世界のあらゆる映画を偏執的に見まくる韜晦風断腸亭日乗


by sentence2307
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讃歌

谷崎潤一郎の「春琴抄」は、川端康成の「伊豆の踊り子」とともに、今まで多くの監督によって映画化されてきたポピュラーな作品のひとつです。

ざっと思い浮かべただけでも、島津保次郎が田中絹代と高田浩吉で撮った「お琴と佐助」35から始まって、伊藤大輔の「春琴物語」54、衣笠貞之助の「お琴と佐助」61、山口百恵と三浦友和で撮った西河克巳監督の「春琴抄」76などまるで時代の節目節目で撮ることが定められているかのような作られ方をしている感さえ受けますが、これらの作品のある箇所を見るたびに、僕にはとても引っ掛かるところがあるのです。

むしろ、よく分からない部分と言った方が適切かもしれませんね。

お琴が身籠り、そのいきさつを主人から問い詰められた使用人の佐助は、自分にはまったく身に覚えがないと、お琴の子の「父親」であることを頑なに否定します。

結局この真相は明かされないまま、物語はなし崩し的にずるずると最後まで進行し、真相は分からず仕舞いのままで(佐吉であることは、いつの間にか暗黙の了解が得られてしまったかのような感じなのもなんだか不思議ですが)物語の方は終息に向けて勝手に突き進んでしまうという、なんとも肩透かしを食わされたような中途半端な印象をずっと持ち続けていました。

しかし、誰が考えても、お琴の身ごもった子の父親は佐助に間違いないはずです、だったらなぜ、形ばかりの「否定」に佐助がこだわり、そして、周囲の者たちも敢えて誰の子なのだという追求をすることもなく、物語だけがどんどん進んでしまうのか、なんとも腑に落ちず、納得のいかない感じを持ち続けていました。

体裁をただ取り繕うだけの否定の背後にあるもの、まるで佐助自身がお琴の性交相手であるべきでないとこだわり続ける理由が、どうしても分からないのです。

そこに佐助がお琴と公然と「男と女の関係」になってはいけないものがあるのだとしたら、せめてその理由を観客に仄めかすくらいの誠意があって然るべきなのではないかと、どうしても納得ができません。

もちろん、この場面は、あの百恵・友和作品にも当然存在しています。

最初から「純愛」という絶対命題を課せられていた作品のなかでは、ことさら佐助の否定は奇妙な感じを与え(「純愛」なら、愛を否定したり拒んだりするなど、もってのほかの所業です)、変に浮き上がったものとして見えたと思います。

お琴に対して一途に愛を貫こうというのなら、佐助のあの「否定」は、むしろその「愛の物語」をただ混乱させこそすれ、観客を得心させるものなど何ひとつなかったというべきでしょう。

きっとそれは、この物語が「純愛物語」とは似ても似つかないタグイの物語だったからだと思います。

ねじれ歪んだ特異な男女の気持ちの駆け引きと、そしてドロドロのその破滅にまで至る鮮烈なドラマとしての「春琴抄」は、映画化に際して常に見当違いな「純愛物語」の枠の中に無理やり押し込められることによって、この物語の持つ異常性を歪められ続けてきたといってもいいかもしれません。

新藤兼人監督の「讃歌」は、そこのところをしっかりと見極めて作られた明確な作品だったと思います。

使用人・佐助は、お琴が「もよおせば」、厠まで手を引いて連れて行き、彼女が排便し終わるのを見定めて彼女の尻を拭き清め、そして、その排出物をささげ持って、そして庭の片隅に恭しく埋めて処理することを日常の仕事としています。

それは「嬉々として」でも、「嫌々」でもなく、きわめて淡々と自分に課せられた日常の仕事を忠実に果たしているといった描き方です。

新藤兼人は、この佐助の日常的な作業を執拗に辛抱強く描き続けることによって、もしかしたら、あの否定された「性交」もまた、「しもの世話」の付帯的なひとつの行為にすぎなかったのではないかと思わせてしまう強引さが、そこに潜んでいることに気づかされるかもしれません。

作中、佐助が、お琴を師匠と仰いで三味線を習い始めた時、覚えの悪い佐助に業を煮やしたお琴が佐助を手ひどく折檻し、折檻し続けているうちにお琴も自らの抑えがきかなくなって、ついに父親から佐助に三味線を教えることを禁じられる場面は、お琴が際限もなく感情的に高揚していく異常さに父親が危険を感じたというよりも、逆に二人だけの黙契のうちに交わされる被虐と加虐のいかがわしいプレイの匂いを父親が恐れたのではないかという気さえします。

佐助の「否定」も、お琴の、自分が産み落としたその子供に対する執着のなさも、同じ根から発した二人だけの黙契のもとでの、単なる「プレイ」によって生じた余計な副産物にすぎなかったからこそ、そこには当然のような「冷淡」があり得たのだと思わざるを得ません。

(72近代映画協会=日本アート・シアター・ギルド)(監督脚本) 新藤兼人(製作)新藤兼人、葛井欣士郎 、赤司学文 (原作)谷崎潤一郎(撮影)黒田清己(美術)渡辺竹三郎(音楽)林光(編集)近藤光雄(録音)辻井一郎(スクリプター)新関次郎(助監督)星勝二(照明)岡本健一(書)貞広観山
(出演)渡辺督子、河原崎次郎、乙羽信子、原田大二郎、殿山泰司、戸浦六宏、草野大悟、武智鉄二、初井言栄、本山可久子、新藤兼人
1972.12.29 112分 カラー
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Commented by replica oakleys at 2014-08-17 09:01 x
讃歌 : 映画収集狂
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Commented by replicaoak at 2014-08-25 07:23 x
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by sentence2307 | 2006-12-11 22:29 | 新藤兼人 | Comments(2)