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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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全身小説家

ドキユメンタリー映画の魅力は、目的の対象をじわじわと追い込んでいく映像作家の執拗な粘りと編集のダイナミズムを味わうこと以上に、おそらく、じっと「見つめ続ける」行為によって、対象それ自身の内部から「本質」が、まるで膿のように溶け出してきて、まるごと明らかにされ白日の下に曝け出されてしまうような残酷な過程を、僕たちが目の当たりにできるからでしょう。

しかし、かつてそこには「見つめ続ける」ための前提として幾つかのルールが、例えばひとつには、撮る側は、対象に対して決して作為をもって、あるいは悪意をもって働き掛けないというような暗黙の了解が求められていたかもしれません。

羽仁進監督の「教室の子供たち」など、撮る対象に対する限りない善意を持ちながら、あくまでもその対象に過剰な感情移入を出来る限り抑えることを自らに課したジャーナリスティックな姿勢(スタンス)をきちんと守ることを忘れなかった代表的な作品だったと思います。

そしてきっと、そういう姿勢があったからこそ、あのような日常の子供たちをあるがままの姿で活き活きと活写することのできた傑出した羽仁進作品が成立し得たのだと思うし、また僕たちに限りない衝撃を、深い感動と同じ意味において与えてくれたのだと思います。

しかし、そうした客観的・第三者的な立場とともに、冷静さと公平さをもって「見つめ続ける」という善意の姿勢というものが映像作家にとって本当はどういうことなのか、原一男は、あの「極私的エロス・恋歌1974」や「ゆきゆきて、神軍」によって僕たちに厳しく問い掛けてきたのでした。

原一男は、躊躇なく対象者に踏み込んでいきます。

時には衝突し、時には対象者を故意に煽り、あえて作り出した緊迫した状況の中で、そこにある「現実」を、むりやり自分の側へ捻じ向けようとさえします。

その過程で、もしかしたら「人権蹂躙」とか「軽犯罪」とかという概念のすれすれのところまで対象に迫り、迫ることによって自分自身も窮地に追い込まれることさえ厭わないという、原一男の執念と迫力に僕たちは撃たれ、また圧倒されもしたのでした。

この「全身小説家」は、前2作「極私的エロス・恋歌1974」や「ゆきゆきて、神軍」に較べると、当初その語り口は随分とソフトな印象を受けるかもしれませんが、しかし、畳み掛ける後半部分の辛辣さは、前2作の比ではないどころか、はるかに凌ぐ厳しさ残酷さを感じました。

小説好きの読者ならきっと誰でもがそうだと思いますが、いつの間にか作家に対して独特の幻想を抱いてしまうものです。

ここに描かれている井上光晴を囲む文学伝習所の女性たちに、もしそうした「文学に対する憧れ」という幻想性を付加できなければ、あの、女とみれば相手構わず性交を誘っていたとされる井上光晴の、その求めに嬉々として応じていた伝習所の彼女たちの姿は、何とも不気味でグロテスクな色情狂以外の何者でもないかもしれません。

埴谷雄高の「三割バッター」の話を語る後で、伝習所で熱っぽく語る井上光晴の姿をとらえた映像のモンタージュを絵解きすれば、明らかに熱っぽい弁舌の底意にあるものは、目の端でなびきそうな女を窺い淫猥に品定めしながら、少しでもその「きざし」があれば、とにかくモノにするために、思いつく限りのあらゆる口説き文句を吐き続ける厚顔無恥なスケコマシ程度の人間にしか描かれていません。

「文学に対する憧れ」に囚われ、そうした幻想から自由ではない読書人(残念ながら僕自身のことなのですが)にとって、戦後の文学史に濃密な場所を占めてきた傑出した作家のこうした虚の部分を、容赦なく暴き立てる原の視点は、途轍もない衝撃でした。

