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世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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毒婦高橋お伝

僕の子供の頃は、日本はまだまだ経済的に未成熟で、余暇のための遊戯施設なども十分でなく、休日を安価に過ごせる手ごろな暇潰しといえば映画を観ることくらいしかありませんでした。

日本の映画館が、黙っていたって観客が自然と集まってきた黄金時代だったわけで、それはちょうどTVが各家庭に浸透する直前の、いわばTVに観客を持っていかれる前の蜜月時代だったわけですよね。

電気紙芝居の安直なドラマで満足できる観客がどんどんTVに流れてしまったというこの現象は、きっと映画界にとって、とてもいいヒントを与えてくれたはずだったのに、以後の映画づくりにそれを生かせず、無策のまま凋落の一途を傍観してしまったことが、日本映画の質にとって、より深刻な事態を招いてしまったのかもしれませんね。

しかし、その頃、大人たち(大人といっても、当時二十代前半くらいの近所のお兄さんとかお姉さんだったと思いますが)は、頻繁に子供たちを映画館に連れて行ってくれたものでした。

お兄さんとは東映時代劇、お姉さんとは日活無国籍活劇、家族とは東宝の宇宙戦争ものをよく観にいきました。ごくたまにですが、松竹映画も見に行った記憶が、晩年の小津監督作品の幾つかを記憶していることで確認できます。

その頃は、正直言って小津作品が他のホームドラマとどう違うのか、子供に判別できたわけはないのですが、劇中、軽石を削って呑み、オデコを小突くとオナラが出るというギャグが面白くて(その場面は、朝の通学路で末の子がデコピンの試みに失敗してオモラシしてしまい、お尻を押さえて急いで家に逆戻りするというほのぼのとした場面に笑い転げました)、この監督の子供を見つめる眼差しの確かさ優しさに子供心にも感心したものでした。

そんなふうにして上記4社の映画を週代わりで代わる代わる見に連れて行ってもらったのですが、いまにして思えば新東宝映画作品だけは誰も連れて行ってはくれなかったのだなあと気がつきます。

それはそうでしょう、豊満な肉体の、はちきれるような胸と腰に申し訳程度のわずかな布切れを纏い付かせているだけの、殆ど裸同然の海女が、仁王立ちして挑むような目でこちらを睨み付けているような、あの毒々しい色合いの扇情的なポスターを考えれば、子供連れではなかなか行きにくい映画だったと思います。

そこには、子供心にも決して近づいてはいけない「性の」タブーに触れる危険な大人の性の匂いを嗅ぎ取っていたと思います。

「新東宝映画」が、他の4社とは違う観点から(きっと、「いかがわしい」と感じたと思いますが)大人のために作られた、子供なんかが観てはいけない映画なのだと感じたのだと思います。

しかし、後年、新東宝映画を見るにつけ、そのとき感じた「他の4社とは違う観点」が、それほどでもないと感じたことは事実です。

「性」のモラルに対して、殊更に社会的な制約に挑戦するとか、タブーに挑むとかいった明確な観念に貫かれた意識的な作品などといったものをいままで見た記憶がありません。

むしろ、放埓な性の行為を露悪的扇情的に描いておいて、最後では「だから、こういうことをしてはいけないんだよねえ」みたいな、後出しジャンケン的に破綻させるエゲツナイ結末で括る作品(どちらかと言えば、こちらの方が不誠実なくらいに道徳的な映画かもしれません)が多かったように思います。

いままで見た日本の映画の多くが悪女を描く場合、「こんな女に誰がした」みたいな「社会の被害者面」したスタンスで描くことが多く、正直言って、そのミエミエの性善説が、長い間、僕には鬱陶しくて仕方ありませんでした。

芯からの悪女がこの世には一人もいないとでも言う積もりか、という苛立ちです。

周りを見回せば、男好きの根っからの性悪女=足手まといになればわが子を平然と捨てるか、あるいは捨てる勇気がなければ食事を与えずに餓死させるか、虫けらのように殴り殺してしまう女なら、現実の中にゴロゴロいるのに、です。

この新東宝作品「毒婦高橋お伝」も、きっと「こんな女に誰がした」の観念の中に必死になって括りこもうとしながら、この女の生きた「真実」に裏切られて随所で破綻を見せている映画です。

あたかも連れ添った男たちが根っからの悪党か、運命に翻弄されるだけの優柔不断な意気地のない男だったために、お伝は不本意ながら悪の道に引きずりこまれました、という虚構によって必死に囲い込もうとしているのに、結局は欲情に色づいた彼女の肉体が活き活きとはみ出して見えてしまっている映画かもしれません。どのように囲い込もうと、どのように取り繕うと、理由付けを拒んだ高橋お伝の肉体は、淫らに男に抱かれ、彼女の欲望に答えられずに邪魔になればさっさと殺してしまう女だったと思います。

「それが何故悪い」という観念を正当化する斬新な視点は、おそらくアーサー・ペンの「俺たちに明日はない」の登場を待つしかなかったのかもしれません。

(58新東宝)製作・大蔵貢、企画・津田勝二、監督・中川信夫、脚本・仲津勝義 中沢信、撮影・河崎喜久三、音楽・渡辺宙明、美術・黒沢治安、録音・沼田春雄、照明・折茂重男
出演・若杉嘉津子、松本朝夫、明智十三郎、丹波哲郎、中村彰、舟橋元、山田美奈子、宮田文子、沢井三郎、芝田新、大関啓子、水原爆、明日香実、宗方祐二、西一樹、天野照子、野中吉栄、国方伝
1958.02.25、74分 白黒製作8巻 2,026m
by sentence2307 | 2006-10-17 00:04 | 中川信夫 | Comments(0)