世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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証人の椅子

この映画の原作、開高健の「片隅の迷路」を読んでから、もう随分長い時間が経過してしまっています。

開高健の原作が、この冤罪事件を、こんなふうに真正面から告発調で書いていた作品だったかどうか、どうしても思い出せないでいるのですが、ただ、山本薩夫が撮ってきたような告発タイプのモロ政治的な作品と、開高健の混沌とした作風が一致するとはどうしても考えられないというのが正直な気持です。

あの開高健が書くとしたら、カフカの「審判」のごとき迷路のようなねちっこい作品、たとえば裁判という手続きの迷宮で道を失い、どうにも身動きできなくなってしまう虫けらのような卑小な人間の懊悩を繊細に描くみたいな作品こそが相応しいような感じがしていました。

ですので、開高作品に相応しい映像作家といえば、例えば今村昌平とか勅使河原宏のような錯綜した世界を粘り強く描き切ることのできる監督を思わず想起してしまいます。

ましてや「民芸」のような分かりやすい演劇集団の全面協力と、さらに権力悪に真っ向から挑みかかるというこれもまた大変「分かりやすい」映画を撮ってきた監督とが、開高健という作家の晦渋な作品を撮るということ自体が、そもそも理解できなかったのかも知れません。

この作品を見終わったあとでも、特にその考えが変化したわけではありませんが、検事の強引な取調べによって被疑者のごく身近にいた二人の証人が虚偽の自白をしたために、無実の女性が冤罪に陥れられるという過程が描かれていくこの映画で、いままで観てきた冤罪を告発する映画とは少し違う部分があることに気がつきました。

それは検事の描き方です。

多くの場合、裁判を報じる新聞記事には、判決を言い渡す裁判官の名前は掲載されても、その事件や裁判に関わった検事の名前が書かれることはありません。

おそらくそこには検察一体の原則というものがあって、検察官の行為は、あくまでも「検察庁」の行為なのであり「個人」の行為ではないという考え方があるからでしょう。

いままでのそうした描き方が、検察官の「顔」を見えなくさせ、一層「権力」を捉えどころのないもの、威圧感と脅迫感・強制力を有する不気味な抽象として描かれてきたし、そのように僕たちも感じてきたのだと思います。

しかし、この「証人の椅子」には、冤罪を生み出した検察官の個人的な「歪んだ個性」が具体的に描かれているところが面白いなと感じました。

上司の検事から訝しげに「君の取調べは大丈夫だろうね」と聞かれると、彼は、愚かしい大衆の迎合しやすい愚鈍さと弱さを侮蔑し嘲笑の薄笑いを浮かべながら「大丈夫です」と断言します。

もはや自分が「権力」の体現者であり行使者であることに酔い痴れている確信に満ちたその毅然とした表情には、「狂気」のかげりさえも窺われました。

最近の多くの収賄事件を見るにつけ「権力は腐りやすい」という言葉がよく聞かれる昨今ですが、それに付け加えて「権力は人を狂わせやすい」とでも付け加えたくなる作品でした。

(65山本プロ・大映)製作・伊藤武郎、宮古とく子、監督・山本薩夫、脚本・井手雅人、原作・開高健、撮影・上村竜一、音楽・池野成、美術・菊池誠、録音・空閑昌敏、照明・高橋一三
出演・奈良岡朋子 吉行和子 新田昌玄 福田豊士 永田靖
1965.05.15 10巻 2,815m 白黒 ワイド