同時代的に井上の作品を読んできて、それぞれの作品にそれなりの感慨を抱いてきた者にとって、こういう描かれ方をされてしまうということは、その時代を生きてきた僕自身のある重要な時間を全否定されてしまったようなショックでもありました。

原一男の、この渾身のドキュメンタリー作品が傑出して優れているだけに、です。

しかし、ひとつ気になったことは、この原一男作品を見た若い世代が、この作品を「そのまんま」受け取ることによって井上光晴をアタマから冷笑し揶揄するだけの感想に接し、もし彼らが井上光晴作品を1作も読むことなく、こうした裏話を仕込まれてしまったのなら、それはある意味ひとつの不幸なのかもしれないなと思ったことでした。

どんな人物であれ、その小説が優れていれば、その小説に感動することに何の障碍もないという気もします、問題行動を起こしながら優れた作品を残した小説家を「問題行動」ゆえに全否定できるのか、逆の意味で、僕たちがかつて愛した「書かれざる一章」、「双頭の鷲」、「虚構のクレーン」、「完全なる堕落」、「死者の時」、「地の群れ」、「他国の死」、「心優しきテロリストたち」などにもう一度立ち戻っていくしかないのかも知れません。

しかし、ただひとこと、弁解じみたことを言わせて貰えば、作家には、本当のことを言いたがらない「衒い」というものもあります。

全部を肯定できないなら、全部を否定することも、あるいは間違っているかも知れません。

大時代な精神分析みたいで少し恥ずかしいのですが、井上光晴の虚言癖の根は、きっと過酷な少年時代に経験した両親に対する深い失望が「恥」となって、癒されないまま彼の中で「嘘」という否定の形(隠し、そして事実を捻じ曲げるという行為)で現れたのではないかと考えています。

満州で行方不明になっていた筈の父親は、実際には同居していて陶器の絵付けをする陶工でした。

映画の中に映し出されたお猪口の底に描かれた父親の作品というのは、女が獣とマグワウ春画まがいの絵でした。

少年が春画を描く父親を恥じ、そして父を否定したとしても、それは無理からぬことだったかもしれません。

子を捨てて再婚した母親を婚家先に訪ねていって、冷ややかに追い返された屈辱と失望を、それが耐え難いものであればあるほど、綺麗な記憶に摩り替えようとした事もまた、無理からぬことだったかもしれないのです。

それらの嘘には、他人を欺くというよりも、むしろ「こうあって欲しかった」と願う、過酷な境遇の中で必死に生きようともがいた孤独な井上光晴少年が抱いたであろう絶望的なささやかな望みだったと見ようとするのは、多分僕が甘すぎるからかもしれませんね。

ドキュメンタリー「全身小説家」に対する僕の素朴な疑問、つまり、作家・井上光晴を描くのに、彼がどのような経歴詐称を行い、あるいは女あさりにふけるような破滅的な人格であったとしても、だからといって、それだけで、彼の過去に残した数々の小説の実績まで、よみがえって否定することができるのか、そもそも小説が、それを書いた作家の人格がただ醜悪だからというだけで、既にそれなりの評価を得て文学史上に残された小説に果たして影響するものだろうか、すっかり混乱してしまった僕は、友人にそれとなく訊いてみました。

「原一男の『全身小説家』ってあるだろ、井上光晴の。あれってさ、どう思う?」

僕の質問の趣旨は、こうです。

あのドキュメンタリーでは、井上光晴についての予備知識のないヤツがみたら、彼が残した既に評価が定着している作品までも「超」いい加減な印象を受けてしまうんじゃないか。

いままでだって、品行方正の作家の方がむしろ少ない位だったんだから、ただそれだけの理由で、その辺を拡大解釈し人格的に問題があるからといって、その作家の作品が最初からまるで劣っていたものであったかのような印象を与えてしまうそういう姿勢っていうのは、ちょっとおかしいんじゃないのか。

