懺悔のネウチもない・黒い乳房
2006年 05月 20日
僕には選択肢というものが、ほとんどありません。
こんな僕ですので、録画済みの未見映画のストックなら、かなりあります。というか、「見る」のが、「録画」に追いつかないというのが実情で、当然、貯まりに貯まってしまったストックは優に1000本を超えています。
これは自慢ではなく、僕自身の病理をお伝えしたかっただけなのですが。
ストックがこの数ですから、改めてどれを見たらいいか、いつも迷いまくります。
実は、つい最近まで、自分の在庫の内訳というのを全く把握しておらず、暇が出来ていざ見る段になって、たまたま手近にあるものから無闇矢鱈に見まくるというテイタラクでした。
例えば、こういう経験てありませんか?
仕事が忙しくて、残業の末の深夜にやっと家に帰り着き、もう既に映画を見られるような時間でもないし、ましてや翌日の仕事に差し支えるので早く寝なければならない、という一種の切迫感に追い立てられて、自分はいったい何のために生きているのかなんていう気鬱に見舞われながら、その反動みたいに映画を見たいという「飢え(かつえ、と読んで下さい)」だけが蟠って肥大し、変な熱に浮かされたみたいにどんな映画でもいいから片っ端から「予約」しまくるなんてこと。
そうすることで、なんか気持ちの空白が埋められるような気がして、たぶんそれって妄想とか、強迫観念あるいはヒステリーの類いなのかもしれませんが、そうした情熱に突き動かされて予約した映画、つまり、その時の得体の知れない「歪んだ欲望」がそのまま具現化したような映画に、冷静になった時に向き合わなければならない遣り切れなさは、本当に堪りません。
おそらくそれは、ちょうど泥酔したときの醜態の惨憺たる結果を、素面になってから見せ付けられるような居心地の悪さと似ているかもしれませんね。
そんな自身のだらしなさを少しでも克服するために、つい最近「録画リスト」なるものを完成させました。
それで一目瞭然、これからは見たい映画だけを予約し、その中の最も見たいと思っている映画から順次見倒してやろうというスガスガシイ気持ちで再生できるかと思った矢先、あるやっかいな問題に気が付きました。
あの暗い情熱に突き動かされて、魔が差したとしか言いようのない「映画」たちというものが、まだ目の前には存在しています。
これはいわば、「戦後処理の問題」です。
見ることをやめて、そのままその上から別の秀作映画を録画してしまうことも可能です。
しかし、それではなんのためにそれらの作品を録画したのか分からなくなってしまいます。未練もあります。
たとえ僅かでも、なんらかの興味をもって録画したいと思った映画には違いないのです。棄て難い興味は確かにまだあります。
このまま見ずにしまうことが、自分の欲望から目をそむける「自己欺瞞」のようにも思えてきました。
という訳で、なんのことはない、結局「それら」の映画を端から見ていくことにしました。
そこでまず見ようと思ったのが新東宝映画「黒い乳房」です。(僕には、この「黒い乳房」の感想を書くために、これだけの自己正当化のための前置きを必要とします。)
たぶん、その当時、酔っ払っていたかなんかで、この扇情的なタイトルだけに惹かれて録画したのだろうということは容易に察しがつくのですが、しかし、このテープのケースに貼ってあるラベルを見て驚きました。
このテープに入っていた前作は、小津安二郎の「東京物語」です。
いえいえ、「東京物語」は、リストによれば、あと4、5本は録画してあります(これとても、随分異様ですが)、ですので、驚いたというのは僕のライブラリーからその名作が失われたことに対してではありません。
「黒い乳房」という物凄いタイトルに幻惑され、扇情的なその作品をどうしても見たいという衝動を抑えられず、録画するために手近にあった「東京物語」という象徴的な観念を放棄して、躊躇なく「黒い乳房」を録画したことに対して、でした。
なんか、保身のために踏み絵を踏んでしまったキリシタン・バテレンみたいな気持ちです、キリストを売ったユダの心境です。
ここで言う踏み絵とは「東京物語」のことで、キリストとは「小津安二郎」を示しているということになるでしょうし、心境ということになれば、まあ新東宝映画風にいうとすれば「ああ、オレは汚い、汚れている~」ってところでしょうか。
しかし、オッパイ見たさに簡単に魂を売ってしまっておいて、いまさらこんなことを言うのも、なんか弁解めいて心苦しいのですが、この映画には、「黒い」のだろうが「白い」のだろうが「乳房」などと名の付くような種類ものは、なにひとつ登場しなかったことを堂々と証言し、「黒狩り」でも「白狩り」でもその手の公聴会でもあれば、すすんで出席して身の潔白を晴らしたいと思っています、僕は「見ていません」と。
むしろ憤っているくらいですから。
なにしろこちらは、世紀の名作「東京物語」を犠牲にしてまで、「乳房」に賭けたのに、この消費者の誠意を踏みにじるようなことをして、それで済むと思っているのか、ブラジャーくらいはなんとかしろ!(わけが分かりませんが)みたいなこのやり場のない怒りをどうしてくれるんだコンニャロウ、みたいな悲憤です。
しかし、新東宝作品「黒い乳房」が、まるで酒池肉林・淫乱放蕩・阿鼻叫喚・クンズホグレツの物凄い映画だと勝手に思い込んでいた非は、もちろん僕にあります。
きっと、「映画」以上のものを求めていた自分がイケナカッタのだと思いました。
新東宝作品の扇情的なポスターに釣られて、いざ見てみると、内容は至極道徳的で、ポスターにあるような物凄いシーンなんて全然なかったと頭にきた人たちの話を聞いたことがありましたが、まさに「これ」だな、という感じです。
しかし、その「頭にきた」怒れる観客が以後新東宝映画を見放したかというと、次週には別の扇情的なポスターに釣られて再び映画館に足を運んだという心温まる後日談のオチのあることも忘れてはいけません。
ここで僕は突然自分の非に目覚め、やっと真人間に戻ることができました。深く考えないことと、変わり身の早さが僕の長所です。
「黒い乳房」が「東京物語」とは、まるで違う映画だと思い込んでいた自分に気付いたのです。
これは、日本の映画という同じ土俵に立っている映画なのですよね。
いつの間にか、この2作品を「雲泥の差」という先入観を持って見てしまっていたことに気が付いたのでした、むしろ、人物描写の緻密さ、絵作りの丹念さ、そのひとつひとつを、例えば小津作品と同じレベルで考えてもいいのではないか、という気がしています。
もちろん、結果はおのずから明らかかもしれませんが、「問題にしない」という態度(いままでの自分に、もし少しでも「それ」があったとしたら)は、改めようと考えました。
なんか、いっぱい「勉強」することのできたこの「黒いオッパイ」でした。
まあ、もともと新東宝映画がとても好きなのですが・・・。
黒い乳房(60新東宝)監督・土居通芳、製作・大蔵貢、企画・島村達芳、脚本・杉本彰、撮影・森田守、音楽・松村禎三・美術・加藤雅俊、録音・沼田春雄、照明・秋山清幸
出演・菅原文太、川喜多雄二、高宮敬二、小畑(小畠)絹子、池内淳子、若杉嘉津子、林寛、岬洋二、倉橋宏明、渡辺高光、晴海勇三、千葉徹、泉田洋志、藤村昌子、高松政雄
5巻 1,742m 64分 白黒 新東宝スコープ (64分)1960.6.4公開