★山本 薩夫(やまもと さつお)
1910年7月15日/鹿児島県鹿児島市
父・源之助が鹿児島県庁農林課に在籍していた時に誕生。
母・のぶ。長兄・狷吉はのち新潟大学教授になり、次兄・勝巳は建築業を営み、俳優の山本学、圭、亘の父。姉・満寿子がいる。
父が愛媛県庁に転任し、23年、県立松山中学に入学。
先輩の伊丹万作のもとに絵を習いに通っている。
父は定年になり単身満州へ渡るが、残った家族は25年に東京に移る。
30年、第一早稲田高等学院に入学し演劇に熱を入れ、新興劇協会に加わり『ガスマスク』などを上演し左翼思想に感化される。
ニコラス・エックの「人生案内」などロシア映画に感動し映画界入りを決意し、すでに監督になっていた伊丹に相談するが、彼は勧めず、兄の紹介状を持って、やはり中学の先輩にあたる伊藤大輔監督を訪ねる。
「続大岡政談・魔像解決篇」の撮影現場に2週間通い、伊藤から松竹入社を勧められる。
33年4月、蒲田撮影所の助監督試験に合格し、成瀬巳喜男監督の「双眸」でサードとしてつく。
セカンドが渋谷実で、成瀬は城戸撮影所長に冷遇されており、P・C・Lから誘われたのをきっかけに渋谷に同行を求めるが断られ、代わって山本が専属チーフ助監督として入社。
「乙女ごゝろ三人姉妹」「妻よ薔薇のように」などの秀作で成瀬から学ぶものが多かった。
監督第1作は「お嬢さん」(37年)で、南の島の女学校を舞台にお嬢さん育ちの霧立のぼる演じる英語教師をめぐる「坊ちゃん」の女性版。
アメリカの母もの「ステラ・ダラス」の翻案「母の曲」(37年)、「家庭日記」(38年)と3作とも吉屋信子原作で、メロドラマ監督としてスタート。
「田園交響楽」(38年)はアンドレ・ジイドの小説を原節子主演で翻案し、劇作家・田中千禾夫がシナリオを書いた初期の力作。
明治後期の札幌で友愛学舎を設立し、教育に情熱を傾けるヒロインを入江たか子が演じた「リボンを結ぶ夫人」(39年)、成瀬のオリジナル脚本による「そよ風父とともに」(40年)は高峰秀子演じた銭湯の娘が養父に実父以上の愛を知る人情物で、今井正とともにP・C・Lのホープと注目される。
戦中は、黒澤明脚本で陸軍航空本部後援によりテスト・パイロットの生活と新鋭機・隼号の空中戦を見せた「翼の凱歌」(42年)、八幡製鉄所員が戦争のため増産に励む「熱風」(43年)を完成させた直後に応召。
中国・済南の第12軍指令部報道部付となり、記録映画「河南作戦」を撮るが、終戦になりフィルムは焼却。
国府軍に抑留され、46年6月に帰国。
東宝に復社し、新憲法発布記念作として作られた反戦がテーマの「戦争と平和」(47年)で、記録映画作家・亀井文夫と共同監督。
夫の戦死の報を受け再婚した妻のもとに生きていた夫が生還し、二重結婚の苦境に立たされた妻を通して二人の男の戦争体験に反戦をアピール。
キネマ旬報ベスト・テン2位になるが、折から東宝に労働争議が起こり、青年時代からの左翼思想が再燃して共産党闘士になり、48年10月の労使団交による解決条件に従い、伊藤武郎委員長ら20人の組合幹部のひとりとして退職。
フリーになり、東横映画で「こんな女に誰がした」(49年)を撮る。
トーマス・ハーディの『テス』を下敷きに、戦争中にレイプされた野戦病院の看護婦をしていたヒロインを通して反戦色を出した。
「暴力の街」(50年)は朝日新聞社浦和支局が、警察と癒着した暴力団追放のキャンペーンをやった実録をもとに製作された独立プロ映画の先駆作。
セミ・ドキュメンタリー・タッチで暴力団の妨害にあいながら現地で撮影され興行的にも成功。
東宝争議で退社しレッドパージを受けた人たちによって新星映画社が設立され、タカクラ・テル原作「箱根風雲録」(52年)が作られる。
幕府の反対を押し切って箱根用水を完成させた歴史実録。
