夜の闇の深さが分かるものか
2006年 08月 31日
というのは、おこがましくも僕は自分のことを「読書家」のひとりと信じ込んでいたからでした。
「俺って、現実から逃げているのか? そんなふうに自分は読書というものを習慣化してきたのか?」と、ちょっと考え込んでしまいました。
確かに、あの「いつか読書する日」において、高梨槐多が美奈子の部屋で、彼女が読了したであろう膨大な本の山と不意に対峙する場面は実に圧巻そのものでした。
この映画は、その場面によって、もう決して若くはない独身女性の失意と孤独の長い苦痛の日々をじっと耐えてきた象徴として「本の山」を意味づけようとしたのだと思いますが、もともと「読書」に、そうした現実逃避の可能性があるにしても、その「現実逃避」のどこが悪いと反発する前に、こんなふうに言えないものかと、ちょっと考えてみたのです。
「本」に描かれている虚構の方が、この現実なんかより遥かに素晴らしいからだ、と。
こんなふうに言ってしまうと、「いつか読書する日」という作品の最も重要な部分=ひた向きな部分を台無しにしてしまいそうなのですが、この作品に対する僕の中に生じた小さな拒否反応は、きっとその辺りにあったからだと思います。
しかし、シビアな問いに対する答えとしての現実逃避にしても、開き直りにしても、拒否反応にしても、それはタテマエだけの答えにすぎません。
僕が本当に心惹かれたキーワードは、「本の山」という言葉でした。
いま、自分の目の前にも同じような「本の山」がうず高く築かれています。
しかし、果たしてこの中の何冊に感動したかと振り返ってみても、これだという書名はすぐには思い当たりません。
きっと、「小さな感動」を齎した本なら、両の手の指を何回も折り曲げたり起こしたりしなければならないかもしれないのですが、次々と常に新しい本を求めて迷宮を彷徨ううちに、いつの間にか大切な「この1冊」を見失ってしまい、それが何だったのか分からなくなってしまうという本末転倒の思いに駆られてしまいました。
よそよそしい膨大な本の山を前にして、耐え難い喪失感を味わいながら、本当に大切なのは、新しい物を求め続けることではなく、感動した「この1冊」を絶えず繰り返して読み続けていくことだったのではないか、と考えていました。
僕は、本当に何十年振りかで書棚から村上春樹の「風の歌を聴け」を取り出しました。
読んだのは、もうずっと以前の最初の一度きり、どんなストーリーだったか、すっかり記憶にありません。
しかし、印象には強烈で鮮明な何物かが刻印されています。
確か同名のタイトルの映画もみたはずなのですが、ストーリーだけのカバーで終始したその無味乾燥な映画に、ストーリーだけでは、この物語の素晴らしさを伝えることは決してできないのだと実感しただけの作品だったと思います。
僕の作品感想のリストの中にはこの映画の感想は存在していません。
この小説の最後は、ニーチェのこんな言葉の引用で終わっていたと記憶しています。
「昼の光に、夜の闇の深さが分かるものか」