初恋のきた道
2006年 06月 04日
近頃あまり聞かなくなった清貧のなかでの爽やかな純愛もの(正確に言えば、「なれそめ」の段階で、まだ恋愛にまで至っていないから、ういういしく爽やかな印象を受けるのかもしれません)で、きっと、僕たちの中に、こういう飾り気のない素直な作品を求めている部分もあったのかもしれません。
ストーリーをやたら捏ねくり回す現代にあって、こんなにもシンプルな映画を撮れるなんて、まずは驚きでした。
でも実は、見たとき少し違和感もあって、僕としては、この作品に深い感動を表明した人達のような思い入れを持つまでには至りませんでした。
というのも、主演のチャン・ツィイーが、あまりにも今風な可愛らしさで、メイクの垢抜けた感じとか、あるいは、着ているものもこざっぱりしていることなど、なんかリアルさに欠けていることが気になってしまい、思うように物語の中に浸りきることができなかったのでした。しいて言えば、この作品で「ひっかかるところ」といえば、この一点です。
この彼女、文革の時代の、しかも教育の行き届かないような僻地の娘には、どうしたって見えません。
あの少女が、あまりにも貧しく、そして教育も満足に受けられなかったからこそ、青年教師に恋していることを知った祖母が「身分が違いすぎるから、諦めろ」と忠告する場面も生きてくるのだと思いますし、また、授業中の校舎をしばしばのぞき見にいく場面なども、映画では、教師に対する恋慕の情が前面に出されていますが、むしろ、満足な教育を受けることができなかった彼女の学校というものへの好奇心、勉強に対する抑えがたい向学心をまず描いた方が、恋心に変化していくストーリーの自然な流れを無理なく伝えられるのではないかなどと思ったりしました。
インテリの若い教師に釣りあうだけの能力など、なにひとつ持ち合わせてない文盲の無力な少女が、若い教師に喜んでもらうために自分にとってそれが総ての、それしかない日常的な生活の「技術」である料理を、心を込めて必死に作るという行為のなかに、自分のことを振り向かせようとする彼女の「けなげさ」がより一層表現できるのであって、その方が僕たちに感動を与えるのではないかと思いさえしました。
「こういう映画であって欲しい」というこの作品に対する僕の思いは、きっと、チャン・イーモウが、カメラマンとして参加したあの熾烈なリアリズムをもった名作「黄色い大地」と知らぬ間に比較していたからだろうと思います。
そこで、この作品への無意識の失望と拭いがたい欠落感を覚えたのかもしれません。
そんな時、ある人の書いたこの作品の感想文に出会いました。
「このういういしい初恋の少女の可憐さ美しさに較べると、伴侶を失った老いた母親が同一人物とはどうしても思えない、あまりにも汚すぎる、つながらない。」というのです。
まず苦笑してしまいましたが、しかし、その飾り気のない素直な感想には、はっきり胸打たれました。
きっと、彼は、感動的な若々しい初恋の描かれているこの映画に、汚らしい「老い」が同居することそれ自体が許せなかったのだと思います。
この言葉は、逆の意味で、この映画の本質をついていると直感しました。
追憶の中にある総てのものは、ただ美しいだけで十分だったんですね。
そして、その美しさは、若さを失い美しさを失った者にしか見ることができない種類のものだということが分かりました。
愛する人が、町から村に通ずる道をたどって自分に逢い帰ってきた同じ道を再び辿たどる葬列に、ふたりの仲を引き裂いた文革のかすかな気配が遠慮がちに仄めかされながらも、しかし、すべてを美しくとらえることに徹しようとしたこの映画、もしかしたら、これだってひとつのリアリズムの姿勢なのかもしれないなという気がしてきました。