野間宏原作「真空地帯」(52年)は太平洋戦争中の陸軍兵営内での古参兵が新兵を殴りまくる暴力地獄のような軍隊の実態を暴露。
監督自身も体験した迫力が全編にあふれ、軍隊という組織悪を初めて白日のもとにさらした。
梅崎春生原作「日の果て」(54年)は戦争末期のルソン島で現地娘と脱走した軍医を追う将校の死闘に、戦争のむなしさをあふれさせた。
大正15年の共同印刷労働争議に取材した徳永直のプロレタリア文学の古典「太陽のない街」(54年)は群衆シーンも大掛かりに再現した大作。
55年に山本プロを設立し、「浮草日記」を発表。
解散寸前のドサ回り一座に労働組合を鼓舞するストライキ劇が持ち込まれての喜劇。
「台風騒動記」(56年)は台風災害の政府補助金をせしめようとする地方政治ボスたちの陰謀を暴く風刺劇。
木下順二の戯曲から権威と権力を振りかざす代官を風刺した「赤い陣羽織」(56年)、松川事件を目撃したという泥棒の証言をめぐっる裁判風刺「にっぽん泥棒物語」(65年)は秀作で、喜劇にも意外な才能を実証。
戦後3大怪事件の一つである「松川事件」(61年)は、いかに政治的なでっち上げ事件かを主張し大衆カンパ資金で作られた。
明治から太平洋戦争まで日本の農村を生き抜いた女の一生「荷車の歌」(59年)と、50年代の高度成長に進む農村の現実を捉えた「乳房を抱く女たち」(62年)は全農協の資金で、「人間の壁」(59年)は教師と教育問題をテーマに日教組の資金で作る。
右翼の凶刀に倒れた代議士・山本宣吉伝「武器なき戦い」(60年)、徳島で起こったラジオ商殺し事件で夫殺しの犯人にされた主婦をめぐる裁判批判「証人の椅子」(65年)、密入国収容所から脱走した韓国学生をめぐる「スパイ」(65年)も実話で、社会派の鋭い視点で力作が続いた。
62年、大映で撮った「忍びの者」は忍者ブームを起こす大ヒットになるが、石川五右衛門を主人公に政治の権謀術策の手段に利用される忍者の悲痛な運命を描き、続編も作る。
「座頭市牢破り」(67年)、「牡丹燈籠」(68年)、農民出身の仙太が世直しを旗印にした天狗党に入るが武士に利用されるだけの悲劇「天狗党」(69年)、大原幽学伝「天保水滸伝」(76年)と時代劇も手掛ける。
石川達三原作の2作「傷だらけの山河」(64年)は巨大コンツェルンの巨頭とその一家の家庭崩壊にも動じない資本家の非情さを山村聡が好演。
「金環蝕」(75年)はダム建設をめぐる構造汚職と総裁の座を狙う抗争。
山崎豊子原作の3作「白い巨塔」(66年)は医学界の派閥抗争、「華麗なる一族」(74年)は金融界の内幕、「不地帯」(76年)はロッキー事件を予見し航空機選定を巡る商社マンの暗躍と、日本映画が苦手だった政財界まで深く食い込んだスケールの大きい社会派ドラマに残した業績は大きい。
この間、日活最後の大作「戦争と人間」3部作(70~73)で、中国侵略を推進していった日本の財閥一族と軍閥の謀略を通して昭和史を大河ドラマにし、3作の配収合計31億円の大ヒット。
大正時代の紡績女工の悲惨な実話をもとに「あゝ野麦峠」(79年)も16億円稼ぐが、続篇「あゝ野麦峠/新緑篇」(82年)が遺作になる。
長男・駿はカメラマンになり晩年の「アッシイたちの街」(81年)で父親と組み、次男・洋は大映倒産当時の労組委員長ををつとめ、徳間書店による再建の大映で父が撮る「悪魔の飽食」のプロデューサーが決まっていたが実現しなかった。
83年8月11日、膵臓ガンで死去。73歳だった。
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Commented by clonecd801 at 2011-05-10 17:07 x
Measure thrice and cut once.
by sentence2307 | 2006-11-23 21:57 | 映画 | Comments(1)