逆に、作品の評価によって作家の価値や評価を浮かび上がらせていくほうがドキュメンタリーとしてはむしろ本道なんじゃないのか、みたいな感じです。

「女あさりは、いいんだ」

友人が言います。

「問題は、経歴詐称。お前が言う両親を恥じて嘘の生い立ちを創作したっていう説明だけじゃ、まだまだ理解できないことが井上光晴にはたくさんあった。むしろあの原一男のドキュメンタリーは、井上光晴が数十年にわたる日本文学史に記された彼の実績の名誉を守るために、十分に踏み込めない部分があって、「わが秘密の生涯」だけじゃない、もっと人間の本質にかかわるヤバイものを感じさせてしまうその辺の含みをもたせた中断なんだ。」

このドキュメンタリー映画の感動の質を一言で言い表すとすれば、「後味の悪さ」や、時には嫌悪をさえ伴う映像の数々が描き出す総体としての衝撃を、例えばそれを「感動」というには、僕たちがこれまで経験してきた種類の「感動」とは、あまりにも異質な「衝撃」だったからでしょうか。

その「後味の悪さ」の中身とは、あくまでも嘘をつき通し続けて死んでいった井上光晴という作家の徹底した不可解さ、さらには何ひとつ本質的なことは分らないままに僕たちは「彼」に翻弄され続けたすえ、その中途半端な状態をそのままそっくり受け入れざるを得ない「フラストレーション」と呼ぶしかないような種類の感動を原一男に「強いられた」からだと思います。

原一男という映像作家の、素手で殴り倒すような荒々しく力強い「演出」に、されるがままになることの、いわば強姦される側の快感と同質の映像体験とでもいえば、そうした倒錯した感情の感動を少しは説明できたことになるかもしれません。

虚構を描く「普通」の映画なら、主人公の不可解さは、ラストでそれなりの結論を得て、ともかく最後には「すっきり」と整理された感情を得ることができるのでしょうが、この「フラストレーション」を、例えばドキュメンタリー映画と虚構を描く物語映画のアリカタそれ自体の違いと簡単に結論付けてしまうには、僕たちを躊躇させるに十分な井上光晴という強烈な個性がそこには立ちはだかっています。

井上光晴が残していったおびただしい「嘘」が何故だったのかという疑問だけは何も解明されないまま、自分の「あるがままの生涯」を、まったく別のナニモノかにしようとしていたらしいことだけは何となく分りかけてきました。

きっと、彼の「小説」もそれらの作為の一線上でなされた行為だったのでしょう。

映画の中で埴谷雄高が語っている「適職としての小説家」の意味がまさにそこにあったのだと思います。

井上光晴にとって小説を書くということは、特別な意味など何ひとつなかった。

彼は「生涯」を創作したように、「小説」もまた創作したにすぎなかったのだと思います。

この映画において井上光晴の夥しい嘘を解明していく過程から浮かび上がってくるものは、愚劣なこの世に生き続けることの彼の根深い嫌悪と、そして、この世界のありとあらゆるものに対する彼の「否定」です。

つきつめてしまえば結局は捉えどころのない不確かな自分の人生そのものに嫌気がさし、やけっぱちになり、なげやりになり、すべてのものを軽蔑し、すべてのものを欺き、なにひとつ本心を悟られないような嘘をつき続けました。

しかし、その虚構としての人生の最後に得たたったひとつ確かなものとして「癌とその進行」があったのだと思います。

奇しくも、このドキュメンタリーは、井上光晴の嘘を暴き立てることによって、彼が癌の進行という「真実」に裏切られていく優れて稀有なドキュメンタリーになったのだと思います。

闇の世界に厚い視線を投げ掛け、やがてその真っ黒な情動に突き動かされて僕たちの視野から突然姿を消していく自殺願望者や殺人者などの自己破壊の破滅的な衝動の不可解さを井上光晴もまた持っていて、死んで始めて彼が闇の感情を抱え持ったまま猶予の時間を生きていことに気がつかされるそういう人だったのかもしれません。

