭女優演技賞を受賞したこと)』を感慨をもって聞いたのだが、すぐそのあとで成沢昌茂には、・・・『地獄で会うか極楽で会うか』と(絹代の頭では、監督なんてできませんと溝口健二に言われたことに)恨みを込め、『溝口健二に言ってやります』と、髪を逆立てていきり立っている。」

そして、これに続く次の一文に僕は実に生々しい衝撃を受けたのでした。


《そのどちらも、田中絹代の、むき出しの心に違いない。

いちど魂を男に触らせた女のいぶり続ける嘆きであろう。》
by sentence2307 | 2006-04-06 23:59 | 田中絹代 | Comments(0)