なんとなく、ルイ・マルの「鬼火」1963のことを考えてしまいました。

この作品がもし、社会派作家・井上光晴の経歴詐称に対して「公人」としての社会的責任を糾弾するとか告発するとかというスタンスで撮られたドキュメンタリーだったら、僕たちの感性をこれ程の至近距離から直撃するような打撃を与えたかどうか。

原一男にとって、対象者「井上光晴」への射程距離が、「極私的エロス・恋歌1974」を撮った時の武田美由紀とか、「ゆきゆきて、神軍」の奥崎謙三までの距離と、それ程のへだたりがあるとも思えません。

そもそも原一男にとってのドキュメンタリーを撮ることの発想の根は、「公人」という社会に向けられた仮面に対してなどではなく、その裏に隠された個人的なものの極限にこそ真実が隠されているのだと見ているからでしょう。

そこに隠された「真実」は、きっと個人史の「恥ずかしい場所」にあって、理性の抵抗が伴うその手法は当然に「暴く」という姿勢になったのだろうと思います。

「恥ずかしい記憶」を虚偽に置き換えてひそかに隠そうとする取り繕いの態度は、それ自体人間の弱さをもまた自ずから露呈してしまうからでしょう。

正義とか強さを強調することによって公的な立場を保とうとすることで、どうしても隠されねばならない自分の「恥ずかしい部分」を虚偽に置き換える弱々しさのなかにこそ、人間の真実の姿がある、という原一男の思いが、図らずも「暴く」とか「晒す」という姿勢に繋がっていくことは、あるいは当然の帰結かもしれませんが、原がその暴露的行為を為すことで、たとえ社会の秩序が一部破壊され、そして混乱をきたすとしても、それがしっかりと原一男の計算のなかにあることは、例えばあの「さよならCP」1972おいて既に実践されています。

原一男は、車椅子を放棄した障害者・横田弘をマチナカに解き放ち、公衆の眼にあえて晒すことによって、健常者たちが暗黙のうちに形成してきたココチヨイ市民社会の共同幻想の歪んだ暗部にその鮮烈な映像を照射し、ひとつのテロルのごとき痛撃を与えました。

思えば「極私的」な視点をつきつめることが、そのまま「取り繕った社会の嘘」を痛撃することの出来る武器になるという思想から出発した原一男のベクトルは、横田弘を突き通し、武田美由紀を突き通し、奥崎謙三を突き通し、井上光晴を突き通して、果たしてどこに向かおうとしているのか分りませんが、いつの日にかきっとさらに極私的な場所へ立ち帰ってご母堂を撮ることになるかもしれませんね。

むかし子供の頃、叱られたときの言い訳に「誰それが、そう言ったから、そうした。」と言い繕うと、「じゃあ、そいつが死ねと言ったら、お前は死ぬのか。」みたいによく大人に返されたものです。

それは、ただ素直でいることで褒められるという年齢にも限界がであって、そういう年齢に差し掛かっている子供にとって、自分がいつまでも子供のままではいられない、自分がいよいよ大人になることを否応なく強いられるという年齢にあることを知らされる痛烈な一言だったと思います。

このドキュメンタリー映画を見ていて、ふとその言葉を思い浮かべました。

井上光晴という人が、他人が聞きたいと思っているとおりの「もの」や「こと」を先回りして本当らしく創り上げたサービス精神の旺盛な人だったというコメントがこの映画の中で随所に繰り返されます。

その視点から言えば、例えば、旅順出生のこと、満州で行方不明になったという父親のこと、進学できなかった中学のこと、娼妓となった初恋の少女との失恋の話、そして戦後初の除名された共産党員だったという話など、あの幾多の眉唾ものの経歴詐称をそうした井上光晴の特異性と考え合わせるなら、あるいはまた別の井上光晴像が浮かび上がってくるかもしれないのです。

いままである程度の量のこの映画に関する感想を読んできたのですが、そのほとんどが、彼の企んだ嘘八百を頭から問題外とする論評でした。

ハナから嘘だと分っていることを誰がマトモに取り合うかというのが、そこに見られる一貫した批評の姿勢で、それは至極もっともなことだと思います。

しかし、見逃してはならないのは、井上光晴は、人が話して欲しい話をデッチ上げてでも喜ばせる、感動させる、そのために、嘘のディテールの細部にわたり細心の洗練をほどこし、練りに練り上げて虚構を真実に劣らないものに仕上げようとした異常な情熱だけは、しっかりと「あった」のだと思います。

それこそが、「人が死ねと言ったら、死ぬのか」という精神だったような気がするのです。

そこには、もはや自分というものがない。

やぶれかぶれの自棄の中で「自分」など、とっくの昔に放棄してしまっているとしか思えない空虚を生きる井上光晴という人は、生きていくために必要な「何か」を若くして既に失ってしまい、抜け殻のような仮の人生を生きてきたことで、だからなおさら虚構のディテールを執拗に飾る必要があったのであり、あんなにも虚構への情熱を傾けることが出来たのかもしれないのです。

僕が、井上光晴のその虚構を形作る力強い技術力に、かつて感動したということを、時間を甦って否定出来るはずもありません。

たとえ虚偽を飾った彼の行為のすべてを否定しても、しかしそれに傾けた「情熱」を否定するまではできないだろうと思っています。

それは、突き詰めていえば、いままで真実だと思い込んでいたことが「嘘」だと知り、そして憤る以前に、過去においてディテールの完成度を堪能したり見事な仕上がりに感動した経験を持った自分自身だけは否定するわけにはいかない、むしろ、たとえそれらが嘘であっても一向に構わないと思い始めている自分を感じているからでしょうか。

この映画の企画に対して、既に「ゆきゆきて、神軍」を見ていた井上光晴が、この映画をどのように撮るかという原監督との話し合いの際に「自分は、奥崎謙三じゃない。」と一本クギを刺したという話を、いろいろなところで読んだ記憶があります。

それは、原一男の既成のフィクションをひとつひとつ突き崩していくあのようなドキュメンタリーの撮り方には承服できないという井上光晴の姿勢を示していたのだろうと思いますが、「あの」という言葉が示している概念は、つまり、被写体の奥崎謙三自身の、犯罪者になることも最初からいとわないような暴力を伴った破滅的なパフォーマンスに満ちた自己顕示と、それを過激に煽る原監督の「演出」を容認する、そのような製作姿勢(イニシアチブの在り様)のことをいっていたのだと思います。

井上光晴は、当初このドキュメンタリーを撮り進めるに当たって自らシナリオを書いて、それを演じてもいいことを提案したということもあったようです。

ドキュメンタリーといえども所詮「やらせ」でしかないのなら、むしろそういう自分を積極的に「演ずる」ことで、演出側のどのような破天荒で破廉恥な要求も「演ずる」というフィルターで守られた行為(というタテマエ)によって自己表現しようとしたのでしょうか。

いまから思えば、それは、真実の露呈を恐れての「演技」ではなく、井上光晴という人はそういういき方でしか自分の「真実」を語ることができなかったんだなあという気がします。

しかし、パフォーマンスという意味でなら、奥崎謙三と井上光晴の違いに、それ程の差があるとも思えません。

誰でもがきっとそうなのだと思いますが、自分を表現しようというとき、ストレートに自分の弱味や醜さや恥ずかしい破廉恥な部分を生の言葉で言ってしまうことが、いかに他人に理解されにくいものか、優れた表現者であればあるほど「知っている」のではないかという気がするのです。

だから、彼らは自分の気持ちの深い部分に蟠るものをナニモノカに託す、演技であっても暴力であっても嘘であってもいい、それが彼らの「真実」にたどり着くための手段であり道具であり観念なのであって、そして、それをまた十分に認識していた原一男監督は、例えば、奥崎謙三の「自分は、この一連の告発と追及の過程で、人殺しをするかもしれないが、その場面もしっかりと撮影して欲しい」という提案に、狂気に囚われた既に常人でない奥崎の言動にたじろぎながらも、眼前に展開するかもしれない殺人の瞬間を躊躇なく撮るかもしれないドュメンタリストとしての自分を感じたという所感のなかには、原監督もまた井上や奥崎と同質の、破滅覚悟で真実の核心を突こうという表現者の姿勢を感じます。

僕にとって「極私的エロス・恋歌1974」は、その頃の「時代」の雰囲気を鮮明に甦らせてくれる衝撃的なドキュメンタリーでした。

あの映画に登場した武田美由紀という女性は、夫婦という人間関係の虚構を否定し、「女」であると決めつける社会的な「性」を歴史的に捉え、そして拒絶することによって自己主張しようとしたウーマン・リブ運動の影響下で生きようとした女性です。

以前の恋人とSEXしてくると夫に宣言して家を出て行く場面とか、ひとりで出産するところを撮影させたりする場面は、単に人間宣言という以上の「自立する女」としての過激な自己主張でした。

ただ、それらの場面は、過激であっても衝撃的ではありません。

それはきっと本質的なものをはずしたあの運動の意外に早かった退潮が恕実に示しているでしょう。

愛によって隷従化する「性」の解放を謳ったあの運動の本質的な錯覚は愛を不動の制度として捉えようとした男への甘えが根底にあったからではないかと思えてなりません。

もともと人を愛するということは極めて理不尽なことなのです。

その人のために自分のすべてを捧げたいとか、あるいは、そういう相手の一方的な思いに耐え切れずただ負担に感じて逃げるとか、あるいは、その思いに応える振りをして相手の気持ちを弄んで徹底的に利用するとか、そういう恋愛の関係そのものが最初から理不尽なものであることを見逃した運動だったのでしょう。

しかし、それらの行為は、「人を愛さないで生き続ける」という行為よりは、まだまだ自然なことだというべきでしょうか。

だから、僕にとってのこの映画の最も衝撃的だったところは、フリーセックスや出産シーンではなく、原一男が、新しい愛人の出来たことを武田美由紀に告げたあとの彼女の激昂する場面でした。

自分こそは、制度としての夫婦関係からどこまでも自由な女でありたいと思いながら、逆に夫が自分の思いから自由になって、新たな女性との関係を築きたいということを知らされた瞬間のリアクションは、男の愛を失って捨てられる定番の惨めな妻=女そのものでした。

「全身小説家」において、最も不気味なのは、破れかぶれともいえる井上光晴の数々の行状が写し出されていく場面の端で、薄笑いを浮かべながら眼を伏せてじっと座っているこのドキュメンタリー作品のすべてを覆い尽くすかのような大きな井上夫人の存在感でしょうか。

かつて寺山修司は、その自伝(しかし、正確には、そのタイトルは、「自叙伝らしくなく」というものでしたが)において、みずからの出生について、こう書いていました。

≪歴史について語るとき、事実などはどうでもよい。問題は伝承するときに守られる真実の内容である。虚構であり、他国であり、手でさわることのできない幻影である「過去」を、しばしば国家権力が作りかえて伝承してきたように、われわれもまたわれわれの時の回路の中で望み通りの真実として再創造していく構想が必要なのである。「個人における歴史の役割」というのはまさにそのことによってどのような自由を獲得するかにかかっている。(中略)私にも、私の「天地創造」から書きはじめることができることの自由、それが個人における歴史の役割である。≫


Commented by ecdkajd at 2011-03-01 19:18 x
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Commented by clonecd250 at 2011-05-10 17:07 x
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Commented by odlZYpej at 2011-08-08 13:26 x
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Commented by Rubik at 2013-12-29 15:58 x
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Commented by daebisrl.eu at 2014-07-25 06:34 x
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by sentence2307 | 2006-10-01 18:54 | ドキュメンタリー映画 | Comments(7)